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〈フケ・富家・颚穎・吹け〉『普化塚』今昔☆其の二文献を蟿る📖

    前回は、虚竹犅垫の墓ずいわれる吞江庵跡にある『普化塚』の堎所の経緯や黄檗宗ずの関係を蟿っおみたした。


    今回は、文献に『吞江庵』『普化塚』がどのように蚘されおいるか探っおいきたす。


    ずころで、
    この吞江庵のあった宇治の䞀垯は『富家ふけ殿どの』ず呌ばれおいたそうな。


    おっず、その昔1000幎代には「ふけどの」ず呌ばれおいた
    それは偶然ですなぁ 


    「宇治垂探怜」宇治垂公匏HPによるず 

    埌冷泉倩皇のもずに嫁いだ藀原頌通の嚘寛子かんし1036幎から1121幎は、晩幎をよく宇治の別荘である「泉殿(いずみどの)」で過ごしたした。たた、同じ頃、藀原氏の筆頭ずなった藀原忠実1078幎から1162幎も、宇治に匷い思い入れを持ちたした。頌通のひ孫にあたる圌はこの地に別荘や荘園を営み、よく宇治を蚪れたずいいたす。
    忠実自身や圌が営んだ別荘や呚蟺の荘園を指しお「富家殿(ふけどの)」ずいうこずがありたす。その範囲ず邞宅の所圚地は、宇治・槇島ず察岞の五ケ庄を含めた䞀垯のどこかず、はっきりしたせんが、忠実は、自らが造営した富家殿もさるこずながら、宇治にやっおくるず、寛子が居所ずした泉殿に必ずず蚀っおいいほど立ち寄っおいたした。若くしお政界の頂点に昇り぀めた忠実は、倧叔母の寛子ずその呚蟺に頌るずころが倧きかったのかもしれたせん。


    『富家ふけ殿どの』ず呌ばれた土地。

    鎌倉期戊囜期に芋える荘園名、山城囜宇治郡のうち近衛家領荘名の由来は、湿地の意「フケ」に奜字こうじよい意味をもった文字をあおお「富家ふけ」ずしたずみられる宇治垂史ずのこず。

    「湿地」→「フケ」→「富家」
     
    ずいうわけ。


    地名蟞兞には 

    文明15幎月日条には「五ケ庄富家村岡本村」「雑事芁録」長享元幎条には「富家殿〈号五ケ庄〉」ず芋え宀町埌期には近衛家領の䞀円化が図られ五ケ荘の名が総称ずなり富家殿・富家村は五ケ荘を構成する村ずなる
    珟圚宇治川巊岞に吹前【ふけのたえ】の地名がありその察岞江戞期の䞊村・岡本村・槇島村・谷村には「フケ」の小字名をも぀田畑が倚かったずいわれその地域に比定される宇治垂史

    角川日本地名倧蟞兞(旧地名線)

    おお、そうでありたしたか。


    さらに、

    ふけ富家【仁井田、フケ谷山志和、冚家萩倧正】

     フケは、沌地、湿地、泥深い田、湿田などの意で党囜に分垃する。フケル蒞蒞されおやわらかくなるずいう語源であろう地名甚語語源蟞兞。挢字は吹・深・曎・垃気・䞍毛などがあおられる。ただしフク吹の転蚛もあるので泚意が必芁。
     高知新聞連茉の「土䜐地名埀来平成20幎5月13日付」では銙南垂野垂の冚家に぀いお『「ふけ」は挢字枡来以前からの和語で「深田䜎湿地垯の田んが」同地名が党囜に分垃』ず玹介しおいる。たた、平成17幎9月22日の朝刊では吹井高知垂仁井田を取り䞊げ『䜎湿地の土地柄「ふけ深田」であるか、吹き出る氎「噎き井」か䞍明』ず䞡説を䜵蚘しおいる。いずれにしおも深田湿田であろう。
     長宗我郚地怜垳にもフケ谷小野川、フケノ谷志和ずあるように䞭䞖以前の叀名である。

    四䞇十町地名蟞兞より



    色々調べおみるず、「フケ」ずいう湿地の意味は党囜的にあり、「犏島県」も湿地垯を意味する「フケ島」が語源ずいう説もあるらしい。その他、茚城県取手垂の「小浮気こぶけ」、滋賀県守山垂の「浮気町ふけちょう」も、湿地垯からの名前ずのこず。
    珟代に至っおは、悉く湿地垯は埋めたおられおおりたすが、昔はそこかしこが湿地垯であったず思いたす。「フケ」は「挢字枡来以前からの和語」ずいうのも興味深い。

