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#19 音楜史⑭ 【第䞀次䞖界倧戊第二次䞖界倧戊】実隓ず混沌「戊間期の音楜」

    クラシック音楜史ずポピュラヌ音楜史を䞊列で綎る詊みです。このシリヌズはこちらにたずめおありたすので是非フォロヌしおください。

    これたでの蚘事↓

    序章
    #01「良い音楜」ずは
    #02 音楜のゞャンルっおなに
    #03 ここたでのたずめず補足歎史ずはなにか
    #04 これから「音楜史」をじっくり曞いおいきたす。
    #05 クラシック音楜史のあらすじず、ポピュラヌ史に぀なげるヒント

    音楜史
    #06 音楜史① 叀代
    #07 音楜史② 侭侖1
    #08 音楜史③ 侭侖2
    #09 音楜史④ 15䞖玀ルネサンス前線
    #10 音楜史⑀ 16䞖玀ルネサンス埌線
    #11 音楜史⑥ 17侖简 - バロック
    #12 音楜史⑊ 18侖简 - ロココず埌期バロック
    #13 音楜史⑧ フランス革呜ずドむツ文化の“救䞖䞻”登堎
    #14 音楜史⑚ 【19䞖玀初頭】ベヌトヌノェンずずもに始たる「ロマン掟」草創期
    #15 音楜史⑩ 【183048幎】「ロマン掟 “第二段階”」 パリ瀟亀界ずドむツナショナリズム
    #16 音楜史⑪【1848幎】 ロマン掟 “第䞉段階” 分裂し始めた「音楜」
    #17 音楜史⑫ 【19䞖玀埌半】 普仏戊争ず南北戊争を経お分岐点ぞ
    #18 音楜史⑬ 【19䞖玀末20䞖玀初頭】䞖玀転換期の音楜
    〈今回〉 #19 音楜史⑭【第䞀次䞖界倧戊第二次䞖界倧戊】実隓ず混沌「戊間期の音楜」

    今回は二぀の䞖界倧戊の間に挟たれた“戊間期”に該圓する期間を芋おいきたす。今たではクラシック音楜史がメむンでクラむマックスであり、その裏でポピュラヌ音楜が黎明期ずしお着実に発達しおいき぀぀あった、ずいう構図でしたが、この「戊間期」においおは、ポピュラヌ音楜が勢いを増しお぀いに芇暩をずった䞀方で、クラシックもただ珟圚進行圢の音楜ずしお「終わっお」おらず、唯䞀の「クラシックずポピュラヌが䞡者珟圹で䞊列しおクロスオヌバヌしおいた時代」ず蚀えそうです。単に「過枡期」ずも蚀えるでしょうか。

    なるべく「同時代珟象」を䞀぀の蚘事にたずめるこずを指針ずしおいるので、前回にも増しお文章量がボリュヌミヌになっおきおしたっおおりたす。䞀぀の分野にフォヌカスしお流れを远うにはどうしおも煩雑になっおしたっおいたすが、本来それぞれ別々の分野で蚘述されおいるものを䞊列にならべるずいう意図を汲んでいただいお芖点の移動を楜しんでいただければ嬉しいです。それではたいりたす。


    芞術音楜は「無調音楜」優䜍の時代ぞ

    19䞖玀は垝囜䞻矩の圱響によりペヌロッパの文化が䞖界を垭巻したしたが、第1次䞖界倧戊によりブルゞョワ階玚は厩壊、ペヌロッパは疲匊し、人間の感性やモノの考え方が根底から倉わっおしたいたした。芞術音楜界では、マヌラヌが1911幎に死去。スクリャヌビンが1915幎に死去。ドビュッシヌが1918幎に死去。リヒャルト・シュトラりスやラフマニノフは「前時代の」ロマン掟的な手法で䜜品を曞き続けたため「アむツらは終わった」ずディスられ続け、プッチヌニ、シベリりス、ラノェルらも発衚䜜品数が少なくなっおいき、䞖玀転換期に掻躍した186070幎代生たれの䞖代の圱が薄くなっおしたいたす。

    ロマン掟に戻るこずを蚱さない空気感の䞭、ワヌグナヌのトリスタン和音以来の和声拡匵傟向はドビュッシヌの色圩的技法、ストラノィンスキヌによる秩序の砎壊などを経お、シェヌンベルクの「無調音楜」の䞖界に蟿り着き、協和音が犁じられおしたいたした。

    1921幎、無調の研究を぀づけたシェヌンベルクは、理論的に無調を぀くるこずのできる「十二音技法」を発明したす。

    オクタヌブ内にある12個の音をすべお平等に扱うために、どんな音も残り11個の音を䜿うたでは反埩しない、ずいう原則。基本ずなる音列を䜜り、逆行型や鏡像型、鏡像型の逆行型ずいう䞉぀の倉化圢を蚭けお、ノァリ゚ヌションを䜜るずいうものです。䜜曲に数孊的な凊理が斜されるずいえばよいでしょうか。

    こうした方向性は、匟子のベルク18851935やノェヌベルン18831945に受け継がれ、シェヌンベルクずずもに新りィヌン楜掟ず呌ばれ、「新しい時代の音楜」ずしお「西掋芞術音楜界」の泚目を济びたした。


    こうしお、埌期ロマン掟や近代音楜で拡匵されおきた「調性」が、「無い」こずが「最新」ずなったため、キヌを持ったメロディが曞けなくなっおしたいたした。しかし、ただただラフマニノフやプッチヌニ、シベリりスらも䜜品を発衚しおいたした。それらはやはり「旧勢力最埌の末裔」であり、「時代遅れ、叀き良き時代を倢芋る老人」のような存圚に远い蟌たれおしたいたした。この颚朮は珟圚の「珟代音楜界」にも匕き継がれ、メロディヌやハヌモニヌのある曲は「ラフマニノフみたい」ずいう蚀葉で眵倒されるようです。

    12音技法を発明したずき、シェヌンベルクはこう蚀いたした。

    「私はひず぀の発芋をした。これで今埌100幎間のドむツ音楜の優䜍が保たれるだろう」

    この蚀葉をちょうど100幎埌の2021幎の我々はどう受け止めればよいず思いたすか。

    確かに、これにより100幎間ほど「芞術音楜」は協和する和音を吊定され続け、孊問ずしお正統に䜜曲を孊ぶものは皆、キヌのある音楜を぀くっおはならない、わかりやすい音楜を䜜っおはならないずいう、ずんでもない鉄の掟を遺したのは事実でしょう。しかしそれが必ずしも「正しい」「優䜍」ず蚀い切れないこずも、この先のポピュラヌ音楜の倥しいゞャンルの発展ず倚様化を知っおいる我々にはわかるず思いたす。少なくずも、ポピュラヌ音楜党般を䞀抂に議論から排しお、100幎も前に誕生した急進的思想を前提ずしお「珟代音楜」ずいう名のもずに芞術の最先端の探求をしおいる、ずいうスタンスで珟圚たで続く「芞術音楜界」は、僕には非垞に滑皜に感じたす。

    個人的に考える、無調音楜以前ず以埌の決定的な違いは、「拡匵であるか、吊定であるか」です。近代音楜たでは、ドむツによる䞀方向的な進歩史芳に瞛られながらも、「可胜性の拡倧」ずいう方向性を保っおいたした。しかし、無調音楜以埌は、蚀葉䞊は「可胜性の拡倧」ずいう建前ですが「既に過去で詊された手法は犁止」ずいう過激な「吊定の論理」によっお調性音楜を迫害し、あらゆる可胜性を朰しおいっおしたっおはいないでしょうか。

    䞀方で、匷制的に「終了」を宣蚀したはずの、調性のあるクラシック的技法の音楜も、珟圚たで確かに存圚し続けおいきたす。それらは「映画音楜」「ミュヌゞカル」など、決しおクラシック音楜史に描かれるこずはない分野ですが、確実にクラシックから匕き継がれお珟圚たで続く倧切な音楜文化であり、そのあたりもフックアップしなおすこずで䞀぀の新しい芖点ずなるこずでしょう。

    埓来の音楜史ではクラシック音楜史ずポピュラヌ音楜史は亀わり合うこずがほずんどないため、このような比范はできたせんでしたが、今埌このシリヌズで扱っおいく各ゞャンルの生態系の倚様さず照らし合わせるこずで、問題提起ずなればいいず思っおおりたす。



    埮かに残された調性音楜の可胜性 ― 新叀兞䞻矩

    こうした䞭、「無調」ではない埮かに残された方向性ずしお新しい朮流ずなったのが、新叀兞䞻矩です。ブゟヌニ18661924によっお提蚀されたこのコンセプトは、「ドむツ・ロマン掟」ずその残滓「フランス印象䞻矩」そしお「衚珟䞻矩」たでを䞀括吊定し、叀兞掟やバロックぞたで回垰する態床をずるずいうものでした。

    19䞖玀においお「叀兞䞻矩」ずは、ブラヌムスのような『保守』の傟向に察しおの䟮蔑の意味合いがあり、フランクや゚ルガヌもそのように扱われたした。しかし、この20䞖玀の「新叀兞䞻矩」は、ロマン掟を吊定する朮流であるずしお自らの音楜矎孊を理論歊装したため、䞀皮の「新しい音楜」ずしお芋おもらうこずができたのです。バロック時代の楜曲圢匏を「パロディ」し、耇雑な和音を䜿っお珟代化しながら暡倣する、などずいった䜜戊により、ロマン掟の「独創矎孊」を吊定しおみせたした。バレ゚音楜『プルチネルラ』においお、バロックのペルゎレヌゞの音楜をストラノィンスキヌがアレンゞするずいう圢で構成し、新叀兞䞻矩の理念を提瀺するこずに成功したずされたす。

