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第9話 王猫、城に忍び入る

    腹が満ちれば、眠くなる。

    それは王であろうと変わらない。

    猫は屋根の上で大きく伸びをすると、前足を舐め、ゆっくりと顔を洗った。昼下がりの陽射しは心地よく、腹の中には先ほど食べた魚の余韻が残っている。

    『さて、どこで眠るとするか』

    屋根瓦は悪くない。陽当たりもよく、風も通る。だが、少々硬い。

    もう少し柔らかな場所があれば申し分ないのだが。

    猫は立ち上がり、周囲を見渡した。

    街の建物が並ぶ向こうに、石造りの高い塀が見えた。その内側には、手入れの行き届いた木々と花壇。さらに奥には、街のどの建物とも比べものにならない大きな城がそびえている。

    風が吹いた。

    薔薇の甘い香り。湿った土の匂い。水の流れる音。そして、どこかから漂ってくる、肉を煮込んだような匂い。

    猫は首をめぐらせた。

    『……ふむ。あちらは、なかなか良さそうだな』

    昼寝場所を探していたはずが、いつの間にか興味のほうが勝っていた。

    屋根の端まで歩き、隣の建物へ跳び移る。そこからさらに低い屋根へ降り、塀の近くまで進んだ。

    石壁は高い。
    だが、猫にとって高い場所は、登る理由にはなっても諦める理由にはならない。

    塀の上に飛び乗り、向こう側を覗き込む。

    広い庭園が広がっていた。

    整えられた芝生。色とりどりの花壇。中央には噴水があり、水が陽射しを受けてきらきらと輝いている。その向こうに、白い石壁と大きな窓を持つ城がそびえていた。

    『悪くない』

    猫は満足げに尾を立てた。

    ここなら、気持ちよく眠れそうだ。

    ひと跳びで塀を越え、芝生へ降り立つ。

    柔らかな草が肉球を包んだ。

    『……うむ。これはよい』

    数歩歩き、鼻先を地面へ近づける。刈られた草の青い匂いに、花の香りが混じっている。噴水の縁へ飛び乗ると、水音に耳を傾けた。

    水面には青い空が映っている。

    猫は前足を揃え、しばらくそれを眺めていた。

    そのときだった。

    「わふっ! わん、わんっ!」

    庭の向こうから、弾んだ吠え声が響いた。

    猫は顔を上げた。

    芝生を猛烈な勢いで駆けてきたのは、一匹の大きな犬だった。豊かな毛並みを揺らし、舌を出し、千切れんばかりに尻尾を振っている。

    ――わあ! 猫だ! 猫がいるぞ!
    ――遊ぼう! 走ろう!

    『……なんだ、あれは』

    犬は猫の姿を認めるや、ますます速度を上げた。

    ――遊ぼう! 遊ぼう!

    『断る』

    猫は噴水の縁から飛び降りた。

    犬が勢いよく追いかけてくる。

    ――待って! 走るの楽しい!

    『なぜ追う』

    猫は走った。
    犬も走った。

    『なぜ、まだ追う!』

    ――もっと走ろう! 楽しいぞ!

    その心には、一片の悪意もなかった。

    犬が大きな前足を伸ばした瞬間、猫は横へ跳んだ。
    鼻先が空を切る。

    花壇の縁を駆け抜け、低い石壁へ飛び乗った。犬が回り込むより先に反対側へ降り、芝生を横切る。

    『ふむ。無駄に足だけは速いな』

    相手を褒めている場合ではなかった。

    犬は一向に諦めない。
    猫が木の根元を回れば、犬も回る。茂みの陰へ隠れれば、鼻先を突っ込んでくる。

    ついに猫は、薔薇の植え込みの上へひらりと飛び乗った。

    犬は勢い余って手前で急停止し、鼻を鳴らしながら首を傾げた。

    ――あれ? どこ行った? どこ?

    猫は枝の合間から、ちらりと犬を見下ろした。

    『ようやく頭を冷やしたか』

    だが、次の瞬間、犬の湿った黒い鼻がぴくぴくと動いた。

    「わふっ!」
    ――いた! 見つけた!

    『なっ……!』

    猫は再び走り出した。

    芝生を横切り、噴水の縁を回り、石像の台座へ飛び乗る。犬の大きな足音がすぐ後ろまで迫った。

    そのとき、城の壁に開いた窓が目に入った。

    窓辺には厚いカーテンが垂れている。

    猫は迷わなかった。

    台座を蹴り、窓枠へ飛び移る。カーテンの端に爪を掛け、そのまま身を滑らせた。

    次の瞬間、猫の姿は城のなかへ消えていた。

    「わんっ!」
    ――あ、消えちゃった!

