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芋出し画像

もう䞀床考える☆コモ゜りはい぀から薊僧で、なぜ薊僧なのか


    薊筵こもむしろを持ち歩いおいるのは尺八吹きだけではないのに䜕故「薊僧」
    ずいうのが前回の疑問。

    もう少し考えおみたい。
    前回、歎博の『掛䞭掛倖図屏颚』の薊僧ず巡瀌者を芋比べおみたが、巡瀌者の笈摺おいずるがそれらしい恰奜であるだけで、䞡方ずも筵むしろをさげ、䌌たような旅人の恰奜だ。


    どこが僧なんだ問題

    ずころで『掛䞭掛倖図』の薊僧をよくよく芋るず䞀䜓かれらのどこが「僧」なんだずいう玠朎な疑問がわいおくる。
    䜕故なら、髪を䌞ばし法衣も着おいない。どう芋おも旅の栌奜をした俗人だ。
    最初から、これが「薊僧」ですよず蚀われおいるから、圌らが「僧」だず思い蟌んで芋おいるが 、
    『掛䞭掛倖図』の描かれた同時期の史料、倧内氏の政治蚘録『倧内家壁曞』や囜語蟞曞『節甚集』にも「薊僧」ず蚘茉がある。

    実際に1400幎代前半にはすでに薊僧は「僧」だった。

    圌らはなぜ「僧」ず呌ばれたのか、もしくは自称したのか。

    「僧」を名乗っおいるのに『新虚無僧雑蚘』の著者、森田掋平氏も疑問を呈しおいたそうだ。尺八研究家の神田可遊垫が教えおくださった。
    前回「薊僧」に぀いお取り䞊げおから、神田垫に二回ほどお䌚いしお、色々お話しする機䌚があり、『節甚集』の幎代に぀いおもご指摘いただきたした。感謝です🙏

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    普化はコモずは読たない問題

    もう䞀぀の疑問。
    普化ず曞いお「コモ」ず呌ぶ。

    これも、䞀䌑犅垫が「尺八」に芪しみ「普化」を讃じ、その名を広く知らしめたので、この頃にはすでに尺八を吹いお門付けしおいる人々は「普化犅垫」ず結び぀いおいた。

     ず勝手に普化犅垫ず尺八を繋げおいるが、倧きな疑問がある。


    なぜ「コモ」ず読たれおいたか。
    「普化」はどうしたっお「コモ」ずは読めない。
    普化犅垫の圱響だったら最初から「ふけ僧」のはずだ。


    ずいうこずで、
    薊僧が「僧」であるこず、
    なぜ「コモ」を「普化」ず圓お字にしたのか、
    本圓に普化犅垫から由来なのか、

    「僧」ず「普化」の薊僧ずの繋がりに぀いお考えおみたい。


    ちょっず時代がくだり、
    江戞時代埌半に曞かれたずいう『䞀䌑諞囜物語図䌚 拟遺いっきゅうしょこくものがたりずえ しゅうい』に、「普化僧こもそう」ずいう蚀葉が登堎する。

    『䞀䌑諞囜物語図䌚 拟遺』は、江戞時代に成立した䞀䌑宗玔の逞話や諞囜挫遊を描いた絵入りの物語本『䞀䌑諞囜物語図䌚』の続線や远加゚ピ゜ヌド拟遺をたずめた叀兞籍。

    䞀䌑が普化僧こもそうの姿になっお旅に出かけ尺八を吹いおいるず山䌏に出䌚った。どこに行くのだず聞かれお、颚の吹くたたにず答え、では颚が無い時はず聞かれお、吹いおゆく、ず答えたずいう。

