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第2話 夜明けの出発と危険な旅路

    星が薄れ、東の空が淡い紫から琥珀色へと静かに染まりゆく頃。

    森には、夜とは違う目覚めの匂いが満ちていた。
    湿った土と朝露。冷えた灰と、消えかけた焚き火のわずかな煙。
    木々の間を流れる朝霧は薄いベールのようで、蜘蛛の巣に連なる無数の水滴が、朝の光を受けて銀の首飾りのように瞬いていた。

    そのなかで、猫はゆっくりと瞼を持ち上げた。
    身体を包んでいた焚き火の暖かさは、もうない。

    目の前では、すでに三人の人間が動き始めていた。

    『……朝か』

    猫は小さくあくびをひとつ。前足をぐっと伸ばし、背中を弓なりに反らせてから、念入りに毛づくろいを始める。

    その向こうで、レンが地図を広げていた。
    広げる。眺める。眉を寄せる。
    そして、丁寧に角を合わせて畳む。
    几帳面な手つきだが、しばらくすると迷ったようにまた広げ、裏返した。

    『何をしているのだ、あれは。裏返しても道は増えんぞ』

    隣ではガイが剣を抜いていた。
    鞘から刃を引き抜き、朝の光にかざす。刀身の露を布で丹念に拭い取ってはいるが、いざ腰に戻そうとすると、ぎこちなく引っかかる。
    かちゃり。
    また抜く。
    かちゃり。
    また戻す。

    『落ち着きのない男だな』

    その向こうでは、ルーナが擦り切れた小さな魔導書を膝に置き、眠そうな目でページを追っていた。
    「アル・ティ・ファー……」
    そこで舌を噛み、頬を赤く染めて止まる。
    「……あれ?」
    最初のページへ戻る。
    「アル・ティ……ファ……」
    また止まる。

    猫は毛づくろいを続けながら、ちらりと三人を見下ろした。
    『どいつもこいつも頼りないことだ』

    それでも、昨夜の怯えた姿とは少し違う。
    不器用ながら、それぞれが前へ進もうと足掻いている。

    『まあ、よい』
    毛づくろいを終え、猫は優雅に立ち上がった。

    三人が荷物をまとめ終える頃には、梢から黄金色の朝光が差し込んでいた。

    「よし。行こう」
    レンが地図を腰にしまう。
    「今日こそ、城下町まで抜けるぞ」

    「ああ、今度こそギルドに……」
    ガイが拳を握りしめる。

    「うん」
    ルーナも魔導書をしっかりと抱き直した。

    三人が歩き始める。
    猫はその背中を、しばらく座ったまま見送っていた。

    鳥の声。葉の擦れる音。
    風上のはるか彼方から、森にはないはずの匂いが、ごくかすかに届いている。
    焼けたパン。石畳。荷車の車軸の油。
    人間たちの生活の気配。

    猫の耳が、ぴんと立った。
    『……町か』

    すっと立ち上がり、三人の後を追う。

    しばらく歩いたところで、ルーナが振り返った。
    「あれ?」
    木々のあいだに、灰色の小さな影を見つける。
    「ステラがついてきてる!」

    レンも足を止めた。
    「ほんとだ」

    ガイが屈託なく笑う。
    「気に入られたのかな、俺たち」

    猫は三人の顔を見上げた。
    尾がゆっくりと揺れる。
    『何を勝手なことを。余はただ、そちらに町の匂いがするから歩いているだけだ』

    「ステラ、森に帰らなくていいのか?」
    ガイがしゃがみ込み、心配そうに覗き込んでくる。
    「家族とか、いないのか?」

    猫は答える代わりに、鼻先を高く持ち上げた。
    森の緑も、土の湿り気も嫌いではない。
    けれど、まだ見ぬ町への好奇心が、肉球を前へと押し出していた。

    『余にはどこもただの居場所だ。それに……新しい町とやらを、少しくらい視察してやってもよい』

    猫は歩き出した。
    三人の前をすり抜け、堂々と先頭に立つ。

    「やっぱり来るんだ!」
    ルーナが嬉しそうに笑った。

    猫は振り返らない。
    『ついてきているのは、貴様らの方だぞ』

    道端の草に鼻を寄せ、知らない野花の匂いを確かめる。
    足を止め、嗅ぐ。満足すると、また歩き出す。
    三人が追いつき、追い越し、また猫が悠然と追いつく。
    気まぐれな王の巡察のような足取りで、道は進んでいった。

