
第3話 高きところより
城下の街に足を踏み入れて、三日が過ぎた。
あの三人の冒険者たちとは、城門をくぐってすぐに別れた。
賑わう大通りで、彼らはギルドの看板を見つけて歓声を上げ、猫に手を振って人波のなかへ駆けていった。引き留められることも、無理に抱き上げられることもなかった。
野良猫の別れとは、いつだってそういうものだ。
役目を終えた護衛のように、猫はただ静かに踵を返し、建物の隙間へとすり抜けた。
最初の夜は、街の外れにある小さな宿屋の屋根裏で眠った。
森では、物音ひとつで目を覚まし、浅い眠りを繰り返すのが常だった。けれど、この街の建物は石造りで、屋根裏には夜の冷気も届かない。
人間たちはみな自分の用事に忙しく、屋根の上で丸くなっている猫などには目もくれなかった。
暖かく、静かで、どこからか美味そうな匂いが絶えない。
なかなか悪くない街である。
そして今朝、猫はついに見つけたのだ。
この街を見下ろすのに、もっともふさわしい場所を。
屋根の上を渡る風が、焼きたてのパンの匂いを運んできた。
小麦の香ばしさに、油と香草の匂いが混じっている。その向こうからは、鍛冶屋の炉の熱と鉄の匂い、市場に並ぶ野菜の青い匂い、石畳に染みついた長年の雨と埃の匂いまで流れてきた。
猫は鼻先を持ち上げた。
『……ふむ。まずまずだな』
瓦屋根の縁に前足をかけ、下を覗く。ひとつ先の屋根までは、少しばかり距離がある。だが、問題はない。
腰を落とし、尾でゆっくりと均衡を取ると、猫は軽やかに宙を跳んだ。
四本の白い足先が、音もなく瓦を捉える。わずかな軋みを残して着地すると、すぐさま次の屋根へ流れるように進んでいく。
青みがかった灰色の毛並みが朝日に照らされ、額の小さな星の白斑が、陽光のなかで静かに光を宿していた。
地上では、人間たちがせわしなく行き交っている。
商人の張り上げる声。荷車の車輪が石畳を擦る重い音。鍛冶屋から響く金槌の甲高いリズム。路地を駆ける子供たちの笑い声。
色とりどりの布を並べた店先では、風に揺れる布地が旗のようにはためいていた。通りの奥には見上げるような塔がそびえ、青いタイルを貼った窓辺がきらきらと輝いている。
街は、巨大な生き物のように息づいていた。
人間たちはそれぞれの暮らしに追われ、食べ、働き、笑い、時には声を荒らげている。
その営みのすべてを、猫は屋根の上から悠然と見下ろしていた。
『ふふん。下界は今日も騒がしいことよ』
騒がしさが嫌いなわけではない。風に乗ってくる無数の匂いも、遠くで重なり合う声も、眺めているだけなら少しも退屈しなかった。
何より、ここなら誰にも邪魔されず、街のすべてを見渡せる。
高いところは、やはり最高の居場所だった。
鐘楼から、正午を告げる重厚な鐘の音が響いた。
低い響きが石壁を伝い、瓦を通して肉球へ心地よく届く。猫は片耳を伏せ、目を細めてその余韻を味わった。
そのときだった。
「……あれ? 屋根の上に、猫?」
下から、澄んだ声が届いた。
瓦の縁から視線を落とすと、通りの片隅で、赤毛の少女がこちらを見上げていた。
エプロンをかけた簡素な身なりで、腕には布で包んだ大きなパンを抱えている。朝焼けのような鮮やかな赤い髪には、細い三つ編みがいくつか混じっていた。頬にはそばかすが散り、緑色の瞳が好奇心に輝いている。
少女が一歩、近づいてきた。
「そんなところで何してるの?」
『見ればわかるであろう。街を見下ろしてやっておるのだ』
当然、返事にはならない。
少女は首を傾げ、それから腕の中の包みに目を落とした。結び目をほどくと、焼きたての香ばしい湯気がふわりと立ちのぼる。
猫の鼻先が、ひくりと動いた。
『……パンか』
少女がちぎった一片を掲げてみせる。
「お腹すいてる? よかったら、これあげるよ」
猫は屋根の縁から見下ろした。
高い場所は気に入っている。わざわざ下界へ降りる理由など、本来ならどこにもない。
だが――あのパンは別だ。
猫はひと息に瓦を蹴った。
空中でしなやかに身体をひねり、石畳の隅の草の上へ音もなく降り立つ。着地の衝撃を四本の足先で柔らかく逃がすと、何事もなかったような顔で少女を見上げた。
「わっ、本当に降りてきた!」
少女は目を丸くし、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「はい、どうぞ」
差し出されたパンを、猫は鼻先で確かめた。
香ばしい小麦の匂い。ほのかな甘み。手作りの確かな温もり。
猫は小さく口を開け、ぱくりと噛みしめた。
『うむ……これはなかなか美味いな』
もう一口を期待するように、少女の手元を見つめてしまう。
少女はその視線に気づいて、くすくすと笑った。
「気に入ったんだね」
『勘違いするでない。余は、下僕の施しを無駄にせぬだけだ』
