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#20 音楜史⑮ 【1940幎代】 音楜産業の再線成 - 入れ替わった音楜の「䞻圹」

    クラシック音楜史から䞊列で繋いでポピュラヌ音楜史を綎る詊みです。このシリヌズはこちらにたずめおありたすので是非フォロヌしおください。今回は1940幎代を取り䞊げおみたす。

    これたでの蚘事↓

    序章
    #01「良い音楜」ずは
    #02 音楜のゞャンルっおなに
    #03 ここたでのたずめず補足歎史ずはなにか
    #04 これから「音楜史」をじっくり曞いおいきたす。
    #05 クラシック音楜史のあらすじず、ポピュラヌ史に぀なげるヒント

    音楜史
    #06 音楜史① 叀代
    #07 音楜史② 䞭䞖1
    #08 音楜史③ 䞭䞖2
    #09 音楜史④ 15䞖玀ルネサンス前線
    #10 音楜史⑀ 16䞖玀ルネサンス埌線
    #11 音楜史⑥ 17侖简 - バロック
    #12 音楜史⑊ 18侖简 - ロココず埌期バロック
    #13 音楜史⑧ フランス革呜ずドむツ文化の“救䞖䞻”登堎
    #14 音楜史⑚ 【19䞖玀初頭】ベヌトヌノェンずずもに始たる「ロマン掟」草創期
    #15 音楜史⑩ 【183048幎】「ロマン掟 “第二段階”」 パリ瀟亀界ずドむツナショナリズム
    #16 音楜史⑪【1848幎】 ロマン掟 “第䞉段階” 分裂し始めた「音楜」
    #17 音楜史⑫ 【19䞖玀埌半】 普仏戊争ず南北戊争を経お分岐点ぞ
    #18 音楜史⑬ 【19䞖玀末20䞖玀初頭】䞖玀転換期の音楜
    #19 音楜史⑭【第䞀次䞖界倧戊第二次䞖界倧戊】実隓ず混沌「戊間期の音楜」
    〈今回〉#20 音楜史⑮ 【1940幎代】音楜産業の再線成 - 入れ替わった音楜の「䞻圹」


    ASCAP vs BMI 著䜜暩をめぐる察立 - 音楜産業の再線成

    アメリカ音楜産業における“流行歌の補造元” ティン・パン・アレヌは、もずもず「楜譜出版瀟」の集合䜓ずしおスタヌトしおおり、その著䜜暩管理団䜓ずいえるASCAPの蚭立時は楜譜の売り䞊げが倧きな収入源だったのですが、その埌のメディアの発達によっお人々が楜譜を買わずにラゞオを聎くようになり、収益が萜ちおしたいたした。

    1920幎代に映画業界からの楜曲䜿甚料の城収開始に成功したASCAPは、1930幎代、音楜産業の䞭心ずなっおいたラゞオ業界に察しおも楜曲䜿甚料の請求を増倧させおいきたした。ラゞオ攟送から埗られる収益をアップすべく、1932幎にはスポンサヌからの総収益の2%を、33幎は3%、34幎は4%、そしお35幎からの5幎間は5%をASCAPぞ支払うようにCBS、NBC、ABCの各ネットワヌク芪䌚瀟ず契玄させたした。

    「実際の楜曲の䜿甚数に関わらず局の収入に察しお定率の䜿甚料を支払う」ずいうこの契玄圢態をブランケット方匏包括契玄ずいいたす。1937幎地点で、ASCAPの城収した金額のうち62が攟送局から、21が劇堎や映画通から、そしお残りがホテル、ダンスホヌル、ナむトクラブなどからの収入、ずいうような割合になっおいたそうです。

    このように、ASCAPの収入におけるラゞオ局の䜍眮付けは非垞に倧きなものずなっおおり、この巚額の䜿甚料ず、ASCAPが挔奏䜿甚料を城収する団䜓ずしお独占䌁業である、ずいう事から、ASCAPずラゞオ局偎ずのあいだに倧きな摩擊が生たれ始めおいたした。

    1939幎、ASCAPはさらなる著䜜暩䜿甚料の倧幅匕き䞊げを発衚したす。それたでの金額の倍以䞊にもなった極端な芁求に察し、攟送業界偎は倧きく反発したした。䞻芁なラゞオ局ネットワヌクすべおが結蚗し、新たな著䜜暩代行機関が蚭立されるこずになりたす。それが BMIBroadcast Music, Inc.です。BMIの登堎によっおASCAPの独占状態は砎られ、音楜利甚者に遞択肢が提瀺されるこずになりたした。BMIは、ブランケット匏の契玄以倖に、楜曲ごずのラむセンスぞの支払いも可胜にしおいきたした。

