
第4話 夜を裂く気配
食堂の裏路地には、昼間の賑わいが嘘のような静けさが満ちていた。
石畳には月明かりが薄く降り、建物の隙間を抜ける夜風が、スパイスと薪の煙、料理の残り香を運んでくる。屋根から屋根へと歩いてきた猫は、ひとつの窓辺で足を止め、鼻先をわずかに持ち上げた。
『ふむ。昼のパンも悪くなかったが、夜の街にも捨てがたい香りがある』
腹は満ちている。眠る場所にも困っていない。人間たちは今日も忙しそうに歩き回り、それぞれの暮らしを営んでいる。
それでいい。
猫は気の向くままに街を歩き、気に入った場所があれば休み、気になるものがあれば近づく。王の散歩とは、そういうものだ。
『さて、次はどこを見て回るか……』
カサリ。
路地の奥から、小さな音がした。
猫の耳がぴくりと動く。鼻先をかすめたのは、食べ物の匂いに混じる獣臭だった。石畳の隅に置かれた鉄の桶。その陰で、何かが動いている。
猫は近くの低い屋根へと飛び乗り、腹を瓦につけるようにして身を伏せた。白い四本の足先が月明かりを受け、青みがかった灰色の毛並みが夜の影に溶け込んでいく。
桶が、かすかに揺れた。
その陰から顔を覗かせたのは、一匹のネズミだった。
普通のものより一回り大きく、毛並みは汚れている。赤く濁った目を動かしながら、ネズミは桶の周囲を警戒するように鼻をひくつかせていた。
『……ほう』
猫の瞳が細くなる。
『夜更けに食べ物を漁るとは、ずいぶんと大胆な下賤の者だな』
ネズミはしばらく周囲をうかがっていたが、やがて食堂の裏口へ向かって走り出した。
猫の尻尾が、ゆっくりと一度揺れた。
『我が散歩の邪魔をするばかりか、食べ物にまで手を出すつもりか』
屋根を蹴り、猫は音もなく地上へ降り立った。
ネズミはすぐに気配を察したのか、進路を変えて木箱の隙間へ潜り込んだ。木箱が揺れ、空き瓶が石畳を転がる。
猫は追いすがらなかった。
耳を立て、音の行方を追う。
カサカサ、と乾いた音が右へ。続いて、石壁を引っかくような音が左へ。ネズミは狭い隙間を利用し、こちらの目を欺こうとしているらしい。
『なるほど。小さいなりに、知恵はあるらしい』
感心したわけではない。
狩りが少しばかり面白くなっただけだ。
木箱の陰からネズミが飛び出した。猫はその動きを見極め、前足を伸ばす。だが、爪先がかすめたのは尻尾の先だけだった。
ネズミは桶の下をくぐり、壁際の狭い隙間へと走る。
猫の耳が後ろへ倒れた。
『……逃がすとでも?』
四本の足が石畳を蹴る。
ネズミが隙間へ飛び込むより早く、猫は脇の木箱へ飛び乗り、そこから身をひねって進路の先へ回り込んだ。
着地した足音は小さい。
逃げ道を塞がれたネズミが、ほんの一瞬、足を止める。
その隙を、猫は見逃さなかった。
前足が伸び、爪先が石畳をかすめる。ネズミが向きを変えるより早く、猫の体が低く躍った。
短い鳴き声が夜気を震わせた。
次の瞬間、路地には再び静けさが戻っていた。
猫は獲物の動きが止まったことを確かめ、ゆっくりと顔を上げた。胸がわずかに上下している。尻尾の先が、満足げに揺れていた。
『ふむ。なかなかの運動になった』
そのとき、食堂の裏口が勢いよく開いた。
「こらあああっ! また出やがったな、ネズミめ!」
エプロン姿の男が飛び出してきた。五十を過ぎた店主は、片手に殺鼠剤の袋を握りしめ、路地を見回している。
「ったく、どこに隠れやがった……。罠も駄目、毒餌も駄目、業者に頼んでも駄目。いったい何を食って生きてやがるんだ、あいつは……!」
愚痴をこぼしていた店主の声が、不意に途切れた。
猫の足元に、ネズミが横たわっている。
店主は目を見開き、猫と獲物を交互に見つめた。
「……お、おい。お前がやったのか?」
猫は顔を上げた。
『見れば分かるだろう』
もちろん、口から出たのは「ニャー」という鳴き声だけだった。
店主は恐る恐る近づき、ネズミを確かめた。汚れた毛並みも、傷のある耳も見覚えがある。厨房を荒らし、食材を駄目にし、何度罠を仕掛けても逃げおおせた、あの厄介者に違いなかった。
「本当に……仕留めたのか。あのネズミを……」
店主の肩から、ふっと力が抜けた。
「助かった……。本当に助かったぞ」
その声には、長いあいだ抱えていた苦労がにじんでいた。
