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「学校に行かなくていい」は、誰が言い始めたのか?元不登校・東大院生が描く150年の思想地図


    はじめに――私には、ふたつの立場がある

    最初に、ちょっとだけ自己紹介をさせてください。

    私は、中学生のときに不登校になった。そのあと全日制の高校に戻り、大学にも進んだ。でも大学では、人の輪のなかにどう入ればいいのかがわからず、正直、かなり苦労した。

    そして、そのあと東京大学大学院の教育学研究科に進んで、不登校の研究をしていた。

    つまり私は、不登校を「内側」からも「外側」からも見てきた人間なのである。学校に行けない朝の、あの体の重さを知っている。同時に、不登校という現象が、統計や制度や思想のなかでどう語られてきたのかも、研究として追いかけてきた。

    先日、『はなまる姉妹の積極的不登校日記』という漫画の炎上について、元・不登校としての文章を書いた。今回は、もうひとつの立場――研究者としての立場から書いてみたい。

    というのも、あの炎上を見ながら、ずっともどかしかったのだ。

    「甘やかしだ」と言う人と、「子どもの意思を尊重しているだけだ」と言う人。どちらも、まるで不登校という問題が昨日生まれたかのように話している。でも、ちょっと待ってほしい。この問いには、少なくとも半世紀分、学校の歴史まで含めれば数百年分の積み重ねがあるのだ。

    それを知ると、いま何が争われているのかが、驚くほどクリアに見えてくる。

    「学校に行かなくていい」。

    いまではわりと当たり前に聞くようになったこの言葉は、いったい、どこから来たのか?

    今回は、その地図をつくってみたいと思う。

    と、その前に。

    この文章には、これからたくさんの哲学者や思想家が出てくる。コメニウス、ルソー、イリイチ、デューイ、アーレント……。名前を聞いただけで、ちょっと身構えてしまう人もいるかもしれない。

    でも、大丈夫。名前を知らなくても、ちゃんと読めるように書いたつもりだ。それぞれの人が出てくるたびに、「どんな時代に、どんな人生を送った人で、何を考えたのか」を、できるだけかみくだいて紹介していく。

    そもそも「教育思想」というのは、むずかしい理論のことではない。「子どもは、どう育つべきなのか」「学ぶって、どういうことなのか」「学校は、何のためにあるのか」。誰もが一度は考えたことのある問いに、昔の人たちが、それぞれの人生をかけて出した答えの集まりなのだ。

    そして、おもしろいことに、その答えの多くは、それぞれの人が生きた時代の、切実な問題から生まれている。戦争、差別、貧困、全体主義。哲学者たちも、私たちと同じように、目の前の現実に悩みながら考えていたのである。そう思うと、少しだけ身近に感じられないだろうか。

    そもそも「不登校」って、いつ生まれたの?

    身も蓋もないことを言うと、不登校は、学校がなければ存在しない。

    ……当たり前すぎて、何を言っているんだと思われたかもしれない。でも、ここがすべての出発点なのだ。

    学年があって、時間割があって、同じ年の子どもが同じ部屋に集まって、同じことを一斉に習う。いまの学校のこの形を設計したのは、17世紀のコメニウスという人だと言われている。彼は『大教授学』で「すべての人に、すべてのことを」と唱えた。身分や性別に関係なく、すべての子どもに教育を。当時としては、ものすごく平等で、理想に燃えた考えだった。

    ちなみに、コメニウスってどんな人なのか。ざっくり紹介しておくと、17世紀、いまのチェコのあたりに生まれた人で、プロテスタントの小さな教派の牧師でもあった。ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争(三十年戦争)で故郷を追われ、人生の大半を亡命生活で過ごしている。家族も、財産も、戦争で失った。

    そんな人が、なぜ「すべての子どもに教育を」と言ったのか。たぶん、争いの絶えない世界を変えるには、子どもたちがみんな同じように世界のことを学ぶしかない、と本気で信じていたからだと思う。彼は、世界で初めての絵入り教科書と言われる『世界図絵』もつくっている。文字が読めない子どもでも、絵を見ながら言葉と世界を学べるように。いまの教科書や図鑑のご先祖さまみたいな本だ。

    つまり、私たちがいま「学校」と聞いて思い浮かべる形は、もともと、戦争で全部を失った人の、平和への祈りから生まれたものだったのである。

    ところが、その理想が近代国家の義務教育として制度になったとき、ひとつのことが起きる。

    「教育を受けること」と「学校に通うこと」が、ほとんど同じ意味になってしまったのである。

    これ、けっこう大きな変化だと思いませんか?