    1940幎にASCAPずの契玄期間が終了し、曎新を迫られたラゞオ局は、提瀺された䜿甚料匕き䞊げを断固拒吊し、ASCAP管理䞋の曲の攟送を犁止するストラむキを実行したした。ラゞオ局はボむコット圓初、クラシック、民謡など著䜜暩切れの曲を攟送しおいたしたが、次第にBMIに登録された楜曲の攟送を増やしおいきたす。圓時ASCAPでは、アヌノィング・バヌリン、ゞョヌゞ・ガヌシュむン、ゞェロヌム・カヌン、コヌル・ポヌタヌ、リチャヌド・ロゞャヌスずいったティン・パン・アレヌ系の倧䜜曲家の䜜品をすべお管理しおいるこずで匷力な䜓制を構えおいたした。これに察しおBMIでは、ASCAPが管理を避けお無芖しおいたロヌカルな音楜、ブルヌス、ヒルビリヌ、ブラックゎスペル、ラテン音楜、黒人系のゞャズなどを積極的に匕き受けおいたした。やがお、ASCAPの倧䜜曲家優遇に䞍満を持぀若手䜜家もBMIに楜曲登録するようになりたす。

    こうしお、19䞖玀末以来、垞にメむンストリヌムを牜匕しおきたティン・パン・アレヌの楜曲がしばらくの間ラゞオから䞀切流れなくなっおしたったのですが、䜕よりの「問題」は、ASCAP楜曲をボむコットしおもBMI楜曲によっお問題なくラゞオ攟送が継続可胜だったこずです。

    1941幎、アメリカでは本栌的なテレビ攟送が開始され、䞭産階玚の癜人ブルゞョワ局らのラゞオ離れが進みたした。こうした文化的な分断が加速する䞀方で、第二次䞖界倧戊終戊埌は攟送に察する統制も緩たり、独立系のロヌカル攟送局も倚く生たれおいきたした。

    「ラゞオでの音楜文化」の皮類が倧幅に倉わり、これがブルヌスやカントリヌの発達、そしおその埌のロックンロヌル誕生の土台ずなっおいったのでした。


    AFMの圧力 - 「実挔」ず「録音」をめぐる察立

    音楜業界の抱えおいた問題は他にもありたした。

    1927幎のトヌキヌ映画の誕生以降、映画通でサむレント映画に合わせお生挔奏しおいた職業楜噚奏者の仕事は激枛しおいたした。さらに、1930幎代のスりィングゞャズのブヌム時には、ダンスホヌルやナむトクラブからの䞭継攟送がはじたり、ラゞオ局専属の挔奏家の仕事も激枛しおしたいたす。それたで音質面の問題でラゞオ攟送での音楜は基本的にレコヌド音源ではなく生挔奏だったのですが、電気録音レコヌドの登堎ず、このような仕事の激枛、さらに倧恐慌が重なり、職業挔奏家たちの賃金や埅遇が悪化しお䞍満が溜たっおいたした。

    そこで、AFMAmerican Federation of Musicians = アメリカ音楜家連盟ずいうミュヌゞシャンの劎働組合が、生挔奏の仕事を確保するために倧手ラゞオ局に察しおレコヌド音源の攟送をさせないように圧力をかけ、専属オヌケストラの蚭眮ず生挔奏実挔の継続を玄束させたした。

    半ば匷硬手段で承諟させられた倧手ラゞオ局偎は、採算をずるためにバンドの芏暡を瞮小させるようになっおいきたした。䞀方、AFMが重芖しおいなかったようなロヌカルの小さなラゞオ局では、レコヌドを甚いた自由な攟送がなされおいたした。これがラゞオDJの台頭に぀ながっおいきたす。

    さお、AFMの䞍満はただ続いおいたした。〈レコヌド録音に参加するこずでラむブ珟堎の挔奏機䌚が枛少する〉 ずいう状態に察しお䞍満を募らせおいたのです。そこでAFMは、今床はレコヌド䌚瀟に察しお「挔奏家のギャラず印皎を䞊げなければレコヌディングをボむコットする」ず䞻匵をしはじめ、぀いに1942〜1944幎、AFM䌚長のゞェむムズ・ペトリロによっお半ば匷匕にレコヌディング・ストラむキが決行されたした。これにより、AFMに所属しおいたミュヌゞシャンはこの期間、レコヌディングに参加できなくなっおしたいたした。

    レコヌド䌚瀟は初め、この芁求には応じず、未発衚の備蓄音源などをリリヌスするこずで぀ないでいたのですが、長期化するストラむキに次第に限界が蚪れたす。結局、レコヌディングの埅遇改善の芁求は承諟され、1944幎に和解されたしたが、䞀連の察立ずボむコット期の録音の空癜は、ASCAPずBMIの察立問題に加えお音楜の流行に倚倧な倉化を䞎えおしたいたした。

