
寺子屋宗次郎/3. 田植えの季節
元赤穂藩士だが、吉良邸に討ち入った四十七人に選ばれず、選ばれなかったことを知りもしない中山宗次郎。
備中の山あいの村で寺子屋の教師として、妻子とともに日々を送っていた。
原案・編集・発行:K_Kameno
執筆:ChatGPT(OpenAI)
挿絵:生成AI(人間による構図・表現の指定と選定)
前回はこちら:
宗次郎一家が暮らす村に、田植えの季節がやって来た。
朝から村は賑やかだった。水を張った田には人が並び、苗を植える女たちの声が、あちらこちらから聞こえてくる。
寺の境内にも、初夏の陽が差していた。
ところが、寺子屋は妙に静かだった。
いつもなら、太吉が誰かと騒ぎ、お春がそれをたしなめ、ほかの子どもたちも負けじと声を上げる。
宗次郎が「静かにせぬか」と言わなければ、手習いが始まらないほどである。
今日は、その太吉とお春、それに宗次郎の娘のお千代の三人しかいない。
お千代は、がらんとした部屋を見回して言った。
「父上、田植えで、みな忙しいのですね」
「うむ」
宗次郎は短く答えた。
そして、渋い顔になった。
お千代は、その顔を見逃さなかった。
「父上?」
「なんじゃ」
「父上も、田植えをなさいました。母上も、千代もお手伝いしました」
宗次郎は黙った。
嫌な話を持ち出してきよって……と、思った。
藩を離れ、百姓として生きていこうと決めたとき、宗次郎は、農業を少々甘く見ていた。
武士とて、米のことを知らぬわけではない。まして宗次郎は勘定方であった。石高も年貢も、米の値も、帳面の上ではよく知っていた。
だが、米を数えることと、米を作ることは、まるで違った。
田に入れば足を取られ、腰をかがめればたちまち痛くなる。
苗を植えれば列が曲がり、隣の百姓に直される。
「もっと浅く植えなされ」
「間を揃えなされ」
「旦那、それでは苗が浮きますぞ」
言われるたびに、宗次郎は「承知した」と答えた。承知はしたが、体が承知しなかった。
そのうえ、稲の育ちも思わしくなかった。
結局、庄屋から借りた田を返し、今は寺で子どもたちに手習いを教えている。
「父上は、田植えがお嫌いなのですか」
お千代が尋ねた。
「嫌いではない」
「では、お得意ではなかったのですね」
「……お千代」
「はい」
「手習いを始めなさい」
お千代は、にっこり笑って筆を取った。
その様子を見ていた太吉が、口を開いた。
「先生、おらの父ちゃんも田植えは下手だぞ」
「ほう」
「木を伐るのは上手だけどな。田んぼに入ると、すぐ転ぶんだ」
「そうか」
「だから、田植えには呼ばれねえ」
太吉は、少し得意そうに言った。
「父ちゃんは、山の仕事が忙しいからな。おらも、今日は手伝わなくていいんだ」
宗次郎は、思わず笑いそうになった。
「そうか。人にはそれぞれ得手不得手があるものだな」
「先生は、木を伐るのも下手か?」
「やったことがない」
「じゃあ、今度、父ちゃんに教えてもらえばいい」
「遠慮しておこう」
お春が、くすりと笑った。
「太吉、それでは先生が、お百姓をしくじり、木こりにもしくじることになってしまうでしょう」
「!」
息を飲んだのは、お千代だった。
お春は、しまったという顔をした。
宗次郎は咳払いをした。
「うむ……田植えが下手であったことは、事実では、ある」
しばらく沈黙があった。
やがて、お春が言った。
「でも、お祖父さまは、先生のことを褒めておられました」
「わしを?」
「はい。田仕事はからきしだったが、帳面をつけるのは大したものだと」
宗次郎は、少し顔を上げた。
「そう申しておられたか」
宗次郎は、赤穂藩の勘定方ではあったが、今、この寺子屋の帳面をつけているのは、妻のお澄だ。
宗次郎は、少し複雑な気分になった。
お春が続けた。
「それから、寺子屋を始めてくださって、村の子どもたちが字を覚えるようになったのは、ありがたいことだと」
宗次郎は、何も言わなかった。
「でも、お祖父さまは、こうもおっしゃいました」
「何と?」
「先生は、もう少し人に頼ることを覚えた方がよい、と」
太吉が大きな声で笑った。
「先生はおらたちのことを叱るが、先生も、庄屋さまに叱られてる!」
「叱られたわけではない」
宗次郎は答えたが、少々自信がなかった。
お千代は、筆を置いて父を見た。
「父上」
「何だ」

「父上は、お百姓にはなれませんでしたけれど、寺子屋の先生にはなれましたね」
「……うむ」
無邪気な顔で、言いにくいことを言う娘だ。
「でも、寺子屋の先生だって、お百姓さんたちがいなければ困りますね」
宗次郎は、がらんとした部屋を見回した。
確かに、その通りだった。
子どもたちが田植えに出てしまえば、寺子屋はこの有様である。
ここひと月ほどは、田植えで忙しい農家からは月謝を取り立てるわけにはいかない。
「そうだな」
「お百姓さんたちも、先生がいなければ、困ることがあるのでしょう?」
「そうあってほしいものだ」
宗次郎が答えると、お千代は少し首をかしげた。
「では、よいではありませんか」
「何がだ」
「父上は字を教えて、お百姓さんたちはお米を作る。それで、みんな暮らしていけるのでしょう?」
宗次郎は、娘を見つめた。
なるほど、道理である。
お千代の言うことに、間違いはない。
だが、道理がわかったからといって、胸のつかえが取れるものでもなかった。
武士を辞め、百姓として生きていこうと決めた。
それなのに、百姓としても一人前になれなかった。
その思いは、まだ宗次郎の中に残っていた。
「お千代」
「はい」
「お前は、なかなかよいことを言う」
宗次郎は笑ってみせた。
娘を喜ばせたい気持ちは、本当だった。
お千代も嬉しそうに笑った。
そのとき、太吉が手を挙げた。
「先生!」
「何だ」
「おら、字を書くより木を伐る方が得意かもしれねえ」
「まだ木を伐ったことはあるまい」
「でも、父ちゃんの子だからな」
「父親に似るとは限らぬぞ」
「じゃあ、先生の子のお千代も、字を書くのが下手かもしれねえな」
お千代が、ぷっと吹き出した。お春も笑った。
宗次郎は、しばらく太吉を見つめていたが、やがて言った。
「……太吉」
「何だ、先生」
「お前は、なかなか口が達者だな」
「へへへ」
「その達者な口で、今から『田』という字を十回読め」
「十回も?」
「それから、十回書け」
「ええっ!」
お千代とお春が声を上げて笑った。
「先生! 『田』って字は、四角の中に十を書くんだよな!」
「そうだ」
「じゃあ、もう十回書かなくてもいいだろ!」
「それとこれとは別だ!」
三人が、また笑った。
寺子屋に、いつもの賑やかさが少し戻った。
その日の昼過ぎ。
宗次郎が手足を伸ばそうと、寺の門を出ると、近くの小川で、田植えを終えた百姓たちが泥のついた足を洗っていた。
田には、植えられたばかりの苗が、真っ直ぐに並んでいた。
一人が宗次郎に気づき、笑顔で会釈した。ほかの百姓たちも、次々に頭を下げた。
宗次郎は、黙って頭を下げた。
そして、そそくさと寺の中に戻った。
