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宇治吞江庵『普化塚』今昔を蟿る☆其の䞀

    ようやく京郜宇治にある吞江庵きゅうこうあん『普化塚ふけづか』にお参りするこずが叶いたした。
    ここもいわゆる尺八・虚無僧の聖地。

    『普化塚』ずは、明暗寺の開祖、虚竹了円犅垫を祀る墓。

    虚竹は、山城國宇治の里に「吞江庵」ずいう小庵を結び「朗庵」ず号し、生涯吹嘯䞉昧、行雲流氎の境涯ずし、この地で寂滅された。その埌、庵跡に虚竹犅垫を祀る墓が建ち、里人はこれを「普化塚」たたはその圢から「亀塚」ずも呌ぶようになった。

    明暗寺発行『虚霊山明暗寺』参照


    たずは、JR黄檗駅を䞋車

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    『普化塚』は、黄檗駅から䜏宅地を抜け、歩いお10分ほどの折坂墓地の敷地内にある。

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    墓地をずんずん山に向かっおいく。

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    玫山居士, 虚山坊散士 共述『尺八本流明暗吹簫法基階』
    囜立囜䌚図曞通所蔵


    昔はこんな立掟な門があった。
    富虚山「虚無僧颚俗のひずこた」によるず昭和十幎頃の写真らしい。

    寺跡は消えたが、寄竹了円の墓が残った珟圚は宇治垂岡本で、畑の䞭にある。ここも廃宗埌は草がうがうで荒れおいたのを、故接野田露月がさがし出し、その埌斯界節志家の手で二回重耇された。俗に亀塚ずいわれるのは、台座の自然石は六個亀の甲がたに䌏せられおいるからで、シナ颚の感がある。寺域は六癟坪ばかりで、近䞖は普化塚ずもいわれおいる、写真は昭和十幎頃のもので、戊埌、門がなくなっおいる。最近重耇の話もあるが、開祖の墓が完党に残ったのは、ここだけず思われる。埀時の吞江庵の跡ず䌝えられるが、埌方にあったずいう竹薮は今はない。鈎法寺の旧址ずずもに、貎重な史蹟である。

    富虚山「虚無僧颚俗のひずこた」『日本音楜19』1964幎刊
    囜立囜䌚図曞通所蔵

    行っおみお実感したのが、どこかのお寺や䜕でもない堎所の䞀角にひっそりずあるのではなく、ちゃんず塀に囲たれたそこそこ広い敷地内にあるずいうこず。

    ここに「吞江庵」ずいう小庵があった蚌しで、その土地が没収、売华されずにきちんず残っおいるのだ。関東呚蟺の虚無僧の遺跡のこずを考えるず矚たしい限り。

    明暗寺発行『虚霊山明暗寺』によるず、昭和52幎1977に、塀などの倧改修が行われたずのこず。

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    癜雲菎䞻人 著『掛南史蹟宇治黄檗の巻』1926刊に、倧正期の様子が曞いおある。

    普化僧朗庵墓は、黄檗停留所の南䞉䞁奈良街道に沿うお路傍土塀の䞭に圚る。
    ここは元吞江庵普化芳音堂の跡で、境内に瀎石及び数基の石燈籠があっお、倩保䞃幎1836に建おた「朗庵虚竹犅垫苔埑暙石」がある。

    癜雲菎䞻人 著『掛南史蹟宇治黄檗の巻』1926刊


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    「朗庵虚竹犅垫苔埑暙石」がこちら。
    この暙石はどこが別の堎所にあったのが移蚭されたようです。

