
第8話 空に溶ける香りと、王の歩み
夕風に乗って、いくつもの匂いが流れてくる。焼きたてのパンの甘い匂い、大衆食堂から漂う焼き魚の煙、石畳に染みついた雨の名残。その中に、乾燥した薬草と古書のインクの匂いが混じっていた。
以前、街の一角で嗅いだことのある匂いだった。
『ふむ……あの店の匂いか』
猫は鼻先を風に向けた。
薬草の青い香りを追っていくと、石造りの街並みの向こうに、天を突くような灰色の塔が姿を現した。細長い窓から漏れる淡い光は、青から紫へ、紫から黄金へと、ゆっくり色を変えている。
『妙な光を放つ場所だな』
猫は尾を高く立て、塔へ向かって歩き出した。
食事にありつけるかどうかは後回しだ。知らない場所には、知らないものがある。王たるもの、己の領地に何があるのか、確かめておく必要がある。
もっとも、猫にとって己の領地がどこまでなのか、その境界はたいそう曖昧だった。
塔の入口には、分厚い鉄張りの扉が半分ほど開いていた。長いローブをまとった人間たちが忙しそうに出入りし、手には小瓶や羊皮紙、見慣れない道具を抱えている。
誰も、足元をすり抜ける青灰色の影には目もくれなかった。
猫は音もなく敷居をまたいだ。
塔の内部はひんやりとしていた。石造りの廊下には青白い魔石灯が浮かび、壁には見慣れない文字や幾何学模様が刻まれている。薬草の匂いは一段と濃くなり、その奥から、雷雨の直前の空気に似た刺激が漂っていた。
額の星形の白斑が、かすかにむず痒くなった。
『ほう。なかなか退屈せぬ家ではないか』
猫は悠然と石床を進んだ。
扉の向こうから、何かが煮え立つ音や、ガラスの触れ合う乾いた音が聞こえてくる。ときおり閃光が弾け、そのたびに人間たちの慌てた声が響いた。
だが、猫は気にしなかった。
人間たちが何をしているのか、少しばかり見物していくだけのことだ。
やがて、ひとつの扉の前で足が止まった。
甘い香りが、ふわりと鼻先をくすぐったのだ。
蜂蜜を煮詰めたような濃密な甘み。その奥には、焼きたての菓子を思わせる香ばしさが潜んでいる。
『……これは、食べ物ではないか?』
猫は扉の隙間から頭を滑り込ませた。
部屋の中央には、白衣を着崩した若い男の魔術師が立っていた。机の上には大小のフラスコや小瓶が並び、その周囲を淡い光の粒が蛍のように舞っている。
魔術師は床に描かれた魔法陣へ向かい、小瓶を片手に呪文を唱えていた。
「よし、今度こそ……調合完了だ!」
魔法陣が青く輝いた。
空気が細かく震え、小瓶が淡い光に包まれる。中の琥珀色の液体がゆっくりと渦を巻き、やがて一部が瓶の底から離れた。
雫は形を崩すことなく、瓶の中でふわりと浮かび上がった。
「成功だ! 浮遊薬の完成だぞ!」
魔術師が両手を挙げて歓声を上げる。
『……浮いたな』
猫は首を傾げた。
瓶は机の上に置かれたままだ。その中で、琥珀色の液体だけが重さを忘れたように漂っている。
なるほど、妙な術もあるものだ。
猫はしばらく眺めていたが、すぐに鼻先をひくつかせた。甘い香りは、やはり気になる。
『食べ物ではないようだが……確かめずに立ち去るのも王の名折れか』
音もなく机へ飛び乗る。
魔術師は成功の余韻に浸っており、机の上に現れた侵入者にはまるで気づいていない。
猫は小瓶に鼻先を近づけた。蜂蜜を思わせる香りがいっそう強くなる。瓶の縁には、琥珀色の雫が一滴だけ残っていた。
ぺろり。
舌先に、ピリッとした刺激と、とろけるような甘みが広がった。喉を通ると、腹の底がじんわりと温かくなる。
その瞬間、猫の四つの足が机の天板からふわりと離れた。
『……む?』
猫は宙に浮いていた。