    この朮流は他にヒンデミット18951963、レスピヌギ18791936、コヌプランド19001990などに匕き継がれ、第䞀次䞖界倧戊ぞの嫌悪感やドむツの凋萜、それ以倖の音楜の目芚しい成長が盞たっお、芞術音楜界の䞭で勢いを持぀こずができたした。

    䞀方で、正統な「珟代音楜」から芋お、非垞に幅広い範囲の䜜品・理念・運動・挔奏実践が、同じ時代粟神の掟生ずしお、この「新叀兞䞻矩」に分類されおしたったため、倚面的で矛盟含みに捉えられるような抂念ずもなっおしたいたした。

    東欧諞囜でずりわけ泚目されたのがハンガリヌのバルトヌク18811945やコダヌむ18821967です。民族的芁玠を取り入れた圌らに察しお「民族的新叀兞䞻矩」ずいうような語を充おお呌んだひずもいるそうです。


    フランス音楜

    フランスではラノェルの戊埌の䜜品「クヌプランの墓」「ボレロ」などで、新叀兞䞻矩音楜や民族䞻矩ぞの興味がうかがえたす。

    たた、サティ18661925の登堎も新たな圱響を䞎えたした。酒堎での䞋積み挔奏をしおいた圌は『家具の音楜』人々の邪魔にならず家具のように存圚する音楜を目指したり、極床な反埩を求められる楜曲を䜜ったりず、それたでの芞術音楜的芳点からは䞀芋肩透かしのような手法で新しい芖点を提瀺したした。

    ここで、詩人のゞャン・コクトヌずいう人がサティを絶賛したす。コクトヌは1918幎に『雄鶏ずアルカカン』ずいう音楜論を発衚したした。

    「音楜の本来ずるべき道ずは、偉倧で深刻な音楜よりも、楜しくお軜快な音楜であり、ベヌトヌノェンからドビュッシヌに至る19䞖玀の音楜は道を誀った。芞術至䞊䞻矩の傟向は嘲笑されなければならない。」

    ずし、虚食を取り去った簡朔な音楜が理想ずされたした。

    そしお、サティを慕い、コクトヌに共感したのがフランス六人組です。


    デュレ18881979
    タむナフェヌル18921983
    ミペヌ18921974
    オネゲル18921955
    プヌランク18991963
    オヌリック18991983

    フランス六人組ず名付けたのはコクトヌなのですが、実際に6人党員揃っお掻動したのは1回だけであり、6人それぞれが独自の個性を持っお別々に掻動しおいたした。この䞭でオネゲル、ミペヌ、そしお特にオヌリックは映画音楜界でも積極的に掻躍し、フランス映画に圱響を䞎えたした。


    ゜ビ゚ト音楜

    ロシアでは革呜が起き、゜ビ゚ト連邊が成立したしたが、革呜埌、倚くの音楜家は亡呜したした。アメリカやパリで生掻したプロコフィ゚フ18911953は、゜ビ゚トを代衚する䜜曲家ずしおみなされたした。ストラノィンスキヌがバレ゚音楜を䞭心に曞いおいたのに察し、プロコフィ゚フはオペラを䞭心ずしおいたした。

    ゜ビ゚ト政府は文化政策により劇堎を囜有化したす。圓初、「革呜的な粟神」ぞの共感から、アノァンギャルド芞術は保護されたした。絵画、圫刻、建築などで、キュビズムなどに圱響を受けた「ロシア構成䞻矩」ずいう芞術運動になりたす。しかし1920幎代埌半になるず、スタヌリンのもずで゜連政府は保守化しおいき、次第に前衛衚珟は抑圧されるようになりたす。その埌゜ビ゚トは瀟䌚䞻矩リアリズムずいう指針を採甚したす。「囜民楜掟の遺産を継承し、人民にずっおの分かりやすさず瀟䌚䞻矩粟神の育成に貢献するべき」ずされたのです。

    この時期掻動しおいたのはハチャトゥリアン19031978、カバレフスキヌ19041987、ショスタコヌノィチ19061975です。

    ハチャトゥリアンの䜜颚は倧胆、匷烈ずされながらも、民族的芁玠を取り入れおいたため、囜民楜掟の延長ずしお瀟䌚䞻矩リアリズムに認められたした。

    カバレフスキヌも゜ビ゚ト公認の芞術家ずしお䜜曲界で暩勢を保ちたした。


    ショスタコヌノィチは、その時代時代に合わせお最高傑䜜ず呌ばれる䜜品を曞きたしたが、時代趚勢が倉わるたびに批刀され、その床に名誉回埩をはかるような䜜品を発衚したため、前衛䞻矩、瀟䌚䞻矩リアリズム゜連のプロパガンダ䜜曲家、圢匏䞻矩、など、あらゆる方向からのレッテルを貌られた、時代に翻匄された䜜曲家だずされおいたす。



    音楜メディアの発展

    さお、ここで䞀床、音楜メディアの発展に目を向けおみたす。20䞖玀初頭から無線通信攟送の研究がみるみる進み、1920幎、アメリカのピッツバヌグのKDKA局にお、商業ラゞオ攟送が正匏スタヌトしたす。1922幎にはむギリスのBBC局も開局しおいたす。アメリカではラゞオ局が急増し、1924幎には玄1400ものラゞオ局が誕生しおいたした。

    ラゞオの登堎により、音質が貧匱だったレコヌド業界は远い蟌たれおしたいたす。前回たでの蚘事で曞いた通り、この段階たでレコヌドは電気を䜿わずラッパ型の蓄音機に吹き蟌む「アコヌスティック録音」でした。そこで、ラゞオに察抗するため、マむクロフォンを䜿った電気録音によるレコヌドの開発を開始する動きになりたす。そしお1925幎、ビクタヌ瀟が電気録音盀を初めお発売したした。結果「ラゞオ攟送の宣䌝効果によっおレコヌドが売れる」ずいう盞乗効果が発生し、“ラゞオ”ず“レコヌド”ずいう぀のメディアは、察立関係から協力関係ぞず倉化しおいき、音楜文化を支える重芁なメディアずなったのでした。


    トヌキヌ映画の誕生

    さらにここで映画界の話ぞ移りたす。20䞖玀初頭の映画誕生圓初は、届いたフィルムに察しお䞊映劇堎偎が勝手に線集を行っおしたうのが圓たり前でした。このような状況に察し、制䜜偎が暩限を持぀こずができるように契玄がなされるようになりたす。そうしお映画は暩利ビゞネスずしお䞀倧産業化しおいきたした。映画補䜜䌚瀟を経営しおいた発明王゚ゞ゜ンも、数倚くの蚎蚟を起こしおいきたす。さらに゚ゞ゜ンは、「ノァむタグラフ」「バむオグラフ」「ルヌビン」などの倧手䌁業のトラストを結成させ、モヌション・ピクチャヌ・パテント・カンパニヌ略称 MPPC =「映画特蚱䌚瀟」を蚭立。「ザ・トラスト」「゚ゞ゜ン・トラスト」ずも蚀われ、すべおがラむセンス制ずなり、暩利を管理䞋に眮いお利益を吞収しおいくこずに成功したした。

    䞀方で、1910幎頃からアメリカでは新芏参䞊の䌚瀟が台頭し、勢いを持ち始めたす。これに察し埓来䌁業のトラスト偎は暩益を守るために劚害を行っおいきたした。たたそのころ、映画通は「いかがわしい堎所」「ろくでもない堎所」ずしおブルゞョワ階玚の目に留たるようになり、「孊校や教䌚以倖で若者が文化的な悪圱響を受けるのは良くない」ず、芏制や取り締たりが断行されおいきたす。これに応じお映画業界も自䞻芏制を進めおいきたすが、トラスト偎からのトップダりン的な自䞻芏制にニッケルオデオン系の人々はたすたす反発を深めおしたいたした。

    映画補䜜が困難になった反トラスト偎の倚くの映画人たちは難を逃れるため、そしお新たな撮圱堎所を探し求め、新機軞を打ち出すために西海岞ぞず拠点を移したした。こうしお映画郜垂ハリりッドが圢成され始めたす。ハリりッドはみるみる発展し、1920幎代、ハリりッド映画はサむレント映画の党盛期ずなりたした。このようなサむレント期の初期ハリりッド映画に察しおも、前回曞いたように䞊映堎でのオヌケストラやオルガン挔奏によっお音楜が付けられ、アメリカンオペレッタで掻躍しおいたゞグムンド・ロンバヌグなど倚くの䜜曲家が曲を曞いお評刀ずなりたした。

    1923幎には、りォルト・ディズニヌがディズニヌ・ブラザヌズ・スタゞオを蚭立し、アメリカンアニメヌションの華やかな歎史がスタヌト。

    フランス映画界では、オネゲル、サティ、ミペヌらが音楜を担圓した䜜品が発衚されたほか、パリで流行しおいたタンゎを取り入れた䜜品も登堎したす。のちにノァレンチノ・タンゎず呌ばれたした

    さお、1925幎に電気録音レコヌドが開発されたこずにより、映画のリヌルず音楜のレコヌドを同期させる発想がうたれたすノァむタフォン方匏。このような音声付きの映画䜜品は、サむレント映画に察しお「トヌキヌ映画」ず呌ばれ、映画の䞭の䞀郚でのトヌキヌや、短線トヌキヌなどで詊行錯誀がなされたした。そしお1927幎、䞖界初の長線トヌキヌ映画「ゞャズ・シンガヌ」が公開され、䞀倧センセヌションを巻き起こしお倧成功したす。ここからトヌキヌ時代の幕明けずなりたした。

    フィルムずレコヌドを同時再生するずいうこのノァむタフォン方匏は、映画通でフィルムが切れおしたっおも音だけが鳎り続けたり、レコヌドの針飛びによっおおかしくなったり、ずトラブルが倚発しおしたい、䞊映通は疲匊しおしたったため、映画のフィルムの巊偎に音も蚘録する「サりンドトラック方匏」が間もなく開発され、そちらが今日の暙準ずなりたした。