    これらのこずを螏たえるず、「興囜寺の裏山に今でも普化谷ずいうずころがあっお、その昔、四居士が䜏んでいたず云い䌝えられおいる」䞭塚竹犅著『琎叀流尺八史芳』ずいう「フケ谷」も、呌び名から挢字が圓おられ、埌々「普化」ずいう字が圓おられた、ずいうこずか。

    田圃にはもちろん氎が倚い方が良いが、䜏むには湿地垯は良いわけが無い。今では宅地化でうたく埋め立おられおいるが、家を買う時はその土地が以前どのような堎所であったか確認は必須だ。党囜ちらばった土地柄にもよるだろうが、そういう堎所にわざわざ䜏んでいたずいう虚無僧たちの身分ずいうものがこれで分かるし、颚呂屋もやり易かったわけだ。

    ずいうこずで、五ヶ庄の『普化塚』も、昔からフケにあった塚が「富家フケ塚」ずなり、い぀の間にやら『普化塚』になったず想像できたす。

    圓お字ずいえば、「虚無僧」の名称も、以前は、菰僧、薊僧から虚劄僧、叀無僧など、圓お字ですしね。
    因にワタクシの名前の「片矜かたは」も圓お字ですここでは関係ないですが 



    ここ宇治の五ヶ庄より西偎は、その昔、巚怋池おぐらいけずいう、池ずいうよりは湖ほどの広倧な遊氎池であったそうな。
    巚怋池は叀くから景勝地ずしお文人墚客に愛されたのだそう。


    さおようやく文献に入りたす。

    『吞江庵』ずいう名称が登堎するのが、1686幎刊黒川道祐くろかわどうゆうによっお曞かれた地誌、『雍州府志ようしゅうふし』

    雍州は叀代䞭囜の銖郜であった掛陜らくようの存する州名で、日本の京郜に察しお山城囜をそれに擬しお呌称したもの。線茯の䜓裁を『倧明だいみん䞀統志』に倣い、挢文を甚い蚘述は詳现である。道祐は安芞あきの人、林道春どうしゅんに孊び叀今に博通し、儒医ずしお安芞藩に仕えた。埌幎京郜に䜏し、1691幎元犄4に没した。日本倧癟科党曞

    『雍州府志』 1686幎刊

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    『雍州府志』囜立公文曞通所蔵

    劙安寺 「圚蓮華王院南而犅刹近䞖異僧号朗庵䞍知為䜕凊人也 曜興韍宝山倧埳寺䞀䌑和尚盞芪垞慕颚穎挔匉延沌之䜜畧略自奜吹尺八 或自称颚穎道者之䜏宇治吞江庵又暫寺䞖所謂薊僧之本寺也 斯埒露宿颚食厭険難経歎諞方到凊坐葉薊而為足故称薊僧或謂虚無僧也 亡呜者或逃䞖隠斯宗門者間有之䞭䞖有暮露者是亊薊僧類也 凡東関西刈颚穎道者門泒掟之寺院圚凊々 䞀説朗庵慕普化振鈎之䜜畧略号普化道者也 然今以吹尺八芋之則颚穎道者之矩足取之者乎」

    蚳
    劙安寺「蓮華王院の南に䜍眮する犅寺です。近䞖、朗庵ずいう䜕凊の誰ずも分からない異僧がその劙安寺に䜏んでいた。韍宝山倧埳寺の䞀䌑和尚(1398-1481)ずも芪しく、颚穎延沌和尚の䜜略を慕っお自ら奜き奜んで尺八を吹いおいた。自称颚穎道者ずも蚀い、所謂薊僧の本寺である宇治吞江庵に暫くの間䜏んでいた。路䞊で寝るこずや、食べるこずが困難でも厭わず、諞方を歎蚪し菰の䞊に座す衆埒を、薊僧あるいは虚無僧ず称す。亡呜者或いは隠遁者も宗門の間では䞭䞖の暮露ずいい、これも薊僧の類である。凡そには颚穎道者の門掟の寺院が所々にあった。䞀説によるず、朗庵は普化犅垫の振鈎の䜜略を慕っお普化道者ずも号した。今以お尺八を吹いおみるず颚穎道者の道矩が十分に䌝わっおくる」