前足を動かしても、後ろ足を掻いても、足裏に確かな感触がない。尾がゆっくりと弧を描くたび、身体が風船のように持ち上がっていく。
「うわあっ! な、なんだぁっ!?」
魔術師が振り返り、目を丸くした。
「君、いつの間に……いや、まさか浮遊薬の残滴を舐めたのか!?」
猫は空中でしなやかに身体をひねった。
足場がないのは、いささか落ち着かない。だが、机の上も床の魔法陣も、いつもより小さく見える。高いところから見下ろす景色は、やはり悪くなかった。
『ふむ。高みからの眺めは、どこであろうと格別だな』
猫は満足げに尾を揺らした。
しかし、浮かんでいるだけでは腹の足しにならない。
『……で、これは腹に溜まるのか?』
猫が瓶へ向かって前足を伸ばしたところで、魔術師が慌てて両手をかざした。
「待ってくれ! これ以上は危険だ。浮遊効果、解除!」
魔術師が早口で呪文を唱えると、猫を包んでいた淡い光が揺らいだ。身体はゆっくりと下降し、すとんと机の上へ着地する。
四つの足先が板を捉えた瞬間、猫は何食わぬ顔で前足を舐め、耳の後ろを洗い始めた。
魔術師は胸を押さえ、深く息を吐いた。
「心臓が止まるかと思ったぞ……。まったく、君はいったい何者なんだ?」
『王だ』
もちろん、人間に届いたのは「ニャー」という細い声だけだった。
魔術師は猫の額にある星形の白斑を見つめ、それから首元の銀の首輪へ目を留めた。中央の青い宝石が、魔石灯の光を受けて静かに瞬いている。
「浮遊薬を舐めて空を飛んだ猫なんて、前代未聞だ……よし、君の名は『浮遊王』だ!」
猫の耳が、ぴたりと真横に倒れた。
『……なんだ、その安直な名は。余をそのような珍妙な名で呼ぶでない』
魔術師は猫の不機嫌な顔を、誇らしげな承諾と勘違いしたらしい。
「気に入ったか! そうかそうか、浮遊王!」
『人間の名付けのセンスというものは、時折ひどく理解に苦しむな』
猫は返事の代わりに机から飛び降りた。
これ以上ここにいても、美味いものが出てくる気配はない。尾を高く掲げ、部屋を後にした。
廊下の奥には、まだいくつもの扉が続いていた。
ある部屋からは乾いた木と古書の紙の匂い。別の部屋からは、氷のように冷たい金属の気配。さらに奥からは、先ほどの薬とは異なる、重く静かな魔力が漂っている。
猫の足取りが軽くなった。
『なるほど。ここは奇妙なものの宝庫らしい』
扉のひとつが、少しだけ開いていた。隙間に身体を滑り込ませる。
そこには、巨大な円形の魔法陣が刻まれていた。床の文字が淡く光り、陣の中央には古びた分厚い本が一冊、何もない空中に静かに浮かんでいる。
ページが風もないのにめくれ、紙の合間から銀色の光がこぼれ落ちた。
猫は足を止めた。
その瞬間、額の星の白斑が、かすかに熱を帯びた。
『……なんだ?』
一歩、前足を踏み出す。
本から漂うのは、古い羊皮紙の匂いだった。けれど、その奥には、知らないはずなのに懐かしい気配があった。
遠い記憶の底に沈んだ、冷たい夜の空気。金色に浮かぶ文字。そして、静まり返った古書店。
それらが一瞬、胸の奥をかすめた。
猫はじっと本を見つめた。
だが、何を思い出しかけたのか、自分でもわからなかった。
やがて小さく鼻を鳴らした。
『……食べられそうにはないな』
興味が失せたわけではない。ただ、今は腹が減っていた。
猫は踵を返し、その部屋を静かに後にした。
その後も、猫は気の向くままに塔を探検した。
光る地図のある部屋、硝子の花が並ぶ棚、ひとりでに巻き上がる羊皮紙。人間たちにとっては神秘の結晶なのだろうが、猫にとっては、少しばかり面白い眺めにすぎなかった。
やがて、廊下の突き当たりにある、ひときわ重厚な扉の前にたどり着いた。