    犬の声が、窓の外で遠ざかっていく。

    猫はカーテンの陰で耳を伏せた。

    『……やれやれ。底抜けに騒がしい奴だ』

    ようやく静かになった。
    そう思ったのも束の間だった。

    「きゃああっ! 猫!」

    今度は室内に、甲高い声が響いた。

    猫は片耳を動かした。

    今度は人間か。

    カーテンの隙間から顔を出すと、若い侍女が羽根箒を握りしめて目を丸くしていた。その後ろには、姿勢の良い白髪の執事が立っている。

    「リーザ、声を抑えなさい。猫が驚くでしょう」

    「でも、どこから入ってきたんですか!」

    「窓でしょうな」

    執事は窓のほうを見た。
    猫もつられてそちらを見た。

    開いた窓の向こうには、先ほどの庭園が広がっている。

    『うむ。あそこから入った』

    もっとも、説明するつもりはなかった。

    「首輪をしていますね。飼い猫でしょうか?」

    侍女が首を傾げる。

    「見かけない猫ですが……」

    執事の視線が、猫の首元の銀細工と青い宝石に留まった。

    猫は誇らしげに胸を張った。

    『見る目があるではないか』

    「ずいぶん立派な首輪ですね」

    『当然だ』

    「ですが、ここにいてはいけません。誰かの猫なら、飼い主のところへ帰さなくては」

    執事が穏やかな足取りで近づいてくる。

    猫は一歩、後ろへ下がった。

    いくら礼儀正しい人間であろうと、捕まるつもりはない。

    「怖がらせないようにしましょう。リーザ、少し離れて」

    執事が両手を差し出した。

    猫はひらりと身を翻し、廊下へ飛び出した。

    「待ってください!」

    『待たぬ』

    廊下は広く、天井も高かった。

    壁には見慣れない肖像画が並び、高い窓から差し込む光が石床に長い模様を落としている。遠くから人の話し声が聞こえ、どこかで食器の触れ合う音がした。

    猫は走りながら、ふと足を止めた。

    『……これは』

    廊下の奥から、たまらなく香ばしい匂いが漂ってきたのだ。

    焼いた肉。温めた乳。香草を混ぜたスープ。

    猫の鼻先が、そちらを向いた。

    『なるほど。城というのは、なかなか気の利いたもてなしをする』

    背後から足音が近づいてきた。

    「こちらです! 廊下の奥へ向かいました!」

    『む』

    猫は匂いのする方へ走り出した。

    追ってくる人間から逃げるためだったのか。それとも、美味いものの匂いに惹かれたのか。
    本人にも、もはや判別がつかなかった。

    角を曲がると、広い大食堂に出た。

    高い天井からシャンデリアが吊り下がり、窓辺には赤いビロードが垂れている。部屋の中央には長い卓が置かれ、給仕の準備をしていた料理人たちが一斉に振り返った。

    「猫だ!」
    「どこから入ったんだ?」
    「そっちへ行ったぞ!」

    猫は卓の下をくぐり抜け、椅子の背を駆け上がった。そこから卓へ飛び乗り、銀の皿の間を軽やかにすり抜ける。

    焼きたての肉が、鼻先をくすぐった。

    猫はぴたりと足を止めた。

    『……これは、実に悩ましい』

    肉は焼き加減も申し分なく、湯気が立っていた。

    だが、皿の周囲には人間がいる。しかも、全員が目を丸くしてこちらを見ている。

    「こら、そこは料理を並べる場所だ!」

    料理長らしき男が布巾を振った。

    猫は名残惜しそうに肉から目を離し、ひらりと卓を降りた。

    『騒がしい。これでは落ち着いて食事もできぬではないか』

    窓辺の台へ飛び乗り、そこから壁際の飾り棚へ移る。棚の上には繊細な花瓶が並んでいたが、猫はその間を髭ひとつ触れずにすり抜けた。

    人間たちが慌てて手を伸ばす。

    「花瓶に気をつけろ!」
    「窓を閉めて!」

    猫は開いていた窓枠へ、ふわりと飛び乗った。

    その先には、外へ張り出した石の縁がある。

    一度だけ振り返った。

    人間たちが揃って口を開け、こちらを見上げている。

    『……余を見送るのなら、もう少し静かにするがよい』

    そして、窓の外へ身を躍らせた。

    石の縁から壁の装飾へ、装飾から隣の屋根へ。

    軽やかに着地すると、猫はようやく足を止めた。

    風が毛並みを撫でていく。

    下からは、まだ人間たちの慌てふためく声が響いていた。

    「猫はどこへ行った?」
    「窓の外です!」
    「誰か庭を探してくれ!」

    猫は耳を伏せ、大きなあくびをひとつした。

    『まったく。昼寝をするだけで、なぜこうも忙しくなる』

    首元で、銀の首輪が小さく揺れた。
    青い宝石が午後の陽射しを受け、澄んだ光を返す。

    猫はそれを気にするでもなく、前足を舐めた。毛並みに小さな埃が付いている。丁寧に舐め取り、顔を洗い、尾をひと振りする。

    ようやく身支度が整った。

    さて、昼寝場所探しの続きだ。

    城の屋根は広く、陽当たりもよい。少し先には尖塔があり、その屋根の陰には、風を避けられそうな窪みも見えた。

    猫はゆっくりと歩き出した。

    そのとき、遠くから鐘の音が響いた。

    澄んだ音が城の屋根を越え、街の空へ広がっていく。

    猫は耳を立てた。

    一つ、二つ。

    鐘の音が重なり、石壁の向こうから、人々の賑やかな声がかすかに聞こえてくる。

    しばらく耳を傾けていたが、やがて興味を失ったように目を細めた。

    『……眠るには、少々うるさいな』

    そう呟き、次の屋根へ軽やかに跳び移る。

    王城に忍び込んだ猫が何を見つけたのか。それを知る者は、まだ誰もいない。

    当の猫にしてみれば、ただ気持ちよく眠れる場所を探しているだけなのだから。

    尾を高く掲げ、猫は屋根の向こうへ姿を消した。


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