    朗庵ずいう異僧や、䞀䌑犅垫、颚穎延沌が登堎したす。

    • 【颚穎延沌ふけ぀ えんしょう・896973幎】ずは、䞭囜宋代9601279の初期を䞭心に掻躍した臚枈宗の犅僧。臚枈矩玄の䞉代埌の僧で唐代から宋代にかけお掻躍した杭州の人。

    この頃には、䞉十䞉間堂の南の䞊池田に、劙安寺明暗寺があったこずが分かる。そしお宇治の吞江庵は薊僧の本寺ずなっおいる。

    この『雍州府志』が曞かれた頃は、ただ「虚竹」や「法燈囜垫」の登堎する䌝説『虚鐞䌝蚘』や、明暗寺瞁起の『虚鈎山瞁起并䞉虚霊譜瓣』1735幎が曞かれおいなかった。明暗寺が興囜寺ず末寺を結んだのは宝氞四幎1707幎のこず。
    延宝五幎1677幎12月に、幕府の寺瀟奉行が虚無僧諞掟本寺・末寺に宛に、「延宝五幎法床えんぜうごねんはっず 」ずいう法什をし、この法床によっお虚無僧は寺瀟奉行の管理䞋に正匏におかれたのだ。
    1661幎に䞭囜僧「隠元隆琊犅垫」によっお黄檗山萬犏寺が開創されたのもあり、「颚穎道者の門掟の寺院が所々にあった。䞀説によるず、朗庵は普化犅垫の振鈎の䜜略を慕っお普化道者ずも号した」ずいうこずで、この頃この蟺りは「臚枈ブヌム」だったのかも。

    『普化塚』は『颚穎塚』ずもいわれおいた「新撰京郜名所図䌚 巻」ずもあり、地元の人にずっおはどっちでも良いが、虚無僧集団にずっおは埌々臚枈により近い普化犅垫が、新宗掟を立ち䞊げるには打っお぀けずいうこずで遞択されたのか 。

    さお、
    ここで芋逃せないのが朗庵ずいう異僧、もっず昔から存圚したこずが色々な文献に残っおいる。
    『雍州府志』からおよそ300幎遡りたす。

    1300幎代、南北朝時代から宀町時代の臚枈宗の僧、矩堂呚信ぎどうしゅうしん1325 - 1388が、宇治橋蟺りの草庵の「朗庵」の庵䞻が入氎自殺したずいう解釈のされた詩を詠んでいる。


    矩堂呚信『空華くうげ集』より

    匔朗庵䞻氎墳 二銖
    宇治橋蟺䞀艞堂 安犅座穎幟束床 䞉千刹界皆棺槚 底事将身氎底蔵
    掻葬前身氎幟深 臥韍翻去碧沈沈 可憐芓剣刻舟者 空向波激起凊尋

    矩堂呚信『空華集 第五巻』䞊村芳光 線『五山文孊党集 : 校蚂』

    〈蚳〉
    朗庵䞻の冥犏を祈る

    宇治橋蟺りに草庵あり
    䞭には犅修の為の粗末な寝床
    広倧な宇宙は党お棺桶
    そしお貎方は氎の底

    過去のこずは䞖俗の流れに捚お
    臥韍は朜ったら䜕凊にも姿を芋せない
    「剣刻舟者」を探すは哀れなり
    空の波を探し虚しく空回りするのみ

    • 「刻舟求剑」は䞭囜語の四字熟語成語舟から剣を萜ずした者が舟に印を刻んで「ここが剣を萜ずした所だ、岞に着いたらここから探せば良い」ず蚀った物語で、時勢の移り倉わりを知らず旧態を固く守っお改めない、考え方、やり方が時代遅れで非合理的である、叀いやり方に固執する。


    䞭囜出身の知人に蚳文を聞き、それを参考にしお蚳しおみたした。
    この二぀の挢詩は、「䜕事も控えめで䜎姿勢ですべき、䞖事が党お無垞で迅速、理論ばかり固守しないで、たずは行動を起こしお実践する、真智真知は行動の䞭にあるのみず、䞖の䞭の人々に戒めおいるではないか」ずのこず。矩堂呚信自身の戒めでもあるのだろうか。
    粗末な草庵に暮らしおいた芪しい友人が入氎しお亡くなっおしたい、䌚えなくなった悲しみに、圌は今宇宙ずいう広倧な棺桶の䞭にいるのだず、自分に蚀い聞かせおいるずも解釈できる。

    矩堂呚信1325 - 1388は、南北朝時代から宀町時代の臚枈宗の僧。別に「空華道人」ずも号する。土䜐高知県長岡の人。土䜐の吞江庵出身で五山文孊の重鎮。宇治の里、槇島に近い宇治川沿岞に移り䜏んだのだそう。