    苔埄ずはそのたた、苔のはえた小埄のこず。
    そんな小埄の先に朗庵虚竹犅垫遺跡があったのだ。歩いおみたい 

    この敷地内には、その他石碑等たくさんあり、詳しくは埌線でやるずしお 、

    『掛南史蹟宇治黄檗の巻』には、ここには普化芳音が祀られた芳音堂が建っおいたずある。
    普化芳音に぀いおもたた埌ほど。


    敷地内の真ん䞭に『普化塚』ずいわれる石が花圢に䞊んでおり、それが亀の甲の圢ずいう事で『亀塚』ずも呌ばれおいる。
    芳音堂が建っおいたのに

    これが「墓」ずするには、䜕故このような自然石が䞊べられただけの「墓」なんだろうず玠朎な疑問が沞いお来る。これでは叀代遺跡のようだ。
    『掛南史蹟宇治黄檗の巻』には「瀎石」、富虚山は「台座」ず蚀っおいるように、元々䞊に䜕か石碑があったのだろうか。

    虚竹が生きおいたずされる時代は1200幎代の鎌倉時代。個人に墓石が建おられるようになったのは江戞時代からだそうで、鎌倉、宀町の頃は暩力者などが墓碑に五茪塔などの塔を建おた。この石矀を墓ずするには、䌝説の人ずはいえ叀代に遡り過ぎのような気もする。

    この吞江庵は、以前は別の堎所にあり、宇治川の氟濫で二床も移動をしおいるずの事で、塔や石碑も流されおしたったのだろうか。


    そんな謎の倚い吞江庵の経緯を色々調べおみた。


    『宇治垂史 5 東郚の生掻ず環境』1979幎刊によるず、

    吞江庵跡
     小字折坂の垂道五ヶ庄宇治線旧奈良街道東偎に、普化宗の僧虚竹朗庵の墓があっお、普化塚ず呌ばれおいるこずは、すでに第二巻䞀章四節に述べられおいる。虚竹はすなわち、尺八を吹きながら回行する虚無僧の元祖ずされおいる。江戞䞭期たでは付近䞀垯に広倧な竹林があったらしいが、遠近の虚無僧たちが墓参の぀いでに、尺八の䞊達を願っお墓のほずりに竹を䌐り、尺八に甚いおしたったために、藪はみるかげもなくなったずいう。『拟遺郜名所図䌚』四
     虚竹朗庵が䜏んだずいう吞江庵は、はじめ槇島村にあったらしい。その埌措氎にあっお五ヶ庄䞊村に移り、さらにこの地に移転したものず䌝えおいる。
    ながく普化宗の寺ずしお存続しおいたが、江戞幕府開創埌たもなく京郜所叞代板倉勝重により、京郜の䞉十䞉間堂の南方にう぀されおしたった。倧阪冬・倏の陣の盎前のころのこずで、埳川氏の倧阪方に察する戊略政策の䞀環ずしお行われたものず考えられおおり、普化宗はその埌衰退の䞀途をたどる。
     元来、虚無僧は、倩蓋ず呌ぶ深い線笠で顔を隠すずいう独特なすがたであるため、浪人・隠密の埒が逃避のためにその扮装を利甚するこずが倚く、幕府の忌避するずころであったらしい。厳しい芏制を蚭けお普化宗を取り締たったずいう。普化宗匟圧・迫害は明治維新埌も止たず、明治四幎1871䞀月、新政府になっお普化宗廃止が什せられ、僧䟶ずしおの虚無僧はたったく消え去っおしたうのである。

     䞀方、五ヶ庄の吞江庵は、普化宗が京郜に移されおから荒廃しおいた。その埌黄檗山䞇犏寺の僧によっお再興され、䞇犏寺塔頭のひず぀ずなっお幕末に至るたで存圚しおいた。その䜍眮は普化塚の東南、いたの垂道新田道の京阪電鉄螏切に近いあたりであった。付近の叀老は、螏切ずなっおいるずころの北偎には、もず池があっお、かたわらの吞江庵跡は茶畑ず藪になっおいたずいう。その茶園の䞭には吞江庵のものであったず思われる叀井戞があり、はるか東方の新田集萜の西偎の藪の䞭にあった二぀の井戞ず、暪穎によっお結ばれおいたず䌝えおいる。
    なお、䞊村の吞江庵に祀られおいた十䞀面芳音立像宀町は、享保幎間1716〜36に浄土宗ずしお䞭興された円犏寺に玍められた。俗に普化芳音ず呌び、尺八を奏する人々の信仰をあ぀めお珟圚にいたっおいる。

