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【歴史小説】寧らかの波 第一章(2)「わたしは、父を愛していますから」

    あらすじ

     16世紀。
     異国の血を引く楠葉くすば入鹿いるかは、淡路国あわじのくにの沼島ぬしまで育ての親ジイや幼馴染おえいと穏やかに暮らしていた。
     ところがある日、突如ジイに襲われ、とっさに反撃してその命を奪ってしまう。
     同時に沼島は武士の船団に囲まれ、管領かんれい・細川ほそかわ高国たかくにと美貌の明国みんこく人・宋素卿そうそけいが現れる。
     かつて細川の戦友だったジイは、住民の命と引き換えに、剣の技を授けた入鹿を差し出す密約を交わしていたのだった。
     連れ去られるように故郷を離れ、宋素卿と行動をともにすることになった入鹿。果たして彼を待ち受ける運命とは……

    本文

        二
     
     この場所は、沼島ぬしまと呼ばれている。
     淡路国あわじのくにに属すが、島の高台からは、東に紀伊きい、西に阿波あわの岸を遠望できる。
     入鹿もかつては海を渡り、この島までやってきた日があった。
     まだ幼かった。母親に手を引かれていた。
     母は、顔の右半分にひどい火傷の痕がある女だった。が、それを不思議に思ったことはない。それが母という人だったから。
     ただ左半分はきれいなもので、その部分は入鹿にとてもよく似ていた。
     自分たちは、周りにいる他の人間たちと、少しばかり違う顔つきをしているようだった。
     全く違う、というわけではないが、どことなく異なっている。肌色がやや浅黒い。何より、鼻と目の作りがずいぶん違っていた。他の者たちが紙に描いたようだとしたら、自分たち母子は粘土で捏ね上げたみたいなのだ。
     はしけ船から降りた母は、小袖を深く被いた壺装束つぼそうぞくを身にまとい、市女笠いちめがさから苧麻からむしの薄衣を垂らしていた。
     初めてやってきたはずなのに、妙に自信たっぷりの足取りで、島の丘の獣道みたいなところをどんどん登っていった。入鹿はただ、手を引かれていくがままだった。
    「どんな人なの」
     と、幼い入鹿は尋ねた気がする。
    「元、足利あしかが将軍の四天王の一人」
     母は、突つっ慳貪けんどんなくらいの調子で答えてみせた。
    「四天王?」
    「ああ。細川ほそかわ高国たかくに、大内おおうち義興よしおき、畠山はたけやま義元よしもと、畠山卜山」
    「父上は?」
    「あの人は、その四人の敵だった」
    「敵?」
    「ああ。手強い、憎い敵。男っていうものは時々、そういう相手を友みたいに勘違いするものさ」
     海に向かって開けた小さな高台まで来ると、焼けるような南中の日差しを浴びながら、切り株に墨染衣すみぞめごろもの老人が座っていた。
     片足を投げ出し、竹杖を斜めに立て掛けている。頭巾もかぶらない露頭で、野ざらしの丸太のように黒ぐろと日焼けしていた。
     いや、あとで知ったのだが、その男はまだ四十代になったばかりだった。それにしては、一見して老人、と呼ぶしかない佇まいをしていた。
     人並みの一生を何周も巡り、もはや性も根も尽き果てている、そんな気配を身にまとっていた。
     その目の前へ回り込み、海を遮るように立ちふさがると、
    「畠山卜山さまですね」
     と母は呼びかけた。
     相手の老人は、かすかに顎を持ち上げてみせた。枯れた皺に覆われ、目を閉じているのか、開いているのかもわからない。
    「このような小島に、珍しい客人だ」
     独り言のようにつぶやく。ただ声ばかりは、見た目よりも若く感じられたのを憶えている。
    「何ぴとたりとも近づけるなと、村の乙名おとな衆へ言い置いたはずだが」
    「かつて一度だけ、お目にかかったことがございます」
    「はて。近ごろは頭の働きも鈍ってきたのか、とんと思い出せぬことが多い」
    「それも無理なきこと。もう十五年も昔の話です」
     母は笠の縁をちょっと持ち上げつつ、
    「楠葉西忍さいにんの曾孫、と申し上げれば、おわかりになられますでしょうか」
     と言い渡した。
     墨染衣の肩がかすかに波打った。
     入鹿の高祖父に当たる、西忍という男は、天竺からやってきたという。詳しいことはよく知らないが、有徳うとくの商人になり、京の将軍家や南都の大寺院とも深く関わっていたらしい。
    「それがなぜ今また、このようなところに」
     初めて明らかに目を動かし、母と自分の姿を見比べてきた。
    「いや、なぜ誰にも見咎められず、この島へ立ち入ることができたのか」
    「大内介おおうちのすけさまのお計らいです」
    「それもまた、ずいぶんと懐かしい名前だ」
    「大内介さまは、『畠山入道殿にも、一人の女を救うくらいの償いはしていただいてもよかろう』と仰いました。ともに親しく公方くぼうへお仕えした間柄ゆえ、話は通しておく、と」
    「あの田舎ざむらいめ」
     老け顔の僧は、苦りきった様子で口元を歪めた。