    そのときだった。

    ふいに風が止んだ。
    鳥のさえずりが途絶え、森全体が息を潜めたように重く沈み込む。
    猫は足を止め、髭を張った。

    空を見上げる。
    青空の端から、インクを流したような灰色の雲が急速に広がっていた。

    ぽつり。
    鼻先に冷たい雫が落ちる。

    「……雨?」
    レンが見上げた瞬間だった。

    ざあぁっ、と森が鳴った。
    天の底が抜けたような激しい雨が、降り注ぐ。

    「うわっ!」
    レンが悲鳴を上げた。
    「待って、地図が! インクが滲む!」

    「こっちだ!」
    ガイが叫び、前方の岩壁を指差す。
    「あそこに雨をしのげる岩棚がある!」

    「私の魔導書が……!」
    ルーナが本を濡らすまいと、胸元へ必死に抱きかかえる。

    ぬかるむ山道を、三人が必死に駆け出した。
    雨は容赦なく冷たく、視界を白く煙らせていく。

    その途中だった。

    「きゃっ!」
    濡れた苔に、ルーナの足が滑った。
    身体が斜面へ大きく傾く。抱えていた魔導書が、手からすっぽ抜けそうになる。

    猫の耳が跳ねた。
    次の瞬間、猫は泥を蹴って走っていた。

    身を低く沈め、滑り落ちかけたルーナの足元へ鋭く飛び込む。
    小さな身体が、彼女の足首にぶつかった。

    「わっ……!」
    そのわずかな抵抗で、ルーナの足が地面を踏みとどまった。
    体勢が戻る。手から離れかけた魔導書を、両手でかろうじて抱き止めた。

    「……た、助かった……」
    足元を見下ろすと、全身ずぶ濡れになった猫が、じっと彼女を見上げていた。

    「ステラ……?」

    猫は鼻を鳴らし、身体を激しく震わせた。
    ぶるるるっ。
    大量の水滴が飛び散る。

    「きゃっ!」
    ルーナが笑いながら顔を覆った。

    『余の配下に怪我など許さん。大事な本なら、もっとしっかり抱えておけ』

    ルーナの目が丸くなった。
    「……ステラ、ありがとう。本当に、全部わかってるんだね」

    猫はすっと顔をそむけた。
    『知らぬ』
    もちろん分かっているが、認めるつもりはない。

    「早く入れ!」
    ガイの怒鳴り声が雨音を割った。

    三人と一匹は、滑り込むように岩棚の下へ飛び込んだ。
    突き出た巨岩が雨を遮る天然の洞だったが、横殴りの強風が、容赦なく雨粒を奥へ送り込んでくる。

    「寒い……これじゃ、ここにいても濡れちゃうよ」
    ルーナが肩を抱いて震える。

    レンが濡れた地図を広げ、悲痛な声を上げた。
    「だめだ、インクが滲んで読めなくなってる……」

    「地図のことは後だ!」
    ガイが腰の剣を抜いた。
    「風と雨を防ぐ壁を作るぞ! レン、手を貸せ!」

    ガイが周囲の頑丈な枝を力任せに切り落とし、岩棚の入り口へ次々と運び込む。
    レンは器用な手先で、太い枝の隙間に細い枝を素早く編み込んでいった。
    「ここをこう組めば、風除けになる……!」

    さらにルーナが、胸の魔導書を開いた。
    濡れていないページを、震える指でなぞる。
    「アル・ティ・ファー・ノーム……!」
    今度は舌を噛むことなく、澄んだ声が響いた。
    杖の青い宝石から淡い光の糸が伸び、組まれた枝と枝をしっかりと結び合わせる。

    隙間だらけで軋む、即席の防風壁。
    けれど、吹き込んでいた風雨は見事に遮られ、岩棚の奥に、確かな安らぎの空間が生まれた。

    「やった……できた!」
    レンが息をつく。

    ガイが力強く笑った。
    「案外、俺たちもやればできるじゃないか」

    「うん……魔法、ちゃんと役に立った!」
    ルーナが魔導書を抱きしめ、初めて誇らしげな笑顔を見せた。

    猫はその中央の、一番乾いた地面へ悠然と歩み寄った。
    くるりと身体を丸め、前足を丁寧に舐め始める。

    「……なんか、あいつだけ一番偉そうだな」
    ガイが苦笑いする。

    レンも笑った。
    「雨宿りの使い方が、一番上手いよ。やっぱり王様だ」

    猫は冷えた肉球を舐めながら、横目で三人を見やった。
    『当然だ。下僕どもが作ったにしては、まあまあの出来栄えだな』

    雨は午後を過ぎるまで降り続いた。
    けれど、即席の壁の中で、三人は昨日の失敗を振り返り、笑い、これからの夢を語り合った。
    その声を子守唄代わりに聞きながら、猫は穏やかな微睡みに身を委ねていた。