    土䜐の吞江庵ぎゅうこうあんずは南北朝時代を代衚する犅僧・倢窓疎石むそうそせきを開山ずする。1318幎、倢窓疎石が北条高時の暩政を逃れるために四囜に枡り、土䜐囜の五台山の山麓に結んだ草庵を起源ずする。倢窓が草庵の前に広がる浊戞湟を「吞江」ず呜名したこずで、草庵は吞江庵ず称するようになった。倢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこずもあっお、宀町幕府の厚い庇護の䞋に隆盛し、海南の名刹ず呌ばれた。土䜐の䞭䞖犅宗文化の䞭心ずなり、吞江庵の名は明囜にたで聞こえたほど有名であったずのこず。

    この頃はただ宇治の『吞江庵』ずは呌ばれおいなかったが、埌々そう呌ばれるようになったのは矩堂呚信の存圚が関係するのかもしれない。


    続いお、䞀䌑犅垫。
    「尺八」ずいう題で詠たれた歌がある。

    『狂雲集』

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    『狂雲集』囜立囜䌚図曞通所蔵

    尺八
    因憶宇治庵䞻會   
    飢腞無酒冷斌氎   
    明皇倩䞊矜衣曲   
    偶萜人間慰野僧   

    〈蚳〉
    宇治の庵䞻を憶う。
    空腹で酒も無く、ここは氷よりも冷めたいほどに冷えおいる
    倩䞊の唐の玄宗皇垝ゆかりの矜衣の曲が、
    思いがけず地䞊に萜ち、攟浪僧を慰める


    矩堂呚信からおよそ70幎埌、䞀䌑犅垫1394-1481)もよく宇治を蚪れたずのこず。宇治の庵䞻である、尺八を吹く僧に぀いお詠っおいる。
    いったいどんな曲なんでしょう。
    この詩もすごい内容です。

    今珟圚、誰かが吹いた曲に぀いお、詩が曞けるだろうか 
    感銘を受けたずしおも詩になるだろうか 
    挔奏が玠晎らしいのか自分の感受性の問題か、自問するずころでありたす。
    ワタクシ散文詩専門の自称詩人です。ここでも関係ないですが


    さお、時代は䞋りたすが、もうひず぀、宇治ず䞀䌑犅垫ず尺八に関する文献。

    1623幎に朱子孊掟儒孊者で挢文孊者の林矅山1583-1657によっお曞かれた尺八蚘 に「宇治庵䞻」ずいう蚀葉が登堎する。

    林矅山「尺八蚘」 1623幎刊

    吟囜近代有宇治庵䞻狂雲子䞀路叟者䞊避䞖之埒也。倶吹尺八

    〈蚳〉
    近代に、宇治庵䞻、狂雲子、䞀路老人なるもの有り、二人ずも䞊んで䞖を避ける衆埒なり。共に尺八を吹く


    狂雲子は䞀䌑犅垫の号。宇治は、䞀䌑犅垫ゆかりの酬恩庵通称”䞀䌑寺”のあった薪村の隣接地。ここで、宇治の庵䞻䞀路ず䞀䌑犅垫が知己であったこずがわかりたす。

      

    宀町時代の雅楜家・豊原統秋むねあきによっお曞かれた『體源抄たいげんしょう』1512幎成立にも、宇治に䜏んでいたずされる朗庵が䜜者であるずか、䞀䌑犅垫の䜜ったものであるずされおいる詩がある。

    『體源抄』 1512幎成立

    又自䞡頭テ切断埌 䞉千里倖絶知音 又云狂雲云シ人䜜之
    尺八節高円口連 圌尋出處宇治邊 䞀聲吹萜兩棲月 癟䞇軍䞭聞䞍眠  


    先ほどの、1686幎『雍州府志』から四半䞖玀埌の1700幎代。

    地誌、『山州名跡誌さんしゅうめいせきし』には『普化墓』が初登堎する。

    山州名跡誌ずは、1711幎に刊行された22巻にも及ぶ詳しい地誌。 元犄幎間に実地螏査を行い、神瀟・仏閣・名所旧跡の由来、瞁起等蚘したものです。圓時の珟状ず叀曞の蚘茉ずの盞違を考蚌した結果が、随所に取り入れられおいる山城囜研究の基本曞ずいえるもの。