    日本でも、明治の学制以来、学校は「すべての子どもが毎日通う場所」になっていった。そして、毎日通うことが当たり前になってはじめて、「通わない子ども」が、問題として見えるようになったのだ。

    しかも日本の場合、「毎日通うこと」そのものに、やたらと特別な価値が与えられてきた。皆勤賞という制度がある。熱があっても登校した話が、美談として語られる。「学校に行くのは当たり前」という感覚は、勉強のためというより、ちゃんとした人間であることの証明みたいに扱われてきた。

    ちなみに明治の初めは、学校に通う子どもはまだ少なかった。農作業の人手を取られるのを嫌って、学校の建物が打ち壊される騒ぎまで起きた地域があったという。それがたった数十年で、ほとんどすべての子どもが通う場所になった。学校に通うことは、近代国家の「国民」になるための、最初の訓練でもあったのだ。

    だから日本で「学校に行かない」ことは、勉強しないこと以上の意味を持ってしまう。「みんな」の一員から、こぼれ落ちることのように感じられてしまう。

    私が中学生のときに感じていたあの重さ。その一部は、たぶん、この百五十年分の重さだったのだと思う。

    哲学者のフーコーは、時間割や出席や試験といった学校の仕組みを、人を規律正しい存在につくりかえる技術として分析した。決まった時間に、決まった場所に、きちんといること。それこそが、学校が子どもに求める、いちばん基本的なことなのである。

    フーコーについても、少しだけ。20世紀のフランスの哲学者で、スキンヘッドにタートルネックという、ちょっと忘れられない見た目の人だ。彼がずっと考えていたのは、「権力」は、王様や警察のような目に見える形だけでなく、もっと細かく、日常の仕組みのなかに入りこんでいる、ということだった。

    有名なのが、『監獄の誕生』で取り上げた「パノプティコン」という監獄の設計図だ。真ん中に監視塔があって、そのまわりを囚人の部屋がぐるりと囲んでいる。囚人からは、塔のなかに看守がいるかどうか見えない。すると囚人は、「見られているかもしれない」と思って、自分で自分を律するようになる。フーコーは、この仕組みが、監獄だけでなく、学校や工場や病院や軍隊にも広がっていると考えた。

    時間割、出席簿、テスト、成績表。言われてみれば、学校って、まさに「いつも見られている」場所ではないだろうか。

    つまり、不登校とは、この「きちんといること」ができない、あるいはしない子どもに、あとから付けられた名前なのだ。

    「行けない理由」は、お金から心へ

    戦後しばらくのあいだ、学校を長く休む子どもは、たくさんいた。

    でもその多くは、いまの不登校とは理由がちがう。家が貧しくて働かなきゃいけない。家の手伝いがある。病気がある。つまり、「行きたくても、行けない」子どもたちだった。

    社会が豊かになるにつれて、そういう長期欠席は減っていく。そして1960年代ごろから、まったく別の種類の欠席が目立ちはじめる。

    お金もある。体も悪くない。家族も行かせたがっている。

    それなのに、行けない。

    「行けない理由」が、経済から、心へと移ったのである。

    ここから、不登校の思想史が本格的に始まる。

    第一の時代――「この子のどこが悪いの?」

    最初に、この新しい欠席を説明しようとしたのは、医療だった。

    1941年、アメリカの精神医学で「学校恐怖症」という概念が生まれた。学校に行けないのは、母親から離れられない不安のせいだ、というような説明だ。日本でも1950年代の終わりごろからこの概念が紹介され、やがて「登校拒否」という言葉が広まっていった。

    この時代の問いは、とてもシンプルだ。

    「なぜ、この子は行けないのか」。

    答えは、子どもの側に探された。性格、家庭、親子関係、心の病。そしてゴールは、それを治して、学校に戻すこと。1980年代には、早く治療しないと大変なことになる、という趣旨の精神科医の発言が報じられ、多くの親を追いつめた。

    この時代の前提は、はっきりしている。学校は正しい。適応できない側に、原因がある。

    元・不登校として正直に言うと、この時代の空気は、いまもかなり残っていると思う。「どこが悪いの?」という問いは、言葉を変えて、いまも子どもに向けられている。

    私自身、中学生のとき、何度もこの問いを向けられた。どこか具合が悪いの? 誰かに何かされたの? どうして行けないの? 大人たちは、心配して聞いてくれていたのだと思う。でも、その問いに答えられないことが、いちばん苦しかった。理由を言えない自分は、ますます「どこかが悪い子」になっていく気がした。

    研究を始めてから、私は、この「答えられなさ」が自分だけのものじゃなかったと知った。不登校の当事者の語りを読むと、「理由はうまく言えない」「気づいたら体が動かなかった」という言葉が、何度も何度も出てくるのだ。

