
第5話 炎の音に誘われて(前編)
腹を満たせそうな匂いを探していた猫は、ふと足を止めた。
カン、カン、カン。
路地の奥から、規則正しい音が響いてくる。
肉の焼ける音でも、食器の触れ合う音でもない。もっと硬く、澄んだ音だった。一定の間隔で鳴っては、わずかな間を置き、また打ち鳴らされる。
猫は首をめぐらせた。
『……ほう』
気がつけば、足は音のする方へ向かっていた。
鍛冶屋街の片隅に、古びた工房があった。窓から漏れる赤い光が、夜の路地に揺れている。猫は近くの木箱に飛び乗り、窓枠に前足をかけて中を覗き込んだ。
炉の前では、小柄な男が金槌を振るっていた。
赤く焼けた鉄が、打たれるたびに火花を散らす。男は一心不乱に腕を動かし、鉄の色と形を確かめては、また金槌を振り下ろした。
カン、カン、カン。
音に乱れはない。力任せに叩いているようでいて、一打一打に無駄がなかった。
猫は窓枠の上から、じっとその様子を眺めた。
『ふむ。なかなか良い音ではないか』
金槌が振り下ろされるたび、火花が星のように弾ける。炉から流れてくる熱が、夜風に冷えた毛並みをじんわりと温めていた。
腹を満たすものは見つからなかったが、これはこれで悪くない。
猫は前足を折り畳み、窓枠に顎を乗せた。規則正しい音を聞くうちに、まぶたが少しずつ重くなる。
やがて、金槌の音が止まった。
そのことに、猫は気づかなかった。
――ふと目を開けると、目の前に男の顔があった。
「おおお……! なんと見事な猫じゃ!」
『な、なんだ、こいつ!』
全身の毛が逆立ち、尻尾がぼわりと膨らんだ。猫は窓枠の上で身構え、男を睨みつける。
しかし、男は怯むどころか、目を輝かせていた。
「青灰色の毛並みに、真っ白な足! 額には星のような模様まであるではないか! いやあ、こいつは珍しい!」
『余を前にして騒々しい奴め。もう少し静かに敬意を払えぬのか』
男がさらに顔を近づけた、そのときだった。
ぐぅぅぅ……。
工房に、やけに大きな音が響いた。
猫の腹が鳴ったのである。
男はぴたりと動きを止め、次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「なんじゃ! お腹が空いてたんじゃな!」
『ち、違う! 今のは、その……!』
「待っておれ! すぐに用意してやるからの!」
男は猫の弁明など聞く耳も持たず、工房の奥へ駆けていった。
残された猫は、膨らんだ尻尾をゆっくりと元に戻した。
『……まったく。人間というものは、どうしてこうもせっかちなのだ』
ほどなくして、男が戻ってきた。手には平たい木の器があり、中には温かな山羊の乳が入っている。
「ほれ、飲むがよい。まだ温かいぞ!」
男が窓辺に器を置くと、乳の匂いが鼻先をくすぐった。
猫は器を見つめた。
『……余は、施しを受けるような身分ではないのだが』
腹が、また小さく鳴った。
『……仕方あるまい。これは、この工房を見定めるための試飲である』
そっと器に口をつける。
温かな乳が喉を通り、冷えていた体に染み渡っていく。猫は一度顔を上げ、男の様子を窺った。それから、また器に口をつけた。
「飲んだ! 飲んでくれたぞおお!」
男が両手を握りしめ、歓喜の声を上げた。
猫の耳が、ぺたりと横に倒れた。
『うるさい! 食事くらい静かにさせぬか!』
抗議の声は、ただの「ニャー」として工房に響いた。
男はますます嬉しそうに笑った。
「そうかそうか! もっと欲しいか!」
『言葉が通じぬにもほどがあるぞ……』
器が空になるころには、猫の機嫌もいくらか戻っていた。男は満足そうに頷き、猫の額にある白い星の模様をしげしげと眺めた。
「しかし、お前さん、首輪もしておらんのか。飼い主はおらんのかの?」
猫は顔を洗うように前足を舐めた。
『飼い主だと? 余を縛る者など、この世におるものか』
「なるほどなあ。自由気ままな旅暮らしか!」
男は勝手に納得すると、豪快に笑った。
猫は小さく欠伸をした。
『……話が早いのは、助かるがな』
窓辺から工房の中へ視線を移す。炉の炎はまだ赤く、石造りの床には心地よい熱が残っていた。外の夜風に戻る理由は、今のところ見当たらない。
男はそんな猫を見て、顎に手を当てた。
「よし。せっかくの客人じゃ。何か、特別なものを作ってやろうかの!」
『特別なもの?』
猫の耳が、男のほうへ向いた。
男は返事を待つことなく、作業台へ向かった。棚から小さな金属片をいくつか取り出し、道具を並べ、炉の火を調整する。先ほどまでとは違う、どこか楽しげな様子だった。
やがて、男は鉄を火に入れた。
赤く染まった金属を取り出し、台に据える。
カン、カン、カン。
再び金槌の音が響き始めた。
猫は窓枠から床へ降り、炉のそばに身を落ち着けた。打ち鳴らされる音は、先ほどと変わらず澄んでいる。けれど今度は、ただ聞いているだけでは少し物足りなかった。
金槌が動くたび、赤い火花が散る。男の手元では、小さな金属片が少しずつ形を変えていた。
『人間というものは、不思議な生き物だな。鉄を叩いて、何がそれほど楽しいのやら』
そう思いながらも、猫の視線は男の手元から離れなかった。
『……まあ、余のために何かを作るというのなら、見届けてやらぬこともない』
炉の熱が心地よい。腹も満たされ、周囲には耳に馴染む音がある。
猫は小さく身を丸め、前足の間に鼻先をうずめた。
カン、カン、カン。
金槌の音は、夜が更けても途切れなかった。
猫はその音を聞きながら、再び深い眠りへ落ちていった。