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Photo byhiroshi_yoshida_

太平洋戦争開戦と三人の男

     だれも裁判を受けていません。

    松岡洋右

    300万人の戦没者に責任を負うべき日本人がいるとしたらそれは松岡洋右だ。彼は、
    ①陸軍が放棄した日独伊三国同盟を締結し
    ②岩畔豪雄と井川忠雄がまとめた『日米諒解案』をご破算にして
    ③アメリカに対して恫喝外交を行い
    ④ルーズヴェルトの秘密の戦争を日本に呼び込んだ張本人だ
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    — dau@目覚めよ!言霊の国日本! @日台友好@旧宮家復活 (@dau_yei) September 19, 2020

    これはしばらく前に公開されて話題になった『小林忍侍従日記』ですけど、徳川(義寛)参与が「松岡、広田の文官…が入っていること」を「最も問題となる」としているのが興味深いですねhttps://t.co/P3kTwXb3gb pic.twitter.com/O5wPKgZinL

    — 東條のと@African Kung Fu Nazis公認サポーターVTuber (@Ayukawa_Reiji) August 22, 2020

    「日米交渉が纏り得る機会は、野村大使の案に基いて米国から申出て来たときである、先方の条件は日本に採り大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であつたが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた」(昭和天皇独白録)
    松岡洋右外相が最大の戦犯だ
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    — dau@目覚めよ!言霊の国日本! @日台友好@旧宮家復活 (@dau_yei) July 8, 2020

    日米諒解案

    4月14、16日の野村・ハル会談において、このいわゆる「日米諒解案」をその後の「日米交渉」を進めるうえでの出発点とすることが合意されました。
     この「諒解案」は、

     1.全ての国家の領土保全と主権尊重
     2.他国に対する内政不干渉
     3.通商を含めた機会均等
     4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持

    の4項目からなる、いわゆる「ハル四原則」を日本側が受け入れることを前提としたものでしたが、近衛ら日本政府側は「諒解案」を歓迎しました。しかし、ドイツ・イタリア・ソ連訪問中であった松岡は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったため、三国同盟問題との矛盾点を指摘し、大本営政府連絡懇談会での話し合いも紛糾することとなりました。

    https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index13.html

    石川信吾

    >「(日本を)戦争にもっていったのは俺だよ」と発言 石川信吾 1894年(明治27年)-1964年(昭和39年) 日本海軍軍人。最終階級は海軍少将 半藤一利『指揮官と参謀-コンビの研究』に出てきました。対米開戦の重大責任者の一人。 http://t.co/De1AO5xz4Y

    — ひかる 工学趣味・科学趣味 換気中(コミュ障) (@hiruandon89) December 10, 2013

    7月の御前会議で「対英米戦を辞せず」、9月で「辞せざる決意」、11月は「決意する」となり、12月には「やる」ここという風に大元帥の意思がつめられていく。つまり御前会議は昭和天皇に戦争責任者としての決意と覚悟を促すためのものであったと言うことができるであろう。

    この間のいきさつについて、1941年当時昭和天皇の蓮沼侍従武官長が嶋田繁太郎海軍大臣に対して、「六月には、陸海軍ともに(対英米)不戦なりしに、海軍省軍務第二課長(石川信吾)の反対にて一夜にして変じ、次いで七月、九月の御前会議となりたり。この態度に導きたるは海軍なり。」と発言している。

    一方この発言の当の石川信吾は戦後自分が対英米戦争を始めたんだと豪語している。事実南部仏印への日本軍の侵攻は彼がたくらんだものである。その背後にソ連との同盟を企てる四国同盟の企みがあった。「N工作(野村大使の対米平和交渉)成立せば国内情勢は急激に英米依存に復帰すべく、ひいては国防国家体制の建設、統制経済施策等に一大動揺をきたすところきわめて大なるをもって事前非常立法を立案準備するを要す。」 つまり事前非常立法などで野村大使の平和交渉の成立をつぶさなければならないと本人はいっているのである。

    https://web.archive.org/web/20160202050731/http://urasima77.at.webry.info/201108/article_1.html

    瀬島龍三

    昭和16年12月6日。
    日米開戦を避ける為にルーズベルト大統領が日本天皇に打電した電報。

    帝国陸軍の開戦強硬派はこの電報を天皇に見せまいと画策した❗ pic.twitter.com/o09oN378VY

    — 山田一男 (@yamadakazuo0126) February 10, 2020

    昭和16年(1941年)12月6日
    野村・来栖両大使、本国に対し、ルーズヴェルト米大統領発天皇宛親電が発電されたことを報告

    ルーズベルト親電は駐日アメリカ大使館に10時間延着した。
    参謀本部通信課の戸村参謀の責任だったが、作戦課参謀瀬島龍三の関与が疑われた。
    生前瀬島は戸村参謀の遺稿の記述を元にしてこの疑惑を否定したが、私は戸村参謀の内容が異なる証言が6種類あり、瀬島が関与していたという初期証言を発見した

    — 数学史研究者 (@redqueenbee1) December 2, 2017

    最近の日本諜報史研究に関する問題点の指摘 ルーズベルト親電・ヤルタ密約  木村 洋
    http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/pic504.pdf

    電文を握り潰したのは,ソ連仲介和平工作を考えていた参謀本部作戦課参謀の瀬島龍三(伊藤忠元会長)

    - 最近の日本諜報史研究に関する問題点の指摘 ルーズベルト親電・ヤルタ密約 -https://t.co/X5EBN6EAHa

    — manhãdecarnaval (@manha_carnaval) August 11, 2020

    史料は、昭和11年8月から20年までの軍関係の動きについて、戦後、防衛庁(現防衛省)が関係者から聴取した「防諜(ぼうちよう)に関する回想聴取録」。

    それによると、昭和16年12月の開戦前、陸軍参謀本部通信課員だった戸村盛雄少佐(当時)が昭和37年3月、防衛庁の事情聴取に対し、大統領の親電をめぐる経緯について「7日午前11時ごろ、参本(陸軍参謀本部)の廊下で瀬島(少佐)とバッタリ会った」と証言。

    続けて戸村少佐は「瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されてこれをおとした』と聞いて、これが開戦の第一発であると思って、瀬島とも一緒に考えて親電を遅らせた」と証言していた。

    これは、日本の船団がマレー半島沖で英軍の哨戒飛行艇に発見されたため、護衛していた旧日本軍の戦闘機が撃墜した事実を指す。この証言が事実なら、瀬島氏は旧日本軍がすでに、米国と同盟関係にあった英国と開戦したという事実誤認から陸軍の規定に従い、親電の配達を遅らせたことに関与していた可能性がでてくる。当時、参謀本部が海外情報の統制のため、外国からの電報を10~15時間程度遅配するよう決めていたが、大統領親電のような特別重大な電報については例外とする余地があったようだ。

    大統領親電の内容は日本側に一見、和平を呼びかけながら日本軍の仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だった。

    2007年11月24日の産経新聞記事
    「瀬島少佐と配達遅らせた」 日米開戦前
    https://ameblo.jp/akamamakai/entry-12577636617.html

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    出典
    『世紀末「時代」を読む』
    滝村隆一・芹沢俊介
    春秋社
    1992年12月25日
    p39 pic.twitter.com/3pqrm0jDSU

    — 石部統久 (@mototchen) January 4, 2021

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