    これ、すごく大事なことだと思う。

    原因をひとつに特定しようとする問いそのものが、不登校という経験の形に、そもそも合っていなかったのである。

    第二の時代――「学校のほうが、おかしいんじゃない?」

    でも、この問いは、ひっくり返される。

    しかも、ひっくり返した側には、ずっと古い思想の流れがあった。

    18世紀のルソーは『エミール』で、子どもを「小さな大人」ではなく、子どもという固有の時期を生きる存在として描いた。大人の都合で早くから詰め込むのではなく、自然な成長を邪魔しないこと。教育思想史では、これを「子どもの発見」と呼んでいる。

    ルソーは18世紀の思想家で、『社会契約論』という、のちのフランス革命に大きな影響を与えた本の作者でもある。『エミール』は、エミールという架空の男の子を、家庭教師が生まれてから大人になるまで育てていく、という小説のような形の教育論だ。

    おもしろいのは、ルソーが、子どもは子どもとして完成した存在であって、大人になるための「準備中の存在」ではない、と考えたことだ。だから、子どもに大人の理屈を早くから詰めこむのではなく、子どもが自分で感じ、自分で試して、自分で学ぶのを、そばで見守るべきだと言った。

    ちなみにルソー自身は、自分の子どもを五人とも孤児院に預けてしまったことで知られている。教育論の古典を書いた人が、自分の子どもは育てなかった。このねじれも含めて、なんだか人間くさい思想家なのである。

    20世紀に入ると、イギリスのニイルが、サマーヒル・スクールという学校をつくった。授業に出るかどうかも子どもが自分で決めていい、という、なかなか攻めた学校だ。

    ニイルは、スコットランド出身の教師だ。1920年代にはじめたサマーヒル・スクールでは、授業に出るかどうかだけでなく、学校のルールそのものも、子どもと大人が同じ一票を持つ全校集会で決める。校長であるニイルの一票も、五歳の子どもの一票も、同じ重さだ。「子どもを学校に合わせるのではなく、学校を子どもに合わせる」というのが、彼の考え方だった。この学校は、いまもイギリスに続いている。

    「そんな学校で、子どもはちゃんと勉強するの?」と思った人もいるだろう。実際、サマーヒルの子どもたちのなかには、何か月も授業に出ずに遊んで過ごす子もいるという。でも、やがて自分から「これを学びたい」と思ったとき、驚くほどの集中力で追いつく。少なくともニイルは、そう信じていた。学ぶ意欲は、外から押しこむものではなく、内側から育つのを待つものだ、と。

    そして1971年、イリイチが『脱学校の社会』を書く。彼は、学ぶことと学校に通うことが混同されている社会を「学校化された社会」と呼んで批判した。学びは本来、学校の外にもいくらでもある。それなのに、通った年数や卒業証書だけが「学んだ証拠」として扱われている、と。

    イリイチは、オーストリアのウィーンに生まれた、もとカトリックの神父だ。プエルトリコやメキシコで活動するなかで、学校が、貧しい国の人々に「学校に行けなかった自分は劣っている」と思わせる装置になっていることに気づいたという。

    彼の批判は、学校だけに向けられたものではない。病院や医療についても、同じような議論をしている。本来、人は自分の力で学んだり、癒やされたりできるはずなのに、専門の制度がそれを独占してしまうと、人は「学校に行かないと学べない」「病院に行かないと治らない」と思いこむようになる。イリイチは、そういう社会のあり方そのものを問い直したのだ。

    だから「脱学校」とは、単に「学校をなくせ」という意味ではない。「学ぶこと」を、学校だけのものにしない社会をつくろう、という提案なのである。

    日本では、この流れが、不登校の当事者や親たちの運動とつながった。精神科医の渡辺位は、登校拒否を、子どもが学校に対して示している拒否の表現として捉えなおした。1985年には、奥地圭子が東京シューレを開き、フリースクールの運動が広がっていく。

    渡辺位は、千葉の国立病院で子どもの心の診療をしていた精神科医で、当時の主流だった「治して学校に戻す」という考え方に、医療の内側から異を唱えた人だ。奥地圭子は、もとは小学校の先生だった。自分の子どもが学校に行けなくなったことをきっかけに、学校の外に、子どもたちが安心して過ごし、学べる場所をつくった。先生だった人が、学校の外に居場所をつくる。この逆転にも、時代の空気がよく表れていると思う。

    ただ、ここで強調しておきたいことがある。

    この転換を支えたのは、思想家だけではなかった。学校に行かない子どもを抱えて孤立していた親たちが、各地で「親の会」をつくり、互いの経験を語り合うようになった。アメリカでも、ジョン・ホルトが、学校に行かずに暮らしのなかで学ぶ「アンスクーリング」を提唱し、家庭での学びを選ぶ家族のネットワークが広がっていた。

