
第5話 炎の音に誘われて(後編)
カン、カン、カン。
規則正しい金槌の音が、猫の眠りの底まで届いていた。
ときおり火花の弾ける音が混じり、炉の熱が毛並みを優しく温める。猫は前足の間に鼻先を埋めたまま、耳だけを小さく動かしていた。
やがて、金槌の音が止まった。
「……よし」
男の満足げな声に、猫は片目を開けた。
作業台の上には、小さな銀の輪が置かれていた。男はそれを手に取り、光にかざしては角度を変え、何度も確かめている。
『何ができたのだ?』
猫は伸びをひとつして、作業台へ近づいた。
銀の輪には、細やかな星の模様が刻まれていた。中央には深い青色の宝石が据えられ、炉の光を受けて静かに輝いている。銀の表面を流れるような曲線は、夜空に広がる星座を思わせた。
猫は前足を作業台にかけ、首を傾げた。
『ふむ。なかなか見事な細工ではないか』
「気に入ったかの?」
男が顔をほころばせた。
「これは首輪じゃ。お主の首に似合うと思ってな」
『首輪だと?』
猫は耳を後ろへ倒した。
『余を誰かの飼い猫にするつもりか? ずいぶんと大胆なことを考える奴だ』
警戒する猫を見て、男は豪快に笑った。
「心配せんでもええ。誰かに飼われるためのものではないわい。お主のために作ったんじゃからな」
男は首輪をそっと作業台に戻した。
「実はな、昔も猫が一匹、この工房におったんじゃ」
その声は、先ほどまでの陽気さを少しだけ失っていた。
「気ままな奴でな。わしが仕事をしておると、いつの間にか炉のそばで眠っておった。腹が減れば鳴き、気に入らんことがあれば爪を立てる。じゃが、どこか誇り高い猫じゃった」
男の手が、銀の輪をそっと撫でた。
「まるで王様のようにな」
猫は男の顔を見上げた。
男は笑っていたが、その瞳には遠い日の面影が浮かんでいた。
「もう、ずいぶん昔のことじゃ。あの子は最後まで、誰にも媚びんかった。わしにできたのは、そばにおることくらいじゃったが……それでも、幸せじゃったよ」
炉の中で薪が弾けた。
猫は何も言わず、男の手元を見つめていた。
『……そうか。お前にも、余のような相棒がおったのだな』
男は顔を上げ、猫の額にある白い星の模様を見た。
「お主を見ておると、あの子を思い出す。もちろん、別の猫じゃと分かっておる。それでもな、なんぞ作ってやりたくなったんじゃよ」
そう言うと、男は引き出しから小さな彫刻刀を取り出した。
「さて、仕上げじゃ」
首輪を裏返し、内側に細かな文字を刻んでいく。猫には読めない文字だった。一本の線を刻むたび、男は指先で確かめ、わずかな歪みも見逃さずに修正した。
最後の線を刻み終えると、男は首輪を炉のそばへ運んだ。
「傷を癒し、帰る道を示し、危険から身を守る。大層な魔法ではないが、旅をするお主には役に立つじゃろう」
男が掌をかざすと、銀の輪に刻まれた文字が淡く光った。中央の青い宝石にも輝きが灯り、やがて静かに落ち着いた。
「よし、これで完成じゃ!」
男は首輪を掲げ、満足そうに頷いた。
「本当は、王様に献上する品を作るつもりじゃったんじゃがな」
そこで言葉を切り、猫を見た。
「どうやら、先に渡すべき相手が見つかったようじゃ」
『当然であろう。王たる余にふさわしい品を作ったのだ。献上先として間違ってはおらぬ』
猫は胸を張った。
男は何を思ったのか、ますます嬉しそうに笑った。
「そうかそうか! では、真の王に献上するとしよう!」
『うむ。よき心がけだ』
男は片膝をつき、首輪を両手で捧げ持った。
「どうか、受け取ってくだされ」
その声には、ふざけた様子も大げさな調子もなかった。
猫は差し出された首輪を見つめた。
銀の表面に刻まれた星々。中央で静かに輝く青い宝石。そして、男のごつごつした指先。
猫には魔法の仕組みも、刻まれた文字の意味も分からない。ただ、この品を作るために男がどれほど丁寧に手を動かしたのかは、ずっとそばで見ていた。
猫は少しだけ首を伸ばした。
男がそっと首輪をつける。
銀の輪が毛並みに触れ、胸元で宝石が揺れた。ひんやりとした感触のあと、じんわりとした温もりが伝わってくる。
額の星が、かすかに熱を帯びた。
それは瞬きほどの短い感覚だった。猫は一度、首を振って首輪の具合を確かめる。きつくもなく、緩すぎもしない。動きを邪魔することもなかった。
『……ふむ。しっくりくるではないか』
「おお! ぴったりじゃ!」
男は目を細め、何度も頷いた。
「やはり、お主に渡してよかったわい」
猫は首輪をつけたまま、ゆっくりと男の足元へ歩み寄った。
そして、ごつごつした革のブーツに頬を擦りつけた。
「……おや?」
男が目を丸くする。
猫はもう一度、今度は反対側の頬を擦りつけた。それから膝へ飛び乗り、差し出された手に額を押しつける。
男の手が、そっと猫の背を撫でた。
「はは……そうか。気に入ってくれたか」
猫の喉が、ごろごろと鳴った。
『うむ。褒美を取らせる。存分に撫でるがよい』
男は笑いながら、何度も猫の背を撫でた。
しばらくすると、猫は膝から降り、工房の扉へ向かった。
いつまでも同じ場所に留まるわけにはいかない。まだ見ぬ屋根があり、知らぬ匂いがあり、登るべき高みがあるのだ。
「もう行くのかの?」
男が少し寂しそうに尋ねた。
猫は振り返り、尻尾をゆっくりと揺らした。
「そうか。ならば、またいつでも来るとええ。ここは、お主の休める場所じゃ」
猫は返事の代わりに、小さく鳴いた。
『……覚えておこう』
男が重い扉を開けると、夜の冷たい空気が工房へ流れ込んだ。
猫は石畳へ足を踏み出した。首元の銀が月明かりを受け、青い宝石が光る。歩くたびに小さく揺れるその感触は、まだ少しばかり新鮮だった。
路地の向こうから、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
猫は鼻先を持ち上げた。
『……ふむ。まずは食事だな』
王の旅路に、腹ごしらえは欠かせない。
風に鼻先を向け、匂いを追って歩き始める。やがて石壁を駆け上がり、低い屋根から高い屋根へと軽やかに跳び移った。
眼下には、夜の街が広がっていた。
胸元の宝石が、星明かりを受けて淡く輝く。
それは道を照らすほど強い光ではなかった。けれど、猫が歩みを進めるたび、青い輝きは小さく揺れ、毛並みの間に温かな感触を残していた。
『……悪くない贈り物だったな』
猫は高い屋根の上で立ち止まり、夜空を見上げた。
無数の星が、静かに瞬いている。
そのうちのひとつが、自分の額にある小さな星とつながっているのかどうか。猫には分からない。
分からないが、今はそれでよかった。
『さて、次はどこへ行くとするか』
猫は尻尾を立て、再び歩き出した。
首元では、銀の首輪が星明かりを返していた。
王の旅路は、まだ始まったばかりだった。