
第10話 鼻先と小袋と、迷える下僕たち
陽射しが石畳を温め、路地の影がゆっくりと伸びていく午後。
石塀の上で丸くなっていた猫は、パチリと片目を開けた。
遠くの通りから、情けない声が聞こえてくる。
「だめだ……全然見つからないよ……」
「くそっ! このあたりの路地だって聞いたのに!」
「もう一度、最初に探した場所を確認しましょう。何か見落としているかもしれないわ」
耳を立て、塀の上からそっと下を覗き込む。
そこには、見覚えのある三人の姿があった。
大剣を背負った赤毛の青年、ガイは、石畳に這いつくばって地面の隙間を覗き込んでいる。地図を広げたレンは、何度も同じ場所を指でなぞっては頭を抱え、白銀の三つ編みを揺らしたルーナは、疲れた顔で額を押さえていた。
猫は大きくあくびをひとつ。前足を優雅に伸ばし、顔を洗った。
『フン。相変わらず要領の悪い下僕どもだな。地面ばかり這い回って、犬の真似でもしているつもりか』
どうやら、何かを探しているらしい。
だが、猫には関係のないことだった。
引き留められるのも煩わしい。三人から見えないよう身を伏せ、再び微睡みの底へ潜り込んだ。
しばらくして、頬を撫でる風が少し涼しくなった頃。
猫はふっと目を覚ました。
腹が減り始めている。
そろそろ、夕刻の散歩に出かける時間だった。
塀からしなやかに飛び降り、四本の白い足先で音もなく石畳に着地する。首元の銀の首輪が小さく揺れ、青い宝石が、傾き始めた陽を映した。
ひとつ伸びをして路地の角を曲がった、そのときだった。
風に乗って、妙な匂いが鼻先をくすぐった。
甘酸っぱい柑橘の香り。そこに、ミントを思わせる清涼感と、野性的なハーブの鋭い香りが混じり合っている。
猫の髭が、ぴんと張った。
『……ぬ?』
鼻先をひくひくさせ、風の流れを探る。
パンや魚の匂いとは違う。腹を満たしてくれそうな匂いではないが、嗅いでいるだけで胸の奥がそわそわする。
もう一度、深く息を吸い込んだ。
『ほう。これは、なかなか興味深い』
足は自然と、匂いの立つ方へ向かっていた。
積まれた木箱の裏手。古い樽と壁の狭い隙間に、手のひらに収まるほどの小さな麻袋が落ちていた。
赤い糸で口を固く縛られた袋から、強い香草の匂いが漏れている。
どうやら、運搬の途中で落とされたものらしい。風に押され、誰にも気づかれないまま、こんな隙間に転がり込んだのだろう。
猫は前足を伸ばし、爪先でちょいちょいと袋を引き寄せた。
鼻先を押し当てる。
右から嗅ぎ、左から嗅ぎ、前足で転がしてみる。
『ふむ……匂いはよい。大きさも手頃。なかなか気の利いたおもちゃではないか』
袋の口を縛る紐を器用に咥え、ひょいと持ち上げる。
口元に漂う香りに、尾の先がゆらりと揺れた。
しばらくそうして遊んだあと、猫は小袋を咥えたまま、悠然と散歩を再開した。
通りへ出ると、先ほどの三人組が、まだ同じ場所で途方に暮れていた。
「朝からずっと探してるのに……」
レンは地図を丸め、力尽きたように壁へ背を預けた。
「調香師の親父さん、『あれがないと今週の店が開けられない』って泣きそうだったぞ!」
ガイが髪をくしゃくしゃとかきむしる。
「俺たち、初級の任務すらまともにこなせねえのかよ!」
「焦っても仕方ないわ。袋は小さいし、風で飛ばされていたら、目だけで探すのは難しいもの」
ルーナは周囲を見回しながら、ため息をついた。
「せめて、匂いでも追えれば……」
「それができりゃ苦労しねえよ!」
ガイが投げやりに叫んだ、そのときだった。
三人の目の前を、青灰色の猫が気取った足取りで通り過ぎようとしていた。
その口元には、赤い糸で結ばれた小さな麻袋がぶら下がっている。