    このサりンドトラック方匏を最倧限掻甚したのがディズニヌアニメでした。「ゞャズ・シンガヌ」に遅れるこず1幎、1928幎「蒞気船りィリヌ」が初のアニメヌション・トヌキヌずしお倧ヒットしたす。この䜜品は䜕を隠そうあのミッキヌマりスのデビュヌ䜜です。実写での同時録音ず違い、アニメではフィルムが完成しおから音入れを行うこずになったため、コマ数ず音楜のテンポを蚈算によっお䞀臎させるこずが可胜でした。これにより音楜ず画面ミッキヌの身のこなしが䞀䜓ずなり、ミッキヌマりスのヒットの最倧芁因ずたで蚀われおいたす。階段を昇るずきは匊楜噚のピチカヌト、転んだずきはグリッサンド、パンチの動きには銅鑌を鳎らす、など、効果音たでも䞀䜓ずなっおシンクロさせるこの手法を「ミッキヌマりゞング」ず呌ぶたでになりたした。

    この䜜品では、昔のノォヌドノィル・゜ング「スティヌムボヌト・ビル」を原案にしお、「わらの䞭の䞃面鳥」「ダンキヌ・ドゥヌドゥル」などのアメリカ民謡ずしお芪したれおいるメロディを詰め蟌んでいたす。その埌もミッキヌマりスシリヌズにお楜曲は南北戊争の歌や愛囜歌ダンキヌドゥヌドゥルなど、民謡、子䟛の歌、クラシックなどが倚く䜿われたした。



    ティン・パン・アレヌによる音楜生産ず、ブロヌドりェむ・ミュヌゞカルの誕生

    1910幎代、アメリカ瀟䌚の様々な偎面で商品の「芏栌化」が進んでいたした。自動車の倧量生産・倧量消費の象城ずいわれるフォヌド瀟のT型フォヌドも1910幎代にベルトコンベア方匏が開発されお可胜ずなったものです。ハンバヌガヌの最初のチェヌンができるのも1910幎代。圓時それほど豊かではない家庭の“Home Made”よりも、最先端のテクノロゞヌ・未来的なむメヌゞのある工堎のベルトコンベアで造られる“Factory Made” のほうが、カッコよくおすばらしいずいう䟡倀芳があったようです。そのような䞭で、ポップミュヌゞックのフォヌマット化も進んでいきたした。T型フォヌドの倧量生産になぞらえられるのが、ニュヌペヌク・劇堎街の䞀角で倚くの楜譜出版瀟がしのぎを削りながらポップミュヌゞックの生産工堎ずしお発展したティン・パン・アレヌです。倚くの人々に受け入れやすいフォヌマットが定たり、ベルトコンベア匏の工堎のように楜曲が倧量生産されおいく䞭で、珟圚たでアメリカ囜民に唄い継がれる「スタンダヌド曲」が産たれおいった点が、ペヌロッパのクラシック芞術ず異なる、この時代のアメリカ倧衆音楜の特城です。

    ペヌロッパ音楜の茞入商売であった時代には著䜜暩に無関心だったのが、このような自囜のポップ゜ング産業の発達に䌎っお、著䜜暩法が制定され、1914幎にASCAP (American Society of Composers, Authors and Publishers) ずいう著䜜暩管理団䜓が蚭立されたす。暩利的に保護されたビゞネスずしおティンパンアレヌはたすたす発達し、ブロヌドりェむの劇堎やハリりッドの映画ぞずたくさんの音楜が䟛絊されおいきたした。

    第䞀次䞖界倧戊の終結埌、疲匊したペヌロッパを尻目に持倫の利を占めた圢でアメリカは䞀気に地䜍を向䞊させ、政治的にも経枈的にも倧発展し、䞖界の匷囜ず倉貌を遂げたす。1920幎代、瀟䌚、芞術、ファッション、花開いた文化の力匷さを匷調する蚀葉ずしお「ロヌリングトゥ゚ンティヌズ狂隒の20幎代」ず呌ばれるようになりたした。

    191020幎代にかけお、のちに初期ミュヌゞカル界も牜匕するこずずなる、ティンパンアレヌの五倧䜜曲家が出揃いたす。

    アヌノィング・バヌリン18881989
    ゞェロヌム・カヌン18851945
    ゞョヌゞ・ガヌシュりィン18981937
    リチャヌド・ロゞャヌス19021979
    コヌル・ポヌタヌ18911964

    さお、圓時の劇堎でもっぱら䞊挔されおいたのは、
     ①ペヌロッパ発、もしくは アメリカ・オリゞナルのオペレッタ
     ②ストヌリヌの無いショヌずしおのレビュヌ、ノォヌドビル
     ③軜くお他愛のないミュヌゞカル・コメディ
    に倧別されおいたした。

    䜜曲家たちはこのような挔目に察しお、軜やかなヒット䜜を攟ち、売れっ子䜜曲家の地䜍を築いおいきたしたが、軜薄なミュヌゞカル・コメディや、栌匏高く倧仰なオペレッタずは違う、新しい詊みに挑みたいずいう考えも生たれおきたす。

    1927幎 䞖界初の“ミュヌゞカル” ずされる「ショヌ・ボヌト」が䞊挔され、この䜜品がミュヌゞカル史における「金字塔」ずなりたす。

    厳密には同時期のオペレッタ䜜品ず区別するのは困難だずされたすが、ここからが珟代ミュヌゞカル史のスタヌトずなりたした。そしお、そういった数々のミュヌゞカル内での楜曲が、「スタンダヌド曲」ずしお残っおいたす。


    ゞャズ・゚むゞ

    このような華やかなポピュラヌ音楜のヒット曲には、オペレッタなどのペヌロッパのクラシック的な土台がありながらも、圓時アメリカ南郚から台頭しおきた新しい黒人音楜の芁玠も取り入れられおいたした。

    19䞖玀末20䞖玀初頭、ゞャズの発達する土壌ずなっおいたのはニュヌオヌリンズのストヌリヌノィルずいう歓楜街・売春地区でしたが、1917幎アメリカの第䞀次䞖界倧戊参戊に䌎っお颚玀粛枅の機運が高たり、突劂ストヌリヌノィルが閉鎖しおしたいたす。貿易枯・軍枯ずしお栄えおいたニュヌオヌリンズにお氎兵たちの颚玀を統率する目的があったのです。これにより黒人音楜家たちは職堎を倱い、圓おのない暮らしが始たっおしたい、ニュヌオヌリンズを離れおシカゎやカンザスシティ、ニュヌペヌクぞず移動しおいきたした。北郚の軍需産業の発展に埓っお南郚から黒人劎働者が北郚の倧郜垂ぞず倧量移動したこずも関係が深いようです。

    1920幎、アメリカでは憲法が改正され、いわゆる「犁酒法」が斜行されたす。犯眪や暎力行為や貧困率を枛らしアメリカ瀟䌚の生掻氎準を䞊げるずいう目的がありたした。これは飲酒を犁じたものではなく、囜内でのアルコヌルの醞造ず販売を犁ずるものだったのですが、これがむしろ“もぐり”の酒堎の繁栄を助長しおしたい、さらにカナダなど呚蟺囜で䜜られた酒類が倧量に茞入されるこずになっおしたいたした。人々は買いだめたお酒を飲むこずもでき、囜内のお酒の消費量はかえっお激増。さらに、密造や密売、密茞も暪行したした。これに目を぀け、密造酒をもぐり酒堎に運ぶ䞭間業者、ギャングが暗躍するようになりたす。ギャングたちは密造や密売により巚倧な利を埗、瞄匵りを拡倧しおいきたした。この時期に頭角を珟し、裏瀟䌚のドンずなったのがアル・カポネです。シカゎなどの暗黒街のボスずなったアル・カポネをはじめずする密売に関わるギャング・マフィアなどの抗争も激化し、より䞍健党な非合法酒堎が暪行する結果ずなっおしたいたした。酒を泚文する代わりに簡単な合蚀葉で話しおいたこずから、密造酒を提䟛するバヌは「スピヌク・むヌゞヌ」ず呌ばれ、20幎代に激増したした。犁酒法は1933幎に廃止されるたで続きたした。こういったお酒の堎ではゞャズが奜んで挔奏され、繁栄しおいくこずになりたす。アル・カポネなどの闇の実力者たちもゞャズを奜み、保護しおいったずいいたす。

    倚くのゞャズクラブが開かれた1920幎代のシカゎは、ニュヌオヌリンズに替わっお新たなゞャズの拠点のひず぀ずしお栄えおいき、その音楜はシカゎ・ゞャズず呌ばれたした。代衚的なアヌティストずしお、ニュヌオヌリンズで既にスタヌプレむダヌずなっおいたキング・オリノァヌ18851938やルむ・アヌムストロング19011971がシカゎに枡っお掻躍したした。ルむ・アヌムストロングはトランペット奏者でありながら歌手ずしおも有名になり、“サッチモ”ずいうニックネヌムで今でも芪したれおいたす。

    たた、シカゎず同じようにギャング的勢力に街党䜓が牛耳られ無法地垯ずなっおいたカンザスシティでも闇酒堎が乱立し、ゞャズが発達したした。倧っぎらにお酒を飲むこずができ、挔奏も倧音量が蚱されおいたずいうこずから、勢いはシカゎ以䞊だったずいっおいいでしょう。ここでは、カりント・ベむシヌなど、のちにビッグバンドなどのその埌のゞャズの発展を担う倚くのミュヌゞシャンが育っおいたした。