    やがて、雨音が遠のいた。

    「止んだ!」
    レンが壁の隙間から顔を出した。
    雲が割れ、洗われたばかりの森に夕方の光が射し込んでいる。

    三人と猫は、雨上がりの森を進んだ。
    ガイが先頭で危ない泥濘を確かめ、レンが方角を割り出し、ルーナが足元を柔らかな光で照らす。
    三人の足並みは、昨日より少しだけ揃っていた。

    途中で、青い蝶がひらひらと飛んできた。
    猫の目が追う。前足が一歩、勝手に出る。
    蝶は木立の奥へ逃げていく。猫も反射的に追いかけようとしたが――ふと、前を行く三人の背中が遠ざかるのが見えた。

    『……』
    猫はため息をつくように尾を揺らすと、蝶を追うのをやめ、三人のもとへタタッと駆け戻った。

    「ステラ、置いてっちゃうよー!」
    ルーナが振り返って手を振る。
    猫は何事もなかったような顔でその横をすり抜け、また先頭へ出た。
    『誰が置いていかれるものか。余が前を歩いてやらねば、また道に迷うではないか』

    そして――森が開けた。

    「うわあ……!」
    三人が同時に息を呑んだ。

    夕暮れの光を浴びて、燃えるような赤に染まる巨大な石壁。
    連なる尖塔と、幾重にも重なる屋根の波。
    森を抜けた丘の上に、堂々たる城下町の全貌が広がっていた。

    「着いた……! 城下町だ!」
    レンが歓声を上げる。

    ガイが腰の剣を握り直した。
    「今度こそ、ギルドの登録試験を突破してやる」

    ルーナも杖を胸に抱きしめ、強く頷いた。
    「うん、三人で合格しよう!」

    そのときだった。
    町の高い塔から、重厚な鐘の音が風に乗って響いてきた。

    ゴォォン……。
    ゴォォン……。

    一つ。二つ。三つ。
    夕闇の空へ広がっていく厳かな響きに、猫の足がぴたりと止まった。

    耳が後ろへ倒れる。
    青灰の瞳が、夕陽に染まる城壁をじっと見つめた。

    胸の奥で、何かが激しく揺れていた。
    知らない町のはずだった。
    初めて見る城壁のはずだった。

    それなのに――なぜだろう。
    石造りの高い壁。
    馬蹄の響く広い中庭。
    月光の差し込む長い回廊。
    そして、その奥にあった巨大な扉。

    遠い記憶の残像が、鐘の音とともに脳裏をかすめていく。

    『……知っている?』

    猫は目を細めた。
    けれど、その先に続く光景は、深い霧の向こうへ溶けて消えてしまう。

    額の星が、夕暮れの光に呼応するように、淡く白く浮かび上がっていた。

    「ステラ!」
    ルーナが振り返り、優しく手を差し伸べた。
    「一緒に行こう。私たちの仲間なんだから」

    レンも、ガイも、あたたかな笑顔で猫を待っている。

    猫は三人を見つめた。
    それから、差し出された指先に小さく鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
    雨の匂い。土の匂い。
    そして、焚き火を囲んだあの夜から続く、安心する人間の匂い。

    猫は手にすり寄ることはしなかった。
    けれど、その横を悠然と通り抜け、城下町へ続く一本道の前へ出た。

    尾を誇らしげにピンと立てる。
    『仲間、か。……まあ、悪くない』

    猫は一歩を踏み出した。
    誰かの後ろをついていくのではない。
    王が自らの領土へ帰還するかのように、堂々と先頭を歩いていく。

    「あ、また先に行っちゃった!」
    「待てよ、ステラ!」
    三人が笑いながら後を追ってくる。

    夕暮れの風が、新しい町の豊かな匂いを運んできた。
    焼きたてのパン。立ちのぼる煙。ざわめく人々の声。

    額の星が何を語り、この町のどこへ導こうとしているのか。
    それはまだ、誰にも分からない。

    けれど、猫の一歩は迷うことなく、夕陽に輝く城門へと向かっていた。



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