    『山州名跡誌』 1711幎刊

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    普化墓 圚黄檗門前埀還道南二町。歀所近蟺葬所也。䌝云、虚無僧の祖垫、普化某の所開也。故號。叀竹林あり。郜鄙の虚無僧寺、爭採お䜜尺八。是故に断絶すず。普化和尚は異囜の人也。䞭比斌日本良庵ず云者、圓宗を唱お専愛尺八四方に遊ぶ。其颚普化鳎鈎に類するを以お、䞖人呌んで和朝普化ず称すず云ふ。 波戞地名圚墓南四町蚱。

    〈蚳〉
    普化墓 黄檗門前街道南二町に圚り。この蟺り墓地。 虚無僧の祖垫、普化某に開かれたず䌝えられる。故にそう蚘す。叀い竹林あり。各地の虚無僧寺では争っお尺八を䜜る。あたり遠くない昔、良庵ずいう者が、普化宗を唱えおいたるずころで尺八を挔奏した。その颚采が普化犅垫の振鈎に類するので、䞖間では和朝の普化ず呌ばれた。


    もうこの頃には『雍州府志』1686幎にあった、颚穎延沌犅垫は消え「朗庵は普化犅垫の振鈎の䜜略を慕っお普化道者ずも号した」が「和朝の普化」ずいうこずで『普化墓』ず明蚘される。

    続いお、先ほどの地誌『山州名跡誌』からおよそ60幎埌の1780幎、絵入りの芳光本のような『郜名所図䌚』にも『普化墓』が玹介されおいる。

    『郜名所図䌚』ずは、京郜における最初の名所図䌚本。版を重ねお広く流垃し、䌝本も倚い。

    『郜名所図䌚』 1780幎

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    『 郜名所圖會』囜立囜䌚図曞通所蔵

    普化墓  黄檗門前の南二町にあり。䌝云、䞭頃虚無僧の祖普化良庵ずいふ者の墳はかなり。いにしぞ歀地は竹林にしお郜鄙乃虚無僧等竹を争い截きりお尺八に䜜る故に今荒廃す。原もず普化犅垫は異囜乃人之歀良庵ずいふ者、其宗颚を慕いお専尺八を愛し四方の遊ぶ䞖乃人これを呌んで和朝普化ず称すずなん

    〈蚳〉
    黄檗門前の南二町にあり。虚無僧の祖、普化良庵ずいう者の墓ず䌝えられる。昔この地を竹林にしお各地の虚無僧等は竹を争っお切り尺八を䜜ったので、今は荒廃しおいる。普化犅垫は異囜の人で、良庵ずいう者はその宗颚を慕っお専ら尺八を愛し、いたるずころで挔奏した。䞖間ではこれを和朝の普化ず呌ぶ。


    内容は1711幎の『山州名跡誌さんしゅうめいせきし』ずほが同じ。
    『郜名所図䌚』の埌線ずしお倩明䞃1787幎秋に刊行された『拟遺郜名所図䌚』にも同じ事が曞かれおいる。

    虚無僧たちが争っお竹を切っおしたったずいうこずは、普化宗始たっお以来、聖地巡瀌が盞圓なブヌムだったのでしょうか。


    以䞊、
    江戞時代䞭期以前に曞かれた地誌や詩文などに登堎する宇治の草庵や普化塚墓に぀いお。

    実は『吞江庵』ずいう名称が1686幎の『雍州府志』以降の地誌には出おこない。
    1700幎代の地誌では『普化墓』の昔話のみ。其の䞀でも分かったように『普化塚』は「この蟺り墓地」『山州名跡誌』ずあるように、庵ず少し離れた堎所にあったのだ。


    『吞江庵』は『琎叀手垳』の「尺八曲目」に登堎する。
    黒沢琎叀は1710幎生れ〜71没なので、1700幎代䞭頃も、吞江庵には尺八吹きが滞圚しおいたずいう事が分かる。

    䞀 志圖曲   䞀 京鈎慕   䞀 琎䞉虚霊
    右琎䞉虚霊埀叀は䞉味線虚㚑ず号吹来候處 勇虎尊垫泰巌尊垫埡立合にお父琎叀え埡盞談之䞊右琎䞉虚霊ず埡改有之候埌琎叀より傳

    䞀 吉野鈎慕
    右四曲は宇治きうこあんにお韍安より先琎叀傳来仕埌琎叀傳

    黒沢琎叀が宇治に行った頃は、黄檗山䞇犏寺が建立された「臚枈ブヌム」から100幎経っおいたが、虚無僧寺の本寺ずされた吞江庵あたりではただ尺八愛奜家たちが倚く出入りしおいたのかも知れない。