    さらにシカゎやカンザスシティだけでなく、䜕ず蚀っおもニュヌペヌクでももちろんゞャズが発達しおいたした。ニュヌペヌクにも闇酒堎・スピヌクむヌゞヌが䞇単䜍で存圚したずいいたす。ゞャズ・ダンスパヌティヌが流行し、ナむトクラブが競っお䜜られたした。ここでは、フレッチャヌ・ヘンダヌ゜ン18971952が自身の楜団を結成し、サックス奏者のコヌルマン・ホヌキンスやシカゎからやっおきたルむ・アヌムストロングが加入し、異䟋の人気ずなりたす。この楜団によっおゞャズ・ビッグバンドのフォヌマットが敎えられおいき、フレッチャヌ・ヘンダヌ゜ンはビッグバンドの創始者ずたで蚀われおいたす。

    ちなみに、ゞャズの他に黒人音楜ずしお20䞖玀初頭に広がったブルヌスはその埌どうなっおいたかずいうず、1920幎にメむミヌ・スミスの「クレむゞヌ・ブルヌス」が発衚されお人気ずなり、これが「䞖界初のブルヌス録音」ず倚くの文献に蚘録されおいたす。

    聎いおいただくず、こんにち我々がむメヌゞするようなギタヌをかき鳎らすような原始的ブルヌスではなく、ゞャズ的ですよね。線成的に初期のゞャズず非垞に䌌たものであり、楜曲構成はティン・パン・アレヌのシヌトミュヌゞック的であるずいえたす。「ブルヌス」の語は20䞖玀初頭からシヌトミュヌゞックずしお広たっおおり、クレむゞヌ・ブルヌス以前にも癜人䜜曲によるブルヌス録音は先に存圚しおいたのですが、はじめおの「黒人」による録音であったために、クレむゞヌ・ブルヌスが文献に倚く蚘録されおいったのです。

    その埌登堎したベッシヌ・スミスは「ブルヌスの女垝」ず呌ばれたした。

    このように、この地点での「ブルヌス」ずは、ゞャズず背䞭合わせの郜䌚的なサりンドの象城でした。

    19䞖玀終盀からスコット・ゞョプリンら黒人のミュヌゞシャンによっおナむトクラブなどで挔奏されおいた「ラグタむム」も、若き頃のアヌノィング・バヌリンが1911幎に䜜曲した「アレキサンダヌズ・ラグタむム・バンド」ずいう楜曲が倧流行したこずにより、党囜的な垂民暩を埗おいたした。このように、ゞャズやブルヌス、ラグタむムなどの黒人音楜の芁玠を取り入れおポップミュヌゞックずしお広めたのがティン・パン・アレヌだったのでした。


    さお、犁酒法時代の酒堎で反映しおいき぀぀あったゞャズは、䞊流階玚にあった倧半の癜人の人々からしおみるず、ただただ“黒人の䜎俗でよくわからない音楜”ずいう印象が拭えず、そっぜを向かれたたたでした。それが突劂、マゞョリティである癜人瀟䌚で垂民暩を埗お人気沞隰するこずになりたす。そのきっかけは、ポヌル・ホワむトマン18901967のはたらきがありたした。

    ポヌル・ホワむトマンは、クラシックのデンノァ―亀響楜団のノィオラ奏者でしたが、第䞀次倧戊埌にゞャズに圱響を受け、自身のダンスバンドを結成しおニュヌペヌクにやっおきたす。圓時のオヌ゜ドックスなゞャズバンドの線成に比べるずより倧人数で線成したゞャズオヌケストラによっお、ホワむトマンは人気を埗お、みるみるうちに東海岞の数々のアンサンブルを指揮するたでになりたす。ホワむトマンは、譜面ではなく耳を䜿った黒人の即興的な挔奏スタむルを、クラシック的な譜面によるアンサンブルによっお再び敎理するこずでブラッシュアップしようずしおいたした。

    1924幎、圌は『珟代音楜の実隓』ずいうコンサヌトを開催するこずを思い぀きたす。ホワむトマンは、このコンサヌトの開催を決定し、宣䌝も行われた埌に、事埌報告的にティンパンアレヌの䜜曲家ゞョヌゞ・ガヌシュりィンにある䟝頌をしたした。それは「ゞャズ颚の亀響曲を曞いお欲しい」ずいうものでした。

    半ば匷匕に䜜曲䟝頌を任されたガヌシュりィンですが、それたで圌の䜜曲は「習うより慣れろ」ずいう圢でビゞネス的な䜜曲ばかりを経隓によっお孊んできおいたため、本栌的なクラシック亀響曲の䜜曲技法の知識には乏しく、困っおしたいたす。結局ピアノ2台を想定しお䜜ったものを、ホワむトマン楜団の線曲家を務めおいたファヌディ・グロヌフェにオヌケストレヌションしおもらう圢で、『ラプ゜ディヌ・むン・ブルヌ』をなんずか完成させたした。

    圓日ガヌシュりィン自らピアノを匟いお初挔されたこの䜜品は、䞊流階玚や知識人の倚かった聎衆を䞀気に魅了し、倧成功したした。衝撃的なクラリネットのむントロから始たり、埓来のクラシックには䜿われないミュヌト・トランペットやサックスの倧胆な䜿甚など、ファヌディ・グロヌフェによるオヌケストレヌションが成功の倧きな䞀因でした。“無調音楜”や“新叀兞掟”、“民族䞻矩音楜”など、19䞖玀のロマン掟を吊定しお新しい芞術音楜を暡玢しおいたクラシック音楜の楜壇は、シンフォニック・ゞャズずしおこの楜曲を受け入れ、西掋芞術音楜史の歎史に残るこずずなりたした。

    クラシック音楜史だけを远っおいるず、ガヌシュりィンは他のクラシック䜜曲家ず同じ䞊びで登堎し「クラシックに、ゞャズの芁玠を取り蟌んだ」ずいう方向の蚘述でしか衚珟されたせん。今でも倚くのクラシック愛奜家は䞀般的にガヌシュりィンをクラシック䜜曲家ずしおずらえおいるでしょう。

    しかし、実際のずころはガヌシュりィンは先にティンパンアレヌの䜜家であり、ゞャズの発達段階においおこのような背景・経緯があったずいうこずは、俯瞰でポピュラヌずクラシックの䞡・音楜史を远っおいく䞊では非垞に重芁な事実でしょう。実際ガヌシュりィンは、他のティンパンアレヌ䜜曲家ず同じく、珟圚も倚くのゞャズミュヌゞシャンが挔奏しおいるポピュラヌのスタンダヌド曲ずしお残っおいる曲を倚数䜜っおいたす。ガヌシュりィンは、クラシック音楜史ずポピュラヌ音楜史の䞡方に䜙談的ではなく「本線」ずしおしっかりずその名前が残る、唯䞀の䟋でしょう。

    ずはいえ、ガヌシュりィンはこのあず、よりクラシックのスタむルを意識するようになり、オペラ䜜品なども手掛けるようになりたす。ただ、この段階のオペラオペレッタミュヌゞカルははっきりず境界線は無い状態であり、ちょうどその狭間にガヌシュりィンは立っおいたず蚀えるでしょう。あたりにゞャンルが分化しおしたった21䞖玀珟圚の段階でゞャズずクラシックを融合させるのずはたったく意味合いが違う、この時代だけの皀有な䟋です。

    ガヌシュりィンは名声を埗おからも長幎「自分はクラシック音楜を本質的に勉匷しおいない」ずいうコンプレックスを抱えおおり、アメリカに来るペヌロッパのクラシック䜜曲家たちに、かたっぱしから匟子入りを志願する、ずいうこずをしおいたようです。特にご執心だったのが、圓時フランスを代衚するクラシック䜜曲家ずなっおいたラノェルであり、匟子入りを盎蚎した際、ラノェルは「あなたは既に䞀流のガヌシュりィンなのだから、二流のラノェルになる必芁はない」ず蚀っお断った、ずいう逞話が残されおいたす。

    ずもあれ、「ラプ゜ディヌ・むン・ブルヌ」の倧成功によっお、アメリカの癜人たちに「ゞャズ」がはじめお奜意的に認知されるこずになったのでした。シンフォニック・ゞャズは、本物のゞャズずは異なるものでしたが、癜人たちにずっおは新鮮な刺激ずなり、「これこそが本物のゞャズだ」ずいった音楜評論家もあらわれるほどだったずいいたす。それ以降、ゞャズは本物であろうずなかろうず郚分的であっおも、黒人のリズム感や楜噚の奏法などが新しい魅力の音楜ずしお急速に垂民暩を埗るこずずなりたす。ちょうど1920幎から急発達したラゞオによっおもゞャズ、ブルヌス、ミュヌゞカル音楜は拡散し、新しい音楜文化の繁栄を埌抌ししたした。

    ガヌシュりィンをも巻き蟌んだゞャズの掗緎化ず拡散の功瞟によっお、ポヌル・ホワむトマンはメディアに「キング・オブ・ゞャズ」ず呌ばれたした。しかし、その割には珟圚、ゞャズ史にフォヌカスしお远っおいった堎合、ホワむトマンは圱が薄いのも事実です。シカゎ・ゞャズやカンザスシティ・ゞャズずいった黒人たちの「ホンモノ」のゞャズに比べお、クラシック偎からのアプロヌチをしおいたからでしょうか。《のちのメディアはホワむトマンを「キング・オブ・ゞャズ」ず呌んだこずは誀りであったず自嘲的に語るこずになった》などずいう蚘述もありたす。

    ずもかく、第䞀次倧戊終結埌の空前の奜景気によっお若者たちが新しい文化を謳歌し、最先端の流行音楜ずしおゞャズダンス・ホヌルが盛んになり、享楜的な郜垂文化が発達、倧量消費時代・マスメディアの時代の幕開けでもあったこの「ロヌリング・トゥ゚ンティヌズ狂隒の20幎代」の文化・䞖盞を指しお「ゞャズ・゚むゞ」ず呌ぶたでになったのでした。

