
第7話 逃げ足こそ王の誇り
昼下がりの街は、石畳に降り注ぐ陽光と、露店から漂う焼き菓子の甘い匂いに満ちていた。広場では冒険者たちがギルドの掲示板を囲み、商人たちは威勢のいい声を張り上げている。馬車の車輪が石畳を鳴らし、軒先の木製看板が風に揺れていた。
その賑わいのなかを、青灰色の猫が歩いていた。
白い四つの足を軽やかに運び、額の星形の模様を陽光にさらしながら、猫は通りを見渡す。
『ふむ。今日もなかなか活気がある。腹を満たす場所にも事欠かぬようだ』
焼きたてのパンの匂いに鼻を動かし、魚を並べた露店の前では足を止める。首輪の青い宝石が、歩くたびに小さく光った。
そのときだった。
「いたーっ! あの猫だーっ!!」
猫は歩みを止めずに、片耳だけを後ろへ向けた。
『……またか』
振り返る必要はない。弾む足音が三つ。期待と興奮に満ちた、子供特有の声。腰に下げた木剣が、かたかたと鳴る音まで聞こえてくる。
先日から、ときおり街で見かける子供たちだ。どうやら猫を見つけるたびに追いかけてくるらしい。
「待ってよー!」
「今日は絶対に撫でるんだからな!」
「干し肉も持ってきたぞー!」
最後の言葉に、猫の耳が前を向いた。
『干し肉だと?』
ほんの一瞬、足が止まる。
背後から近づいてくる足音。手に持った干し肉の匂い。差し出されるであろう食べ物への期待。
猫はゆっくりと振り返った。
『よかろう。まずは貢ぎ物を見せてみるがいい』
「いた! こっち向いた!」
子供たちの顔がぱっと明るくなる。
次の瞬間、猫は走り出した。
『だが、余に触れられると思うなよ!』
石畳を蹴り、露店の脇をすり抜ける。赤い日よけ布の下をくぐり、積まれた木箱をひと跳びで越えた。店主が驚いて顔を上げたときには、もう猫の姿は遠ざかっている。
「待てーっ!」
子供たちが追いかける。
猫は路地の角でひらりと向きを変え、樽の上に飛び乗った。そこから窓枠へ、窓枠から低い屋根へ。爪が瓦を捉え、しなやかな体が陽光のなかへ躍り出る。
眼下では、子供たちが右へ左へと駆け回っていた。
『ふむ。追う側の視野が狭すぎるな。周囲を見ずに獲物を追うとは、狩りの基本からやり直すべきだ』
猫は尻尾を立て、悠々と屋根を渡った。
もっとも、逃げる理由が撫でられるのを嫌ってなのか、追われること自体が愉快なのか、本人にも結論は出ていなかった。
やがて、猫は屋根の端で足を止めた。
下の通りでは、荷車がゆっくりと進んでいる。荷台には魚籠が積まれ、潮と魚の匂いが風に乗って届いてきた。
『……あちらも捨てがたい』
一瞬だけ視線が魚籠に吸い寄せられる。
その隙を、子供たちは見逃さなかった。
「いた! 屋根の上だ!」
「降りてこーい!」
『む。しつこい小僧どもめ』
猫は身を翻し、隣の屋根へ飛び移った。
石壁を伝い、洗濯物の隙間を抜け、軒先から軒先へ。行き止まりに見える場所でも、猫にとっては次の足場があるだけだ。人間が通れない隙間は、猫にとって格好の道になる。
追いかける声が、次第に遠ざかっていった。
『よいか。王とは、あらゆる勝負に勝たねばならぬわけではない。勝つ必要のない勝負を避けることも、また王の器量よ』
猫は胸を張った。
その腹が、ぐう、と鳴った。
『……まずは食事だな』
誇り高き王の判断は、いつだって明快だった。
濡れた石畳を避け、日当たりのいい壁際を歩いていると、ふいに懐かしい匂いが鼻をかすめた。
焚き火の煙。乾いた革。古い本の紙とインク。
猫の足が止まった。
『……この匂いは』
記憶の底で、ぱちりと小さな火が弾ける。
森の夜。赤く揺れる炎。薪の爆ぜる音。そばにいた三人の人間。
そのなかでも、白銀の髪を編んだ少女の姿が浮かんだ。青い宝石のついた杖を持ち、何かと本を気にかけていた魔術師だ。
猫は鼻先を上げた。
風が運んできたのは、古書の匂いだけではない。薬草の青い香りや、乾燥させた花の匂いも混じっている。あの日、一緒に歩いた道の記憶が、少しずつ形を取り戻していった。
『あの娘、この近くにいるのか』
別に、会いたいわけではない。
ただ、かつて焚き火を囲んだ者がどこにいるのか、王として把握しておくのは当然のことだ。
猫は歩き出した。
市場の賑わいを離れ、薬草や魔法道具を扱う店が並ぶ通りへ向かう。棚に吊るされた乾燥薬草が風に揺れ、瓶のなかでは色とりどりの液体が光を返していた。店先から漏れる呪文の声に耳を傾けながら、石畳を進む。