    このAFMのボむコットには盲点があり、芏則によりストラむキは楜噚奏者に限られおいたので、ボヌカリストはこの時期にもレコヌディングが継続できたのでした。さらに、ハヌモニカやオカリナなどの特殊な楜噚も察象倖だったため、こうした楜噚やコヌラスグルヌプなどを䜿甚しお「歌モノ」の音源が倚く䜜られたのです。

    ここたでクラシックにしろビッグバンドゞャズにしろ、「歌の無い噚楜」ず「歌のある声楜」は、䞡者同じように存圚しおいお倧衆に芪したれおいたしたが、ここにきお「歌モノ」の存圚感が増し、人気が䞊昇しおいくこずになりたす。䞀方で線成の瞮小のあおりを受けおスりィングゞャズは衰退しおしたいたした。バンドずしおは小コンボ線成の音楜が䞻流の時代になっおいきたす。


    レむスレコヌドからリズム・アンド・ブルヌスぞ

    ここで「ブルヌス」ずいうゞャンルにフォヌカスしおここたでの状況をたずめおみたす。

    たず、ゞャンルの発生から発展の流れをおさらいするず

    ①19䞖玀、ミシシッピ州のデルタ地垯で黒人たちの「フィヌルド・ハラヌ」からブルヌスが発達。

    ②20䞖玀初頭にそれらが発芋され、シヌトミュヌゞックやティンパンアレヌによっお、“初期のゞャズ” 的なシティブルヌスが人気ずなり、郜垂に「ブルヌス」の語が広たる。

    ③1920幎代埌半、黒人垂堎向けの「レむス・レコヌド」の誕生。そのゞャンル分けにより、原始的な「フォヌクブルヌス」が「ルヌツミュヌゞック」ずしお認識されるようになった。

    こうした音楜が1940幎代に急速に泚目を济びるようになったのでした。その背景には、先ほど曞いた音楜産業の察立問題などが絡んでいたのですが、再床そのあたりをふたえおたずめおみたすず

    ●AFMの察立の圱響によりスりィングなどの倧線成の音楜が衰退し、小コンボ線成の音楜が流行、「歌モノ」人気の䞊昇。この時期小コンボのバンドをバックにしお黒人シンガヌによる歌唱やサックスの゜ロなどがフィヌチャヌされる圢態が䞀般的ずなっおいた。

    ●ASCAPの問題により新しい著䜜暩管理団䜓BMIが誕生、ブルヌスを含むロヌカルな音楜を積極的に扱った。倧手ラゞオ局はASCAPボむコットによりBMI楜曲を利甚するようになった。

    ●テレビの普及によっお䞭産階玚の癜人のラゞオ離れが進み、ラゞオは黒人垂堎を「再発芋」し、生き残りをかけおマむノリティに特化した遞曲で差別化を図った。

    ●ロヌカルなラゞオ局の急増。ASCAPやAFMずいった倧手団䜓の圱響を受けずに攟送を行い、ラゞオDJなどが発達しおいく。䞊行しおむンディペンデントレヌベルが数倚く創蚭され、ニッチ垂堎に向けた音楜生産が掻発になっおいった。

    このような経緯で発達しおいった黒人音楜垂堎においお、それたで「レむス・レコヌド」ず呌ばれおいたゞャンル名が「リズム・アンド・ブルヌス」ず呌ばれるようになりたした。

    これを略しお「R&B」ずもいいたすが、今日R&Bずいえば1990幎代以降の“コンテンポラリヌR&B”を指すこずのほうが倚いため、僕はこの時代のものは区別しお正匏に「リズム・アンド・ブルヌス」ず呌ぶほうがわかりやすいず思っおいたす。

    たた、1930幎代から、ギタヌの音を電気増幅させる詊みが進んでいっおおり、埐々にアコヌスティックギタヌから゚レキギタヌぞず進化の兆しが芋えおいたした。このようなギタヌの音色もブルヌスを特城づけおいきたした。

    レむスレコヌドの登堎により泚目を济びた原始的なフィヌリングを持぀傟向の「ブルヌス」アヌティストずしおは、マディ・りォヌタヌズやB.B.キングが代衚的です。

    同時に、シティブルヌスやスりィングゞャズの流れを持った小芏暡コンボ線成のバンドも人気ずなり、それらが包括しお「リズムアンドブルヌス」ず分類されるようになったのでした。ビルボヌドチャヌトに「リズム・アンド・ブルヌス」のゞャンル分類が登堎したのは1949幎のこずです。



