
ショートショート|残されたメモ|拝啓文芸部
男は、駅裏の薄暗い古本屋で一冊のビジネス書を手に取った。
『ポジティブ・リーダーシップ 五十の法則』という、明るい表紙の自己啓発本だった。定価の十分の一ほどで買い叩かれたその本には、前の持ち主の痕跡が生々しく残されていた。
ページをめくると、余白のあちこちに、青いインクの万年筆で几帳面な書き込みがされていたのだ。男は古本の書き込みを嫌悪する性質だったが、そこに記された内容にすっかり目を奪われてしまった。
『法則1:周囲のポテンシャルを引き出し、自ら率先して導くリーダーになれ』
余白のメモ:『→ 実践中。しかし自分の熱意が伝わらず、皆がついてこない。もっと強く引っ張らねばならないのだろうか。自分が不甲斐ない』
男は、その名も知らぬ前の持ち主に、強烈な親近感を抱いた。
男自身もまた、会社で部下になめられ、同僚から軽んじられている、冴えない平社員だったからだ。
――残されたメモの君へ。
君の苦悩はよくわかる。優しく接しても、他人は図に乗るだけだ。安心してくれ。君が悩みながら実践したこの法則を、私が君と共に最後までやり遂げてみせる。
男は、青インクの彼のメモを道しるべに、教えを実行に移し始めた。
『法則15:仲間の失敗は、成長のための厳しき糧とせよ』
余白のメモ:『→ 成功。厳しく指導した。相手はひどく落ち込んでいたが、これも成長のためだ。心を鬼にするのは苦しいが、殻を破ってほしい』
翌日、男は後輩の些細なミスを見つけると、フロア中に響く声で徹底的に叱咤激励した。後輩が涙ぐんでも一切許さず、「君の成長を思えばこそだ」と最後に温かい言葉をかける。
最初は手が震えたが、効果はてきめんだった。周囲は静まり返り、男の言うことに誰も逆らわなくなった。
男は全能感に浸った。ページを進めるごとに、メモの彼もまた少しずつ成功を収めているようだった。男は彼と一緒に成長しているのだと、確かな絆すら錯覚していた。
『法則32:上層部と深く結びつき、より良い環境を構築せよ』
余白のメモ:『→ 成功。課長の不透明な経費処理に気づき、それを本人と共有して「特別な協力関係」を築いた。彼は今、私を最も頼りにしてくれている』
男もすぐに直属の上司のミスを密かに帳簿から見つけ出し、笑顔でそれを突きつけた。上司は顔を青ざめさせ、以来、男に一切の文句を言えなくなった。
男は効率的に動き、部下には容赦ない叱咤激励を浴びせ、同僚のミスは決して許さず、上司を操るようになった。誰もが男を恐れ、道を譲った。
(見ているか、メモの君。私と君は、ついに強者の側に立ったのだ)
そしてその夜。男は自宅で、いよいよ本の最後のページを開いた。
『法則50:すべてを成し遂げ、揺るぎない自信を持て』
その最後の余白には、かつてなく乱れた青インクの文字で、長文のメモがびっしりと書き殴られていた。
『→ これを読んでいる見知らぬ君へ。
私はもう限界だ。最初は自分を変えたくて、この本に書かれた強いリーダーを演じていた。しかし、周囲を厳しく律し、正しさを振りかざすうちに、引き返せなくなってしまった。
最近は、相手が少しでもミスをすると、自分の意志とは無関係に、酷い言葉が口から飛び出してしまう。怒鳴り散らさずにはいられないのだ。自分が恐ろしい。もう自分がコントロールできない。助けてくれ』
男はページをめくる手を止め、さあっと血の気が引くのを感じた。
ピロリ、と手元のスマートフォンが鳴った。
会社の人事部からの、緊急の通知メールだった。
『度重なるパワハラ行為に関するヒアリングの件について』
件名を見て、男の心臓が早鐘のように打ち始めた。震える指で本文を開く。
『あなたの度を超えた叱咤激励および威圧的な言動により、部下の〇〇がうつ病を発症し、本日付で休職することになりました。事態を重く見た会社として、明日午前九時より……』
男は、手からスマートフォンを滑り落とした。
パワハラ。
うつ病。
休職。
自分は、効率よく部下を導く優秀なリーダーなどではなかった。周囲からはただの暴君として扱われ、ついに部下の精神を完全に破壊してしまったのだ。男の脳裏に、今日まで自分が浴びせてきた正義感に満ちた暴言の数々と、怯えきった周囲の視線がフラッシュバックした。
――残されたメモの君へ。
私たちは共に強者の側に立ったのではない。自己啓発という名の甘い毒に酔い、揃って破滅の道を歩んだ、哀れな共犯者だったのだな。
暗い部屋の中で、男はただ一人、引き返せないモンスターになり果てた己の姿を思い知らされていた。
(終)
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