すると、前方から聞き覚えのある声がした。
「ええと、この薬草は……あれ? こっちだったかな」
猫の耳がぴんと立つ。
白銀の三つ編み。青い石をあしらった杖。腕に抱えた小さな魔導書。
間違いない。ルーナだった。
彼女は店先で足を止め、手元の本と棚に並んだ薬草を交互に見比べている。どうやら買い物の途中らしい。考え込むたび、三つ編みの先が肩の上で揺れていた。
猫はしばらく、その様子を眺めた。
『相変わらず、本と睨めっこか。あれでは目の前に獲物が現れても気づくまい』
そのとき、背後から声が飛んできた。
「いたーっ! あっちだ!」
猫の耳が後ろへ倒れる。
『……まだ追っておったのか!』
振り向けば、通りの向こうから子供たちが駆けてくる。干し肉の袋を掲げた子供までいる。
王の忍耐にも限度があった。
猫は地を蹴った。
「えっ?」
ルーナが顔を上げたときには、青灰色の影が足元を駆け抜けていた。
次の瞬間、猫は彼女の腕へ飛び込んでいた。
「きゃっ!」
ルーナは慌てて本を抱え直し、落とさないようにしながら猫を受け止めた。
柔らかな毛並み。四つの白い足。額に宿る星形の模様。そして、首元で光る銀の首輪と青い宝石。
彼女の目が、驚きから喜びへと変わった。
「あなた、あのときの猫!」
猫はルーナの腕のなかで体勢を整え、尻尾を一度振った。
『ふむ。久しいな、魔術師の娘よ』
「ステラ……って呼んでよかったんだよね?」
猫は目を細めた。
『その名は、お前がつけたものだったな』
ルーナは猫の額をそっと撫でようとして、手を止めた。以前も、無理に触ろうとすると嫌がられたのを思い出したのだろう。
代わりに、猫の顔を覗き込んで微笑む。
「また会えるなんて思わなかった。元気そうでよかった」
猫は返事の代わりに、小さく喉を鳴らした。
そのとき、追いついた子供たちが二人を取り囲むように足を止めた。
「ええっ、なんでそのお姉ちゃんには抱っこされてるの!?」
「ぼくたちが追いかけても逃げるのに!」
「ずるい! どうしたら懐いてくれるの?」
ルーナは困ったように笑った。
「ずるい、って言われても……この子、気まぐれだから」
『気まぐれではない。相手を選んでいるのだ』
猫はルーナの腕のなかで、誇らしげに顔を上げた。
「それにね」
ルーナは、猫の首元に目を落とした。青い宝石を嵌めた銀の首輪が、傾きかけた陽を受けて静かに輝いている。
「この子、自分が気に入ったものや人のことは、ちゃんと覚えているみたい」
『当然だ。王の記憶力を侮るでない』
「だから、追いかけ回すより、まずは仲良くなるところから始めてみたらどうかな?」
子供たちは顔を見合わせた。
「仲良く……?」
「じゃあ、干し肉をあげたらいいのかな?」
その言葉に、猫の耳が前を向いた。
『……ほう』
ルーナは気づかず、笑顔で頷く。
「うん。でも、無理に触ろうとしないこと。嫌がったら、そっとしておいてあげてね」
「わかった!」
子供たちは元気よく返事をした。ひとりが干し肉の袋を持ち上げ、猫に見えるように差し出す。
猫はルーナの腕から身を乗り出しかけた。
『よかろう。まずは貢ぎ物の品質を確かめてやる』
しかし、子供たちの手が一斉に伸びかけた瞬間、猫はするりと身をひるがえした。ルーナの腕から地面へ降り立ち、子供たちの足元を抜けて、近くの石壁に飛び乗る。
「ええっ、また逃げた!」
「待ってよー!」
子供たちが声を上げる。
猫は壁の上で立ち止まり、悠然と尻尾を揺らした。
『愚か者め。貢ぎ物を受け取ることと、好きに触らせることは別である』
ルーナはとうとう声を立てて笑った。
「ふふっ。本当に、王様みたいな猫だね」
その声に、猫は片耳だけを彼女へ向けた。
『ようやく分かったか』
胸を張り、壁の向こうへ軽やかに跳ぶ。
追いかける声が遠ざかり、街には再びいつもの賑わいが戻ってきた。猫は屋根へ上がり、夕陽に染まり始めた街並みを見渡した。首輪の青い宝石が、空の色を映して淡く輝いている。
腹はまだ満たされていない。パンの匂いも、魚の匂いも、あちこちから漂ってくる。
『さて、次は何を食べるとするか』
猫は尻尾を立て、次の屋根へ跳んだ。
王の一日は、まだ終わらない。
そして、王の逃げ足に追いつける者も、今のところ現れそうになかった。