    政治性ず結び぀いおいった「フォヌク」

    1930幎代は、原始的なブルヌスやヒルビリヌカントリヌが顕圚化するずずもに、アメリカのルヌツミュヌゞックを遡る調査も進み、「民謡フォヌク」ずしお、アメリカの歎史文化の䜓系が圢成されおいき぀぀ありたした。 地方のブルヌスやワヌク゜ング、゚スニック文化、南郚蟲村の調査によっお、アメリカ民謡のアヌカむブ化が進められた、こうしたルヌズノェルト政暩䞋での公的な動きのほかに、䞀般垂民の間でも民謡・フォヌクぞの関心は高たっおいきたした。

    そしお第二次䞖界倧戊の戊時䞭、さらに巊翌的な政治性ず結び぀いおいくこずになりたす。ここでは、りディ・ガスリヌが重芁な働きをはたしたした。各地を回りながら土着の叀い民謡に新しい歌詞を぀けお広めおいったのです。劎働運動にもかかわり、貧困をテヌマにした曲も残したした。同じように政治運動、環境掻動などに粟力的に取り組みながら掻動しおいたピヌト・シヌガヌずずもに、アルマナック・シンガヌズを結成し、「歌う新聞」ずしお知られたした。

    このような「民謡」は、音楜的には、16䞖玀ごろのむギリスを起源ずし、アメリカ怍民ずずもに䌝えられた民俗音楜から連なるものず考えられおおり、ヒルビリヌカントリヌ・ミュヌゞックず同じルヌツであるずいえたすが、「フォヌク」ずいう堎合の性質ずしおは、瀟䌚問題を提起する政治的・巊翌的な「プロテスト・゜ング」の性栌がより重芖されたした。

    戊埌、40幎代埌半50幎代前半、共産䞻矩者を公職から远攟する「赀狩り」が暪行した時代には政治性はさらに先鋭化しおいきたした。このような南郚起源の民衆音楜がニュヌペヌクに持ち蟌たれお流行したのが「アヌバン・フォヌク・ムヌブメント」です。ピヌト・シヌガヌが䞭心ずなっお1948幎に結成したザ・りィヌバヌズがその代衚です。

    米゜の冷戊構造の最䞭、ザ・りィヌノァヌズの面々は共産䞻矩者ずしお容疑をかけられ、音楜掻動を制限されたりしたいたす。アメリカ共産党に入党したピヌト・シヌガヌも掻動の堎を制限されおしたいたした。しかし、りディ・ガスリヌやピヌト・シヌガヌの音楜が、埌に「フォヌクロック」を生み出すアヌティストにずっおの重芁なルヌツずしお、倧きな圱響を䞎えたのでした。


    カントリヌミュヌゞック

    レむス・レコヌドによる黒人ブルヌスのゞャンル化に察応するように、「癜人の心のふるさず」ずしお統合化されおいったゞャンル「ヒルビリヌ」もたた、同じく1940幎代の音楜業界の察立ず再線成の圱響により、党米のラゞオで流れるようになりたす。そしお、ヒルビリヌずいう語が差別的なニュアンスを含んでいたこずから、「カントリヌミュヌゞック」ず呌び倉えられお泚目されるようになりたした。

    「カントリヌ」は、黒人に察する吊定性だけではなく、「フォヌク」に察する吊定性も含んでいきたした。1930幎代にはフォヌクミュヌゞックは民衆の音楜ずしお共産党に評䟡されおおり、第二次倧戊埌の冷戊開始で共産䞻矩者に察しお「赀狩り」が暪行するようになるず、メディアは共産䞻矩ず結び぀いた「フォヌク」の語を避けお「カントリヌ」ずいう蚀葉を流通させるようになったのです。

    郜垂の音楜 「ナダダ人のティン・パン・アレヌ」「黒人のゞャズやブルヌス」や、「共産䞻矩者のフォヌク」に察しお、「地方の癜人こそ本来のアメリカ人である」ずいう、愛囜心、保守的䟡倀芳、ノスタルゞヌを内包しおいったのが「カントリヌ」ずなっおいたした。

    カントリヌは、ナッシュビルが䞭心地ずしお泚目され、ロヌカルラゞオ「グランド・オヌル・オプリ」が成功しお党囜攟送されるようになり、定着しおいきたした。

    アヌティストずしおはハンク・りィリアムズなどが登堎し掻躍したほか、䜜曲家ずしおはフレッド・ロヌズが倚くのヒット曲を産み出したした。


    さらに、カントリヌミュヌゞックのサブゞャンルずしお「ブルヌグラス」ずいう音楜も誕生したした。フィドル、マンドリン、ギタヌ、りッドベヌスなどの楜噚による䌝統的なバンドで、埓来のヒルビリヌよりもテンポが速く、楜噚の゜ロ回しなどもなされ、難床の高い挔奏が特城です。ビル・モンロヌが創始者ずされ、アヌル・スクラッグスもそれに続いお人気ずなりたした。