    ホルトは、もともとアメリカの学校の先生だった。教室で子どもたちを観察するうちに、子どもたちが「わかること」より「先生に叱られないこと」のために頭を使っていることに気づき、それを本に書いた。そこから彼は、学校の改革をあきらめ、学校の外での学びを応援する側にまわった。現場の先生が、現場を見つめた末にたどりついた結論だった、というのが、なんだか切ない。

    理論が先にあって、実践があとからついてきたのではない。行き場のない子どもと親たちが、まず集まって、語りあった。その経験に、あとから思想の言葉が与えられていったのだ。この順番、私はすごく大事だと思っている。

    こうして、問いが反転する。

    「なぜ、この子は行けないのか」から、「なぜ、学校は子どもを行けなくさせるのか」へ。

    子どもが悪いんじゃない。学校のほうが、子どもに合っていないのかもしれない。

    この転換は、当時の不登校の子どもと家族にとって、大げさでなく、命綱だったと思う。

    社会学がくれた視点――「誰にでも起こりうる」

    この転換を、もう少し冷静な言葉で支えたのが、社会学だった。

    社会学者の森田洋司は、1991年に『「不登校」現象の社会学』という本を出している。森田は、不登校を、特定の子どもの病理でも、学校への異議申し立てでもなく、どこにでも起こりうる「現象」として捉えなおそうとした。

    森田洋司は、いじめの研究でも知られる社会学者だ。いじめを、加害者と被害者だけの問題ではなく、まわりではやし立てる「観衆」と、見て見ぬふりをする「傍観者」もふくめた四層の構造として捉えた人、と言えば、聞いたことがある人もいるかもしれない。個人の問題に見えるものを、集団や仕組みの問題として見る。それが社会学という学問の得意技なのである。

    森田の調査でとくに印象的なのは、実際に学校を休んでいる子どもだけでなく、毎日登校している子どもの多くも「学校に行きたくない」と感じたことがある、という結果だ。

    つまり、休むか休まないかは、その気持ちがどこまで強くなって、何がそれを引き止めているかの差にすぎない。森田は、子どもを学校につなぎとめている結びつき――友だち、先生、勉強の手ごたえ、将来の見通し――が弱まったとき、不登校が起きやすくなると考えた。

    これ、めちゃくちゃ大事な視点じゃないだろうか。

    不登校の子どもと、そうでない子どもとのあいだに、はっきりした線なんてないのだ。教室に座っている子どものなかにも、「行きたくない」は、ずっと静かに流れている。私も、高校に戻ってからの毎朝、その流れのすぐそばに立っていた。

    1992年に国が言った「どの子にも起こりうる」という言葉は、こうした研究の積み重ねの上に出てきたものでもある。

    第三の時代――ついに、制度が追いついた

    そして、国の制度が、この転換に少しずつ追いついていく。

    1992年、当時の文部省は、登校拒否は「どの子にも起こりうる」ものだと認めた。特別な子どもの、特別な病理ではない、ということだ。

    1998年度からは、統計の言葉として「不登校」が使われるようになった。「拒否」という、本人の意思や反抗を思わせる言葉から、より中立的な言葉へ。名前が変わるということは、見方が変わるということでもある。

    2016年には、教育機会確保法ができた。休むことの必要性と、学校以外の場での学びの大切さが、法律に書かれたのだ。そして2019年の文部科学省の通知では、「学校復帰のみを目標にしない」ことが明記された。

    受け皿も、少しずつ増えていった。市町村の教育支援センター(かつての適応指導教室)。不登校の子どもに合わせた教育課程をもつ「学びの多様化学校」(かつての不登校特例校)。自宅でのオンライン学習を、条件つきで出席扱いにする仕組み。

    つまり、公教育が、自分の手で、「教育=学校に通うこと」という等式をゆるめたのである。

    コメニウスから数えれば、三百年以上続いた等式だ。それがゆるんだのは、教育思想史のなかでも、かなり大きな出来事だと私は思う。

    そう考えると、『はなまる姉妹の積極的不登校日記』の「積極的」という言葉は、この半世紀の流れの、ひとつの到達点にあると言える。ルソーやイリイチやフリースクール運動が言葉にしてきたことを、法律の追い風を受けながら、ひとつの家族の日常の言葉で描いているのだから。

    コロナ休校で、何が見えてしまったのか

    もうひとつ、この流れに大きな影響を与えた出来事がある。

    2020年3月、新型コロナウイルスの感染拡大で、全国の学校が一斉に休校になった。

    これ、教育思想史の目で見ると、かなり特殊な「実験」だったと思うのだ。コメニウス以来、「すべての子どもが毎日通う場所」だった学校が、全員にとって、いきなり「ない」状態になったのだから。