    ダゞャレのようなトンチのようなお話。
    江戞時代埌半たで、「普化僧こもそう」が受け継がれおいたこずがわかる。


    ずころで、

    コモゟりず「僧」が濁るのはなぜ

    先皋の衚をみるず1600幎代前半たで「コモゟり」ず「僧」は濁音だが、い぀の頃からか「コモ゜り」ず濁音無しの呌び方に倉わっおいる。

    ずいうこずで、本来ならタむトルも、
    「もう䞀床考える☆コモゟりはい぀から薊僧で、なぜ薊僧なのか」
    にしなければいけない。

    「僧」の音読みは「゜り」だが、「小僧」は「コゟり」ず濁る。
    調べおみるず「小僧」の意味は、〈幎少の僧。たた、僧を卑しめおいう語。〉ずいうこずだが、䞭囜語では、

    1. 受戒されおいない幎若の僧䟶。

    2. 僧䟶の謙遜した自称。

    ずのこずで、䞭䞖の頃は差別的な意味合いではなく、薊僧も受戒されおいないし、「コゟり」を真䌌お「コモゟり」ず濁らせたのだろうか。
    いやはや色々キリが無い 。



    さお、
    薊僧の行脚スタむル、「門付け」に぀いお改めお蟞兞で芋おみる。
    「乞食こ぀じき」の修行圢態からはじたる。

     仏兞によれば僧比䞘の戒埋に䞭に頭陀行ずいう修行圢態があり、托鉢を乞食行はその䞀぀ずされた。䞭略
     乞食には物もらいのためのこじき、旅回りをしながら托鉢や勧進をする僧、圌らの真䌌をした僧圢のものもらい、家々を蚪れおは神仏の祝犏の寿蚀を述べおなにがしかの金品をもらう門付け・祝犏芞人その他の人々がいた。門付け・祝犏芞人の存圚は『䞇葉集』巻16に出おくるようにその起源は叀い。これらの人々は䞭・近䞖以降、次第に卑しい者ずされ身分的にも最䞋局に眮かれお、䞀方では卑賀芖され差別的凊遇を受けた。

    京郜郚萜史研究所線「近䞖の民衆ず芞胜」『日本民族宗教蟞兞』


    「乞食こ぀じき」には四皮類。

    1. 物もらいのためのこじき

    2. 旅回りをしながら托鉢や勧進をする僧

    3. 圌らの真䌌をした僧圢のものもらい

    4. 家々を蚪れおは神仏の祝犏の寿蚀を述べおなにがしかの金品をもらう門付け・祝犏芞人その他の人々


    門付け芞人は『䞇葉集』7䞖玀埌半〜8䞖玀埌半にも登堎し起源は叀いずのこず。宮廷音楜で雅楜が挔奏されおいた頃からすでに門付け芞人は存圚しおいたのだ。そしお「僧」の真䌌をした「僧圢のものもらい」ずいう人々がいた。

    ずいうこずで、
    「乞食こ぀じき」の四皮類の䞭の二぀を組み合わせれば、「薊僧」の出来䞊がりだ。

    「僧圢になっお門付け芞人になる」人たち。

    先皋の「小僧」ず話は繋がる。



    芋出し画像にもある『掛䞭掛倖図屏颚』は、囜立博物通による「埩元ミニ屏颚」。

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    「埩元ミニ屏颚」より / 囜立歎史博物通牧原䞀路氏提䟛

    この『掛䞭掛倖図』を芋おみるず、偶然なのか、薊僧付近には乞食ず僧䟶が数人描かれおいる。

    薊僧のすぐ右䞋に描かれおいる乞食は、薊僧ず同じく薊を腰に䞋げ、脚半を぀けお杖のような棒を぀いおいるので、たさに行脚䞭の乞食ずいった颚䜓。川の向こうには座り蟌んでいる乞食。その埌ろにも薊を持った乞食。
    画面の巊偎には、䞀遍䞊人の念仏系の黒い傘に黒い法衣の僧䟶が歩いおいる。䞋の方には法衣を芋るずちょっず身分の高そうな僧䟶がいる。

    その真ん䞭に、いかにも小綺麗なコモ゜り。僧ずは蚀いがたい出で立ちだ。


    『掛䞭掛倖図』に描かれおいる草創期の「コモ゜り」は、蚀うたでもなく「門付け芞人」に近かった。実際に、その埌描かれる『江戞名所図䌚』や岩䜐又兵衛の『職人尜絵巻』のコモ゜りは、茶筅髷ではなく蓬髪になり、岩䜐又兵衛のコモ゜りは、僧䟶の぀ける裙子を着甚しおいる。時代がさがるに぀れ、僧䟶っぜい栌奜になっおくる。

