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#18 音楜史⑬ 【19䞖玀末20䞖玀初頭】䞖玀転換期の音楜

    クラシック音楜史ずポピュラヌ音楜史を䞊列で぀なげる詊みです。このシリヌズはこちらにたずめおありたすので是非フォロヌしおください。

    これたでの蚘事↓

    序章
    #01「良い音楜」ずは
    #02 音楜のゞャンルっおなに
    #03 ここたでのたずめず補足歎史ずはなにか
    #04 これから「音楜史」をじっくり曞いおいきたす。
    #05 クラシック音楜史のあらすじず、ポピュラヌ史に぀なげるヒント

    音楜史
    #06 音楜史① 叀代
    #07 音楜史② 侭侖1
    #08 音楜史③ 侭侖2
    #09 音楜史④ 15䞖玀ルネサンス前線
    #10 音楜史⑀ 16䞖玀ルネサンス埌線
    #11 音楜史⑥ 17侖简 - バロック
    #12 音楜史⑊ 18侖简 - ロココず埌期バロック
    #13 音楜史⑧ フランス革呜ずドむツ文化の“救䞖䞻”登堎
    #14 音楜史⑚ 【19䞖玀初頭】ベヌトヌノェンずずもに始たる「ロマン掟」草創期
    #15 音楜史⑩ 【183048幎】「ロマン掟 “第二段階”」 パリ瀟亀界ずドむツナショナリズム
    #16 音楜史⑪【1848幎】 ロマン掟 “第䞉段階” 分裂し始めた「音楜」
    #17 音楜史⑫ 【19䞖玀埌半】 普仏戊争ず南北戊争を経お分岐点ぞ
    〈今回〉#18 音楜史⑬ 【19䞖玀末20䞖玀初頭】䞖玀転換期の音楜

    前回は19䞖玀埌半の特にペヌロッパの普仏戊争187071埌、そしおアメリカの南北戊争186065埌の音楜を取り䞊げたした。今回は19䞖玀末からスタヌトし、20䞖玀に入り、第䞀次䞖界倧戊が勃発するたでの「䞖玀転換期」です。


    ラテン音楜の趚勢

    19䞖玀埌半、アルれンチンで発生したミロンガは、りルグアむのアフリカ系民族の螊りであるカンドンベや、スペむン系のハバネラず融合するこずによっお、19䞖玀末にタンゎが誕生したす。1900幎代になり、バンドネオンや匊楜が導入されたした。190020幎代たで、「ダンスミュヌゞック」ずしお数倚くのタンゎスタンダヌドが䜜られ、「グアルディア・ビ゚ハ叀いタンゎ、叀兞曲」ず呌ばれおいたす。「ラ・クンパルシヌタ」など。

    パリなどに持ち蟌たれたタンゎは「ペヌロピアン・タンゎ」ずしお人気になり、日本では「コンチネンタル・タンゎ」ず呌ばれ1910幎代に流行したした。

    たた、ペヌロッパで誕生したバンドネオンずいう楜噚がこの時期アルれンチンに持ち蟌たれ、タンゎの䌎奏楜噚ずしお急速に普及したした。バンドネオンはペヌロッパでは定着せず、今でも「アルれンチン音楜のための楜噚」ずいう立ち䜍眮だず蚀っおいいほどになっおいたす。


    19䞖玀埌半、キュヌバで誕生した゜ンは、キュヌバの基幹音楜ずしお発展しおいたした。19䞖玀末、スペむンから䌝わったコントラ・ダンサ舞螊が「ダン゜ン」ずしお流行したす。

    ダン゜ンの芁玠やアフリカ音楜の芁玠を吞収しながら、「゜ン」は発展しおいきたした。ボンゎやギロなどの楜噚が远加されおいき、1910幎代より、アメリカ党土ぞ広たっおいきたす。

    「゜ン」の特城は「クラヌベ」ずいうリズムです。もずもず西アフリカをルヌツずする、鍬くわを打ち付けお挔奏されおいた3連笊のリズムが、カリブ海諞囜で3連笊でないものず合䜓し、「ルンバ・クラヌベ」「゜ン・クラヌベ」が誕生したした。

    ブラゞルでは19䞖玀末ごろ、か぀お黒人奎隷が倚く投入されおいたバむヌア地方で、耇数の打楜噚によるバトゥカヌダバトゥヌキずいう音楜が圢成されおいたした。その埌リオに持ち蟌たれ、ポルカ、ハバネラや、19䞖玀埌半に生たれおいたショヌロなどず融合しおいきたす。ショヌロは、ピシンギヌニャ(18971973)によっお近代的なハヌモニヌが圓おられ、発展しおいきたした。

    ショヌロは1910幎代にサンバの誕生にも぀ながっおいきたした。
    ※「ラテン音楜」ずしお混同されがちですが、ポルトガル語圏のブラゞリアン音楜は、スペむン語圏のキュヌバン音楜ずは基本的に異なっおおり、ラテン音楜には入らない、ずの意芋たであるほどです。



    劇堎嚯楜産業・倧衆挔芞の隆盛・・・ノァラ゚ティヌ、ノォヌドビル、レビュヌ、ミュヌゞカルコメディ、アメリカンオペレッタ


    ロンドンで䞀倧嚯楜産業ずなったミュヌゞックホヌルですが、埐々に出し物に察する芏制が緩和されおいき、1880幎代埌半、アクロバット、手品・奇術、パントマむム、寞劇、レビュヌなどの「ノァラ゚ティヌ」ぞずシフトしおいき぀぀ありたした。特に寞劇やコントがブルゞョア階玚の客局を招くこずのできる健党な嚯楜ずしお倧幅に取り入れられるようになりたした。ミュヌゞックホヌルでは火灜が盞次いだために、安党性や建築の芳点から芏制が匷たったほか、新たなロンドン州議䌚がラむセンス制を掌握しお芏制を匷め始め、ミュヌゞックホヌルは倉革を迫られたす。結果、ミュヌゞックホヌルの出し物の倚様化を圓局が認める圢で、同時に泥酔や深酒の抑制がなされたした。これたで「酒を飲みながら歌や螊りを楜しめるずころ」だったのが、「ノァラ゚ティを芳ながら酒も嗜めるずころ」ぞず倉わっおいったのです。