    その数か月で、いろんなことが見えてしまった。

    学校がなくても、勉強はある程度できる子どもがいること。逆に、学校がなくなると、給食も、居場所も、大人の目も、一度に失う子どもがいること。家庭の環境の差が、学びの差として、むき出しに現れること。そして休校明け、学校に戻れなくなった子どもや、逆に「学校がなくても平気だった」と気づいてしまった子どもがいたこと。

    フーコーの言う「規律」の仕組みは、建物と時間割によって支えられていた。その建物が閉じたとき、学校が担っていたのは勉強だけじゃなかったということが、皮肉なかたちで、社会全体にバレてしまったのだと思う。

    それ以降、不登校の数は増えつづけている。理由はひとつではないだろう。でも、「毎日通うのが当たり前」という感覚が社会のなかで一度ゆらいだことは、たぶん、無関係ではない。

    「選択」の物語は、誰を置き去りにするのか

    ここで、研究の世界から、一冊の本を紹介したい。

    2004年、社会学者の貴戸理恵が『不登校は終わらない』という本を出した。この本は、不登校の当事者の語りを丁寧に聞き取ったうえで、こう問いかけた。

    貴戸理恵は、自分自身も子どものころに不登校を経験した社会学者だ。つまり、私と同じように、内側と外側の両方から不登校を見てきた人である。この本は、もともと彼女が大学院で書いた研究がもとになっている。だからこそ、当事者の言葉への耳の傾け方が、とても繊細なのだと思う。

    不登校を「子どもが選んだ道」として肯定する語りは、たしかに多くの子どもを救ってきた。でも、その語りは、不登校の「その後」に生きづらさを抱えている当事者の声を、聞こえにくくしていないか?

    誤解のないように書いておくと、貴戸は、フリースクールや「選択」の語りを否定しているわけではない。それが、病理として扱われてきた子どもたちを守るために、どれほど必要な言葉だったかを、きちんと踏まえている。そのうえで、「選択」という言葉が、今度は逆に、当事者に「自分で選んだんだから、その後も自分で何とかしなさい」という重荷を背負わせることがある、と指摘したのだ。

    救うための言葉が、別の場所では、縛る言葉になる。

    教育思想史を読んでいると、このパターンに何度も出会う。

    「選択」の物語は、明るい。でも、明るい物語に乗れない人もいる。

    この本を読んだとき、私は、自分のことを言われていると思った。

    私は学校に戻った。だから表向きは、不登校を「乗り越えた」側の人間に見える。でも大学で人の輪に入れなかったとき、私はそれを不登校と結びつけて考えることができなかった。もう終わった話だと思っていたからだ。そして、それを語る言葉も、どこにもなかった。

    不登校は、学校に行かなくなった日に始まって、学校に戻った日に終わるものではない。研究者として読んだ本が、元・不登校としての私の経験に、あとから名前をつけてくれたのだ。

    「行かなくていい」のあとに、残った二つの問い

    では、「教育=学校」という等式がゆるんだいま、私たちは何を考えなきゃいけないのか。

    私は、大きく二つの問いが残っていると思う。

    ひとつめ:その自由、誰が使えるの?

    社会学者のブルデューは、学校が、家庭から受け継いだ文化的な差を「学歴」として再生産していると批判した。学校は中立のふりをして、もともと恵まれた子どもをさらに有利にしている、と。

    ブルデューは、20世紀のフランスの社会学者だ。南フランスの田舎の、郵便局員の家に生まれ、フランスでいちばんのエリート校に進んだ。そこで、パリの裕福な家庭で育った同級生たちとの、言葉づかいや教養や趣味の、どうしようもない差を感じたという。

    その経験から生まれたのが、「文化資本」という考え方だ。家に本がたくさんある。親と美術館に行ったことがある。むずかしい言葉を自然に使える。そういう、家庭のなかで知らず知らずのうちに身につくものが、学校ではそのまま「頭がいい」「センスがある」と評価される。学校は、生まれの差を、本人の実力の差のように見せかけてしまう、というのだ。

    この批判は正しい。でも、裏返して考えてみてほしい。学校の外での学びは、もっとむき出しに、家庭の時間やお金や文化に左右されるのだ。

    実際、フリースクールの多くは、公的な補助が少なく、月に数万円の費用がかかる。親が仕事を休んで、子どもと一緒に家にいられる家庭もあれば、そうでない家庭もある。オンラインの学びを選べるのは、家に安定した回線と、使いこなす力と、見守る大人がいる子どもだ。

    学校は、不完全でも、学ぶ機会を少しは平らにする装置でもあったのである。

    「学校に行かなくていい」は、すべての子どもに、同じ重さで届くわけではない。ある家庭では、それは新しい自由の始まりになる。別の家庭では、ただ一人で家に取り残されることを意味してしまう。

    教育思想史が勝ち取ってきた自由を、どうすれば、すべての子どもが同じように使えるものにできるのか。それは思想というより、制度とお金の問題であり、だからこそ、私たち大人の問題なのだ。

    ふたつめ:学校がやっていた「勉強以外のこと」は、どこへ?