「……あ」
レンの視線が止まった。
手にしていた地図が、ぱさりと地面へ落ちる。
ガイは口を開けたまま固まり、ルーナは猫と袋を交互に見つめた。
「……ねえ、ガイ。あの袋……」
「お、おい。まさか……」
ガイが依頼書を引っ張り出す。何度も確認した袋の特徴を指でなぞり、猫が咥えているものと見比べた。
赤い糸。麻の色。袋の大きさ。
間違えようがなかった。
「依頼品だあああっ!」
「ステラーーーっ!?」
三人の叫びが、路地に響き渡った。
猫は不快そうに片耳を横へ伏せ、ぴたりと足を止めた。
ゆっくりと振り返り、青灰色の瞳で三人を見下ろす。
『騒々しいぞ、下僕ども。静かに散歩もできんのか』
「ステラ! それ、どこで拾ったの!?」
ルーナが膝をつき、猫を驚かせないようにそっと手を差し出した。
「頼む、ステラ! それを俺たちに譲ってくれ!」
ガイは大剣を背負ったまま、拝むように頭を下げた。
「それがないと、また依頼失敗で違約金なんだ! お願いだ、王様! 神様!」
「僕たち、朝からずっと探してたんだよ……!」
レンも涙目で訴えた。
「どうして君が持ってるの!?」
三人から注がれる、切実で熱烈な視線。
猫は小袋を咥えたまま、ふんと鼻を鳴らした。
『ふむ。最初は鼻がすっきりとして面白かったが、そろそろ飽きてきたところだ』
袋の中身には興味がない。口元に漂う香りも、いつまでも嗅いでいれば飽きるというものだ。それに、麻袋の感触もさほど面白くない。
三人を見つめたまま、首をわずかに傾げた。
『……まあよい。そこまで見苦しく乞い願うのなら、この余が直々に下賜してやろう』
ぽとん。
口を開き、小袋を石畳の上へ落とした。
「取ったぁぁぁ!」
ガイが滑り込むように袋を拾い上げ、胸に抱きしめた。
「おい、乱暴に扱うなよ!」
レンが慌てて受け取り、赤い糸や麻の表面を確かめる。
ルーナもそっと鼻を近づけ、漏れ出す香りを確かめた。
「間違いないわ! 調香師さんの香草よ。袋も無事みたい!」
「やった……! やったぞーっ!」
レンとガイが固く抱き合い、飛び跳ねて喜んだ。
ルーナは安堵の息を吐くと、猫へ向き直った。
「ステラ、本当にありがとう!」
彼女の顔に、ぱっと笑みが広がる。
「あなたって、本当にすごいわね。私たちがどれだけ探しても見つからなかったものを、こんなにあっさり……」
『勘違いするな。余はただ、匂いに飽きて手放しただけだ』
尻尾をひと振りする。
もちろん、口から出たのは「フニャー」という素っ気ない鳴き声だけだった。
「やっぱりステラ様は、俺たちの幸運の神様だ!」
ガイが感極まった様子で、両手を合わせる。
「一生ついていきます!」
『ついてくるな。鬱陶しい』
猫はぷいっと顔をそむけ、三人から離れるように歩き出した。
首元の青い宝石が、夕陽を受けてきらりと輝く。
「あ、待って、ステラ!」
レンの声が背中を追いかけてきた。
「依頼が終わって報酬が入ったら、お礼に一番高い干し肉を買ってくるからね!」
その言葉に、猫の耳が前を向いた。
足取りは変わらない。
尾の先が、ゆっくりと一度だけ揺れた。
『……ふむ。下僕の分際で、たまには気の利いたことを言うではないか』
振り返りはしなかった。
礼など要らぬ。余は王なのだから。
ただ、干し肉というものは、なかなか悪くない。
夕暮れの風が、城下町に心地よい夜の気配を運んでくる。
猫は鼻先を上げ、風のなかに新しい匂いを探した。魚の焼ける匂いはまだ遠い。パンの香りも、今は風向きが悪い。
ならば、もう少し歩くとしよう。
明日、あの下僕どもに会うかどうかは、そのときの気分次第だ。
尾を高く掲げ、猫は夕暮れの街へ軽やかに歩き出した。