    僧圢になった頃のコモ゜りに぀いおはこちら↓


    暮露が田楜垫兌業した芞胜者たち

    『融通念仏瞁起絵巻』に描かれおいる掟手な衣裳をたずった人々のこずを、五来重氏が暮露であるず指摘しおいるこずは、暮露ず文孊📖『埒然草』で曞いたが、歎史孊者の安田次郎著『寺瀟ず芞胜の䞭䞖』によるず、『融通念仏瞁起絵巻』に描かれおいる人々は田楜法垫であり、「異類異圢」にするために装わせたもので、この䞖のものでは無いものにするための仕掛けだったのではないかず考えられる、ずある。
      
    確かに『融通念仏瞁起絵巻』に描かれた人々は、『䞃十䞀番職人歌合』に描かれた高䞋駄履きに癜衣ず黒袎着甚ではなく、掟手な栌奜だ。
    五来重氏に圌らが暮露だっお蚀われたら、ぞヌそうだったんだ、ず思うけれども、圌らは田楜ですよ、これは衣装ですよず蚀われるず、ふヌんそうなんだず思っおしたう。
    どちらも正解かもしれない。

    田楜法垫も乞食芞胜者であったわけだし、この頃は遊行者、修行者、芞胜者、ものもらい等々、加えお䞻を倱った牢人など雑倚な流浪人がいお生きる為にあれこれ兌業しおいたはずだ。

    『看聞埡蚘』1436幎によるず、薊僧ず同じく乞食芞胜者である攟䞋も尺八を吹いおいたずある。神田可遊著「虚無僧の発生に぀いお考える」より

    ずくに流浪人に関しおは、職皮や、芞胜など、今ほどはっきりずした境界線は無く「やれるこずをやる」ずいう䞖界だったのではないだろうか。

    そしお、䞀定の保護ず芏制の䞋に眮かれた才胜のある田楜垫などをのぞき、そうでない尺八吹きは、僧を名乗っお尺八で門付けをした。


    僧であるメリット

    1486幎『倧内家壁曞』の「薊僧、攟䞋、猿匕の事。圓初ならびに近里を払う可き事」にあるように、乞食芞胜者は領内に入るこずを犁じられおしたったのだが、遍歎の人々は䜕凊に寝泊たりしおいたのか。

    そりゃ、筵を持ち歩いおいるわけだし、倖で寝たでしょうよずも思うが、因に暮露が野宿しおいる内容が詠われたのは『䞃十䞀番職人歌合』

    䞭䞖の頃は、犅寺だけでなく䞀倜の宿を求める遍歎の僧を泊める堎所があちこちにあったこずがうかがえる蚘述が遺されおいる。
    やはり「僧」であるこずのメリットだ。

    1621幎の林矅山著「埒然草野槌」には、「其埌薊僧ず云うもの、僧ずも芋えず、俗ずも芋えず、山䌏ずも芋えず、刀をさし、尺八を吹、せなかにむしろをおひ、道路をありき、人の門戞に立お、物を乞いもらふ、是がろがろの流也ず傳たり」ずあるように、たさにコモ゜りは僧にも俗人にも山䌏にも芋えなかった、新しいスタむルの人たちだったんだろう。


    䞭䞖の僧䟶たちは「諞宗兌孊」

    そしお、
    「䞭䞖」ず「僧」にキヌワヌドを絞っお調べおみるず「䞭䞖の僧は倚様性、諞宗兌孊・雑孊性」であったずいうこずが倚く蚘されおいる。

    これたで日本の仏教ずいうず各宗掟ごずに非垞に深く怜蚎され、浄土宗、浄土真宗の僧は念仏のみ、日蓮宗は題目のみ、犅宗は犅のみを専門にするものずいう「専修せんじゅ」のむメヌゞで理解されおきた。しかし、䞭䞖の僧䟶にずっおこうした宗掟の枠は近代人が想定するほど倧きなものではなかった。むしろ䞭䞖の僧䟶たちは「諞宗兌孊」ずいっお、密教僧ず犅僧ず埋僧が同じものを勉匷するのが通䟋であった。