    さらに、䞊流局を匕き぀ける「レスペクタビリティ」を培底するため、座垭料金に差を蚭ける、挔し物䞭の出入りや移動の犁止など、客の「芳客化」が進められたほか、「宮殿パレス」ず呌ばれる豪華な建物、換気機胜や安党面の改善、邪魔な柱を無くす、など、培底した掗緎化が行われ、1879幎゚ゞ゜ンが発明した癜熱電球などによっおさらに舞台照明も改善されたした。

    この時代になるず、鉄道網の発達により「旅行」「芳光」がブヌムになっおおり、1900幎たでには䞻芁な各地点に駅ができ、「芳光コヌス」もうたれたした。そしおロンドンの芳光コヌスに各ノァラ゚ティヌシアタヌが組み蟌たれるようになりたす。街灯によっお子連れや女性客も倜の倖出が安心しおできるように。旅回りの䞀座を「埅぀」時代から、挔し物を芳たければ「芳に行ける」時代になったのでした。

    こうしたむギリスの「ミュヌゞックホヌルからノァラ゚ティシアタヌぞ」の倉遷に盞圓するのが、アメリカでの「ミンストレルショヌからノォヌドビルぞ」の倉遷です。

    ゚ゞ゜ンの癜熱電球の発明による舞台照明や舞台装眮の倉革、街灯の増加ずニュヌペヌク・ブロヌドりェむの劇堎街の発展、鉄道網の発達によるサヌカスなどの巡業の倧型化が進んでいき、劇堎嚯楜産業が隆盛を極めたす。ミンストレルショヌは初期の人気のピヌクは過ぎ、内容がノァラ゚ティ化しおいきたした。

    ノォヌドビルの父ず呌ばれるトニヌ・パスタヌ18371908が、1881幎にニュヌペヌクに開いたフォヌティヌンス・ストリヌト劇堎で、ミンストレルショヌやむギリス由来のノァラ゚ティヌずいった埓来の野卑なものに察しお、本栌掟の歌手、コメディアン、曲芞垫などを䜿った正統的で掗緎されたショヌを公挔しお成功、以埌この皮のものが䞻流ずなり、1890幎から20䞖玀初頭にかけお党盛期を迎えたす。1883幎、バファロヌ・ビルが「ワむルド・り゚ストショり」ずいう倧型ショヌを始め、ベンゞャミン・フランクリン・キヌスが自分の倧型ノァラ゚ティショヌに「ノォヌドビル」ず名付けたのも1883幎。これらが䞖玀末にはミンストレルショヌに代わっお人気ずなりたした。

    たた、フランスではレビュヌずいう、幎の終わりに䞀幎の出来事を回顧レビュヌする時事的な颚刺劇が生たれ、やがお歌ずダンス、コント、スケッチなどを組み合わせお豪華な装眮や艶やかな衣装で芳客を楜したせるショヌの意味に転じたした。このレビュヌが、日本の宝塚歌劇団の生成に圱響を䞎えたす。「レビュヌ」も、1894幎にブロヌドりェむに枡りたす。雑倚な芞の寄せ集めだったノォヌドビルず異なり、レビュヌではショヌ党䜓に統䞀されたコンセプトが存圚しおいたした。ここから、劇堎挔芞党䜓が統䞀されたスタむルぞず倉容する兆しが芋られるようになりたす。

    ニュヌペヌク垂の䞭心郚マンハッタンは、南北がアノェニュヌ番街、東西がストリヌト䞁目ず名付けられおおり、7番街ず42䞁目の亀差点で斜めに亀わる通りがブロヌドりェむです。珟圚、劇堎が集䞭する42䞁目から北偎には、19䞖玀末は劇堎はなく、42䞁目より南偎でミンストレルショヌ、ノォヌドビル、オペレッタが連日、客を集めおいたした。42䞁目界隈は「テンダヌロむン」ず呌ばれ、猥雑なショヌを芋せる䞀倧歓楜街を圢成しおいたした。20䞖玀に入るずブロヌドりェむには癜熱電球による看板が掲げられたす。1898幎のボストンに次いでアメリカで二番目の地䞋鉄がニュヌペヌクに1904幎に開業、1910幎には珟劇堎街にも地䞋鉄が通り、倧きく発展したす。同1904幎、7番街ず42䞁目の亀差点に、ニュヌペヌク・タむムズ新聞瀟本瀟ビルが移転しおきたこずから、亀点の広堎が「タむムズ・スク゚ア」ず名付けられ、ブロヌドりェむの䞭心地ずしお賑わうようになりたした。

    19䞖玀埌半のパリやりィヌンで、オッフェンバックやスッペらによっお栄えたオペレッタは、むギリスでは「コミック・オペラ」「サノォむ・オペラ」ずいう名で流行しおおり、それらがブロヌドりェむにも䌝播しおいたした。さらに19䞖玀末20䞖玀初頭にかけお、ペヌロッパから数倚くのオペレッタがブロヌドりェむぞ茞入されたす「フロロドヌラ」「メリヌ・りィドり」「チョコレヌト兵士」など。

    こうした茞入オペレッタず䞊行しお、アメリカ・オリゞナルの創䜜オペレッタも䜜られるようになっおいき、それらを担ったのがノィクタヌ・ハヌバヌト18591924、ルドルフ・フリムル18791972、シグムンド・ロンバヌグ18871951の3倧オペレッタ䜜曲家でした。3人ずもペヌロッパ出身で、クラシック音楜の基瀎を孊んだあずアメリカに枡っお倧成したした。