    「そのような話、一度も聞かされたことはないぞ」
     傍らの母に、それで動じた様子はなかった。とっくに腹を括った上で、このような僻地まで訪れていたのだろう。
    「で、得物は何だ」
    「得物、とは」
    「夫の仇として、わしの命を取りに来たのではないか」
    「そのようなことのために、やってきたわけではありません」
     むしろ微笑さえ含んでいた。
    「それに卜山さまは、あの人の仇というわけでもない」
    「わしが憎くはないのか」
    「天下てんが惣知行そうちぎょうの夢を追いかけ、怨霊のごとく日本全土を這いずり回る。そのように生き続けていく方が、よほどつらかっただろうと思います」
    「ふむ」
     それで腑に落ちた、という面差しだった。何かが相手の頭の中で噛み合ったらしい。母の身の上を証し立てる、何よりの言葉だったのかもしれない。
    「卜山さまへ、たってのお願いがあって参りました」
    「このわしに願いだと」
     母は垂れ衣の下でうなずき、こちらの小さな背中をそっと押すようにした。
    「入鹿と申します。この子を、卜山さまのお手元で育てていただきたいのです」
     相手は驚いた様子で、乾いた目を見開きながらこちらを見つめてきた。
    「そなたの子か」
    「左様です」
     むう、と卜山はうなった。
    「わしにはもはや、掻くほどの寝首も、受け継ぐほどの名も残っておらん。だとすれば、一体何のためだ」
    「この子は、武士として生きていく他ないのです」
    「どのような生き様であろうと、母とともにいるのが子の幸せではないのか」
    「明くる年、大内介さまが遣明船けんみんせんを出されます」
     母は、支度してきた答えを諳んじるように答えてみせた。
    「大内介さまのお力で、わたくしは唐船からふねに同乗させていただくことになりました。ただし、片道のみです。わたくしはまだ見ぬ故郷へ帰り、二度と戻ってくることはありません。でも、息子はこの国の人間です。ともに連れていくことはできません」
    「そなたは、それでよいのか」
     相手の洞うろのような目が見据えているのは、もはや母ではなくこちらの方だった。
     入鹿は、きっぱりとうなずいた。母とは前もって、そのことについて長く話し合っていたから。
     唐船に乗らない、と決めたのは、むしろ入鹿の方だった。自分はまだ、この国を離れてゆける気がしなかった。海の向こうへ渡ったとしても、満足に生きていける術などない。第一、異国の言葉すらわからないのだ。
     母だって同じだろう。なのに、無理を押し通そうとしている。そんな気がした。
     母はもしかしたら、遠い異境で、全身が焼け爛れた顔の右半分のようになってしまうのかもしれない。そういう運命が薄々わかっていて、息子をこの国へ残そうとしているのかもしれない。
     ただ幼い心にとっては、母から捨てられたのだ、という思いもやはり拭えなかった。
     この国で息子と一緒に暮らしていくよりも、知りもしない故郷を探し求めることを選んだ。
     体の内側から、おのれの血が呼ぶ方へ導かれていくことを望んだ。幼い自分は、始まったばかりの一生を捨ててまで、そんな母の固執こしゅうについていくことはできなかった。
     だから入鹿は、仕方ないと思いなすしかなかった。例え母と、もう一生涯会えることはないとしても。
    「武士とは、人を殺す仕事だ。みながそれぞれの神仏にすがっているが、六道を輪廻しても決して救われることはあるまい。それでもよいのか」
     もう一度、ゆっくりとうなずき返してみせた。
    「そなたもやはり、父のように死ぬかもしれぬぞ」
    「わたしには、本当のところ、まだよくわかりません」
     幼いなりに、精いっぱいの勇気を振り絞って答えた。
    「だけど一つだけ、はっきりしていることがあります。わたしは、父を愛していますから」
     顔を見たことすらない、父親という生き物。だが、その者は確かに自分の肉を形作り、この現世に脈打っている。
     本当は知りもしない過去のために、まだ見ぬ未来を選ぶ。そういう点では、母の生き様と何も変わらなかったのかもしれない。
     だが少なくとも、遠い異国などよりもずっと強く、自分は父の方に結びついていると感じられる。
     おのれの内側の深みを覗き込む時、そこからは父という見知らぬ者が、ぼんやりとした眼光で、確かにこちらを覗き返しているのだ。
     言い終えてしまうと、震える唇をただ結んでいた。卜山は衣の上から、懐中のものにそっと触れたようだった。
     今から思えば、あれは藤四郎吉光の短刀だったのだ。
    「父を愛している、か。……不思議だな。今となっては、わしも少し、そんな気がしている」
     切り株から腰を浮かし、覚束ない片足で立ち上がった。墨染の広い袖を黒い翼のように広げ、ふわりと包みこんできた。
     あまり良い匂いはしなかった。そんな憶えがある。
     その日から、楠葉入鹿は畠山卜山の養子となった。

    ~(3)へ続く

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