
必然性の話。
昨日、私の家に一通の手紙が届いた。宛名はある。そもそも頼んでもないのに分厚い封筒を送られてくる場合、大概ロクな内容ではない。
私の机の上に置かれたその封筒を見て、妻が「なんか届いてたよ」と言った。差出人を見ると、私が住んでいるマンションの管理会社からだった。
乱暴に封を破る。丁寧に折りたたまれて、封筒の中をぎゅうぎゅうにしていたのは賃貸の更新契約書だった。引っ張り出して中を見る。どうでもいい時候の挨拶の下に、契約書を期日までに返送しろと書いてある。契約書の中を見ると、しれっと今までよりも高い家賃と共益費が記載されていた。
私はすぐさま、管理会社に電話した。
話はおよそ三週間前に遡る。その日は夏と秋の境目のような、生ぬるく湿った潮風が吹いていたのを覚えている。妻が「なんかきてたよ」と私に小さな封筒を手渡した。その中に書かれていたのは昨今の物価上昇と租税公課がどうのこうので、要するに家賃を値上げしたいという内容だった。
私はスマホの電話アプリを開き、書かれていた電話番号を打ち込んだ。電話はすぐにつながった。どこそこの誰兵衛ですと告げると、その物件の担当者がいないと言われた。しかし、私も忙しいのでとりあえず用件だけ伝えた。
私の主張としてはこうだ。物価上昇だとか、管理費が増えただとか書かれているが、その根拠となる情報が全く書かれていない。いうなれば、子どもが「お小遣いなくなったからお金ちょうだい」と言っているのとなんら変わらない。
私が知りたかったのは理由だった。判断材料と言ってもいい。金利や固定資産税が上がっているなら、それがどういう名目で家賃に跳ね返ってきてるのか。近傍の家賃相場が上がっているというならそのデータが欲しいし、共益費も上げるのであれば共用部分の電気代や清掃費、維持管理費などが、従前と比べて具体的にいくら増加したのかも確認したい。
また、手紙の内容には値上げについての理由しか書かれていないが、物件の価値は築年数によって減少するはずだ。設備だって古くなる。本来、そういった情報を踏まえ、「差し引き家賃がこれくらい上がります」なら百歩譲って理解できる。だが、いきなり具体的な金額だけをぽんと出されたところで、こちらとしても判断のしようもない。
ということをツラツラと伝えたところ、「担当者から連絡させます」と言われた。私は伝言ゲームになるのが嫌なので、書面か少なくともメールを送ってほしいと念押しし、通話アプリの赤いボタンを人差し指でブチっと押した。
そして、昨日の話に戻る。私が問い合わせしてから三週間、そのあいだ一切の連絡もなく、いきなりこの契約書が送られてきた。
電話をかけると、御多分に漏れず一次受付のスタッフが出た。私が経緯と用件を伝えたところ、さすがに向こうもバツが悪いと思ったのか、不在と言われた担当者は30分後くらいに折り返しをしてきた。
で、挨拶も早々に本題に入ると、担当者は「オーナー様からはいくらだったら受けられるか」と言われていますと抜かしてきた。
その瞬間、私の頭には膨大なクエスチョンマークが飛び交った。そもそも、手紙には必然性があるから値上げすると書かれている。要は値上げしなければ維持管理できないから値上げすると、そういう文脈だ。
しかし、ここにきていきなりのディスカウントオファー。しかもこっちにボールを渡された。まるで意味が分からない。それなら、散々挙げられていた「理由」は一体何のために書かれていたというのか。
ひとまず、「いや、そもそも値上げしたいって言ってきたのはそっちで、その理由が分からないからこっちは応じられないって言ってるわけですよ。で、現状、具体的な根拠も判断材料も何も無い中で私に決めていいって言うならそんなものゼロになります。なんなら、今の家賃より思いっきり下げて欲しいですよ、ぶっちゃけ。こっちからしたら家賃なんて安ければ安いほどいいですし。大体あなただって、知らないですけど持ち家か賃貸かに住んでるわけじゃないですか。毎月毎月、結構な支出ですよね?だから、借り手側からすれば、固定費なんて安ければ安いほどいいわけで。てか、そうなりません?そんな風に言われたら。でも、ちゃんと理由があるわけですよね?値上げしなきゃいけない。今回、それが何もないからこっちは困ってるって言ってるわけで、そんなにおかしい話をしてるとは思わないです」と言ったら、担当者は電話の向こうでモゴモゴしたあと、「オーナー様と確認してから書面やメールでご連絡します」と告げて電話を切った。
そもそもだ。管理会社の役割として、オーナーの意向と借り手である我々の間を取り持つのが仕事ではないのだろうか。「オーナーがこう言っています」というだけなら私だってできる。少なくとも、私のリクエストに対してオーナーと会話し、きちんと議論が煮えてから持ってきてほしい。生煮えの具材を渡されて、「さあ、あなたはどう食べますか?」と言われても「はあ」としか言いようがない。それこそ、なんのはなしですかと言いたくなる。
という話を今日の夕飯を食べているときに妻としていた。私は怒りと混乱で若干テンションが高かった。
「いやだから、必然性が無いって話なんだったら、そもそもいらないじゃんね」
妻は「そうだよねぇ」と同調しながらも、「それでも、オーナーさんとの関係にヒビ入るのも嫌だからほどほどにしてよね」と言って、ハンバーグを口に運んだ。
私が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブに指を掛けたそのときだ。
私と妻のやり取りを聞いていたムスメが突然私の目を見てつぶやいた。
「タバコはひつぜんせい、ないよね。あるの?」
私はたぶんモゴモゴと何かを言って、そっとベランダへ足を向けた。