    『宇治垂史 5 (東郚の生掻ず環境)』


    宇治川の氟濫は昔から人々を悩たせおきたそうですが、氟濫埌は肥沃な土を運んで豊かな土壌で䜜物もよく育ったずいう魅力的な土地でもあったそうな。

    吞江庵があったずいう槇島村は、宇治川の巊岞西偎で、五ヶ庄䞊村は、今の折坂から川の方ぞ西にいった宇治川の右岞沿い。
    江戞初期には、ここ五ヶ庄の折坂に移り、黄檗山䞇犏寺の僧によっお再興され、䞇犏寺塔頭のひず぀ずなっお幕末に至るたで存圚しおいた。その䜍眮は「普化塚の東南、いたの垂道新田道の京阪電鉄螏切に近いあたり」であったずいうこずで、珟圚の普化塚の近くに吞江庵があったのだ。

    想像するに、この蟺り䞀䜓は竹林で、その人里離れた竹林の䞭に小庵がポツネンずあり、庵䞻が井戞に氎を汲みに行く小埄に、现く螏み跡があるくらいで、蟺りは鬱蒌ずしおいた 劄想
    線路近くずいう事で吞江庵のあった土地は買収されたのでしょう。



    『宇治垂史近䞖の歎史ず景芳』によるず、吞江庵は、江戞期は黄檗宗萬犏寺に属しおいたずある。

    五ヶ庄 折坂 吞江庵 
    宗旚・所属 黄檗宗 䞇犏寺
    元犄1600幎代埌半以前は普化宗䞊村にあり

    さらに、黄檗文化研究所 線による『黄檗文華』1994幎刊の『普化墓』によるず、
     所圚地 宇治垂五ヶ荘折坂
     宗旚所属 黄檗山萬犏寺元犄以降は普化宗
     所属幎次 近䞖䞭期
     廃絶幎次 近䞖末期
    ◯普化宗吞江庵に぀いお
     東犏寺始祖聖䞀囜垫の法匟芚心は建長元幎入宋し、無門犅垫に参犅、同䞃幎垰朝。
     芚心の門匟虚竹は虚鈎の法を受け、その秘曲を䌝承、土民匷化の方䟿ずし虚無宗の䞀流掟を開く。
     虚竹朗庵は、宇治川南岞槙島村に圓音寺を建お、地内の吞江庵に垞䜏。ある幎の措氎によっお流倱。黄檗蟺に再興、芳䞖音像を安眮し、普化に務めた。
     氞仁二幎1294虚竹朗庵歿
     関係資料
    ◯虚竹朗庵墓普化塚 虚無僧塚
    圚五箇荘岡本村南東 近傍には虚竹が止䜏したず䌝える吞江庵があったが、近䞖初期の普化宗匟圧のために、黄檗宗萬犏寺の塔頭に転じ、明治維新の頃に廃された。 
    ◯岡本村
     十䞃䞖玀䞭期以前は近衛家領であったが、その埌は倧郚分が幕府領ずなり、䞀郚が萬犏寺領に付されおいた。寛氞十䞃幎の五ヶ荘癟姓改垳にみえる戞数は十䞃、人口は八十九。
     寛文䞉幎に、玄䞉十石が萬犏寺に組み入れられた。
    ◯普化塚颚景
     倧正末期頃、呚蟺は竹薮に芆われ、茶畑が点圚しおいた。特に普化塚の東方には広範な竹薮があり、通称テンシン藪ず呌ばれおいた。
     たた圓時、竹薮や茶畑の䞭に叀井戞の存圚が数カ所確認されおいる。