    19䞖玀末のペヌロッパ的なオペレッタは、20䞖玀に入るずアメリカらしいスピヌド感ある口語的な音楜劇ぞずシフトしおいく傟向になりたす。ゞョヌゞ・M・コヌハン18781942が、歌っお螊れる俳優ずしお、さらに䜜詞・䜜曲・脚本・挔出・興行垫ずしおも䞀人ですべおこなす才胜ずしお掻躍したした。「ブロヌドりェむの父」ず呌ばれ、タむムズ・スク゚アに銅像が立っおいたす。

    このころ、コミカルな音楜劇に察しお「ミュヌゞカル・コメディ」ずいう蚀い方が登堎したずいいたす。その埌、コメディの枠組みに収たらないものは「ミュヌゞカル・プレむ」ず呌んだり、総称しお「ミュヌゞカル・シアタヌ」ずいう蚀い方も出珟し、こんにちの「ミュヌゞカル」の語源になったずされたす諞説あり。

    こうしお、ノォヌドビル、アメリカン・オペレッタ、レビュヌ、ミュヌゞカル・コメディなどを䞭心に、ニュヌペヌク劇堎街ブロヌドりェむが繁栄のずきを迎えたした。

    こうした劇堎音楜は、興行が終わればストヌリヌではなく楜曲のみが残る、ずいう考え方だった時代。楜曲が残されるメディア・ツヌルは、クラシック音楜ず同じく「楜譜」でした。1877幎の゚ゞ゜ンの円筒圢「フォノグラフ」や、1887幎のベルリナヌの円盀型「グラモフォン」など、蓄音機の発明によっお産声を䞊げた録音メディアの歎史ですが、1900幎前埌には1分間に78回転のSPレコヌドが暙準になり、コロムビアずビクタヌの2台レコヌド䌚瀟が䞭心ずなっお録音掻動を掻発化させおいきたす。しかし、前回曞いた通り、電気を䜿わないアコヌスティック録音の段階では音質はただただ劣悪で、録音メディアが䞀般的に普及段階になるのはもう少し先になりたす。

    19䞖玀埌半、ブルゞョワ階玚の䞀般家庭にピアノがだんだんず普及しおいっおおり、憧れ・ステヌタスずなっおいたした。ミンストレルショりの段階から、その䞊挔曲や民衆のヒット゜ングは家庭で気軜に挔奏できる圢での「シヌト・ミュヌゞック」ずしお出版されおいたしたが、他のクラシックの楜譜や讃矎歌集ず同じように、ペヌロッパ的な教逊のもずの「文化」ずしおずらえられおおり、宣䌝にはあたり力を入れおはいたせんでした。ずころが䞖玀転換期になるず、シヌトミュヌゞックに特化した音楜出版瀟が数倚く誕生したす。劇堎や嚯楜斜蚭で歌われる楜曲を「商品」ずしお管理する新しい圢態は、郜垂の音楜的需芁にあわせお勃興した、たったく新しい産業でした。はじめは各所に乱立しおいた音楜出版瀟ですが、次第に䞀぀の地区に堎所が集䞭するようになりたす。各出版瀟は自瀟の楜譜を売り蟌むため、ドアを開け攟ち、アップラむトピアノの蓋も取っ払い、朝から晩たでプレれンテヌションをし続けおいたした。この激しい宣䌝合戊は音の措氎を呌び、たるで鍋釜でも叩いおいるような賑やかな状態を揶揄しお、この地域のこずを人々は 「ティン・パン・アレヌ」日本語蚳するず「ドンチャン暪䞁」「どんがらがっしゃん通り」などず呌ぶようになりたす。

    「音楜出版瀟」は、楜譜をただ出版するだけでなく、「曲を䜜っお楜曲を買い取らせる」ずいう音楜ビゞネスを誕生させたした。各出版瀟が専属の䜜曲家を雇い、曲を䜜らせる。宣䌝のために劇堎のスタヌやシンガヌにも売り蟌み、歌っおもらう。こうしお人々に芪したれた楜曲が楜譜ずしお売れる。このような「䜜曲家ず挔者」の分業システムがアメリカ流のビゞネスずしお成り立ち、アメリカン・ポップスの䌝統ずなっおいきたす。ティン・パン・アレヌでは、工堎の商品生産のように、流れ䜜業で楜譜や楜曲を量産しおいき、聎衆の心を぀かむポピュラヌ音楜のフォヌマットが確立されおいきたした。い぀しか、この地域で誕生するポピュラヌ音楜そのもののこずが「ティン・パン・アレヌ」ず呌ばれるようになりたした。



    ラグタむムの人気

    19䞖玀埌半に誕生したラグタむムは、1893幎のシカゎ䞇博をきっかけに爆発的に流行し、1910幎代たで党米で倧流行したす。なかでもスコット・ゞョプリン(1867-1917)、トム・タヌピン1873-1922、ベン・ハヌニヌ1872–1938が有名です。間違えがちですが、ラグタむムは即興音楜ではなく、ピアノ曲ずしお楜譜に曞かれた䜜品です。アンサンブル甚に線曲した楜譜もあり、ゞャズずは音楜的な圱響はあれど性栌を異にしおいたす。



    ニュヌオヌリンズ・ゞャズずディキシヌランドゞャズ

    クレオヌルによる西掋的な音楜に黒人のフィヌリング・即興性が加わり、ニュヌオヌリンズ呚蟺で産声を䞊げた黒人たちの挔奏を総称しおのちにニュヌオヌリンズ・ゞャズず呌ぶこずになるのですが、その実態はブラスバンドの圱響を受けた即興的で力匷い黒人音楜もあれば、クレオヌルによるクラシックの宀内楜的な癜人向けのものもあるずいうふうに、さたざたでした。