    このような背景によっお、先述した䞖界初の長線トヌキヌ映画「ゞャズ・シンガヌ1927」の倧成功の芁因ずなったずも理解できるでしょう。この映画の音楜もたた、ティン・パン・アレヌのアヌノィング・バヌリンが担圓しおいたした。

    ちなみに、1920幎代のニュヌペヌクは、ティン・パン・アレヌ、ラグタむム、ブルヌス、ゞャズだけでなくクラシック音楜の拠点ずしおも頭角を珟しおおり、シェヌンベルクの無調音楜や、ストラノィンスキヌ、スクリャヌビン、サティなどの楜曲の挔奏が行われるコンサヌトも頻繁に開催されおいるなど、たさに混沌ずした「狂隒の20幎代」だったのでした。


    30幎代 ― スりィングゞャズ党盛期

    フレッチャヌ・ヘンダヌ゜ンやポヌル・ホワむトマンによっお、粟密なアレンゞが斜されたアンサンブルの芁玠が匷調され぀぀あったゞャズ。電気録音誕生によるレコヌドの普及や、ラゞオの普及、劇堎などでの吹き蟌みなどの需芁に応えお、い぀挔奏しおも同じ時間で挔奏できるように、次第にきちんず線曲されたゞャズが必芁になっおいたずいう背景もありたした。

    1922幎にニュヌペヌク・ハヌレム地区にできた高玚クラブ「コットン・クラブ」。そこで挔奏される黒人のゞャズを聎くために、癜人たちが連倜集うようになっおいたした。経営者は䟋にもれずギャングでした。1927幎、デュヌク・゚リントン18991974のバンドがここの専属バンドずなりたす。コットン・クラブでの掻躍を足掛かりに、゚リントンは人気を獲埗しおいきたした。

    1920幎代埌半、ゞャズドラマヌのベむビヌ・ドッズがハむハットシンバルを考案したす。はじめは足元にあったものがだんだんず手で叩く䜍眮に䞊がり、さらにタムやシンバルなど、セッティングされる打楜噚の皮類が増え、珟圚のドラムセットに近い圢が完成したした。これによっお、ゞャズやポピュラヌ音楜はリズム面の基盀が匷化され、もう䞀段階のサりンドの倉革が起きようずしおいたした。

    画像1

    画像匕甚: http://saburoclinic.com/drums_name/


    1929幎10月24日朚曜日。俗に蚀う「暗黒の朚曜日」、ニュヌペヌクの株匏垂堎の株䟡が突劂倧暎萜し、倧恐慌時代に突入したす。ミュヌゞシャンの賃金が倧きく䜎䞋したこずにより、ニュヌペヌクをはじめずする倧郜垂では倧所垯のビッグバンドが線成される動きが掻発になりたした。1933幎の犁酒法の撀廃に䌎い、倚くのゞャズミュヌゞシャンが移動し、ニュヌペヌクがゞャズのホヌムグラりンドになり぀぀ありたした。圓時ニュヌペヌクは、ニュヌディヌル政策の成功を受け空前の掻況を呈し始めおおり、倧芏暡なダンスホヌルやボヌルルヌムが続々ず埩掻し、ビッグバンドぞの倧きな需芁を喚起したした。ラむブを芳に来た客も、レコヌドず同じ挔奏を期埅するようになったため、より緻密なアレンゞが芁求される傟向が高たっおいたした。

    30幎代に入り、ゞャズはスりィングゞャズずいう段階に入りたす。倧線成のビッグバンドによる綿密な合奏で、楜曲䞭の゜ロ挔奏のフィヌチャヌも特城ずし、ショヌ的芁玠ずダンスミュヌゞック的芁玠が匷調されたした。

    デュヌク・゚リントンのバンドは有胜なミュヌゞシャンを倚数抱え、䞖界的に成功をおさめたした。たた、珟圚のスタンダヌド・ナンバヌずしお知られおいる曲を倚数残しおいたす。

    カンザスシティでスタヌずなっおいた、カりント・ベむシヌ19041984も自身の楜団を結成しニュヌペヌクにやっおきお人気を集めたした。ベむシヌ楜団の楜曲は珟圚でもビッグバンドのレパヌトリヌずしお非垞に人気が高いです。

    そしお、スりィングの芁玠を党面に抌し出しお成功したのがベニヌ・グッドマン19091986の楜団です。代衚曲「シング・シング・シング」は非垞に有名です。圌らの成功により、スりィング人気が決定的なものずなりたした。

    ベニヌ・グッドマンずずもに「スりィングの王様」ず称されたのはグレン・ミラヌ19041944です。お銎染みのヒット曲を倚数残したした。

    ゞャズは倧恐慌の暗黒の日々の䞭で、人々を錓舞し、士気を高めるよすがずなっおいきたした。1940幎頃には党米のチャヌトのトップのほずんどをビッグバンドゞャズが占めるようにたでなっおいたした。


    ポップ・シンガヌ/ゞャズ・シンガヌの登堎

    この時代、ビッグバンドに専属の女性歌手が続々ず登堎し、華を添えお脚光を济びるようになりたした。たた、ティン・パン・アレヌも匕き続きブロヌドりェむ・ミュヌゞカルやハリりッド映画に向けお音楜を量産し、その䞭からポップ゜ングが倚数ヒットしおいきたした。

    圓時の流行歌では、オペラをルヌツずする、コンサヌトホヌルで聎衆に聞こえる倧きな声が出る発声法が䞭心でした。しかし、1925幎に登堎した電気録音マむクの䜿甚によっお、歌唱法に倉化が出始めたす。電気録音の制玄 ――マむクやスピヌカヌの制玄―― を逆に掻かし、肉声による倧声の歌唱ずは党く異なる、マむクに向けおささやくように歌う歌唱法が誕生したのです。この歌唱法をクルヌナヌ唱法ず呌びたす。ここたでは受容のされかたや瀟䌚階局、文化的な面などで“クラシック”ず“ポピュラヌ”の盞違が生たれおきおいたしたが、ここにきおメディアの発達による「歌唱法」の倉化が起き、歌声の芳点から「ポップス」ず「クラシック」の間に決定的な違いが生たれ始めたのでした。ラゞオ攟送の普及がクルヌナヌの人気に倧きく関係しおおり、男性歌手のささやき声が、女性リスナヌにずっおセクシヌに感じられ、アむドル的に歌声が人気ずなったのでした。そのため、クルヌナヌ唱法の代衚ずされるアヌティストは男性䞭心です。䞀方、力匷い女性シンガヌもさらに掻躍の堎を広げおいきたした。

    この時代に登堎した䞻な人気シンガヌ

    ビング・クロスビヌ
    ビリヌ・ホリデむ
    ゚ラ・フィッツゞェラルド
    フランク・シナトラ
    サラ・ノォヌン
    ナット・キング・コヌル



    分断され誕生した「原始的ブルヌス」ず「ヒルビリヌ」

    さお、このように「ゞャズ」が独立したゞャンルずしお倧きな発展を遂げた䞀方で、「ブルヌス」の受容にも倉化が起きおいたした。

    先述した「クレむゞヌブルヌス(1920)」のヒットをきっかけに、黒人賌買局の存圚に気付いたレコヌド䌚瀟は、「レむス人皮レコヌド」を立ち䞊げたした。もずもず通垞のポピュラヌ音楜ず同様の䞊びだった「ブルヌス」は、1923幎以降、レむス・レコヌドの郚門が立ち䞊がっおから「ブルヌス」、「ゞャズ」、「ラグタむム」などず现かく分類され、癜人垂堎に届かなくなっおしたいたした。レコヌド䌚瀟のマヌケティング戊略により、曖昧だったゞャンルの境界が「人皮的なもの」ずしお明確に可芖化されおしたったのです。たた、マむクによる電気録音が可胜ずなり、ギタヌ匟き語りのレコヌディングが容易になったこずも圱響し、それたでの「バンドを携えた華やかな流行音楜」から䞀転、「がろ着を身にたずい、悲しみの衚情を浮かべた黒人が䞀人ギタヌを匕っ掻いお・・・」ずいったむメヌゞの原始的な“フォヌク・ブルヌス”が音源ずしお登堎するこずになりたす。

    1926幎のブラむンド・レモン・ゞェファヌ゜ンのレコヌドがそういったブルヌスの最初の音源ずしお認識されおいたす。

    その埌、チャヌリヌ・パットン、サン・ハりス、ミシシッピ・ゞョン・ハヌト、スキップ・ゞェむムズなど、倚くのレコヌドが発売され、1930幎代以降になるず、ブルヌスファンに最も評䟡の高いロバヌト・ゞョン゜ンが掻躍したした。

    そしお、ブルヌス史ずしおこういった原始的なサりンドのほうが先に存圚した《ホンモノ》であり、ティン・パン・アレヌ的な「ノォヌドノィル・ブルヌス」はカントリヌブルヌスが商業化されおしたった結果だ、ずいう、反察の時系列の物語が䜜られおいくこずになるのです。この方向は研究家による抌し付けではなく、黒人ミュヌゞシャン自らもリスナヌのむメヌゞに応えるために内面化させおいったのではないかずみられおいたす。


    このようにしおたずたっおいった「黒人的フォヌク」に察し、察比的に「癜人」ずいう統合を起こしたのが「カントリヌミュヌゞック/ヒルビリヌ」です。瀟䌚の産業化が進むに぀れ、アメリカ南郚の蟲村地域では、牧歌的な過去を理想化しお賛矎する「反近代䞻矩」の颚朮が圢䜜られおいっおいたした。1920幎代以降「レむス・レコヌド」ずしおラベリングされた黒人音楜に察し、南郚癜人は取り残されおしたいたす。アメリカ南郚のマりンテン・ミュヌゞックには本来黒人のブルヌス芁玠なども関わっおいたり、移民ずしおも皮々のルヌツが混圚しおいたにもかかわらず、それらは隠され、フォヌクの「黒人性」に察する吊定を媒介にしおカントリヌの「癜人性」が匷調されおいきたした。1925幎、ノァヌゞニア出身のバンドを「ヒルビリヌズ」ず名付けられおレコヌディングがなされ、このゞャンルの初録音ずされたした。レコヌド䌚瀟のマヌケット戊略によっお「バンゞョヌ」「マンドリン」「フィドル」ずいった芁玠が「ノスタルゞヌ、自然回垰」のむメヌゞが結び぀いお商品化しおいったのです。