    『宇治垂史近䞖の歎史ず景芳』


    駅名からも分かるように、すぐ近くに黄檗宗本山の䞇犏寺がある。

    黄檗山萬犏寺は1661幎に䞭囜僧「隠元隆琊いんげんりゅうき犅垫」によっお開創されたした。犅垫は䞭囜明朝時代の臚枈宗を代衚する僧で、䞭囜犏建省犏州府犏枅県にある黄檗山萬犏寺のご䜏職をされおいたした。その圓時、日本からの床重なる招請に応じ、63歳の時に匟子20名を䌎っお1654幎に来朝されたした。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を䞭囜の自坊ず同じ「黄檗山萬犏寺おうばくざんたんぷくじ」ず名付けたした。圓初「臚枈宗黄檗掟」などず称しおいたしたが幕府の政策等により、明治9幎、䞀宗ずしお独立し「黄檗宗」を公称するようになりたした。

    1600幎代圓時、日本では犅宗が衰退しおおりそれを危惧しお日本での埩興をかけ、隠元犅垫を招いたそうな。

    黄檗宗の説明によるず、吞江庵は江戞時代前半たで臚枈宗黄檗掟で、元犄以降1600幎代埌半から普化宗ずなったずのこず。
    「黄檗山萬犏寺」は、寛文元幎1661寺院の建築が開始される。13代たでは䜏持は䞭囜人僧であり、隠元犅垫来日の際は、僧䟶だけではなく、文人や職人なども䌎っおいたずいう事で、宇治にも倚くの移䜏者がいたのではず想像する。

    虚無僧研究䌚の機関玙『䞀音成仏」第5号に蚘茉の、宇治垂圚䜏の氎野瀎空著「吞江庵備忘録䞀」によるず、「叀来宇治の地は䞭囜ずの亀流が繁く、補茶、氎車等の技術を䞭囜人䞻に華䞭、華南あたりず思われるから孊んでいる。黄檗の総本山「萬犏寺」が創建1661幎も江戞時代に突然降っお湧いた話ではなく、それ以前数癟幎圌地ずの亀流から生じた結果であっお、䞭囜人居䜏地が宇治のそこここにあったこずが珟圚に残る地名゚ビス島、フクズミ、フケノマ゚、ハタデラ等からも明らかである」ずのこず。
    『宇治垂史』にある、普化塚東方の竹藪の名前「テンシン藪」も、たさにずいった感じ。

    虚竹の二代目の倩倖劙普は、その埌京郜の䞉条癜川に移り、それから江戞初期たで䜕代か続き、江戞初期寛氞の頃、淵月了源が本池田町に土地を借り虚無僧寺を建おた。
    ここが、『宇治垂史 5 (東郚の生掻ず環境)』に蚘茉のある「江戞幕府開創埌たもなく京郜所叞代板倉勝重により、京郜の䞉十䞉間堂の南方にう぀されおしたった。」ずいう堎所。因みに隠元犅垫の身蟺調査は、その息子板倉重宗がしたそうな。䜕やらちょっず政治的な匂いがしたすな。


    小菅倧培著「虚霊山明暗寺䜙聞六」には、黄檗宗ず吞江庵に぀いおや、吞江庵䜏職の䜍牌、墓碑などずおも詳しくある。
    萬犏寺所蔵の1788幎の調査蚘録には、境内、建物(本堂兌客殿、薬医門、物眮小屋があり立掟に萬犏寺の䜓裁を敎えおいた、ずのこず。


    『宇治垂史5』には、「普化宗はその埌衰退の䞀途をたどる」ずあるが、隠元犅垫によっお幕府のバックアップも぀いたずころで犅宗もちょっず埩掻しお、その勢いに䟿乗しお普化宗創立で勢いづいたものの、その埌は繁栄もせず超现々ずやっおいた、ず蚀うずころでしょうか。やはり囜家や暩力に庇護されるず、文化ずいうものは衰退しダメになっおしたうものなのだ。この蟺りは肝に銘じおおいた方が良い。


    話を元に戻したしお 
    虚竹の説明ずしおは「虚竹朗庵は、宇治川南岞槙島村に圓音寺を建お、地内の吞江庵に垞䜏。ある幎の措氎によっお流倱。黄檗蟺に再興、芳䞖音像を安眮し、普化に務めた。」ずありたすが、圓音寺は珟圚は存圚しない暡様。情報求むです。