    1897幎に、ニュヌオヌリンズには「ストヌリヌノィル」ずいう売春容認地区が眮けられ、黒人たちの仕事堎が数倚くでき、癜人に受け入れられる挔奏をする機䌚が数倚く生たれたす。さらに、街灯や広堎のパレヌドが圓たり前だったこの時代、街にはブラスバンドがたくさんありたした。その䞭でコルネット奏者 バディ・ボヌルデン18771931が線成したバンドが人気を埗たす。音響蚭備が無くマヌチングバンドなどでも音量のためにその線成は垞に人以䞊が必芁だった時代、バディ・ボヌルデンはコルネット、クラリネット、トロンボヌン、チュヌバor りッドベヌス、バンゞョヌor ギタヌ、ピアノ、ドラム、で構成される総勢人の少人数バンドで人々の話題を集めたのでした。これが史䞊初のゞャズバンドずされたす。たた、それたでクラシックでは打楜噚奏者は小倪錓、倧倪錓、などず耇数人に分かれおいたのが、ディヌ・ディヌ・チャンドラヌず蚀う小倪錓奏者が、右足で倧倪錓を打ち鳎らすフットペダルを考え出し、小倪錓ず倧倪錓を同時に挔奏しお話題を呌びたす。ここからドラマヌは怅子に座る様になり、そうなるず巊足ではシンバルを鳎らそう、ずハむハット・シンバルの原型が考え出され、耇数人数が絶察条件だった打楜噚がドラムずいう䞀人で挔奏可胜な楜噚に進化を遂げたした。バディボヌルデンはここに目を぀け、少人数バンドを実珟し、名声を挙げたのです。このころ、ゞャズやブルヌスでコントラバスが䜿われ始め、りッドベヌスず呌ばれるようになりたす。

    圓時、南郚䞀垯を指しおディキシヌランドずいう俗称が付いおいたため、ニュヌオヌリンズゞャズは別名をディキシヌランド・ゞャズずも呌ばれた、ずいう話がありたす。しかし、やがお癜人の䞭にも黒人のゞャズを真䌌お、同じような線成で挔奏するバンドが出おくるようになり、こちらを黒人のニュヌオヌリンズゞャズず区別しおディキシヌランド・ゞャズず呌ばれた、ずも蚀われおいたす。ディキシヌランドゞャズず呌ばれるようになっおから、アメリカ党土やペヌロッパぞも広たっおいきたした。

    このころのストヌリヌノィルで人気のゞャズピアニストだった、ゞェリヌ・ロヌル・モヌトン18901941は、ラグタむムピアノの進化圢ずいえるピアノ゜ロのスタむルを぀くるなど、最初期のゞャズの偉人ずされおいたす。しかし、自分の名刺に「ゞャズずスりィングの創始者」ず蚘すなど、掟手な性栌で、自慢話で話題を呌ぶのが奜きだった圌は誇倧衚珟も倚く、「ホラ吹きモヌトン」ずも呌ばれおいたした。珟圚のポピュラヌ音楜での共通蚀語であり蚘譜の前提であるコヌド衚蚘はモヌトンが考案したず蚀われおいたすが、真停のほどは確かではありたせん。しかし、いずれにしおもニュヌオヌリンズゞャズの発達したこの時期にコヌド衚蚘が生たれたずいうこずは確かなようです。

    ニュヌオヌリンズ出身の癜人ゞャズ・バンド、「オリゞナル・ディキシヌランド・ゞャズ・バンドOriginal Dixieland Jass Band」は、1917幎に䞖界で初めお、ゞャズのレコヌド音源を発衚したバンドずしお知られおいたす。これを起点に「ゞャズの誕生」ず捉え、2017幎にはゞャズ生誕100幎が祝われたりしたした。どうやら、それ以前にもニュヌオヌリンズゞャズ的な音源は存圚しおいたようですが、圓時ただJazzずいう語が無く、Jass House Music売春小屋音楜、Jass性亀を意味するスラングなど蚀われおいたり、ラグタむムやブルヌスなどず未分化だったり、ずいう理由があるようです。ゞャズの語源には諞説ありたすが、ずもかく1917幎の初のゞャズ音源の発売をもっおゞャズの正匏な誕生ず䜍眮付ける考えが䞻流ずなっおいたす。

    1917幎、アメリカの第䞀次䞖界倧戊参戊にずもない、ストヌリヌノィルは突劂閉鎖されおしたいたす。これにより、黒人音楜家たちは職を倱っお圓おのない暮らしが始たり、ニュヌオヌリンズを離れおシカゎやニュヌペヌクぞず離れおいき、ゞャズの新たな段階ぞず進んでいきたす。


    「ブルヌス」の䌝播

    奎隷時代のフィヌルド・ハラヌから発達し、ミシシッピ州デルタ地垯にお産声を䞊げたずされるブルヌスですが、W.C.ハンディ18731958ずいうミュヌゞシャンが玹介したこずで、党米に「ブルヌス」の語が広たっおいきたした。ハンディは「ブルヌスの父」ず呌ばれおいたすが、実は圌の功瞟は黒人たちの土着の音楜を楜譜に起こしお玹介したずいうこずなのです。

    ハンディはクラシック音楜の蚓緎を受けたミュヌゞシャンで、ミンストレルショヌなどのバンドリヌダヌずしお掻躍しおいたした。掻動を続けながら南郚を旅しおいたあるずき、1903幎に、匊に抌し぀けたナむフをスラむドさせながらギタヌを匟く男を目撃し、衝撃を受けたす。楜譜など無かったこのような音楜をハンディは分析・採譜し、楜譜出版したこずで倧成功をおさめたのです。「圌らの音楜は、音階の3番目ず7番目の音が䞋がっおいるブルヌ・ノヌト」「セブンスの和音を基瀎ずした3コヌドで12小節をひずたずたりにする」など、西掋音楜的芖点からブルヌスを解析・䜓系化し、1910幎以降ハンディ自身もブルヌスの䜜曲に専念したす。「メンフィス・ブルヌス」「セントルむス・ブルヌス」など倚数のヒット䜜を生み出したした。

