
「百人一首を旅しよう!」短歌と写真で今と繋がる〜第三十五回●三条院●〜
今回は悲劇の天皇・三条院(三条天皇976〜1017)を取り上げます。悲劇と言っても配流されたり怨霊になったりしたわけではありませんが、政治的にも身体的にも悩み多き人生を送りました。曽孫に百人一首歌人・行尊がいます。
少し周囲の人間関係がわかりにくいので簡単に一覧にしました⤵︎

三条院は第67代天皇で一条天皇の後36歳で即位。藤原道長の娘姸子を妻にするものの娘しか生まれず、道長との関係は悪化。
先帝・一条天皇と中宮彰子(道長の娘)との間に生まれた皇太子(敦成親王・道長の孫)を早く次の天皇にして実権を握りたい道長に圧迫され、さらに2回も内裏が消失するなど悲しみが続きました。

また三条天皇自身も病弱で、現在でいう緑内障のような眼病や脚気、神経痛、中風など多くの病気に悩まされていたようです。
この眼病を治すための薬というのが非常に有毒なもので、水銀やヒ素が含まれており、院は段々と視力を失っていきました。
歌の紹介に先立ち、当時の薬について触れておきます。
三条天皇(在位1011~1016年)は、健康維持や長寿を目的に「金液丹(きんえきたん)」という秘薬を服用していました。これは中国の神仙思想(仙人になるための錬丹術)に由来する不老長寿薬で、天皇としては9世紀の仁明天皇以来、約170年ぶりの処方だったとされます。
現代の視点ではほぼ毒物に近いものです。
こうした鉱物系の丹薬は、貴族層でも一部で使われましたが、危険性が認識されつつも「万能薬」として珍重されていました。

具体的な「平安時代の薬価リスト」はほとんど残っていませんが、以下のような状況だったと考えられます。
麝香・牛黄・犀角・人参などの唐物は「金と同価値」と言われるほどで、朝廷や一部の上級貴族しか使えませんでした。動物薬・鉱物薬は特に高価で、庶民には無縁の贅沢品です。
トルファン出土文書などによると、通常の生薬処方(6味程度)で約100文前後。これは玄宗期の豊作時でも米およそ27.5kg分に相当し、「庶民が日常的に使えるレベルではない」とされています。
諸国から貢進される薬草は朝廷では「公的に調達」されるため、天皇・貴族にとってはコスト感が薄かった一方、市中で買う場合は高値でした。庶民向けの簡単な草根木皮薬は手頃だったと思われますが、効果の確実な高級薬は限られた人のものでした。

まとめると、平安時代の薬は「中国由来の生薬を組み合わせたもの」が主流で、貴族は高価な輸入・希少成分を含む処方を日常的に使い、庶民は地元の薬草や施薬院に頼る二極構造でした。金液丹のような劇薬は、その極端な例として天皇クラスでも使われた「危険な高級薬」と言えます。

そんな状態にあった三条院。百人一首に選歌された歌を詠んだ翌年、即位してわずか5年で譲位して出家、さらに翌年には失意のうちに亡くなりました。その後は道長の孫・敦成親王が後一条天皇として即位しています。
ちょうど退位を考えていた頃、失われつつある視力で詠んだ歌がこちらです。
心にも あらで憂き世に 長らへば
恋しかるべき 夜半の月かな

意味)心にもなくこの辛い世の中に生きながらえるのであれば、きっと恋しいと思うに違いない、今宵の月は。
「心にもあらで」の「で」は打ち消しの接続助詞。不本意にも。
三条院ご自身はおっとりした性格で人々にも慕われていたようですが、娘の当子内親王と、百人一首歌人・藤原道雅の悲恋(三条院が引き裂いた形)もあり、本当に悩みの種が尽きない人生だったのだなと思います。
「憂き世」という言葉に込められた思いと、明るく輝く秋の月の美しさ。その対照的な光景に、天皇であるからこそのより深い苦悩を感じますし、病・薬害による体調不良に苦しむ一人の人間の姿をそこに垣間見ることもできます。

では最後にもりやま作を。
はかなきを 夢と見るかな 夜半の月
憂き世に澄みし ものはほかなし

最後までお読みいただきありがとうございました。次回も「うき世」の歌を紹介します。どうぞお楽しみに!
前回・藤原道信朝臣は下記よりご覧いただけます⤵︎