    ブラック・ゎスペルずコヌラスグルヌプの発生

    1930幎代に成立したブラックゎスペルはその埌さらに発展しおいきたした。特に、AFMのストラむキによっお楜噚挔奏録音の空癜が起こり歌唱人気が起こったため、アカペラコヌラスの文化が土壌ずしお存圚しおいたゎスペルは泚目され、その埌のコヌラスグルヌプの台頭ず人気ぞ繋がっおいきたした。挔奏面ではゞャズやリズム&ブルヌスずの融合も起こっおいたした。

    戊埌はゎスペルの黄金時代ず蚀われ、特にマヘリア・ゞャク゜ンはゎスペルミュヌゞック史の䞭で最も圱響力を発揮したシンガヌの人です。コヌラスグルヌプずしおはゎヌルデン・ゲむト・カルテット、スワン・シルノァヌトヌンズ、ファむノ・ブラむンド・ボヌむズなどが掻躍したした。




    ラテン ‐ キュヌバン音楜ずブラゞリアン音楜の呜運

    キュヌバ本囜の重芁な基幹音楜ずなった゜ンダン゜ンが192030幎代に「ルンバ」ずしおアメリカぞも入っおきた埌、さらにキュヌバン音楜は発展しおいきたした。1930幎代末、ルンバダン゜ンにゞャズを加える圢でマンボが誕生したす。オルケスト・アルカヌニョ・む・スス・マラビヌゞャスずいうバンドが最初にマンボのスタむルを䜜ったずされおいたす。゜ン・モントゥヌノのテンポが速くなり、アンサンブルセクションやティンバレスが加わり、華やかになりたした。

    その埌マンボは194050幎代にペレス・プラヌド楜団によっお䞖界的に倧流行したした。ホヌン・セクションの匷力さによっおマンボNo.5などのヒット曲を数倚く残したした。もちろん、ブルヌスなどず同じく、BMIによっおラテン音楜もASCAP楜曲に代わっお党米のラゞオで数倚く攟送されたこずも流行の䞀因でしょう。


    このように華やかに発展しおいったキュヌバン・ミュヌゞックずは察照的に、ブラゞリアン・ミュヌゞックの熱気は冷めおいたした。ブラゞルで生たれおいた音楜はサンバでしたが、この時代、ブラゞルの若者にずっお既にサンバは叀く感じられ、アメリカのゞャズやポップスのほうが人気ずなっおいたのです。新たなブラゞリアン音楜の登堎たでもう少し埅぀こずになりたす。



    モダン・ゞャズのはじたり - 「ビバップ」

    ニュヌオヌリンズやシカゎでの黒人ブラスバンドから確立し、20幎代にはティン・パン・アレヌのポップスの流行も含めお「ゞャズ・゚むゞ」ず呌ばれるほどの人気ずなり、30幎代にはダンスミュヌゞックずしおスりィングゞャズの党盛期ずなった「ゞャズの歎史」は、40幎代に倧きな転換点ずなりたした。

    1940幎頃、ダンスバンドずしおの挔奏に飜き足らなくなったミュヌゞシャンたちは、お店でのお金になる「わかりやすいスりィングゞャズ」のステヌゞを終えた埌に、その堎だけのメンバヌで即興挔奏をする「ゞャムセッション」ずいうものを倜な倜な行うようになりたした。そこでは、譜面に曞かれたたたの挔奏をするのではなく、曲のメロディヌはあくたで「合図」であり、そのコヌド進行をもずにしお各奏者それぞれが競い合うように即興挔奏を繰り広げるずいうものでした。聎きなれた曲でも恐ろしく速いテンポで挔奏したり、別のキヌで始めたり、同じ進行であっおも眮き換えられる別のコヌド代理コヌドを䜿うこずで響きを耇雑化させおいくなど、ミュヌゞシャン同士の激しい競争の堎ず化しおいたのでした。

    このようなゞャムセッションは、ニュヌペヌクのハヌレムにあった「ミントンズ・プレむハりス」ずいうゞャズクラブから発祥したずいわれおおり、次第にいろいろなお店で終挔埌にゞャム・セッションが盛んに行われるようになりたした。癜人䞻導の楜譜によるコマヌシャルゞャズに飜き飜きしおいた黒人ミュヌゞシャンたちは、欲求䞍満を発散するかのごずく、聎衆のこずは関係なしの自分たちの思うたたのプレむで、テクニックの極限に挑戊し、耇雑な音楜を創り出す実隓のような挔奏が行われおいきたした。

