
第6話 風の子の庭
屋根の上を歩いていた猫は、ふと足を止めた。
風に乗って、街の匂いとは違うものが流れてきたのだ。
花の淡い蜜の香り。湿り気を帯びた深い土の匂い。陽光を浴びた若葉の匂い。その奥には、どこかあの森を思わせる、懐かしい気配が混じっていた。
猫は鼻先をひくつかせ、その匂いのする方へ歩き出した。
石壁の隙間をすり抜け、蔦の絡まる門をくぐる。そこには、街の喧騒が嘘のように遠のく、静かな庭が広がっていた。
古い大樹が枝を広げ、苔の上では木漏れ日が揺れている。銀色を帯びた葉は、風にそよぐたび、鈴を振るようなかすかな音を立てた。石畳の脇には、見慣れぬ小さな野花が顔を覗かせている。
『ほう……街の奥に、このような場所があったとはな』
猫は満足げに尾を立てた。
誰にも邪魔されず、気ままに昼寝をするには申し分ない。
足音を忍ばせて庭の奥へ進み、柔らかな苔の上に身を沈める。前足を揃えて丸くなり、まぶたを閉じた。
しばらく微睡んでいると、どこからか弦をつま弾く音が流れてきた。
ぽろん。
澄んだ音色が、葉擦れの合間を縫って響く。
猫の片耳が、ぴくりと跳ねた。
ぽろん、ぽろろん。
風でも、鳥のさえずりでもない。けれど、その響きは不思議なほど心地よく、凝り固まっていた身体をほぐしていくようだった。
薄く目を開けた、その鼻先に。
ひらりと、白銀の蝶が舞い降りた。
小さな羽が開いては閉じる。陽光を受けるたび、羽の表面が淡く輝いた。
猫の瞳が、すっと細くなる。
『動くなよ。余が直々に、手合わせ願おう』
前足が、わずかに浮いた。
蝶がふわりと宙へ舞う。
次の瞬間、猫の身体が跳ねた。
苔を蹴り、石の縁を踏み、木の根を飛び越える。蝶は木漏れ日の間を縫うように飛び、猫はその後を追った。前足を伸ばすたび、白銀の羽は爪先をかすめて逃げていく。
『待て! 余の庭で無作法に飛び回るでない!』
蝶は答えることなく、枝先へ舞い上がった。
猫は幹を駆け上がり、太い枝へ飛び移る。あと一歩で爪が届くというところで、蝶はそよ風に乗り、古樹の梢へ逃げていった。
猫は枝の上に前足を揃え、尾を一度だけ不満げに振った。
『……ふん。なかなか、すばしこい小娘であったな』
負け惜しみを胸の内で呟き、枝の隙間から庭を見下ろす。
そのとき、すぐ下から弦の音が響いた。
ぽろん。
大樹の根元に、ひとりの若者が座っていた。
銀白の長い髪が風に揺れ、髪の間から長い耳が覗いている。翡翠色の瞳は、膝に抱えたリュートではなく、枝の上の猫を見上げていた。
若者は弦を押さえる指を止め、穏やかに目を細めた。
「……風の子、だね」
猫の耳が、後ろへ倒れた。
『誰が子供だ。無礼な二足歩行め』
若者は枝の上に堂々と座る猫の姿を、美しい絵画でも眺めるように見つめていた。
「僕たちの古い歌にあるんだ。風に愛され、梢を跳び、空を駆ける気高き獣の詩が。君の身のこなしは、まさにその歌のようだったよ」
若者は微笑み、再び弦を揺らした。
風のささやきのような旋律が、庭に広がっていく。
猫は枝伝いに歩き、木肌を伝って地上へ降り立った。
音色が気に入ったのだ。少なくとも、あの気まぐれな蝶のように逃げ回って、余を疲れさせることはない。
若者が、そっと手を差し伸べた。
猫はその指先に小さく鼻を近づけた。青葉と乾いた木、それに雨上がりの土の匂いがした。
ひと嗅ぎして確かめると、猫は手に触れることなく、すまし顔で若者の脇を通り抜けた。
「ふふ。気ままなところまで、歌の通りだ」
若者は楽しそうに笑った。