    このゞャンルははじめ「ヒルビリヌ」などず呌ばれ、埌に「カントリヌ」ず蚀い盎されるこずになりたす。ヒルビリヌの初期の録音ずしおカントリヌ史に倚倧な圱響を䞎えたカヌタヌファミリヌやゞミヌ・ロゞャヌズの録音も、この時期に始たりたした。


    アメリカは囜際政治の䞭心ずなり、「ペヌロッパの蟺境」ずいう䜍眮づけから䞀転、「䞖界のリヌダヌ」ずしお存圚感を高めたしたが、その前提ずしお「文化的なアむデンティティ」が必芁になっおきおいたした。ペヌロッパずは違う、だがペヌロッパに匹敵する歎史的なルヌツが探される䞭で、1929幎の䞖界恐慌埌のルヌズノェルト政暩はニュヌディヌル政策を斜行し、それが文化的にも圱響したす。地方のブルヌスやワヌク゜ング、゚スニック文化などの採集が呜じられたのです。同時に南郚蟲村の調査も進められ、フォヌク゜ングのアヌカむブ化が進められたした。こうしお顕圚化したルヌツミュヌゞックが、「ブルヌス」ず「ヒルビリヌカントリヌ」ずしおアヌカむブ化され、「正統」な文化ずしお、再評䟡されるようになったのでした。


    ブラック・ゎスペルの誕生

    1930幎代、ハモンド・オルガンが登堎したす。これたでオルガンずいえば、クラシックで䜿われるような倧きなパむプオルガンが䞭心でしたが、ハモンドオルガンはパむプオルガンが蚭眮できないような貧しい黒人教䌚に甚いられるようになりたす。圓時、人皮差別の芳点から黒人ず癜人の教䌚は完党に分かれおしたっおいたため、その音楜性は癜人讃矎歌ずは異なったものずしお発展しおいくこずになりたす。楜噚の乏しかった黒人教䌚では、スピリチュアルズをルヌツずしたアカペラ・コヌラスが発展し、ピアノやハモンドオルガンの䌎奏ずも結び぀くようになりたした。ゞャズやブルヌスの芁玠も取り入れられお曎新された、黒人による教䌚音楜がブラック・ゎスペルず呌ばれるようになりたす。ワシントン・フィリップス、トヌマス・ドヌシヌらが黎明期の重芁アヌティストです。




    ラテン音楜

    ブラゞルで1910幎代ごろに誕生したサンバは、リオのカヌニバルで挔奏されるようになっお定着し、パレヌドのヒット曲のほずんどがサンバになっおいきたした。特に「電話で」ずいう曲が評刀になり広たったずも蚀われおいたす。サンバは1930幎代に党盛期を迎え、普及しおいきたした。


    䞀方、キュヌバ音楜ずしお定着・発展した゜ン/ダン゜ンですが、192030幎代にその倉圢スタむルの瀟亀ダンスが「ルンバ」ずいうゞャンル名でアメリカに入っおきたす。Songに混同されないよう、マヌケティング䞊の理由により「゜ン」ではなく「ルンバ」ずなったようです。特に「南京豆売り」ずいう曲が欧米で䞀倧ヒットずなりたした。


    トリニダヌド・トバゎではカリプ゜ずいうゞャンルが誕生したした。スチヌルドラムずいう楜噚も発達し、ゞャンルを特城づけたした。



    ドむツ・ナチス政暩䞋での音楜の扱い

    19䞖玀埌半のドむツロマン掟埌期を代衚する䜜曲家・ワヌグナヌは、文孊界や政治など、音楜以倖の分野でも倚倧な圱響を遺した理論家・革呜家でした。 執筆掻動も積極的に行い、論文「音楜におけるナダダ性」では、敵意に満ちた反ナダダ䞻矩の態床を衚明しおいたした。もっずもそれは、ナダダ人であったメンデルスゟヌンの音楜を批刀するために持ち出されたものだったずも蚀われおいたすが、1883幎のワヌグナヌの没埌、楜劇や思想は、埌に残された家族が匕き継いでいきたした。

    ワヌグナヌの2人目の劻でありリストの嚘であるコゞマは、ワヌグナヌ亡き埌も思想を匕き継ぎ、ワヌグナヌが楜劇の䞭で理想ずした䞖界を創り䞊げるこずのできる人物を求め続けおいたした。そんな䞭、コゞマの嚘゚ヌファが婚玄者チェンバレンを連れおきたす。ワヌグナヌ家に入ったチェンバレンは、難解なワヌグナヌの哲孊ず䞖界芳を倧衆が理解できるように懞呜に翻蚳し、熱心に普及掻動を行っおいきたした。コゞマもチェンバレンにワヌグナヌの埌継者ずしおの期埅をかけたしたが、チェンバレンは重い病気にかかっおしたいたす。そんな時に、ワヌグナヌ家を蚪れたのが、熱心なワヌグナヌの信奉者だったアドルフ・ヒトラヌだったのでした。死の淵にあったチェンバレンは、蚪れたヒトラヌに救䞖䞻の圱を芋たす。「資本䞻矩的な䞖の䞭を改革し瀟䌚をナダダ性から開攟しおいくこずができるのは、このヒトラヌしかいない」ず確信し、ヒトラヌに「救䞖䞻」ずしおの圹割をあたえたした。ここから、ドむツ民族の統䞀ず文化の繁栄を目指すヒトラヌの戊いは、曎なる䜿呜感を垯びおいくこずずなりたす。その埌もワヌグナヌ家ずヒトラヌの亀流は続き、ヒトラヌがミュンヘン䞀揆埌の獄䞭で執筆した『我が闘争』の玙ずペンの準備なども、ワヌグナヌ家がサポヌトしたものだったそうです。

    1933幎、ドむツでナチス政暩が誕生したす。ヒトラヌは、挔説の際にワヌグナヌの「ニュルンベルクのマむスタヌゞンガヌ」を䜿甚するなど、ドむツ囜民の戊意高揚のためのプロパガンダに音楜を䜿甚し、ワヌグナヌの反ナダダ理論も利甚されたした。

    ワヌグナヌ自らの䜜品䞊映のために建おられたバむロむト祝祭劇堎も、ヒトラヌを含むワグネリアンにずっおは憧れの堎所であり続け、ヒトラヌは次第に積極的にバむロむトの祝祭劇に関わっおいくようになりたす。1933幎にはすでにバむロむトの祝祭劇は「ヒトラヌ劇」ず蚀っお良いほどの様盞を呈しおいたようです。売れなかったチケットは買い占め、劇堎を「招埅客」で満たしたずいいたす。1935幎からは劇䞭の祭りの堎面を「旗が立ち䞊ぶ党倧䌚のように挔出するこず」たで指瀺し、それによっお芋おいる芳客に舞台䞊で起こっおいるこずず珟実ずの錯綜が起こっおいきたした。

    党倧䌚自䜓もさながらワヌグナヌの楜劇のような挔出を垞に䌎っおおり、ヒトラヌの登堎の際の音楜、行進、話し方、党おがワヌグナヌの舞台の䞊での出来事のように錯芚させたのでした。ヒトラヌは自身の挔説にも、『ニュルンベルクのマむスタヌゞンガヌ』の芁玠を取り入れおいたす。ワヌグナヌの「ラむトモチヌフ」の手法を幟床も挔説の䞭に織り蟌むこずで聎衆をずりこにしたのでした。このような挔出によっお、民衆の熱狂を匕き起こし、「舞台䞊で奇跡が起こるように、ヒトラヌによる奇跡は起こりうる」ず期埅が高たっおいったのでした。

    ナチスでは、「ナダダ人」や「非アヌリア人」など「倖囜」の「堕萜した」圱響を排陀・制限するこずで、囜内に䌝統的な「ドむツ」「北欧」の䟡倀芳を呌び戻そうずしおいたした。1933幎9月から「垝囜文化院」が組織され、ドむツ文化のあらゆる面の監芖および統制を開始し、その䞋の7぀の郚局のうちの䞀぀に「垝囜音楜院」も蚭けられたした。

    前衛衚珟はドむツ粟神の士気をくじかせる「退廃芞術」であるずしお制限され、シェヌンベルク、ベルク、ノェヌベルン、ヒンデミットなどの珟代音楜も「ドむツ音楜を吊定するものだ」ずしお犁止されたした。“腐敗した文化”を民衆に瀺すための「退廃芞術展」「退廃音楜展」が開かれ、良くないものの䟋ずしお晒し䞊げられたのでした。

    さらに、メンデルスゟヌン、マヌラヌ、シェヌンベルクらは「ナダダ人の音楜」ずしお排陀の察象になりたした。ゞャズやスりィングも「黒人音楜」だからずしお犁止されたした。「ナダダ人ず黒人が我らのオペラを汚す」ずいうふうに敵芖されおいたのです。反察に、ワヌグナヌを筆頭ずしお、バッハ、モヌツァルト、ベヌトヌノェン、ブラヌムス、ブルックナヌなどの「ドむツ人音楜」は評䟡され、奚励されおいきたした。

    垝囜音楜院は䞀方で音楜家に察する統制機関であり、䞀方で音楜家たちの劎働条件を改善するスポンサヌでもありたした。圓初ナチスは、垝囜音楜院の総裁にリヒャルト・シュトラりスを任呜しおいたした。しかし、ナダダ人台本のオペラを䞊挔したこずで蟞任させられおいたす。

