
第11話 月下の女王と、名もなき王
城下町の屋根を渡り歩いていた猫は、いつしか日が暮れかけていることに気づいた。
腹は、まだそれほど減っていない。
焼き魚や焼きたてのパンの香りが、風に乗って遠くから漂ってくる。だが、どれも今すぐ飛びつくほどではなかった。
『さて、今宵はどこで休むとするか』
屋根の縁に腰を下ろし、夕暮れの街を見渡す。
赤く染まった尖塔。夕餉の支度に忙しい人々。窓から漏れる明かりと、石畳を行き交う馬車の響き。
いつもと変わらぬ街の景色だった。
そのとき、ふいに風向きが変わった。
鼻先をかすめたのは、かすかな薔薇の香り。その奥に、猫の匂いが混じっていた。
耳がぴくりと動く。
『……ほう?』
焼き魚でも、干し肉でもない。
それなのに、なぜか気になる匂いだった。
猫は立ち上がり、風の源へと歩き出した。
屋根から屋根へ。石造りの外壁を伝い、蔦の絡まる窓辺へ。
やがて、城の奥深くに並ぶ高窓のひとつにたどり着いた。
窓は、わずかに開いていた。
猫はひげを前へ向け、隙間から室内を覗き込む。
人影はない。
窓枠に前足をかけ、するりと身を滑り込ませた。
着地した先には、磨き抜かれた床と、白と金の装飾が施された家具が並んでいた。窓際の丸テーブルには銀の茶器と一輪の花。部屋の奥には、絹のカーテンに囲まれた大きな寝台がある。
『……これはまた、ずいぶんと上等な部屋だな』
床の匂いを確かめ、椅子の脚をひと回りする。
蜜蝋に、乾いた絹。かすかに残る紅茶の香り。
気になるものはいくつもあった。
だが、鼻先はすぐに、それらとは違う匂いを捉えた。
寝台の上。
ふかふかの絹のクッションに、白銀の猫が横たわっていた。
猫は足を止めた。
前足を美しく揃え、ゆったりと身を伏せている。その首元には、サファイアとダイヤモンドを交互にあしらった豪奢な首飾り。金色の瞳は半ば閉じられ、優雅な尾の先だけが、ゆっくりと揺れていた。
『……なんだ、あれは』
寝台の上でくつろいでいるだけなのに、妙に目を引く猫だった。
猫は尾を高く持ち上げた。
『ふむ。ずいぶんと大層な場所を寝床にしているではないか』
その瞬間。
伏せられていた金色の瞳が、すっと開いた。
――まぁ……見慣れない顔ね。ずいぶんと野性味のある香りだこと
喉を微かに鳴らし、耳をわずかに傾ける。
それだけで、言葉の意味が不思議なほど鮮明に伝わってきた。
猫の耳がぴんと立つ。
白銀の猫は寝台から音もなく降り、磨かれた床をゆっくりと歩み寄ってきた。
逃げる様子も、慌てる気配もない。
金色の瞳が、猫の全身を眺める。
青灰色の毛並み。四本の白い足。そして、額に浮かぶ小さな白い星。
白銀の猫の視線が、その星に留まった。
金色の瞳の奥に、かすかな波紋が走る。
揺れていた尾が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
だが、彼女は何も尋ねなかった。
やがて視線は、猫の首元へと移る。
――その首輪、ずいぶん大切にしているのね
猫は、わずかに顎を引いた。
『当然だ。余にふさわしい品だからな』
誇らしげに胸を張る。首元の青い石が、灯りを受けてきらりと光った。
あの職人の腕は確かだ。温かな山羊乳も、悪くなかった。
猫は首輪に頬を寄せるように、ほんの少し顎を動かした。
『……なかなかよい職人であったな』
白銀の猫は、その様子をじっと眺めていた。
――青い石が、あなたの毛並みによく映えているわ
耳がぴくりと跳ねた。
『……ふむ。当然であろう』
猫は、いっそう胸を張った。
白銀の猫は金色の瞳を細め、尾をゆるやかに揺らした。
――ふふ。あなた、自分のことが大好きなのね
『なっ……!』
猫の耳が、外側へぺたりと伏せられた。
『何を言う。余は王だぞ。己の価値を正しく理解しているだけだ』
――そう。王様なのね
白銀の猫は、あっさりと頷いた。
驚きも、嘲笑もない。
まるで、ごく当たり前のことを聞いたかのようだった。
猫はぐっと口を結んだ。
否定されるのも腹立たしいが、こうもあっさり受け流されるのは、どうにも調子が狂う。
『……変わった猫だ』
――あなたに言われたくないわ
返事は即座に返ってきた。
猫は目を細め、白銀の猫もまた、涼やかな笑みを浮かべて見つめ返す。
二匹の間に、静かな沈黙が落ちた。
部屋の外から、人間の足音が聞こえてくる。どこかで重い扉が閉まり、廊下から流れ込んだ風が、窓辺のカーテンをふわりと膨らませた。
白銀の猫は、優雅に身を翻した。
長い尾が絨毯の上を滑る。
そして何事もなかったかのように寝台へ跳び上がり、元の場所に身を落ち着けた。
――気が向いたら、またいらっしゃい
金色の瞳が、じっと猫を捉える。
――次は、そんなに身構えなくてもいいようにね
『身構えてなどおらぬ!』
即座に反論した。
もちろん、室内に響いたのは「ニャッ」という短い抗議のひと鳴きだけだった。
白銀の猫は、喉の奥でくすりと笑うように息を漏らした。
――ええ、そういうことにしておきましょう
『……むう』
猫は不服そうに尾をひと振りした。
これ以上ここに留まっていては、完全に相手の掌の上で転がされるだけだ。
踵を返し、軽やかに窓枠へ飛び乗る。
外には、夕暮れが溶け落ち、紫紺の夜へと染まりゆく街が広がっていた。
振り返ると、寝台の上の女王は、すでに瞼を閉じていた。
まるで、最初から誰も訪れてなどいなかったかのように。
『……妙な猫だ』
小さく鼻を鳴らし、猫は夜の街へと身を躍らせた。
屋根瓦に着地すると、冷たい夜風が毛並みを撫でていく。
薔薇の香りは、すでに風の彼方へ消えていた。
代わりに、どこかの路地から香ばしい焼き魚の煙が立ちのぼってくる。
猫の耳が、即座にそちらを向いた。
『さて。今宵の食事は何にするか』
尾を夜空高く掲げ、猫は屋根の稜線を歩き出した。
その胸元で、銀の首輪が月明かりを受け、青く輝いていた。