    このようなブルヌスのヒットは、ティン・パン・アレヌのシヌトミュヌゞックを通じお広たったのです。぀たり、ハンディの広めた「ブルヌス」は、ノォヌドビル音楜ず同じように、郜䌚的な掗緎された音楜ずしお拡倧しおいったのです。このもう少しあずに、原始的なむメヌゞを持ったブルヌスの人気が起こるこずになりたす。䞀般的なブルヌス史芳では「原始的ブルヌスから郜䌚的ブルヌスぞ」ずいう、逆の順番のむメヌゞで語られるこずが非垞に倚いのですが、実は逆なのです。クラシック音楜史ず同じように、「原始的なものから耇雑なものぞ」ずいう䞀盎線の歎史芳で䜓系化するずわかりやすくはなるのですが、そこにはかならず、時系列的に䞍可解な疑問が発生しおきたす。実際のずころは、ノォヌドビルやラグタむムやゞャズなどの同時代音楜ず盞互䜜甚を起こしながら、ブルヌスは発展しおいきたした。

    先述したずおり、珟圚ニュヌオヌリンズゞャズず呌ばれおいる音楜も圓時ただ「Jazz」ずいうスペルでは無く、「Jass売春宿音楜」などず呌ばれる、音楜の正匏ゞャンルではなかったのですが、その「初期ゞャズ」ずは、ブルヌスや黒人霊歌などの黒人音楜を挔奏するための、挔奏スタむルの䞀぀だった、ずいう蚀い方もできるのです。初期ゞャズの曲名に『ブルヌス』ずいうタむトルが非垞に倚いのもこのためです。このあずゞャズは、音楜のゞャンルずしおの地䜍を高め、ブルヌスから独立しお別の発展をしおいくわけですが、ずもあれ、20䞖玀初頭のアメリカのポピュラヌ音楜は、ティンパンアレヌの楜譜出版を軞に、ノォヌドビルの音楜、ブルヌス、ゞャズがすべお枟然䞀䜓ずなっお「郜䌚の音楜」ずいうむメヌゞで広たった、ず考えるのが䞀番劥圓でしょう。



    映画の誕生

    1877幎に蓄音機を発明した゚ゞ゜ンは、「音」の次に「映像」に関心を向け、動画蚘録装眮の研究を進めたした。そしお発明を完成させ、1891幎に内茪向けに公開したす。ノォヌドビルやノァラ゚ティの芞人を読んでは挔し物を撮ったり、芝居の䞀堎面、ボクシングの詊合、ダンスなどを撮ったりしたした。その埌「キネトスコヌプ」ずしお1893幎に䞀般公開したすシカゎ䞇囜博芧䌚に出展。この地点では、映像を芋るには箱の䞭を芗き蟌む〈のぞき穎〉型だったため、倚数に向け䞊映するずいうこずはできたせんでした。゚ゞ゜ンはその埌、他の発明に関心を移しおしたいたすが、そのあいだにペヌロッパでは、パリのリュミ゚ヌル兄匟が1895幎にスクリヌン投圱型の 「シネマトグラフ」の発明を成功させたした。䞀般にこれが映画の起源だずされおいたす。リュミ゚ヌル兄匟は「工堎の出口」など蚈10本の短線映画を商業公開したした。

    初めは祭りや定期垂など人の集たる堎所で䞊映されるうち、さらに圓時の垂民の銎染みの堎所だったミュヌゞックホヌルやノォヌドビル劇堎の挔し物の䞀郚ずしお䞊映されるようになり、倧人気ずなりたす。

    やがおノォヌドビルを真䌌お、店先をやっ぀けで改良したような䞊映ルヌムや、芝居小屋を無理やり抌し広げたような即垭ホヌルが次々ず登堎し、映画専門小屋ずしお倧ヒットしたす。こういった小屋は入堎料が5セントニッケル硬貚だったため、「ニッケルオデオン」ず呌ばれ芪したれたした。ニッケルオデオンは、貧しい庶民の瀟亀堎ずなり栄えたした。

    「音」に関しお、䞀説によれば1895幎からの56幎間は本圓に「音無し」だったずいわれたすが、別の説によれば、映画が生たれお2~3幎で劇堎では音を付けおいたずも蚀われたす。このあたりはハッキリ無いのですが、20䞖玀になるず同時くらいに、どうやらサむレント映画に䞊映珟堎で音を付けるこずを詊み始めたようです。ノォヌドビルやミュヌゞックホヌルずいった堎では「鳎り物」は必須でした。

    そもそも挔劇などに぀く「付随音楜」は、玀元前5䞖玀ごろの叀代ギリシャの劇音楜にその歎史を遡るこずができたすが、ルネサンス埌のシェむクスピア劇などを経おバロック期に誕生したオペラやバレ゚などもルヌツずいえるでしょう。クラシック音楜のロマン掟ぞの倉化ずずもに、劇音楜も音楜の衚珟分野を広げるず思われたしたが、やがお「マトモ」に取り扱われなくなっおしたいたす。音楜ずいうものは「文孊・挔劇」ずいうゞャンルに付随するものではなく、「音楜」ずいう独立した䞭での「個」の䞻匵ずしお存圚するべきだ、ずいう颚朮になったのです。「道具ずしおの付随物ではなく、音楜そのものの衚珟」ずいうベヌトヌノェン由来のドむツ音楜矎孊に起因したこの考え方は、ブラヌムス掟の「絶察音楜」ずワヌグナヌ掟の「暙題音楜」「楜劇」の䞡方の前提ずなりたした。

    そしお、20䞖玀に入り、映画の時代が蚪れたのです。「オペラ」「オペレッタ」「楜劇」などはいずれも音楜衚珟ず文孊衚珟・劇そのものが䞀䜓で考えられる芞術であるので、映画の誕生により「映像」ず「音楜」が䞀床分離したこずによっお、完党な「付随音楜・BGM」ずしおの圹割の音楜の歎史が、ここから始たったずいえるでしょう。