    このような状況䞋にあり、ナダダ人を䞭心ずしお倚くの音楜家がドむツからアメリカぞず亡呜しおいったのでした。



    ハリりッド映画音楜での「アンダヌスコア」誕生

    実はハリりッド映画産業やティン・パン・アレヌの音楜産業はもずもずからナダダ人が䞭心ずなっおいた業界だったのですが、ナチの台頭を受けおアメリカに枡ったナダダ人䜜曲家たちによっお、さらにここからハリりッド映画の音楜が発展し、その基瀎が぀くりあげられるこずになりたす。亡呜䜜曲家のほずんどは、りィヌンでマヌラヌに垫事しおいたか、その圱響を受けおいたした。こうしおロマン掟の手法は分野を倉えお生き氞らえ、継承されるこずになりたした。

    トヌキヌ映画初期においお、映画セリフず音楜を簡単に結び぀ける方法ずしおはミュヌゞカル的な手法が採甚されおいたした。「ゞャズ・シンガヌ」のあずしばらくはミュヌゞカル映画が急増しおいたした。そのような手法ではなく、正統な「BGM」ずしおの映画音楜の芞術が確立するきっかけは、マックス・スタむナヌ18881971からでした。

    マックス・スタむナヌは、䞻人公や登堎人物にひず぀のテヌマ旋埋を䞎え、それを掻甚しお展開する、ずいうワヌグナヌ流の「ラむトモチヌフ」の構想を思い぀いお䜜曲したした。プロデュヌサヌはそれを評䟡し、セリフをしゃべっおいる最䞭でもその䞋に音楜を流すずいう手法を採甚したのでした。そしお、それたではセリフ、効果音、音楜はすべお同時録音だったのですが、別々に録音しお぀にたずめればよいのだ、ずいうこずが発芋され、1933幎「キング・コング」で実珟に至りたした。この発想は「アンダヌスコア」ず呌ばれたした。underscore = 傍線アンダヌラむンを匕く、ずいう意味だが、そこにscore譜面を匕っかけた甚語です。ワヌグナヌ流の重厚なサりンドや、ドビュッシヌのような浮遊感あるオヌケストレヌションが融合され、埌期ロマン䞻矩ず印象䞻矩の混合だずされたした。状況説明的な音楜ではなく、登堎人物や出来事それ自䜓に音楜テヌマを䞎えるずいうパワヌず、本栌的なシンフォニックスコアのむンパクトは絶倧で、この方向性がハリりッドに長く君臚するこずずなりたした。マックス・スタむナヌは、ワヌグナヌからマヌラヌに至るドむツの䌝統を独自に発展させ、映画音楜をドラマチックなシンフォニックスコアにした第䞀人者でした。

    もう䞀人の功劎者は、アルフレッド・ニュヌマン19011970です。マックス・スタむナヌず共通する音楜スタむルで、さらに映像を意識した「ミッキヌマりシング」や、流麗なアンサンブルが特城です。

    アルフレッド・ニュヌマンは、あの有名な「20䞖玀フォックスのスタゞオ・ロゎのためのファンファヌレ」を䜜曲したこずでも知られおいたす。

    逆に、ミッキヌマりシングを拒吊し、映画の脚本を「オペラのリブレット(台本)」ず芋なしお玔芞術のオペラを぀くるように䜜曲したのがコルンゎルト18971957です。マヌラヌ、リヒャルト・シュトラりスから盎接孊んだ埌期ロマン掟的䜜颚を、そのたた映画音楜に持ち蟌み、ハリりッド音楜に倧きな圱響を䞎えたした。コルンゎルトは映画音楜ではない玔粋な芞術音楜の䜜曲も志向しおいたのですが、ご存じの通り圓時の芞術音楜界は無調の前衛芞術の党盛期であり、ロマン掟的䜜颚は酷評の的だったうえ、映画音楜ずいうもの自䜓が䞋等な芞術だずみなされおいたため、コルンゎルトは「映画に魂を売った䞋等な䜜曲家」ずいうレッテルを匵られお、りィヌンの楜壇からは事実䞊抹殺されおしたいたした。こういった背景があったため、映画音楜文化はクラシックのロマン掟を受け継いでいるにもかかわらず、クラシック音楜史に䞀切の蚘茉が無いのです。


    䞀方、ディズニヌアニメのその埌はずいうず、1929幎からは短線アニメヌションシリヌズ「シリヌ・シンフォニヌ」が始たり、倚数のクラシック曲の匕甚も行われたした。ディズニヌの初代音楜監督カヌル・ストヌリングは、音楜を出発点にしたシリヌズを䜜りたかったようです。スタゞオ・オヌケストラによる豪華な管匊楜がディズニヌ映画を圩りたした。

    1937幎には史䞊初のフルカラヌ長線アニメ「癜雪姫」が倧成功したす。その埌も「ピノキオ1940」「ファンタゞア1940」などず続いおいきたした。

    ディズニヌアニメ音楜の特城ずしお、䞻題歌䞀曲だけが甚意されおいるのではなく、堎面堎面に合わせお配慮された䞭で耇数のヒット゜ングがたくさん甚意されおいる莅沢さがあり、アニメヌションずいう圢を借りたミュヌゞカル映画だず蚀えたす。

    圓時の音楜状況を反映した興味深い䜜品ずしお、「音楜の囜1935」がありたす。「䞍協和音の海」に隔おられた「シンフォニヌの囜」ず「ゞャズの島」の2぀の囜の物語です。珟実䞖界の音楜評論家や文化人の間でも論争ずなっおいた「クラシック」ず「ゞャズ」。ロミオずゞュリ゚ット颚に䟋えられたストヌリヌによっお、争いの末、最終的に「ハヌモニヌの橋」が架けられ、2぀の囜に平和がもたらされる結末ずなり、互いに尊重し合うこずが提唱されおいたす。


    アドルノの音楜瀟䌚孊ずは䜕だったのか

    これたで、クラシックを察象ずした孊問「音楜孊」「音楜矎孊」がドむツの゚リヌト䞻矩的矎孊を前提ずしお聖域化し、ポピュラヌ音楜を無芖しおきたずいう点はたびたび指摘しおきたしたが、そうではない堎所でポピュラヌ音楜を察象にした研究も発達しおきたした。珟圚そのようなポピュラヌ音楜研究を孊ぶ際に必ず参照されるのが、テオドヌル・アドルノ19031969幎の「音楜瀟䌚孊」による「ポピュラヌ音楜批刀」です。ゞャズ、ロック、アむドル、ポップスなどあらゆるポピュラヌ音楜を評論する際に、このアドルノの「ポピュラヌ音楜批刀」は匕甚されおいたす。

    その䞻匵は「ポピュラヌ音楜は産業瀟䌚においお芏栌化されおしたったものである」ずいうものです。なるほど、商業䞻矩嫌いのロックなどの音楜ファンが奜みそうな蚀説ではありたす。ポピュラヌ音楜をそもそも無芖しおきたクラシックの「音楜孊」ずは違っお、「音楜瀟䌚孊」はポピュラヌ音楜に目を向けた画期的なものだったのだろう、ずいう印象たで持ちたす。

    しかし、この䞻匵が含たれるアドルノの著䜜党䜓を読んでみるず、アドルノはポピュラヌ音楜に本圓に理解があったのか、甚だ疑問が湧いおきたす。アドルノはナダダ系ドむツ人です。ドむツ人らしく難解な文章で倧仰に哲孊を語っおいたすが、噛み砕くず「ポピュラヌ音楜批刀」は、僕には根拠のない偏芋たみれの「ポピュラヌ音楜dis」ずしか読めたせん。屁理屈で理論歊装した悪質な誹謗䞭傷だずすら感じたす。これは䜕なのでしょうか。

    その謎は、アドルノの経歎を芋ればすぐにわかりたす。アドルノは、無調音楜を開始しお12音技法を掚し進めた、シェヌンベルクらを筆頭ずする「新りィヌン楜掟」の䜜曲家、アルバン・ベルクの匟子だったのです。アドルノはシェヌンベルクやベルク、りェヌベルンら「新りィヌン楜掟」を称賛する䞀方、新叀兞䞻矩や埌期ロマン䞻矩のスタむルをずり続ける䜜曲家には攻撃的でした 。぀たりアドルノは、なんおこずない、ドむツ音楜の進歩史芳を根底に持った、兞型的な゚リヌト的クラシック音楜論者だったのです。

    アドルノはもっぱらポピュラヌ音楜批刀の文脈で取り䞊げられるこずが倚いですが、アドルノの著䜜『音楜瀟䌚孊序説』『䞍協和音』に収められおいる論考は、クラシックを䞻題ずしお蚀及しおいるもののほうが実は倚いのです。そしお、挔奏䌚やラゞオなどでロマン掟的な前時代のクラシックを享受する倧衆なども、すべお培底的に批刀されおいたす。アドルノの論考においおは、頻繁に「ロマン掟の残りかす」ずいった衚珟や「印象掟の域を脱しない」ずいう衚珟の批刀が登堎するこずからも、アドルノの音楜的立堎が芋お取れたす。

    “叀い”クラシック人間であったため、“新しい”ポピュラヌ音楜が理解できなかった、ず捉えおはいけたせん。䜕床も曞いおいる通り、この手のクラシック孊者は垞に「新しい音楜」を探求しおいるからです。「バッハ → ベヌトヌノェン → ワヌグナヌ → シェヌンベルク」ずいうドむツが掚し進めた音楜理論の䞀盎線的な進歩を匷調しながら、「ロマン掟の残滓」も「ゞャズ」などのポピュラヌ音楜も、すべおを批刀し、こき䞋ろした。そう理解するず難解で偏屈な文章もすべお腑に萜ちたす。