その隙間から、これまで嗅いだことのない濃密な香りが漂ってきた。
深紅の薔薇に似た甘やかさ。その奥に、鋭く研ぎ澄まされた刃物のような冷たい気配がある。
猫が扉の隙間に鼻先を寄せた、そのときだった。
「そこにいるのは、誰かしら?」
静かな声が響いた。
猫の耳がぴんと立つ。
扉が音もなく開いた。
現れたのは、深紅のローブをまとった長身の女だった。艶やかな漆黒の髪が腰まで流れ、額には小さな紫水晶が嵌め込まれている。深い緑色の瞳が、床にたたずむ猫を見下ろしていた。
女はしばらく無言で猫を観察した。
やがて、その視線が額の星形の模様を捉え、次いで首元の銀の首輪へ移った。
「……ずいぶんと自由に歩き回っている子ね」
『当然だ。歩きたいところを歩く。それが猫の流儀というものだ』
女は面白そうに目を細めた。
「研究室をいくつも覗いたでしょう。ここは野良猫の散歩道ではないのよ」
猫は尾をゆっくりとひと振りした。
『散歩道ではないだと? ならば、なぜ余の目を引く面白いものばかり並べておくのだ』
女の口元が、わずかに緩んだ。
「言うことを聞かない子ね」
女が白く細い指先を上げると、淡い紫色の光が灯った。
猫が身構える間もなく、柔らかな光の帯が胴体をふわりと包み込んだ。
『むっ……?』
足先が石床から離れた。
先ほどの浮遊薬とはまるで違う。身体は宙に抱かれたまま、女の指先の動きに合わせて滑らかに運ばれていく。前足を伸ばしても、空を掻くだけだった。
『ほう……これはなかなか見事な……いや、勝手に運ぶでない!』
女は猫の言葉など知る由もなく、涼やかな足取りで廊下を歩き出した。
「外へお帰りなさい。これ以上、塔の秩序を乱されては困るわ」
宙に浮いたまま、猫は女の横顔を見上げた。
無駄のない歩み。揺るがない呼吸。指先に灯る魔力にも、わずかな乱れさえない。
なるほど、この女は相当な腕前らしい。
猫は少しだけ、見直した。
やがて塔の入口を抜けると、女は庭の芝生へ猫をそっと降ろした。
紫色の光が夕闇に溶けて消える。
猫はすぐさま四つの足で地面を踏みしめ、背中を弓なりに伸ばしてから、何食わぬ顔で毛繕いを始めた。尻尾の先だけが、不満げに小さく揺れている。
女はその様子を見下ろし、優しく目を細めた。
「その首輪……大切にされているのね」
猫は動きを止め、首元を振り返った。
銀の首輪に嵌められた青い宝石が、夕暮れの名残を受けて澄んだ光を返している。
猫は首輪に頬を寄せるように、誇らしげに顎を上げた。
『当然だ。余にふさわしい品を作り上げた、腕の立つ職人の作品だからな』
女には猫の言葉はわからなかった。
それでも、首輪を大切にする仕草と、誇らしげな姿から何かを感じ取ったのだろう。彼女は小さく頷いた。
「もう入ってきちゃ駄目よ、小さな王様」
女は踵を返し、重厚な扉の向こうへ消えていった。
残された猫は、しばらく塔を見上げていた。
あの女の魔法は見事だった。浮遊薬の不思議な感覚も、光る古書の気配も、退屈を紛らわせるには上等だった。
だが、ひとつだけ重大な問題がある。
『……結局、腹には何も入っておらぬではないか』
ぐぅ、と腹の虫が鳴いた。
猫は塔に背を向け、街の風を嗅いだ。日が傾き、冷え始めた空気のなか、遠くの路地から大衆食堂の焼き魚の匂いが流れてくる。
猫の耳が、ぴんと前を向いた。
『よし。次はあの魚のところへ行くとするか』
石壁を蹴り、低い屋根へ飛び乗る。そこから隣の屋根へ、さらにその先へ。
青灰色の毛並みが夕暮れの光を受け、首元の青い宝石が静かに輝いた。
王の歩みは、いつだって腹の向くまま、風の吹くままに。
猫は尾を高く掲げ、煙の立つ街の屋根の先へ軽やかに跳んだ。