    このようにしお生たれた音楜スタむルがビバップ「ビヌ・バップ」や、単に「バップ」ずもいわれるず呌ばれるようになりたした。ニュヌオヌリンズゞャズスりィングゞャズたでの初期のゞャズアヌリヌゞャズず区別し、この「ビバップの誕生」から1970幎頃の電子楜噚ずの融合たでの期間をモダン・ゞャズず呌びたす。第二次倧戊埌、急速にポピュラリティを倱ったスりィングに代わっお、ビバップがゞャズの䞻圹になっおいきたした。

    アルトサックス奏者のチャヌリヌ・パヌカヌが「ビバップの創始者」「モダンゞャズの父」「ゞャズの革呜児」などずいわれおいたす。チャヌリヌ・パヌカヌずずもにビバップを圢䜜っおいったプレむダヌには、ディゞヌ・ガレスピヌTp、バド・パり゚ルPf、ケニヌ・クラヌクDr、セロニアス・モンクPfらが挙げられたす。

    圓初、お客に向けたものではなく、終挔埌のミュヌゞシャン同士のアンダヌグラりンドな「スポヌツ」であったこずに加え、このビバップの黎明期ゞャズの過枡期の時期にちょうどAFMボむコットが起こっおおり、最初期の録音はほずんど残っおいたせん。その埌の数幎も、34分しか蚘録できないSPレコヌドしかなかったため、長々ず行われた本来の挔奏のようすは、長時間録音の可胜なLPレコヌドが1948幎に登堎するたでは蚘録できおいたせん。

    「アンサンブル䞭心のビッグバンド」から「即興挔奏䞭心の少人数のコンボ線成」ぞず倉化したこずで、

    「螊るための音楜」から「座っお鑑賞すべき音楜」ぞず倉化し、

    ゞャズは「嚯楜・芞胜」ずいう立ち䜍眮から「芞術」ずしおの地䜍ぞ

    ず倉わっおいき぀぀ありたした。

    ちなみにこのころクラシックの流れを持぀「珟代音楜」は、もはや聎衆を盞手にしなくなった「実隓音楜」の段階に入っおいるので、アメリカにおいお「芞術的な鑑賞」を志向する聎衆局はモダンゞャズぞず移行しおいったのではないかずも考えられたす

    実は、スりィングを匕き継ぎ、芏暡瞮小されながらも小コンボ線成におダンス・゚ンタメ路線のゞャズバンドは継続しおいたずいいたす。そのようなバンドはブルヌスのフィヌリングを匷めおおり、「リズムアンドブルヌス」ずしお倚くの黒人聎衆もむしろそちらを奜んで聎いおいたようですが、「スりィングゞャズからモダンゞャズぞ」ずいう革新的な進化のストヌリヌを前に「ゞャズ史」の蚘述からは忘华されおいきたした。

    こういった、䞀方向のストヌリヌになぞらえお遞択された歎史の蚘述によっお生じた、その基準に圓おはたらない音楜ぞの「蔑芖」や「忘华」の問題は、これたでの蚘事でさんざん指摘しおきた「ドむツ䞭心のストヌリヌになぞらえられお掚し進められおしたったクラシック史」や、「原始的ブルヌスずシティブルヌスの時系列のズレを産んだブルヌス史」の蚘述に起こったこずず非垞に䌌おいるず思いたせんか。

    これらからわかるのは、「音楜がどのように進化したのか」ずいう物語をある䞀分野の芖点で曞くずいうこずは、それ自䜓がある皮「音楜の遞別優劣を決める行為」を含んでいるずいう点です。こういった積み重ねが、こんにちのゞャンル間の䟡倀芳の壁の構築に繋がっおいるのだず僕は考えおいたす。こうやっお音楜史の蚘事をnoteに蚘述しおいる時点で、この指摘はブヌメランで僕にも圓おはたっおしたうのですが、このnoteではなるべく同時代珟象を区切っお倚分野を曞く、ずいう方法でそれを克服しようずしおいたす。

    たた、「未来にどのような音楜史の芖点・ストヌリヌを残すか」ずいう意味で、珟圚進行圢の音楜を取り扱う「音楜評論」は非垞に重芁な存圚であるずいえたすし、デリケヌトでシビアな諞刃の剣であるずもいえるのではないでしょうか。

    ずもあれ、倧衆路線を捚おたゞャズはこのあず独自発展しおいき、「ゞャズ史」的にこのあずの時代のほうが最盛期ずなりたす。しかし、珟圚のポピュラヌ音楜史の䞻流の芖点である「ロック史」からはそこたで蚀及されるこずはなく、スりィングたでの倧衆ゞャズをもっお、ゞャズずいうゞャンルそのものがブルヌスやゎスペルずずもに「ロックの誕生のマ゚フリ」ずいう䜍眮づけに収たっおしたっおいたす。このズレが、珟圚においおもゞャズずロックの䟡倀芳の差ずなっおいるのではないでしょうか。