    そうなっおくるず今床は、「芏栌化」ずいう蚀葉だけに目を向けお、こんにちに至るたでのポピュラヌ音楜分析に匕甚されたくっおいるずいうこずが、疑問でしかありたせん。アドルノのシェヌンベルク的な立堎を理解せずに、郜合よく受容されおいるずしか思えたせん。

    「瀟䌚孊」党䜓でアドルノの立堎を確認しおみるず、アドルノは「フランクフルト孊掟」ずいうファシズム批刀を䞭心に栄えたグルヌプにいたした。代衚的な孊者ずしおは他にホルクハむマヌが居たす。

    ナダダ人だったアドルノは、1938幎にドむツからアメリカぞ亡呜したす。その埌、第二次䞖界倧戊䞭に曞き進められたホルクハむマヌずアドルノの共著『啓蒙の匁蚌法』においお、

    【ファシズムずいう「新しい野蛮」は、西掋近代を支えおきた「理性」や「啓蒙」ずいう脱呪術化の運動によっお、たどり着いおしたったものだ】

    ず考察しおいたす。この批刀理論の矛先をアメリカの資本䞻矩ず倧衆文化にも向けお、「文化産業」ず呌んで批刀し、その代衚䟋ずしおポピュラヌ音楜が挙げられおいるのです。

    この「ファシズム批刀」を前提ずしお、アドルノのポピュラヌ音楜批刀に圓おはめお解釈するず、非垞にわかりやすいです。

    ①倪叀からはじたり、䞭䞖を経お、ルネサンス、バロック、叀兞掟、ロマン掟、近代印象掟ず発展しおきた音楜理論・和声などの語法は、今では前時代の叀いものであるため、「野蛮」である。

    ②珟代音楜における無調や十二音技法などは、そこから脱したもっずも革新的なものであるため、「啓蒙」である。

    ③啓蒙の末に登堎したポピュラヌ音楜は、前時代の語法のたたであり、構成も単調であるため、「新しい野蛮」である。぀たりファシズムのようなものである。軜音楜的なポップスはもちろんのこず、それらよりいくぶんか自由がありそうな「ゞャズ」も、いくら自由や芞術性を蚎えようずも、珟代音楜の「自由」には皋遠く、「野蛮」な「軜音楜」ず同じである。

    こう読むず、アドルノの頑ななポピュラヌ音楜批刀の態床が理解できたす。この考え方は、第二次䞖界倧戊埌のクラシック音楜界の「無調音楜しか認めない䞻矩」に぀ながるものずしお考えおも、ずおも分かりやすいず思いたす。

    ナチスが十二音音楜を匟圧したおかげで、逆に「だからこそ十二音技法は倧事に守らなければならない」ずいう倫理的問題ずしおずらえられ、十二音技法を䜿わない人は悪だずみなされおしたいたした。第二次䞖界倧戊の反省ず教蚓はご存じのずおりであり、その文脈で「ヒトラヌの嫌った音楜こそが重芁だ」ずなっおしたったがために、キヌのある調性音楜を曞くこずはずんでもない悪行だずいう颚朮になっおしたったのです。


    ドむツ芞術音楜をめぐる孊問ずアメリカ

    これたで倚くの䜜曲家や音楜孊者が、ドむツの音楜を「普遍的」で「囜際的」な芞術ずしお理解しおいたした。ドむツ人にずっお音楜は、ドむツの歎史を考える䞊で他の諞芞術ず比べ物にならないほど重芁な意味を担っおきたした。ドむツの「囜民性」「ドむツ的なもの」を最も代衚する「囜民的芞術」ずしお近代のドむツ人から尊重され、その衚象が諞倖囜にも浞透しお受け入れられおきたのです。

    シェヌンベルクは十二音技法に぀いお「今日私は、この先癟幎にわたっおドむツ音楜に優䜍を玄束するであろうものを芋぀けた。」ず蚀いたした。

    ベルクも自らの理想を「ドむツ的でそれゆえに―――他のどれよりも―――普遍劥圓的な音楜。」ず衚珟しおいたす。

    音楜孊者のハンス・ペアヒム・モヌザヌは「ドむツ的なもの」を「䞭立的出発点」ず呌び、「音楜におけるロシア的なもの、スカンディナビア的なもの、スコットランド的なもの、ハンガリヌ的なものなどは、そこ(=ドむツ的なもの)から逞脱するこずではじめお倚様性をも぀」ず説明しおいたした。

    クラシック音楜の教科曞では「バッハ・ベヌトヌベン・ブラヌムス」ずいう「3倧B」に芪しむこずを芁求したすが、圌らは党員ドむツ人です。クラシック・コンサヌトはそのレパヌトリヌを通じお、偉倧なドむツの巚匠たちの名を䞍朜のものずしお保護し続けおおり、音楜史は本質的に「ドむツの自己実珟ぞの進歩の過皋」ずしお教えられおいたす。

    「ドむツ的」ず「普遍的」ずいう2぀の抂念は、矛盟しなかったどころか、芪和性・互換性が高いものしお積極的に関連付けられおいたした。「ゲルマン的なもの」は「普遍的人間性」を基板ずしおおり、むタリアやフランスなどの前段階的な「ラテン的」諞囜民の限界をはるかに超えた高みにたで到達するこずができる、ずいうのが長幎共有されおきた信念でした。

    戊䞭戊埌のアメリカでは「ナショナリズム」ずいうワヌド自䜓が、文化的にも政治的にも非垞にネガティブな意味をも぀ようになりたした。そんな䞭で、ドむツからアメリカに亡呜した音楜孊者アヌペルは、「ナショナルな運動はドむツ音楜の優䜍に察する反動ずしお理解されなければならない」ず䞻匵したした。

    ナショナリズムずは「呚蟺諞囜」でおこった運動で、ベヌトヌノェンやワヌグナヌ、ブラヌムスのような人たちず競争するために、民族的音階や舞螊を歊噚に始められた「絶望的な運動」だった、ずたでいうのです。たたそう考えるこずで、「ドむツではナショナリスティックな運動は存圚しなかった」ずいう説明が可胜なっおしたいたした。

    その結果、音楜における「ナショナリズム」の研究は、東欧や北欧などの「呚蟺囜」= 囜民楜掟、や、アゞア・アフリカなどの非ペヌロッパ䞖界の音楜を察象になされるものだ、ずいう考え方が支配的になり、ドむツの叀兞音楜を「ナショナリズム」の芳点で理解するこずは、歎史的事実に反するばかりでなく、音楜の普遍性に察する冒涜でもある、ず考えられるようになっおいきたした。

    哲孊的な領域においおさえ、人間における「普遍性」ずはドむツ人だけに備わっおいる特暩的なものであるず考えられ、音楜はその理念を最も矛盟なく衚珟できる、理想的なゞャンルでした。ベヌトヌノェンの「亀響曲第9番」が「最もドむツ的」な芞術ず考えられながら、同時に矛盟なく「普遍人間的」な芞術ず芋なされおきたこずが、良い䞀䟋です。

    第䞀次倧戊埌、〈音楜は囜境を超える〉ずいうロマン䞻矩的音楜矎孊に由来する思想が、諞囜民の協調関係の回埩ぞの期埅を背負っおいたした。しかし、その“囜際的で普遍的な音楜”が「ドむツの叀兞音楜」ずいう特定のモデルを持っおいたこずに泚意しなければなりたせん。しかし、こうした芳念は、1930幎代のナチスの台頭で倚くのナダダ人音楜家や音楜孊者がアメリカに亡呜したこずにより、実際に「囜際的なもの」ずなっおしたいたした。

    ナチスは、“19䞖玀のドむツ的な芞術が「囜際的なナダダ人の悪しき宣䌝」によっお堕萜させられた”ずしお、無調音楜オペレッタゞャズをすべお「退廃音楜」ずしお晒し、音楜の叀兞囜ずしおのドむツの囜民的アむデンティティを匷固にしたした。

    これにより囜倖での生掻を䜙儀なくされた亡呜ドむツ人達も、盞異なる政治的信条を持ちながら、その違いをはるかに超越した次元で、同じ「音楜の囜ドむツ」ずいう衚象を共有しお自説を展開しおいたのでした。

    ドむツ = オヌストリアからの亡呜者によっお、ドむツの音楜孊がそのたたアメリカぞ「移怍」された結果、戊埌のアメリカの音楜孊はドむツの叀兞音楜を「正兞」ずしお神聖芖し、その「䞭立性」や「普遍性」を信じお疑わないずいう傟向をいっそう匷めるこずになっおしたいたす。さらに、単にアメリカ囜内だけにずどたらず、アメリカの音楜孊者によっお䞻導されるグロヌバルな音楜孊の動向党䜓に関わる問題になっおいきたす。

    こういった流れによっお、こんにちのゞャンルの分断や、音楜史の物語の断絶に぀ながったずいえるのではないでしょうか。そしお、それを克服するためには、音楜理論的な進歩史芳にずらわれず、この蚘事シリヌズで詊みおいるずおり、同時系列でクラシックずポピュラヌの䞡音楜史を曞いおいく、ずいうこずでしか実珟できないず思っおいたす。

    西掋芞術音楜史はあず少しで終わりに近づいおしたいたしたが、ポピュラヌ音楜史はただただここからが本番ずなりたす。そのゞャンルの倚様性を共有しお尊重しおいくこずができれば、音楜文化党䜓がより良いものになるのではないかず信じおいたす。

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    党お同じ「音楜」なはずなのに、各ゞャンル間にある分断や䟡倀差別に疑問を抱き、音楜の歎史にも興味を持぀。西掋音楜史はある皋床ゎヌルに蟿り着けたので、今は日本音楜史の接続に挑戊停滞䞭。音楜史以倖も奜き勝手曞きたす。※あくたで䞀個人のパヌ゜ナルな探求・雑蚘である点をご承知おき䞋さい