    初期の映画音楜の぀け方には、倧きく2パタヌン存圚したした。

    ①映画通ごずに、その堎の音楜家が適圓な音楜を珟堎で぀けるパタヌン
    ②映画補䜜者偎が専甚の音楜スコアを甚意したパタヌン

    ①映画通ごずに、その堎の音楜家が適圓な音楜を珟堎で぀けるパタヌンでは、倧半はピアノかオルガンで自己流で挔奏され、䞀郚のキュヌ・シヌトの指瀺には埓ったものの、映像に合わせお自己のむンスピレヌション、音楜知識ず技術を総動員しお、即興での制䜜掻動ずもいえる挔奏を行っおいたした。〈シネマオルガンの時代〉ず蚀われ、「やっおみよう」粟神を盛んに、効果音を考えたり、スクリヌンの裏でいろんな音を出しおみたり、セリフをしゃべっおみたり、ずあらゆる方法が詊され、その䞭でピアニストやオルガニストが倧きく泚目されたした。1909幎にはトヌマス・゚ゞ゜ン・カンパニヌが自瀟の映画に「よく合う音楜」の楜譜を売り出したり、1913幎にはオハむオ州の音楜出版瀟が「戊いのシヌン」「ラノシヌン」などパタヌン化された音楜を甚意した「Sam Fox Moving Picture Music」を売り出し、人気ずなりたした。たた、ドタバタコメディ党盛期の1910幎代には、チャップリンなどの短線に察しおラグタむムの音楜もよく挔奏されおいたようです。


    ②映画補䜜者偎が専甚の音楜スコアを甚意したパタヌンでは、倧型の劇堎にフル・オヌケストラが付き、既存のクラシック曲から曞き䞋ろし曲たでがスコアに揃えられ、それを挔奏したそうです。遞曲された䜜品ずしおは、ロッシヌニ、ベヌトヌノェン、ノェルディ、ワヌグナヌ、グリヌグ、チャむコフスキヌ、サン・サヌンスなどのクラシック曲から、フォスタヌなどのアメリカ民謡などたでを総動員しお組み立おられたした。1908幎のフランス映画「ギヌス公の暗殺」はサン・サヌンスが映画のために音楜を担圓したした。初期映画界はアメリカではなくフランスの存圚感が匷く、音楜ずしおもこの埌の時代もしばらくフランスのクラシック䜜曲家が映画界に比范的積極的に関わるこずになりたす。



    末期ロマン掟

    さお、ペヌロッパの孊術的な芞術音楜界に話を戻す()ず、ワヌグナヌを継承するドむツ矎孊的「芞術音楜」の系譜ずしお、19䞖玀末の「末期ロマン掟」ずも蚀える段階に入りたす。この段階の特城は、ずにかくダむナミックで倧仰だずいうこずです。転調や和声の耇雑化、様匏や圢匏を限界たで汲み぀くす傟向も珟れ、これ以䞊の肥倧化が䞍可胜なほどの芏暡の拡倧が行われたした。

    ・マヌラヌ18601911[オヌストリア] ・・・ブルックナヌに圱響を受け、巚倧な亀響曲や管匊楜䌎奏付き歌曲を䜜った。

    ・フヌゎヌノォルフ18601903[オヌストリア] ・・・ピアノ䌎奏による歌曲を぀くり、「歌曲のワヌグナヌ」ず呌ばれた。ブラヌムスに察し、「シュヌマン・メンデルスゟヌンの亜流」「倪叀の遺物」などず酷評。

    ・リヒャルト・シュトラりス18641949[ドむツ]・・・リストやワヌグナヌの流れを受け、亀響詩やオペラを䜜った。

    ノェルディ、ブルックナヌ、チャむコフスキヌ、ドノォルザヌクら『叀参』も、最埌の螏ん匵りを芋せおいたしたが、総じお和声法が極め぀くされ、埐々に「新しい」手法の開拓が困難になっおいたした。

    ブラヌムスの音楜傟向が“保守的”、ワヌグナヌやリストが瀺した和声拡匵傟向が“革新的”、ずいう颚朮によっお圢成されたドむツの「わかりやすいものは叀い。新しいものはより耇雑でなければならない」ずいう音楜矎孊的史芳に芞術音楜界は瞛られ続けたす。

    そもそも、ドむツ的なクラシック音楜には、バッハの時代にはあった即興挔奏の文化から、ベヌトヌノェン以来の「楜譜に蚭蚈されたものが芞術䜜品であり、䞀音たりずも倉えおはならない」ずいう方向ぞの「進歩」の前提があるため、綿密に楜譜に蚭蚈されたものではないシヌトミュヌゞックや即興音楜などの新しいポピュラヌ音楜は「新しい芞術」ではなく、議論の察象ではありたせん。さらに、オペレッタからの手法をそのたた継承しおいるはずのアメリカのブロヌドりェむ音楜や、クラシックピアノ曲を黒人的に発展させた恰奜であるラグタむムなどすら、音楜の進歩史芳的には「新しくなかった」ため、クラシック音楜史から完党に無芖されおいたす。音楜党䜓を「バッハ → ベヌトヌノェン → ワヌグナヌ → ・・・」ずいう䞀方向的な耇雑化のストヌリヌに圓おはめお考えるず、アメリカ音楜はただ「“叀い”音楜」をやっおいるだけであり、問題ではなかったのです。問題ずすべきは「“新しい”音楜手法」の远求であり、それが音楜の孊問ずしおの「正解」になっおいたした。

    クラシックずポピュラヌの違いをポピュラヌ偎から安易に批刀する時に、この点がよく間違えられがちなのですが、クラシックを「叀いもの」、ポピュラヌを「新しいもの」ず䜍眮付けおしたうず、クラシックの矎孊感芚ずは話が合わず平行線のたたになっおしたいたす。クラシック音楜を察象にした批評や孊術曞にも「叀い」「新しい」ずいうふうな衚珟が倚々登堎したすが、そこに䟡倀芳の分断の萜ずし穎が朜んでいるのだず思うのです。そこを解き明かすには、この蚘事シリヌズで詊みおいるような、ドむツ矎孊を倖偎から眺めた、音楜史の芖点の盞察化が必芁です。



    フランス『近代音楜』

    埓来の音楜史では、音楜理論や圢匏の耇雑さの進歩に沿っお、バロック → 叀兞掟 → ロマン掟 → 近代音楜 → 珟代音楜 の順で「時代」が描かれたすが、実際には前述のマヌラヌらによる埌期ロマン掟の同時代珟象ずしお、フランスで起こった朮流が「近代音楜」であり、第䞀次䞖界倧戊たで共存しおいたした。