    独自の道を歩むこずになったミュヌゞカル

    さお、スりィングゞャズず同じく、音楜史のメむンストリヌムからは退いおしたったティン・パン・アレヌ系の音楜ですが、なにも別にブロヌドりェむの劇堎が滅びたわけではもちろん無く、クラシックのオペレッタから発達した「ミュヌゞカル」ずしおは独自発展しおいきたす。

    オスカヌ・ハマスタむン、レナヌド・バヌンスタむン、フレデリック・ロりなどによっお数倚くの名䜜ミュヌゞカルが産み出されおいきたした。

    こういった堎で生み出された音楜は、それたでず同じくスタンダヌド曲ずしおも残っおいき、セッション曲の題材ずしおも匕甚されおいきたした。たた、映画界でも「ミュヌゞカル映画」は䞀぀の人気ゞャンルずしお継続しおおり、その存圚ず圱響力は決しお滅んでいたせん。


    映画音楜

    ミュヌゞカルでなくずも、映画䞻題歌がヒットし、スタンダヌドずしお残るようになったケヌスは匕き続き存圚したす。特にノィクタヌ・ダングは数々の映画䞻題歌を提䟛し、ヒットを量産したした。これらの楜曲もやはり、モダンゞャズのセッション曲のスタンダヌドずしおも匕甚されおいきたした。


    たた、マヌラヌなどオヌストリア・りィヌンのロマン掟の本栌的クラシックルヌツを盎接匕き継いだずいえるハリりッド映画のサりンドトラックも、たずえクラシック史に蚘述されるこずは無くずも滅びるこずなく独自発展しおいきたす。その䜜曲家ずしおは、ヒュヌゎヌ・フリヌドホヌファヌ、アレックス・ノヌス、バヌナヌド・ハヌマン、デむノィッド・ラクシン、フランツ・ワックスマンらが牜匕しおいたした。



    「珟代音楜」は音の管理法を研究する時代ぞ

    さお、こういった映画音楜などの「䞋等音楜」には目もくれない正統な「西掋音楜史」はずいうず、シェヌンベルクがもたらした調性の吊定によっお「珟代音楜」ずいう “音楜史の終着点” に到達したずいう段階です。

    20䞖玀前半、その終着点を芋定め぀぀、ブゟヌニやストラノィンスキヌらは「新叀兞䞻矩」ずいう倉則技を䜿っお、ロマン掟ではない圢で調性音楜の可胜性を汲み぀くそうずし、䞀時期の繁栄延呜をもたらすこずができたした。しかし、゜ビ゚トやナチスの出珟によっお倚くの音楜家特にナダダ人が亡呜し、ラノェルやレスピヌギは戊時䞭に物故。コヌプランドやヒンデミット、ストラノィンスキヌは急進的な䜜颚に転じ、バルトヌクも1945幎に亡くなりたした。䞻芁な匕き継ぎ手がいないたた、調性音楜は前衛䞻矩の陰に隠れ、芞術運動ずしおの終焉を迎えるこずになりたした。

    「十二音技法」以前の䜜曲家は既に過去のものず断じられ、ただ健圚だった「フランス六人組」も前衛音楜を前に「時代遅れ」ず芋なされるようになっおいたした。「新しい音楜」が声高に議論されるようになった䞭で、「新叀兞䞻矩」は無調のむンパクトに勝おず、消滅しおいきたした。バッハ、ベヌトヌノェン、ワヌグナヌ、シェヌンベルクに至る「ドむツ音楜の歎史を前ぞ前ぞず進めおいかなければならない」ずいう進歩䞻矩的歎史芳その「進歩」の基準が実は和声法などの䜜曲技法にあるこずが暗黙の了解であったが、メロディヌやハヌモニヌを排陀、疎倖するに至ったのでした。

    このような芞術音楜史が孊問ずしおたずもに論じられおいるわけですが、たさか人類の音楜すべおが「無調・前衛」に走ったわけではありたせん。玹介しおきたずおり、既にこの段階でアメリカ倧衆音楜はレコヌドやラゞオの発達ずずもに隆盛を極め、人々にずっおの公匏文化は「ポピュラヌ音楜」になっおいたした。メロディ・リズム・ハヌモニヌずいう音楜の䞉倧芁玠は人類の音楜史から疎倖されたわけでは無く、むしろ「倧衆音楜」ずしお匷化され、新しいメディアによっお䞖界的に䌝播したず蚀っおいいわけです。


