
第1話 : 星を宿す野良猫と森の焚き火
夜露が葉先で震え、耐えきれなくなった一滴が、ぽたりと落ちた。
深い森の静寂のなかを、一匹の猫が歩いている。
青みを帯びた灰色の毛並み。四つの足先だけが白い。
肉球に染みる草の冷たさに、足をわずかに持ち上げながら進む。
ふと、鼻先が動いた。
湿った土と苔の奥から、風に乗って温かな煙の匂いが流れてくる。
薪の煙。焦げた木の匂い。それから、煮込み料理の匂い。
『……火か』
知らない森。知らない匂い。
けれど、あの本を抜けてから冷えきっていた身体にとって、その暖かさは抗いがたい誘惑だった。
猫は朽ちた切り株の陰をすり抜け、濡れた草を踏み分けて進む。
やがて木々の向こうに、揺らめく橙色の明かりが見えた。
焚き火だった。
低く身を伏せ、木の根元からそっと覗き込む。
火の向こうには、人間が三人いた。
まだ若い。
一人は腰に短剣を下げた短髪の少年。広げかけの地図を抱えている。
もう一人は大振りの剣を背負った、体格のいい赤毛の青年。
最後の一人は、青い宝石のついた杖を持つ、白銀の三つ編み髪の少女だった。
三人とも、街で見かけた人間とはまるで違う、奇妙な服を着ている。
『ふむ……見慣れぬ二足歩行どもだな』
猫は目を細めた。
あの古書店の光に呑まれてから、どういうわけか、人間どもの発する鳴き声の意味が、頭の奥へするりと染み込んでくる。
意味のすべてが分かるわけではない。それでも、声の調子と感情は手にとるように分かった。
疲れている。少し怯えている。
それでも互いに声を掛け合って、夜の恐怖を紛らわせている。
猫はそっと足を踏み出した。
落ちていた枯れ枝が、ぱきりと小さく鳴る。
三人が一斉に跳ね起きた。
「……な、なんか来たぞ!」
短髪の少年が叫び、短剣へ手を伸ばす。
「魔獣か!? ルーナ、杖構えろ!」
赤毛の青年が剣を抜こうとして鞘を蹴飛ばし、がたんと派手な音を立てた。
「ちょ、ちょっと待って!」
少女が杖を構えかけ、目を凝らす。
「見て……あれ、猫じゃない?」
三人の視線が木陰に集まる。
猫は身を隠すこともなく、堂々と姿を現した。
月明かりを浴びた灰色の毛並み。白い四つの足先。
そして額に小さく浮かぶ、星の形の白斑。
あっけにとられた沈黙が、三人のあいだに落ちた。
猫は人間たちの動揺など歯牙にもかけず、焚き火へまっすぐ歩いていく。
一歩。また一歩。
三人の足元を悠然と通り過ぎ、火の真ん前――もっとも暖かい特等席へ、どっかりと腰を下ろした。
そして、前足を優雅にぺろりと舐める。
「……堂々としてない?」
少年が目を瞬かせた。
「ああ……」
赤毛の青年が、抜きかけた剣を鞘へ戻す。
「逃げるどころか、完全に俺たちのほうが邪魔みたいな顔してるぞ」
猫の耳が、不機嫌に横を向いた。
『当然だ。余の玉座の前に集まっておきながら、挨拶ひとつできぬ無礼者どもめ』
冷えた肉球を、火にかざす。
「貴族の家で飼われてる猫なのかな?」
少女がおずおずと指を伸ばしてきた。
猫は逃げなかった。ただ、指先が額の毛並みに触れる寸前で、すっと顔をそむける。
「……嫌われた?」
少女がしょんぼりと肩を落とす。猫は横目で、冷ややかに見下ろした。
『気安く触るでない。目通りは許したが、玉体に触れることまで許した覚えはないぞ』
短髪の少年が吹き出した。
「ははっ! 王様みたいだ」
「王様?」
赤毛の青年も笑う。
「確かに。なんだかそんな顔してるな」
少女も顔を上げ、猫を見つめた。
「……うん。ちょっと王様っぽいかも」
『王様、だと?』