    教育学者のビースタは、教育の目的を三つに分けている。知識や技能を身につける「資格化」。他者のなかで、社会の一員になっていく「社会化」。そして、その人自身になっていく「主体化」。

    ビースタは、オランダ出身の、いまも活躍している教育学者だ。彼が批判しているのは、テストの点数や数値目標ばかりで教育を測ろうとする、いまの風潮である。点数で測りやすいのは、三つのうち「資格化」だけだ。でも、教育には、数字では測れない「社会化」と「主体化」もある。それを忘れていないか、と彼は問いかけている。

    この三つを並べると、不登校の議論で見落とされやすいものが見えてくる。

    資格化は、ある程度、学校の外でも代わりがきく。家庭学習でも、オンラインでも、勉強はできる。でも社会化は、よく知らない他人がいる場所でしか、なかなか起きない。

    デューイは学校を「社会の縮図」と呼び、そこで民主的に生きる練習をする場所だと考えた。

    デューイは、19世紀から20世紀にかけて活躍したアメリカの哲学者だ。「やってみて、うまくいったものが正しい」と考える、プラグマティズムという考え方の代表的な人物でもある。シカゴ大学では、自分の考えを確かめるために、実際に小さな学校まで開いた。子どもたちは、教科書を読むかわりに、料理をしたり、布を織ったり、畑を耕したりしながら、算数や理科や歴史を学んだ。

    ちなみにデューイは、大正時代に日本にも来ていて、東京大学で講義をしている。私が学んだ場所に百年以上前にデューイが立っていたと思うと、ちょっと不思議な気持ちになる。彼が思い描いていたのは、異なる背景をもつ人たちが、共通の問題に一緒に取り組む教室だ。意見のちがう相手と、どう折り合いをつけるか。自分の考えを、どう他人に伝えるか。それは、教科書を読むだけでは身につかない。

    アーレントは、もう少し保守的な言い方をしている。子どもは新しく世界にやってきた者で、大人は、その子どもにすでにある世界を紹介する責任がある。家族は子どもを守る場所だけれど、世界そのものではない。学校は、家族と世界のあいだに置かれた、最初の「公的な場所」なのだ、と。

    アーレントは、ドイツに生まれたユダヤ人の哲学者だ。ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、全体主義がなぜ生まれたのかを生涯かけて考えた。ナチスの役人の裁判を傍聴して、「巨大な悪は、怪物のような人ではなく、考えることをやめたふつうの人によってなされる」と論じたことでも知られている。

    そんな彼女が教育について語るとき、いちばん大事にしていたのは、子どもを「世界」に迎え入れることだった。世界とは、家族の外にある、いろんな人が共に生きる場所のことだ。人が考えることをやめないためには、家族の外の、異なる他者と出会う経験が欠かせない。彼女の教育論の背景には、そういう切実な問題意識があったのだと思う。

    もちろん、アーレントの議論は、いまの学校をそのまま肯定するものではない。でも、学校を離れるとき、この「家族の外にある最初の場所」をどこに用意するのかという問いは、残る。

    私が大学でつまずいたのは、たぶん、まさにこの社会化のところだった。

    勉強は取り戻せた。でも、よく知らない人と、用事もなく、同じ場所にいること。好きでも嫌いでもない人と、なんとなくやっていくこと。それは、教科書には書いていなかったのだ。

    ここで、デューイとアーレントの言葉を、もう一度、自分の経験に重ねてみる。

    デューイの言う「社会の縮図」としての教室。そこでは、気の合わない相手とも同じ班になり、意見がぶつかり、それでも何とか一緒に作業を終わらせる。アーレントの言う「世界」への入口。そこでは、家族のように自分を無条件に受け入れてくれるわけではない他人と、少しずつ距離を測りながら過ごす。

    どちらも、なくても死にはしない。でも、ないまま大人になると、ある日突然、「なんでみんなは、こんなことが自然にできるんだろう」という壁にぶつかる。私にとって、それが大学だった。