    囜民音楜協䌚を䞭心ずした「ドむツに負けない“正統的”な噚楜文化をフランスにも぀くろう」運動により、フランク、サンサヌンス、フォヌレ、シャブリ゚らが、亀響曲・協奏曲・宀内楜の名䜜をうみ出したしたが、䞖玀末になるず、埌期ロマン掟の行き詰たり傟向も盞たっおアンチテヌれが起こりたす。

    そのはじたりがドビュッシヌ18621918です。ワグネリズムは受け継ぎ぀぀、ドむツ颚を拒吊しおフランスのアむデンティティを確立しようずした動きずいえたす。ドむツで確立された機胜的な和声理論ではなく、和声そのものを「音色そのもの」ず䜍眮づけ、ペンタトニックスケヌル、ホヌルトヌンスケヌル、䞭䞖の教䌚旋法などを甚いるこずで、「メゞャヌ/マむナヌ(長短)」䞭心の調性システムを離れた、浮遊感のある音楜語法を獲埗したした。甚語の是非はありたすが、同時代の画家 モネ の「印象 - 日の出」やマネらの䜜品にも共通する矎的感芚から、「印象掟音楜」ずも呌ばれたす。

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    同じ傟向の䜜曲家ずしおラノェル18751937が挙げられたすが、ドビュッシヌ的な浮遊感ずは異なる粟密さで理知的な䜜品を䜜り、フランス音楜に新しい颚をもたらしたした。


    「囜民音楜協䌚」の䞖代ずの違いは、「独特のダンディズム、スノビズム、通俗性ず掗緎」だずいわれおいたす。ショパンやリストのサロン音楜の䌝統も参照しおいたした。か぀おサロン音楜は䞊流瀟䌚のためのものでしたが、19䞖玀も埌半になるずカフェやカゞノ、キャバレヌなどでワルツ・アリアなどの線曲をBGMずしお音楜が挔奏されるようになっおいたした。ドビュッシヌやラノェルの華々しい掻躍の陰で無名時代を過ごしおいたサティも、キャバレヌ奏者をやっおいたした。

    フランスの音楜家はこういったものに興味を瀺し぀぀、さらに゚キゟチズム異囜趣味が加わるこずで矎的感芚が圢成されおいたした。絵画でいうずころのドラクロアやゎヌギャンの、異囜趣味や日本の浮䞖絵ぞの関心ずリンクしたす。

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    ドビュッシヌの亀響詩「海」の楜譜の衚玙には、葛食北斎の冚嶜䞉十六景「神奈川沖浪裏」の暡写が採甚されおいたす。

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    さらにドビュッシヌは、アメリカのケヌクりォヌクやラグタむムにも関心を瀺し、「ゎリりォヌグのケヌクりォヌク」ずいう曲も残しおいたす。

    こうした動きはドむツから芋るず、「フランス的軜薄」ずしお非難されおいたした。ドむツ語圏では、芞術音楜ず嚯楜音楜の間に厳栌な線を匕いおいたからです。さらに、ドむツは「普遍性」を求める「玔血䞻矩」でもあったため、異囜趣味ずの盞性も悪かったのです。



    蔑たれた囜民䞻矩・ロマン掟音楜

    ペヌロッパ各地方では、20䞖玀になっおも、ロマン䞻矩的な感芚で掻動した音楜家も倚いのですが、ドむツが䞭心ずなっおいる西掋芞術音楜界は、前進性の無い䜜曲家を評䟡したせん。あず数十幎早ければさらに評䟡されおいたかもしれない人たちが「時代遅れ」ず䜍眮付けられ、この段階の時代区分よりも䞀぀前の「ロマン掟」「囜民楜掟」に分類されおしたいたした。

    【むタリアオペラ】
    挔劇史ずしおはむギリスやアメリカのオペレッタに倩䞋を取られ、芞術音楜ずしおも前時代のものずされおしたったむタリアオペラは、これが最埌の栄華ずいえたす。

    マスカヌニ18631945

    プッチヌニ18581924「蝶々倫人」「トゥヌランドット」など
    ⇒ドむツ楜壇から “聎衆の䜎俗な本胜を助長” “お涙頂戎”ず酷評。

    囜民楜掟

    【むギリス】
    ゚ルガヌ18571934「嚁颚堂々」「愛の挚拶」など
    ホルスト18741934 組曲「惑星」など

    【フィンランド】
    シベリりス18651957

    【ポヌランド】
    シマノフスキ18821937

    【スペむン】
    アルベニス
    18601909
    グラナドス18671916

    【アメリカ】
    マクダりェル
    18601908

    【ロシア】
    ラフマニノフ
    18731943

    ここで、ロシアには、䞍思議な和音を操るスクリャヌビン18721915ずいう䜜曲家が登堎したす。スクリャヌビンの和音は「神秘和音」ず名付けられ、「ロシア神秘䞻矩」ずしおフランスず同じように「近代音楜」に分類されたした。しかし、スクリャヌビンず同幎代であるラフマニノフは、䞀貫しおロマン䞻矩的音楜を䜜り続けたため、あたかも前時代の音楜家のように扱われおしたいたした。ラフマニノフは第䞀次䞖界倧戊埌も掻動を続けたすが、こずごずく「叀い音楜」ずしお扱われ、たずもに評䟡されたせんでした。同じ囜、同じ幎霢の2人の䜜曲家が、片方はロマン掟、片方は近代音楜、ずされおいるさたは、クラシック音楜史の時代区分が、実際の「時代」に沿っおおらず、䞀方向的な進歩史芳に沿っお分類されおいる、ずいうこずがわかる顕著な䟋ではないでしょうか。よっぜど特殊な興味を持っお生幎を調べない限り、ドビュッシヌよりラフマニノフのほうが幎䞋で、ラノェルず同䞖代である、ずいう事実は信じがたいず思いたす。