猫は鼻を鳴らし、誇らしげに尾を一度だけ揺らした。
『フン、無礼な下僕にしては、多少の見る目はあるようだな』
三人が顔を見合わせて笑った。
夜の森に、その声が柔らかく溶けていく。
張りつめていた冷たい空気が、ふわりとほどけた。
猫は火のそばに置かれた鍋へ視線を向けた。
肉と野菜の煮込まれた旨そうな匂いに、鼻先がひくりと動く。
赤毛の青年――ガイが腹を鳴らしながら、薪を火へくべた。
「明日こそ、城下町のギルドに受かるといいな。三度目の正直だ!」
「受かるわけないでしょ」
少女――ルーナが鍋をかき混ぜながら、深いため息をつく。
「実技試験で木の人形をバラバラの薪にしちゃう前衛剣士に、」
「受付の本棚を火の玉で燃やした魔術師と、」
短髪の少年――レンが、地図を握りしめて言い返す。
「試験会場に遅刻したあげく、今夜も森で迷子になってる案内役のスカウトだ」
ガイがにやりと続けた。
三人は顔を見合わせ、噴き出した。
焚き火の明かりの下、失敗談が心地よい笑い声となって夜空へ昇っていく。
猫は火の前で前足を折りたたみながら、その声を聞いていた。
剣士。魔術師。スカウト。
言葉の意味は完全には分からない。
けれど、互いの不甲斐なさを笑い飛ばすその声は、不思議と耳に心地よかった。
火の粉がひとつ、夜空へ舞い上がる。
猫の青灰の瞳がそれを追った。火の粉はすぐに消え、代わりに梢の隙間から星が見えた。
額の白い星が、火の光を浴びて淡く浮かび上がる。
「ねえ」
ルーナが猫の額を覗き込んだ。
「この子、名前をつけない? ……額に星の模様があるし、ステラ、なんてどうかな」
ガイが腕を組んで頷く。
「ステラか。いいんじゃないか? 呼びやすいし」
レンも微笑んだ。
「うん、この猫に似合ってるよ」
『ステラ……だと?』
猫の尾が、ぱたりと不満げに地面を叩いた。
『下僕の分際で、余に勝手な呼び名をつけるとは何事だ。そもそも、なぜ余に名など必要なのだ』
けれど、その抗議が人間たちに届くはずもない。
「じゃあ、ステラで決まりね」
ルーナが笑いかけた。
「よろしくね、ステラ」
出会った者ごとに呼び名が変わるのは、いつものことだ。
それなのに、ステラ、という響きだけは、どこか胸の奥をくすぐった。
レンが荷物から干し肉を取り出し、小さくちぎって差し出してくる。
「ほら、ステラ。お腹空いてるだろ?」
塩気を含んだ脂の匂いが、鼻腔を強烈にくすぐる。
『……ぬ』
王の矜持が「下僕の施しなど」と命じているのに、身体は抗えなかった。
猫はすっと白い前足を伸ばし、爪先で器用に干し肉を引き寄せる。
「食べた!」
ルーナが歓声を上げた。
猫はそ知らぬ顔で肉を噛みしめる。
濃厚な旨味が、口いっぱいに広がった。
『……うむ。下僕の差し出す貢ぎ物としては、悪くない味だ』
火の暖かさ。
胃袋を満たす肉の味。
森の冷たい風と、三人の朗らかな笑い声。
猫は満足げに、ゆっくりと身体を丸めた。
いつの間にか、まぶたが重くなっている。
『……まあよい。今夜のところは、余が直々に貴様らの護衛となって添い寝してやるとしよう』
目を閉じる。
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
三人の囁き交わす声が、子守唄のように遠のいていく。
梢の隙間から覗く無数の星々が、静かに世界を見守っていた。
その夜。
星を額に宿した王様猫は、出会ったばかりの三人の落ちこぼれとともに、森の焚き火を囲んで眠りについた。
これが、この世界を揺るがす大冒険の始まりだとは。
このときは、まだ誰も知らなかった。