三十年、この食堂を守ってきた男だ。仕入れを工夫し、料理を覚え、客の顔を思い浮かべながら毎日鍋を振るってきた。そんな店主にとって、たった一匹のネズミは、笑い話にできるほど小さな問題ではなかったのだろう。
店主は猫の前にしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。
猫は一瞬、その手を見た。
それから、逃げることなく頭を撫でさせた。
『うむ。此度の働きに対する敬意として、受け取っておこう』
指先が耳の後ろを撫でる。
悪くない。
猫の目が、ほんの少し細くなった。
「ありがとな。お前、本当にすごい猫だなあ……」
店主はしみじみと呟き、猫の全身を眺め回した。
月明かりに浮かぶ青みがかった灰色の毛並み。四つの白い足先。そして、背中に落ちる夜の影をまとい、泰然と座る姿。
店主の目が、ぱっと輝いた。
「身のこなしといい、この落ち着きようといい……まるで腕利きの用心棒だな」
ぽん、と店主は自分の膝を叩いた。
「そうだ! お前は今日から、うちの『黒外套の用心棒』だ。昔、親父が話してくれた路地裏の凄腕の傭兵に、そっくりじゃねえか!」
『……用心棒、だと?』
猫は背筋をぴんと伸ばした。
『この余を用心棒呼ばわりとは、無礼な……』
そこまで考え、猫はひとつ鼻を鳴らした。
『……まあ、よい。雇われの身ではなく、領地を見回る王の威厳に免じて許してやろう』
悪くない響きだった。
何より、この男が心の底から敬意を払っていることは、その声から十分に伝わってきた。
猫は満足げに尾をひと振りした。
店主には、それが誇り高い承諾の仕草に見えたらしい。
「ははっ、気に入ってくれたか!」
店主は立ち上がり、何かを思い出したように店の中へ駆け戻った。
しばらくして戻ってきた手には、皿があった。
その上に載っているのは、焼き魚だった。少し焦げ目がついているものの、皮は香ばしく、脂の匂いが夜風に広がっていく。
猫の耳が、ぴんと立った。
『……ほう』
店主は皿を地面に置き、照れくさそうに笑った。
「用心棒代の前払いだ。ちょっと焦げちまったが、今夜の一番脂が乗ったやつさ。食ってくれ」
魚の匂いが、すべての思考を押し流していく。
猫は皿に近づき、慎重に鼻先を寄せた。ひと嗅ぎし、焼き目を確かめ、それからようやく口をつける。
『……ふむ』
身は柔らかく、脂もほどよい。少し焦げた皮の香ばしさも、これはこれで悪くない。
『人間にしては、なかなかの腕前だ』
ひと口、またひと口。
先ほどまでの威厳など忘れたように、猫は夢中で魚を食べていた。骨を避け、身をほぐし、皿に残った小さな欠片まで丁寧に味わう。
店主は、その様子を嬉しそうに眺めていた。
「また来いよ。厨房を守ってくれるなら、いつだって魚くらい焼いてやるからな!」
猫は食べ終えると、口元を舐め、前足で顔を拭った。
『ふむ。なかなか気前のよい人間だ』
店主を一瞥し、尻尾を高く掲げる。
それが感謝の仕草だったのか、満腹になった猫がいつもどおり歩き出す合図だったのか。店主には、きっと区別などつかなかっただろう。
「黒外套の用心棒様、また頼むぜ!」
背後から響く声に、猫は振り返らなかった。
ただ、耳が一度だけ動いた。
『次の報酬も、魚で構わんぞ』
石畳を軽やかに歩き、路地の向こうへと消えていく。
夜風が毛並みを揺らした。頭上には月が浮かび、街の屋根は青白い光を受けて静かに連なっている。
『さて、次はどこで眠るか……』
魚の余韻を口の中に残したまま、猫は近くの壁を見上げた。
その上には、月明かりを浴びた屋根がある。
高いところは見晴らしがよい。風も通る。人間に邪魔されずに眠るには、申し分ない場所だ。
猫は身を低くし、ひと息に壁を駆け上がった。
夜の街を見下ろす屋根の上で、猫はゆったりと腰を下ろす。
人間たちは、今夜の出来事をいつか誰かに語るかもしれない。
厄介なネズミを退治した、黒外套の用心棒の話を。
けれど、当の猫はそんなことなど気にも留めていなかった。
『……悪くない夜だったな』
満ち足りた腹を石瓦に預け、猫は目を細めた。
明日もきっと、忙しい一日になるだろう。
散歩に、昼寝に、食事。
それから、気が向けば見回りも少々。
月明かりの下、青灰色の猫は静かに喉を鳴らした。