    普化芳音に぀いお

    『宇治垂史 5 』には「䞊村の吞江庵に祀られおいた十䞀面芳音立像宀町は、享保幎間1716〜36に浄土宗ずしお䞭興された円犏寺に玍められた」
    ずあり、浄土宗の円犏寺はただ実圚し、「俗に普化芳音ず呌び、尺八を奏する人々の信仰をあ぀めお珟圚にいたっおいる。」ずいうこずなので、これは行かねばです。

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    『宇治垂史 5 』囜立囜䌚図曞通所蔵


    小林玫山・富森虚山共著の『尺八本流明暗吹嘯法基階』にも、

    虚竹犅垫は埌に京郜に出お来られ、吹嘯䞉昧のかたはら、絶えず諞所を遊歎しお教化に぀ずめられたした。そしお晩幎には山城國宇治五個荘岡本村の吞江庵に隠栖し、自ら朗庵ず号し、芳音倧士の像を奉安しお吹嘯䞉昧の枅境に悠々自適の䜙生をおくられたした。䞖間ではこの芳音を普化芳音ず称し、たた埌䞖朗庵ず号しお犅垫の高颚を真䌌る者が出るやうになった始たりでありたす。応仁六幎䞃月廿八日、犅垫はこの地に幻身の終焉を告げられたした。墓は今も尚ほ岡本村庵居の跡に昔のたたで残っおをりたしお、䞀般に普化塚たたは亀塚ず称しおをりたす。

    玫山居士、虚山坊散士 䟛述『尺八本流明暗吹嘯法基階』昭和1930


    さらに塚本虚堂著「普化芳音瞁起」『芞胜新報』「叀兞尺八及び䞉曲に関する小論集」によるず、享保十䞉幎1728幎に蚘されたずいう「聖芳䞖音略瞁起」ずいう普化芳音の瞁起が曞かれた巻物があるずの事。


    関西の皆さたは、献奏に行かれおいるのでしょうか
    情報お埅ちしおおりたす♡

    たた宇治の地に行かねばならなくなりたした。


    今回は、宇治垂史、黄檗宗の史料から、「吞江庵」の堎所の掚移を探っおみたした。結局「亀石」の謎は解けたせんが。

    江戞時代に入っおから、初代黒柀琎叀は「宇治きうこうあんにお韍安より」志圖曲、京鈎慕、琎䞉虚霊、吉野鈎慕の四曲を習ったず「琎叀手垳」にある。
    やはり「吞江庵」は聖地だったのではず想像したす。



    次回は、文献にある「吞江庵」を蟿りたす↓


    参考文献
    神田可遊「虚無僧䌝説に぀いお」尺八通信5号
    小菅倧培「虚霊山明暗寺䜙聞六」虚無僧研究䌚機関玙『䞀音成仏』第十四号
    氎野瀎空「吞江庵備忘録」虚無僧研究䌚機関玙『䞀音成仏』第五号
    石綱枅圃「虚無僧史終その草創期を探る」虚無僧研究䌚機関玙『䞀音成仏』第二十号
    塚本虚堂『芞胜新報』塚本虚堂集『叀兞尺八及び䞉曲に関する小論集』
    明暗寺発行『虚霊山明暗寺』
    玫山居士、虚山坊散士 䟛述『尺八本流明暗吹嘯法基階』
    富虚山「虚無僧颚俗のひずこた」『日本音楜19』
    癜雲菎䞻人『掛南史蹟宇治黄檗の巻』
    黄檗文化研究所 線『黄檗文華』
    『宇治垂史近䞖の歎史ず景芳』
    『宇治垂史 5 東郚の生掻ず環境』

     
     
    虚無僧の幜霊、片矜です👻 叀兞尺八楜愛奜䌚代衚。東京小金井垂でやっおたす。 䞻に虚無僧の墓マむラヌ。真面目に路䞊でコム掻虚無僧掻動䞭♪