胸の内でそう言い訳しながら、猫は少女の足元へすり寄った。
エプロンの裾に頬をすりつけると、少女の顔がぱっと華やいだ。
「わあ……かわいい!」
伸びてきた手に、猫は一瞬だけ耳を後ろへ倒した。
知らない人間の手だ。用心するに越したことはない。
けれど、その指先は掴もうとも、抱き上げようともしなかった。
頭をそっと撫で、耳の付け根を優しく掻いてくる。
猫の喉が、小さく鳴った。
『……これは』
もう一度、絶妙な力加減で指先が動く。
ごろごろごろ。
喉の奥から、勝手に音があふれ出した。
『な、なかなか腕のよい者ではないか……』
王の矜持が「身を引け」と命じているのに、身体がとろけて動かない。
少女は嬉しそうに目を細めた。
「いい子だねえ。ねえ、あなた、どこから来たの?」
猫は答えず、少女の指先に頭の重みを預けた。
ほんの少しのあいだだけだ。
これくらいで、余の威厳が損なわれるはずもない。
やがて満足した猫は、そっと手から身を引いた。
視線の先には、街の中心にそびえる高い時計塔がある。あの天辺まで登れば、もっと遠く、この国の果てまで見渡せるはずだ。
『さて、次はあそこを目指すとしよう』
「えっ、もう行っちゃうの?」
少女が名残惜しそうに声を上げた。
猫は振り返らず、石畳の上を優雅に歩き始める。
尾の先が、ゆらりと一度だけ揺れた。
「待って、名前は? あなたの名前!」
少女が小走りで追いかけてくる。
足が止まった。
名前、か。
そういえば、あの森の三人――レン、ガイ、ルーナは、額の印を見て「ステラ」と呼んだ。
出会った人間ごとに呼び名が変わるのは、いつものことだ。呼び名など、人間どもが勝手につける記号にすぎない。
猫が振り返ると、少女は唇に指を当てて考え込んでいた。
「うーん……ルナはどう? 月みたいに綺麗な瞳だから」
猫は尾をひと振りした。
『断る。森の魔術師の小娘と名が被っておるわ』
「違う? じゃあ、ノクス! 夜っぽくてかっこいいでしょ」
今度は耳が横を向いた。
『響きは良いが、重すぎるな』
少女は諦めず、うーんと唸ってから、ぱっと顔を輝かせた。
「それじゃあ、グリム! なんだか賢い魔法使いみたいで、あなたにぴったりじゃない?」
『グリム……』
その響きを、胸の内でそっと転がしてみる。
影のようで、気高く、どこか少しだけ謎めいている。
悪くない。
少なくとも、先ほどの二つよりは。
猫は少女を見つめたまま、首をわずかに傾げてみせた。
肯定とも否定ともつかないその仕草を、少女は歓迎と受け取ったらしい。
「決まり! あなたは今日からグリムね」
『勝手に決めおって……』
文句を言いながらも、猫はその場から立ち去らなかった。
少女は、はっと思い出したように包みを開いた。
「そうだ、まだあるよ。もう一つ食べる?」
今度のパンには、チーズと香草が練り込まれていた。口に含むと、香ばしい生地と濃厚な塩気が舌の上で踊る。
『ほう。先ほどのものとは、また違う美味さだな』
少女が笑う。
「おいしいでしょ? うちの店自慢のパンなんだよ」
パンを食べ終えるころには、市場の通りはいっそう賑わいを増していた。
少女は包みを畳みながら、猫の前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、グリム。また会えたら、パンをあげるね。うちの店、あの広場のすぐ近くだからさ」
少女がそっと手を差し伸べる。
猫はその指先に小さく鼻を近づけ、匂いを確かめた。
小麦と、蜂蜜と、優しい人間の体温の匂い。
指先に軽く鼻先で触れると、猫はくるりと踵を返した。
低い壁をひと跳びで越え、木箱を足場にして、ふわりと瓦屋根の上へ舞い戻る。
高い場所へ。
風の吹き抜ける場所へ。
誰にも縛られず、気ままに世界を見渡せる場所へ。
「待ってるからね、グリム! またねー!」
少女が地上から大きく手を振った。
屋根の上で足を止め、猫は一度だけ振り返った。
人波のなかで、赤毛の少女が笑顔で見上げている。
尾の先を、ゆっくりと一度だけ振って応えた。
『……気が向けば、また顔を出してやらんこともない』
それだけ胸の内で呟くと、猫は再び歩き出した。
街の屋根は、どこまでも先へ連なっている。
あの三人組も、今頃はこの街のどこかで、不器用に試験の壁と戦っていることだろう。街を歩いていれば、いずれまたどこかで出くわすこともあるはずだ。
そして今日から、この街に生きる人間たちの呼び名のなかに、もうひとつの名前が加わった。
森の星を宿した「ステラ」。
屋根の風を知る「グリム」。
どれで呼ばれようと、猫はただの猫であり、この街の頂点に君臨する気ままな王様だった。
『……悪くない街だな』
誰にも聞こえない独り言を風に乗せ、猫は次の屋根へと軽やかに跳んだ。
傾きはじめた陽の下、街のすべての道が、その足元に広がっていた。