    「前衛音楜」の誕生

    このように、「ロマン掟」に戻るこずが蚱されない空気の䞭、ロシアではストラノィンスキヌ18821971がさらに過激な音楜を䜜っおしたいたした。埓来の調性システムから離れおいったのはもちろんのこず、リズム法の面からもアプロヌチし、倉拍子の乱舞ず継続する䞍協和音で、それたでの音楜の「䞀定性」を砎壊したした。1913幎発衚のバレ゚音楜「春の祭兞」が賛吊を枊巻く倧反響を呌びたす。初挔時の客垭が称讃ずブヌむングの入り乱れる倧隒動になったずいいたす。

    たた、これによっお、時代遅れずなったオペラに代わっおバレ゚音楜は「新しいもの」ずされ、ロシア音楜が芞術音楜界で囜際的に「前衛」の䜍眮ずしお認められるようになりたす。同時代の絵画での「フォヌビズム」「衚珟䞻矩」「抜象絵画」ず結び぀けられ、「衚珟䞻矩音楜」ずされたした。

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    むタリアでは、前衛芞術運動「未来掟」が起こりたす。文孊矎術、建築、音楜、ず広範な分野で展開され、過去の芞術の培底砎壊ず、機械化による近代瀟䌚の「速さ」が讃えられたした。1909幎、むタリアの詩人マリネッティによる「未来䞻矩創立宣蚀」が起草されおスタヌトし、音楜分野ではルむゞ・ルッ゜ロ18851947が、1913幎に雑音を鳎らす楜噚「むントナルモヌリ」を぀くり、隒音芞術を開始したす。

    『戊争は矎しいものである。なぜなら、ガスマスクや嚁嚇拡声噚、火炎攟射噚や戊車、人間の力が機械を支配しおいるこずを蚌明できるからだ』

    『音楜はやがおノむズぞず行き着くだろう。ノむズは音楜の豊かさをもたらしおくれる。ベヌトヌノェンやワヌグナヌが私たちの心を動かしおきたように、今床ぱンゞンの出すノむズや矀衆のざわめきが私たちを楜したせおくれるだろう。』

    むタリア未来掟はこのあず、ファシズム・軍囜䞻矩ず結び぀いお厩壊しおしたいたすが、この方向性はこのあずクラシック音楜がたどる道を予蚀しおいたずずるこずもできたす。



    そしお、ここたで歩んできた西掋音楜の既成の音楜理論的枠組みを根底から芆そうず実隓した䜜曲家が、シェヌンベルク18741951です。

    「䞭心音」を断固ずしお拒絶し、曲の䞭から䞀切の協和音を締め出したした。これにより、「調性」が砎壊され、䞍協和音しか認めない「無調音楜」が始たりたす。1911幎の「6぀のピアノ小品」などはその顕著な䟋で、それたで埌期ロマン掟や近代音楜が限界たで拡匵しお保っおいた調性が぀いに吊定されおしたいたした。

    こうしお、1910幎代に入り、ここから先がクラシック甚語でいう「珟代音楜」の時代になりたす。

    音楜に詳しくない人が珟代音楜ずいう語を「珟代の音楜」ずいう意味で䜿うこずがありたすが、「珟代音楜」は21䞖玀の我々にずっおもはや「珟代の音楜」ではありたせん。ここたで解説しおきた通り、ドむツ音楜史ずしお「バッハ → ベヌトヌノェン → ワヌグナヌ → シェヌンベルク」ずいう音楜理論の䞀方向的なストヌリヌに圓おはめお時代区分を分類した堎合の、シェヌンベルク以降の音楜が音楜甚語ずしお「珟代音楜」ず蚀われたす。いわば「20䞖玀の前衛・無調音楜」ずいう意味になるので、珟代の音楜を指し瀺そうずしたずきは「珟代音楜」ずいう語は控えるようにしなければなりたせん。


    そしお第䞀次䞖界倧戊ぞ

    1914幎の倏、第䞀次䞖界倧戊が勃発。ペヌロッパ本土で40幎ぶりに戊争が起き、人類史䞊初めお近代兵噚戊車、ダむナマむト、朜氎艊、軍甚機が䜿甚され、前代未聞の倧量殺戮が行われ、ペヌロッパ䞭が焊土ず化した戊争でした。音楜でも絵画でも前衛䞻矩が登堎した時代、芞術家たちはキナ臭さを敏感に感じ取っお、砎壊的な䜜品を残したずいうこずなのでしょうか。

    第䞀次䞖界倧戊を経お、ペヌロッパは悲惚な状況ずなっおしたいたした。クラシック音楜文化を支えおきたペヌロッパのブルゞョワ階玚は厩壊したす。今日のクラシック挔奏䌚のレパヌトリヌの䞭心ずなっおいるのはこの段階たでです。芞術音楜は「珟代音楜」の段階になり、「わかりやすいものは悪である。」ずいう圢で、聎衆に向けお音楜を䜜らなくなり、「音楜」党䜓の䞭でクラシック音楜の優䜍は知らず知らずのうちに圢骞化しおいったのではないでしょうか。䞀方で戊争を経お「䞖界の匷囜」にのし䞊がり、芇暩囜家の道を歩み出したアメリカではこのあず「ロヌリング・トりェンティヌズ狂隒の20幎代」ず呌ばれる繁栄の道を歩み、経枈的繁栄ず郜垂文化の開花、ポピュラヌ音楜の消費が枊巻く時代ぞず進んでいくこずになりたす。

    次回は第䞀次䞖界倧戊から第二次䞖界倧戊たでの「戊間期」の音楜を玹介したす。


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    党お同じ「音楜」なはずなのに、各ゞャンル間にある分断や䟡倀差別に疑問を抱き、音楜の歎史にも興味を持぀。西掋音楜史はある皋床ゎヌルに蟿り着けたので、今は日本音楜史の接続に挑戊停滞䞭。音楜史以倖も奜き勝手曞きたす。※あくたで䞀個人のパヌ゜ナルな探求・雑蚘である点をご承知おき䞋さい