
序章:星を踏む猫
月の光が、静かに街を包んでいた。
昼間の喧騒は遠のき、まばらな街灯が路地を照らしている。冷えきったアスファルトの上を、一匹の猫がしなやかに歩いていた。無機質な夜のなかで、その小さな体温だけが、闇を柔らかく押し返している。
青みを帯びた灰色の毛並みは夜気に溶けて鈍く光り、四本の足先だけが白い。夜空に散らばる小さな星々のように。額にも、星の形をした白斑がひとつあった。空からこぼれた星屑が、そのまま毛皮に宿ったかのようだった。
名前はない。
いや、出会った者ごとに、違う名前で呼ばれてきた。
裏路地も、雨をしのぐ廃屋も、時おり夢のなかで迷い込む見知らぬ森も、猫にとっては眠れる場所でしかない。どこで眠ろうと、自分はただの野良猫だった。
ただひとつ厄介なのは、好奇心が強すぎることだ。
いつもの角を曲がった先が、二度と見慣れた景色には戻らない「どこか」に繋がっていることも知らず、猫は気の向くままに街をさまよっていた。
人気のない石畳を渡り、塀の影をくぐり、水のようにすり抜けていく。
湿った土。古びた木材。遠くの夕餉の残り香。
風を追う鼻先に、ふと、妙な匂いが混ざった。
古い紙とインク。けれど、それだけではない。
もっと深く、生きものめいた、遠い記憶を掘り起こすような、懐かしくて得体の知れない匂い。街では嗅ぐことのない、森の奥の木々の緑。
鼻先がひくりと震え、耳が一瞬、過去を探るように後ろへ倒れた。
猫は立ち止まり、目を細めた。青灰の瞳が、夜の底で静かに光る。
匂いは、一軒の古書店の窓の隙間から漏れていた。看板は色あせ、格子窓には蜘蛛の巣が揺れている。それなのに戸口だけが、誰かを迎えるように、指一本ぶんだけ開いていた。
細い空気の流れが、髭をかすめる。昨日までなかった通り道。誰かが中にいるのか、いましがた誰かが入ったのか。見慣れた縄張りに生じたわずかな狂いに、耳が平らに倒れ、尾の先が警戒に小さく震えた。
けれど、古い紙の匂いは、その疑念を上書きするほどに濃い。
猫は扉の端に鼻先で触れて確かめると、暗い隙間に身を滑り込ませた。背後で扉が自重でわずかに閉じ、街の音が途切れる。
狭い入り口を抜けると、乾いた紙とインクの香りはいっそう強くなった。天井まで届く本棚が迷路のように立ち並んでいる。猫は足音を殺して進んだ。積み上げられた本の陰を縫い、埃をかぶった箱のあいだを抜け、匂いの源へ。
迷路の最奥、棚の影に隠れるようにして、一冊だけ、かすかに脈打つ本があった。
革表紙は深い茶色で、見慣れない文字が金色に浮かんでいる。本を包む空気が微かに震えていた。まるで本そのものが、呼吸をしているように。
額の星が、ちりりと疼いた。
ただの模様でしかなかった白斑が、金の文字に応えるように淡く光っている。目を凝らせば、表紙の精緻な装飾のなかに、その星と寸分違わぬ紋章が刻まれていた。
猫が喉を鳴らして一歩踏み出すと、震えは激しさを増し、金の文字が主を迎えるように光を強めた。
熱を孕んだ空気に、耳がわずかに伏せる。
差し出した白い前足が、表紙の数ミリ手前で止まった。逃げるべきか、触れるべきか。本能の警鐘と、星が求める疼きのあいだで、爪が出かけ、引っ込む。
やがて、足がゆっくりと革表紙に沈んだ。
触れた瞬間、ぱちり、と星の弾けるような音が静寂を裂いた。
光があふれた。月光とは似ても似つかない、真昼の太陽のような猛々しさで膨れ上がり、猫の体を透かして、骨の髄まで白く染める。部屋じゅうの本が共鳴し、数万のページが羽ばたいて、宙に舞った文字が黒い吹雪となって視界を埋めた。棚の輪郭が溶け、天井が歪みはじめる。
逃げようと地を蹴った瞬間、足から手応えが消えた。毛先の一本一本まで、動くことを忘れる。
――そのとき、すべてが止まった。
めくれていたページが宙で静止し、舞っていた文字も塵のように留まる。真空のような静寂。猫は浮いたまま、自分の心臓の音だけを聞いていた。
溶けかけた本棚も、歪んだ天井も、描かれた絵のように動かない。世界が息を潜め、何かが裏返る瞬間を待っている。
ぷつり、と糸の切れる音がした。
足もとの床が砂のように崩れ、色彩は虹となって奔流する。上下も左右も意味を失い、時間は飴細工のように引き延ばされ、また瞬きほどに縮んだ。匂いは甘い花から海の潮風へ、凍てつく雪へと目まぐるしく変わる。
遠くから、いや、すぐ傍から、風とも歌ともつかない音が押し寄せてきた。
猫の瞳の奥に焼きついたのは、遠く瞬く星々の海と、それよりずっと近くにある、優しい囁きだった。
「ようこそ、小さな旅人よ」
そして猫は、世界を越えた。
なんの前触れもなく、ただ気まぐれに。路地の角を曲がるのと同じくらい、自然に。
古書店には静寂が戻っていた。
月は何も知らないふりをして、高みから銀の光を惜しみなく投げかけている。わずかに開いた扉が夜風に揺れ、本の消えた棚の前に、星の欠片がかすかに舞い散っていた。
月の光が、静かに街を包んでいた。
ただ、あの猫の影だけが、もうどこにもなかった。