    だから私は、「学校に行かなくていい」と言うのと同じくらいの熱量で、「学校の外で、この練習をどこでするのか」を考えたいのである。

    「どっちが悪い」じゃなくて、「何が合ってない」

    もうひとつ、最近の議論で大きくなっている視点にも触れておきたい。

    教育哲学者のノディングズは、教育の真ん中に「ケア」を置いた。教えることは、知識を渡すより前に、まず、相手を気にかけ、相手の必要に応える関係をつくることだ、と。

    ノディングズは、アメリカの教育哲学者で、もとは中学や高校の数学の先生だった。プライベートでは、養子をふくめて十人の子どもを育てたことでも知られている。教室と家庭の両方で、たくさんの子どもを「ケア」してきた人の言葉だから、説得力がちがう。

    彼女は、正しいルールや原則を当てはめることより、目の前の具体的な一人に応えることを、道徳の出発点に置いた。「この子にとって、いま何が必要か」から考える。それが、ケアの倫理の基本なのである。

    また、障害をめぐる議論では、「障害の社会モデル」という考え方が広がってきた。困難は、その人の体や心のなかにあるのではなく、その人と、その人に合わない環境とのあいだに生まれる、という考え方だ。そこから、一人ひとりの特性に合わせて環境の側を調整する「合理的配慮」という発想が生まれた。

    この考え方は、1970年代のイギリスで、障害のある当事者たち自身の運動のなかから生まれた。たとえば、車いすの人が建物に入れないのは、その人の足のせいではなく、階段しかない建物のせいだ。スロープやエレベーターがあれば、その「障害」は、ほとんど消える。障害は、人のなかではなく、人と社会のあいだにある。シンプルだけれど、世界の見え方をがらりと変える考え方だ。

    この二つを不登校に当てはめると、問いの形がまた変わる。

    「この子のどこが悪いのか」でも、「学校のどこがおかしいのか」でもない。

    「この子と、いまの学校とのあいだで、何が合っていないのか」。そして、「その合わなさを、どちらの側が、どう調整できるのか」。

    発達の特性のある子どもの不登校が多いことは、この視点の大切さを示していると思う。合わない環境に、ただ慣れろと言うのでもなく、合わない環境から、ただ離れればいいと言うのでもない。そのあいだに、調整という、地味で手間のかかる仕事がある。そして、その仕事は、子どもや家族だけでは担えないのだ。

    150年を、一枚の地図にしてみる

    ここまでの流れを、ざっとふりかえってみよう。

    戦後しばらくは、貧しさや家の事情で「行きたくても行けない」長期欠席の時代だった。1960年代から80年代にかけては、不登校が本人や家族の病理として扱われ、治して学校に戻すことが目標とされた。1970年代から90年代には、ルソーやニイルやイリイチの流れを受けて、不登校が学校への異議申し立てとして捉えなおされ、フリースクールが生まれた。1992年に「どの子にも起こりうる」と認められてからは、学校中心の見方が少しずつ相対化され、2016年の教育機会確保法で、学校の外での学びが制度の上でも認められた。そしてこれからは、その学校の外の学びの中身と格差、つまり社会化と主体化の場をどう用意するかが問われていく。

    こうして並べると、不登校をめぐる議論は、いつも「教育とは何か」という問いの、いちばん最前線で起きてきたことがわかる。

    そして、もうひとつ見えることがある。それぞれの時代の見方は、前の時代の見方を、完全には置き換えていないのだ。いまでも「どこが悪いの?」と子どもを問いつめる大人はいるし、「学校がおかしい」と声を上げる親もいる。制度が用意した選択肢を上手に使える家庭もあれば、その存在さえ知らない家庭もある。

    いくつもの時代の見方が、いまも同じ教室のなかに、地層のように重なっているのである。

    おわりに――「行かなくていい」の、その先へ

    元・不登校として、私は「学校に行かなくていい」という言葉に救われてきた世代のひとりだ。あの言葉がなかったら、たぶん、もっと壊れていた。だから、この半世紀の転換を、私は心から大事なものだと思っている。

    でも、研究者として不登校の歴史をたどると、「行かなくていい」は、ゴールではなく、ひとつの通過点に見えてくるのだ。

    病理として見られた時代は、子どもを責めた。学校を批判した時代は、子どもを守った。制度が追いついた時代は、子どもに選択肢を与えた。

    じゃあ、次の時代は、何をするのか?