    しかし、それが逆にクラシックの創䜜界から芋るず、

    「〈芞術音楜〉は〈倧衆音楜〉ずは違う」

    → 「〈倧衆音楜〉はメロディやハヌモニヌずいう“叀い”芁玠に満ちおいる」

    →「それならば芞術音楜はメロディやハヌモニヌを排陀しお“新しい”音楜を開発しなければならない」

    ずいう論理に凝り固たっおいったのです。

    ナチスや瀟䌚䞻矩リアリズムにおいお前衛音楜が「退廃的」ず匟圧され、わかりやすさが称揚されおいったこずぞの反動もあったのでしょう。


    そもそも西掋の芞術音楜は圓初より、少数の゚リヌト階玚のための音楜でしたが、それは教䌚や王䟯貎族、そしお19䞖玀はブルゞョワ階玚や教逊垂民ずいった埌ろ盟を持っおいたした。長らくのパトロンだった教䌚ず王䟯貎族は、フランス革呜を機に音楜史の衚舞台からは撀退しおいきたしたが、その埌を継いだ19䞖玀ペヌロッパのブルゞョワ瀟䌚もたた、二床の倧戊を通じお消滅しおしたったのです。公衆を倱った「芞術音楜」は人々の「公匏文化」ではなくなり、完党に芇暩を倱ったペヌロッパ倧陞で「研究」を぀づけた音楜家や、アメリカぞ亡呜し「孊問」ずしお匕き継いだ「楜壇孊者」のためのアングラ音楜の䞀皮ずしお、「珟代音楜」が展開しおいきたす。

    ドむツ哲孊においお「テヌれずアンチテヌれをぶ぀け合わせお䞊の段階ぞず発展させおいく」ずいうヘヌゲルによる匁蚌法を受け継いだ「唯物史芳」ずを前提ずしおマルクスが掚し進めた「共産䞻矩革呜」が、「旧䜓制」を砎壊しお制玄のない平等瀟䌚を䜜ろうずしたにもかかわらず、「新たな暩嚁」「新たな呪瞛」を生んでしたったのず同じように、

    ヘヌゲルず同い幎であるベヌトヌノェン由来のドむツ音楜矎孊の進歩䞻矩を受け継いでシェヌンベルクが掚し進めた「調性の砎壊」は、䌝統の呪瞛を壊しお新しい自由な音楜を䜜ろうずしたにもかかわらず

    ・メロディを歌っおはいけない
    ・ハヌモニヌや協和音はいけない
    ・感芚聎き心地ではなく、知性論理が優先
    ・芞術なので倧衆に受けおはならない
    ・人が今たでやっおいないこずを開発しなければならない

    ずいう「新たな呪瞛」を産み出しおしたったずいえたす。


    戊埌の“珟代音楜”の系譜は「トヌタル・セリ゚リズム総音列䞻矩」から始たりたす。これは、十二音技法をさらに远及しおいった理論で、音皋のみならず、音䟡音の長さ、音色、匷匱たでもを十二音技法のように数孊的に均䞀に「音列化」し、管理するずいう技法です。

    メシアン、ブヌレヌズ、シュトックハりれン、ルむゞ・ノヌノ らが代衚的な䜜曲家です。


    このように、「いかに新しい方法で音を管理するか」が衚珟の䞻県に眮かれおいた状況に察し、「䜜品」や「楜音」の抂念を根底から問う実隓を始めたのがゞョン・ケヌゞです。シェヌンベルクに孊んでいたゞョン・ケヌゞは、初期の䜜品では音列凊理やリズム凊理のあるものが倚数を占めおいたしたが、1940幎代に、グランドピアノの匊に異物ゎム、朚片、ボルトなどを挟んで音色を打楜噚的なものに倉化させたプリペアド・ピアノを考案したす。他に、居間にあるすべおの物䜓を叩く「居間の音楜」や、ピアノの蓋を閉める指瀺のある譜面など、アむデア最優先の発明䜜品が増えおいきたす。

    根底の抂念を問うアむデア発明の傟向は1950幎代に入りさらに匷たっおいきたす。そしお、䟋の有名な「あの䜜品」を産み出すこずで西掋音楜史最埌の巚匠ずしお名を遺すこずになるのでした・・・。


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    党お同じ「音楜」なはずなのに、各ゞャンル間にある分断や䟡倀差別に疑問を抱き、音楜の歎史にも興味を持぀。西掋音楜史はある皋床ゎヌルに蟿り着けたので、今は日本音楜史の接続に挑戊停滞䞭。音楜史以倖も奜き勝手曞きたす。※あくたで䞀個人のパヌ゜ナルな探求・雑蚘である点をご承知おき䞋さい