懐くでもなく怯えるでもなく、気の向くままに歩き、気が済めば立ち去る。その姿は、古い歌に登場する獣そのものに見えたのだ。
やがて、庭の奥の木立から、数人の森の民が姿を現した。
「エル、貴方その子を見ていたの?」
「うん。見事な身のこなしだったよ。木漏れ日を渡る風そのもののようだった」
彼らは猫のそばへ歩み寄り、少し離れたところに腰を下ろした。
猫はゆっくりと首を巡らせ、胸を張った。
『ふむ。ようやく余の美しさに平伏したか』
そのとき、星屑を散らしたような衣をまとう一人の女性が、猫の首元に目を留めた。
「まあ……首輪をしているのね」
女性は膝をつき、胸元で揺れる青い宝石を覗き込んだ。
「銀細工の腕は悪くないけれど、少しばかり無骨ね。せっかく美しい毛並みをしているのに、これでは重苦しいでしょうに」
猫の耳が、ピタリと真横に倒れた。
『……なんだと?』
女性は猫の様子を気に留めず、自分の胸元で光る繊細な細工をつまんで見せた。
「私たちの技なら、もっと相応しいものを作れるわ。森の星を織り込み、月の光で紡いだ首飾り。あなたのような風の子なら、きっとよく似合うはずよ」
背後に控えていた年老いた男も、静かに頷いた。
「山を穿つ民の細工は、頑丈さが取り柄だからな。美しさと調和を求めるのなら、我らの森の技に及ぶべくもない」
猫は首を傾げ、胸元の青い宝石を見下ろした。
無骨だと?
あの工房に満ちていた熱気。夜まで響いていた金槌の音。ごつごつした手で差し出された、温かな山羊の乳。
そして、この首輪を嵌めてくれたときの、職人の少し照れくさそうな、誇らしげな顔。
猫は首をすくめ、銀の首輪にそっと頬を擦り寄せた。
ごろごろ、ごろごろ。
喉の奥から、低く深い音があふれ出す。
『余はこの首輪が気に入っておるのだ。うわべの細工だけで美しさを測るとは、千年生きてなお修行が足りぬようだな』
猫は彼らを見据え、尾をゆっくりと揺らした。
リュートを抱えた若者、エルは、その仕草をじっと見つめていた。
猫が首輪に頬を擦りつけ、満足げに喉を鳴らしている。エルはしばらく考えるように黙り、それから仲間たちへ視線を向けた。
「……どうやら、その首輪がよほど気に入っているみたいだね」
猫は目を細めた。
『ようやく話の通じる者が現れたか』
エルは猫の反応を見て、穏やかに微笑んだ。
「分かったよ。無理に別のものを勧めるのはやめておこう」
女性は少し意外そうに猫を見たが、やがて小さく頷いた。
「そうね。気に入っているものを無理に替える必要はないわ」
猫は満足げに尾を立てた。
『よき心がけだ。その聡明さを褒めてつかわす』
猫はくるりと踵を返し、苔の庭の出口へ歩き出した。
背後から、再びリュートの調べが風に乗って流れてくる。
先ほどよりも、どこか温かな旋律だった。
猫は振り返らなかったが、片耳だけを後ろへ向け、その音色に耳を傾けた。
『……ふむ。あの音色だけは、なかなかの名品であったぞ』
そう胸の内で呟きながらも、歩みは緩めなかった。
蔦の門をくぐり抜けると、街の熱気と喧騒が戻ってきた。
風が運んでくるのは、もはや花の蜜ではない。焼きたてのパンの香り。どこかの食堂から漂う魚の煙。人々の活気あるざわめき。
その途端、猫の腹が小さく鳴った。
『さて……まずは昼餉と相成るか』
石壁を駆け上がり、陽光の降り注ぐ瓦屋根の上へ躍り出る。
風が吹き抜け、青灰色の毛並みを揺らした。胸元の銀の首輪が陽光を受け、青い宝石が空の色を映して輝く。
猫は胸を張り、次の屋根へ軽やかに跳んだ。