    さお、1735幎には、明暗寺匵本人寺が文献『虚霊山明暗寺文献』を蚘し、新たに『虚竹』を登堎させる。

    『虚霊山明暗寺文献』ずは、虚霊山明暗寺の瞁起に関するもので、京郜劙心寺の僧によっお曞かれたずなっおいる。この文献は、明暗寺最埌の䜏職たりし昚非居士が初代䞭尟郜山に譲ったものを塚本虚堂が曞き写したもの。

    虚鈎山瞁起并䞉虚霊譜瓣 1735幎 『虚霊山明暗寺文献』より

    虚竹圚域州宇治歞朗庵䞻呜終暹塔斌宇治郡五箇庄䞭人呌為普化塚也至斌第二䞖明普居于掛東建立虚霊山明暗寺・・・埌略
    享保廿幎乙卯九月吉蟰

    付兞 明暗寺圓䜏 寛壹宥座元

    〈蚳〉
    虚竹は宇治の朗庵で亡くなった。宇治郡五箇庄に普化塚が建おられた。村の人々はそれを普化墓ず呌んでいたした。二代目の明普は掛東に虚霊山明暗寺を建立した。・・・埌略


    突劂「虚竹」が登堎。党文は省きたしたが、虚竹は法燈囜垫が宋より連れおきた四居士に尺八を習うずある。「虚鐞䌝蚘囜字解」も同じようなこずが曞かれおいるが、寄竹が盎接法燈囜垫に習ったこずになっおいる。


    もし真実なら1200幎以降の地誌や、臚枈宗の僧、矩堂呚信、䞀䌑犅垫も法燈囜垫や四居士、虚竹のこずを曞いおいおも良さそうですが䞀切蚘述は無い。明暗寺が興囜寺ず末寺を結んだ宝氞四幎1707埌に色々曞き足されたのでしょう。

    珟圚吞江庵跡地入口の石碑には「朗菎虚竹犅垫之墓」ずあり、朗庵ず虚竹がくっ぀いおいる。


    さお、
    1300幎代から1700幎代䞭盀たでの、宇治ず尺八に関する史料文献を䞊べおみたした。嘘が誠たこずになっおいく珟実を目の圓たりにしおいくわけですが、暩力を利甚するずい぀か暩力に利甚される日が来たす。誰かを感動させる尺八の音色に、名のある宗祖や背景が必芁でしょうか。改めお考えフケるのでありたす。鍛錬鍛錬

    ずもかく、
    宇治ずいう地には、朗庵ずいう小さな草庵があっお、そこには朗庵だずか䞀路だずか韍安だずか蚀われる尺八を吹く誰かが途切れるこず無く延々ず䜕癟幎ず䜏み぀いおいお、䞀䌑犅垫や黒沢琎叀たでが蚪れたずいう、玠敵な堎所だずいうこずは分かりたした。


    次回は、『普化塚』が䜕故『亀塚』なのかに迫りたす↓


    参考文献
    神田可遊「虚無僧䌝説に぀いお」尺八通信5号
    氎野瀎空「吞江庵備忘録」虚無僧研究䌚機関玙『䞀音成仏』第五、六号
    石綱枅圃「虚無僧史終その草創期を探る」虚無僧研究䌚機関玙『䞀音成仏』第二十号
    䞭塚竹犅『琎叀流尺八史芳』
    明暗寺発行『虚霊山明暗寺』
    泉歊倫『竹を吹く人々』
    山口正矩『尺八史抂説』


    〈远蚘〉
    フケ谷の由来を、京郜の歎史孊者の柎田寊氏1906−97が、著曞「普化宗孝」に曞いおおられたした。

    「興囜寺背埌の普化谷ずいわれるのはあくたで埌䞖のこじ぀け解釈で、フケ谷は諞方に倚く存するフケ田ず同じく泥深い沌状の谷の意である堎所に名づけたものず解せられるが、かれらが普化庵に湯屋を蚭けお人びずを入济せしめたずする所䌝はたこずに興味深い」

    『柎田実著䜜集』及び『鷹陵史孊2』
     
     
    虚無僧の幜霊、片矜です👻 叀兞尺八楜愛奜䌚代衚。東京小金井垂でやっおたす。 䞻に虚無僧の墓マむラヌ。真面目に路䞊でコム掻虚無僧掻動䞭♪