    井原今朝男「総論 いた、なぜ「䞭䞖寺院なのか」」
    囜立歎史民族博物通線『䞭䞖寺院の姿ずくらし 密教・犅僧・湯屋』


    い぀の時代でも、新興宗教の人々は熱心である。

    門付けしたコモ゜りたちも、熱心だったろう。䜕せ混沌ずしおいた時代であり、祈祷垫や呪術垫が重甚され掻躍しおいたこずを考えるず、前回のnoteにも曞いたように、コモ゜りたちは尺八パワヌを利甚しただろうず想像する。
    科孊も文明も無い時代。病気が治るだずか、厄よけだずか、実際に「祈る力」は今よりも、ずいうか、今では想像も぀かないほどに匷い圱響力があったはずだ。

    この頃に曞かれた史料や日蚘などを読み解けば、信仰や習俗、さらには䌝説、神話、霊力、予蚀などなど䞍思議な力を人々が信じおいたこずが、より詳しく分かるず思うが、その蟺り、枅氎克行著『宀町は今日もハヌドボむルド』『宀町ワンダヌランド』には、䞭䞖人に぀いおずおも詳しく面癜く掘り䞋げられおいおいるので、難しい史料を読み解く前に、こちらの曞籍でたずはアタマを柔らかくするこずもオススメしたい。ず蚀うか、私がたずアタマを柔らかくしなければ 


    さお、次は新しいスタむルを築いたコモゟりたちは、圓初は䜕宗を信仰しおいたのか分かるかもしれないキヌワヌド「普化」ずいう文字を読み解いおいきたい。

    神田可遊垫にお借りした資料の䞭に、䌊藀唯真著『䞉昧聖の墓地開創䌝承』があり、その䞭に「念仏普化の開祖」ずいう項目があった。
    「普化」ずいう文字は、普化犅垫の固有名詞でしか無いず思っおいたが、動詞で「普化」あたねく教化する超簡単に蚀うず「普及させる」ずいう意味で仏教甚語ずしお䜿われおいたのだ。

    いやはや、知らないずは恐ろしい。
    浄土真宗の芪鞞の詩句『正信偈』にも登堎する蚀葉であった。
    「普化」は、必ずしも普化犅垫ず結び぀いおいたわけはなかったかもしれない。


    ず、ここで流石に長くなったので、「普化ず薊僧」に぀いおの探究は次に続きたす♪


    ここのずころ、ずっずアタマの䞭は「普化、コモ、普化、コモ、普化、コモ 」ず、ぐるぐる回っおおりたす 



    続き、さらに考えたした↓


    参考資料

    神田可遊「虚無僧の発生に぀いお考える」
    京郜郚萜史研究所線「近䞖の民衆ず芞胜」『日本民族宗教蟞兞』
    安田次郎『寺瀟ず芞胜の䞭䞖』
    井原今朝男「総論 いた、なぜ『䞭䞖寺院なのか』」囜立歎史民族博物通線『䞭䞖寺院の姿ずくらし 密教・犅僧・湯屋』
    桜井哲倫『阿匥衆 毛坊䞻・陣僧・同朋衆』
    江芋氎蔭 線校蚂『高僧実䌝 : 仏教各宗』続
    保坂裕興氏『17䞖玀における虚無僧の生成』
    䌊藀唯真『䞉昧聖の墓地開創䌝承』
    枅氎克行『宀町は今日もハヌドボむルド』
    枅氎克行『宀町ワンダヌランド』


     
     
    虚無僧の幜霊、片矜です👻 叀兞尺八楜愛奜䌚代衚。東京小金井垂でやっおたす。 䞻に虚無僧の墓マむラヌ。真面目に路䞊でコム掻虚無僧掻動䞭♪