    私は、「その先」を支えることだと思う。学校に行かないと決めた子どもが、学校の外で、どうやって他人と出会い、社会の一員になっていくのか。そこでつまずいたとき、それを本人や家族だけのせいにしない仕組みと言葉を、どうつくるのか。

    研究をしていたころ、私は何度も同じ壁にぶつかった。不登校の「いま」については、たくさんの調査と言葉がある。でも、不登校の「その後」――十年後、二十年後に、その人がどう生きているのか――については、驚くほどわずかなことしか分かっていない。追いかけるのが難しいからだ。学校を離れた人は、学校の統計からも、離れていく。

    私自身が、その「わずかなこと」のひとつだったのだと思う。大学で人の輪に入れなかった私は、どの統計にも「不登校の影響」として数えられていない。でも、確かに、そこにいた。

    だからこそ、元・不登校の大人たちが、自分の「その後」を語ることには意味があると思う。それは研究のデータにはならないかもしれない。でも、次の時代の地図を描くための、最初の点にはなる。

    ここまで、たくさんの思想家を紹介してきた。戦争で故郷を追われたコメニウス。自分の子どもを育てなかったルソー。神父から学校批判者になったイリイチ。ナチスから逃れたアーレント。十人の子どもを育てたノディングズ。そして、自分自身が不登校だった貴戸理恵。

    こうして並べると、教育について深く考えた人たちの多くが、どこかで、ふつうの道から外れた経験をしていることに気づく。故郷を失ったり、居場所を追われたり、制度のなかで違和感を抱えたりした人たちが、「教育とは何か」を問いなおしてきたのだ。

    だとすれば、不登校という「外れた」経験も、教育について考えるための、ひとつの大事な出発点になりうるのではないか。私は、そう信じたい。

    コメニウスが「すべての人に、すべてのことを」と言ったとき、彼が夢見ていたのは、学校という建物ではなく、すべての子どもが世界に迎え入れられることだったはずだ。

    学校という形がゆるんだいま、その夢を、どこで、どうやってかなえるのか。

    それが、元・不登校で、不登校を研究してきた私が、いちばん考えつづけたい問いなのである。

    不登校や発達障害について、教育学の知見からさらに掘り下げた記事がこちらです。


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    参考文献
    【日本語文献・邦訳】

    • アーレント, H.(1961=1994)「教育の危機」『過去と未来の間――政治思想への8試論』引田隆也・齋藤純一訳, みすず書房.

    • アーレント, H.(1963=1969)『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳, みすず書房.

    • イリッチ, I.(1971=1977)『脱学校の社会』東洋・小澤周三訳, 東京創元社.

    • 奥地圭子(1989)『登校拒否は病気じゃない――私の体験的登校拒否論』教育史料出版会.

    • 貴戸理恵(2004)『不登校は終わらない――「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』新曜社.

    • コメニウス, J. A.(1657=1962)『大教授学』(全2巻)鈴木秀勇訳, 明治図書出版.

    • コメニウス, J. A.(1658=1995)『世界図絵』井ノ口淳三訳, 平凡社ライブラリー.

    • デューイ, J.(1916=1975)『民主主義と教育』(上・下)松野安男訳, 岩波文庫.

    • ノディングズ, N.(1984=1997)『ケアリング――倫理と道徳の教育 女性の観点から』立山善康・林泰成・清水重樹・宮崎宏志・新茂之訳, 晃洋書房.

    • ビースタ, G.(2010=2016)『よい教育とはなにか――倫理・政治・民主主義』藤井啓之・玉木博章訳, 白澤社.

    • フーコー, M.(1975=1977)『監獄の誕生――監視と処罰』田村俶訳, 新潮社.

    • ブルデュー, P.・パスロン, J.-C.(1970=1991)『再生産――教育・社会・文化』宮島喬訳, 藤原書店.

    • 森田洋司(1991)『「不登校」現象の社会学』学文社.

    • 森田洋司・清永賢二(1986)『いじめ――教室の病い』金子書房.

    • ルソー, J.-J.(1762=1962–1964)『エミール』(上・中・下)今野一雄訳, 岩波文庫.

    【外国語文献】

    • Holt, J. (1964). How Children Fail. New York: Pitman.

    • Johnson, A. M., Falstein, E. I., Szurek, S. A., & Svendsen, M. (1941). School phobia. American Journal of Orthopsychiatry, 11(4), 702–711.

    • Neill, A. S. (1960). Summerhill: A Radical Approach to Child Rearing. New York: Hart Publishing.

    【法令・行政資料】

    • 義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律(平成28年法律第105号).

    • 文部省学校不適応対策調査研究協力者会議(1992)「登校拒否(不登校)問題について――児童生徒の『心の居場所』づくりを目指して」.

    • 文部科学省(2019)「不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)」令和元年10月25日, 元文科初第698号.

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    元不登校|発達障害当事者|東大院(教育学)修了の在野研究者です。不登校・教育・社会問題を、構造からわかりやすく言語化する記事を書いています。ご依頼はメールまでmizumanoboru777@gmail.com

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