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ショートショート|落とし物の持ち主|拝啓文芸部

    男は、街を歩くたびに視線を奪われる光景があった。
    アスファルトの隅、ガードレールの下、あるいは横断歩道の脇の植え込み。そこにぽつんと取り残された「片方だけの靴」である。

    スニーカー、革靴、色鮮やかな子供靴、あるいはすり減ったハイヒール。
    なぜ、街にはこれほどまでに片方だけの靴が転がっているのか。
    男はその光景を目にするたび、言い知れぬ不快感と、奇妙な侮蔑の念を抱かずにはいられなかった。

    靴とは、左右一対で初めてその機能を果たす道具である。片方を失った靴など、歩くことも走ることもできない。ただの不完全な革や布の残骸に過ぎない。
    靴を落としてそのまま立ち去る人間など、注意散漫で、だらしなく、人生の足元がおろそかになっている証拠ではないか。歩いていて片足だけが脱げたら、一歩踏み出した瞬間に気づくはずだ。靴下越しに感じるアスファルトの冷たさや異物感に気づかない人間が、果たしてまともな社会生活を送れているのだろうか。

    男は几帳面な性格だった。
    毎朝、玄関で鏡に向かい、ネクタイの歪みを正し、靴紐を寸分の緩みもなく結び直す。男の靴箱には、定期的にオイルを塗り込まれた革靴たちが、軍隊のように整然と並んでいた。靴の乱れは心の乱れ、ひいては人生の破綻である。それが男の信条だった。

    道端に転がる片靴を見るたび、男は心の中で、名も知らぬその主に語りかけた。

    ――落とし物の持ち主へ。
    君は今、どんな格好で家へ帰り着いたのだろう。
    右足には靴があり、左足は靴下だけ。歩くたびに腰を歪め、通行人の好奇の目に晒されながら、惨めな思いで足を引きずったのか。
    玄関に残された、二度と履くことのできない片割れを前にして、君はどれほど己の不甲斐なさを恥じ入っていることだろう。

    ある日、男は通勤路の歩道橋のたもとで、見事な紳士用の革靴が落ちているのを見つけた。
    上質な黒のストレートチップ。手入れの行き届いた艶やかな革。落ちていたのは「左足」だけだった。
    男は舌打ちをし、その靴を拾い上げた。車に轢かれて無惨に潰されるのを憐れんだのではない。
    男は道路脇のガードレールのパイプの上に、その靴をちょこんと乗せてやった。

    遠くからでも一目でわかるように。
    恥ずべき落とし主が、己の失態を街中に晒し者にされるように。
    「落とし物の持ち主へ。君の片割れはここだ。恥を忍んで引き取りに来るがいい」

    しかし、奇妙なことが起きた。
    一週間が過ぎても、二週間が過ぎても、その靴はガードレールの上に乗ったままだった。
    雨風に打たれ、泥をかぶり、美しい艶を失ってひび割れていく。それでも、持ち主が現れる気配は微塵もなかった。

    なぜだ。
    あんなに目立つ場所にあるのに、なぜ回収しに来ないのか。
    安物のサンダルならともかく、あれは数万円は下らない高級靴だ。家に残された右足だって、買い直すには惜しいはずではないか。

    男は日々の通勤で、街中の「片靴」を観察し続けた。
    そしてある不気味な事実に気づいてしまった。
    街に落ちている片方だけの靴は、どれひとつとして「持ち主が回収した形跡」がないのだ。
    誰かが親切に塀の上や街路樹の根元に飾ってやっても、それらは例外なく放置され、やがて季節の移ろいとともにゴミとして朽ち果てていく。

    人間は、なぜ靴を片方だけ落とし、そして二度と探しに戻らないのか?
    歩行中に脱げたなら、その場で拾うはずだ。
    もし電車や車の中で脱げたのだとしても、家に帰って靴箱を開ければ、片方を失った事実に必ず直面する。なのに、なぜ誰も引き取りに来ないのか。
    男の頭の中で、論理の糸が激しく絡まり合っていた。

    謎が解けたのは、季節が秋から冬へと変わる、冷たい雨の降る夜だった。

    会社の創業記念パーティーが開かれ、男は珍しく同僚たちと深夜まで酒を飲んだ。
    会場となったのは、老舗の割烹居酒屋だった。男は靴を脱ぐ店を好まなかったが、社命とあっては断れない。
    宴が終わり、男は締め付けられるような頭痛を覚えながら、千鳥足の同僚たちとともに玄関の上がり框へと向かった。

    薄暗い玄関には、数十人分の黒いビジネスシューズが無造作に散らばっていた。
    どれも同じような色、同じような形、同じようなつま先。
    泥酔した同僚の一人が、靴べらも使わずに無理やり足をねじ込みながら、くだを巻いた。
    「おい、なんだか今夜は左足がきついぞ。酒で足が浮腫んだかな」
    「知るか。早く行こう、終電がなくなる」

    駅へ向かう濡れた夜道。男は同僚の後ろを歩いていた。
    前を行く同僚は、歩くたびに不自然に左肩を揺らしていた。
    横断歩道の手前で、同僚の足がもつれた。
    パツン、と小さな音がして、同僚の左足から靴がすっぽりと脱げ落ちた。
    水たまりの中へと転がる、黒い革靴。

    男は声をかけようとした。
    「おい、靴が脱げたぞ!」
    しかし、同僚は立ち止まらなかった。脱げた靴を振り返りもしない。
    それどころか、靴下だけの左足で濡れたアスファルトを乱暴に踏みつけると、ちょうど通りかかった空車のタクシーへ飛び乗り、そのまま夜の闇へと消え去ってしまったのだ。

    水たまりの中に、ぽつんと取り残された、片方だけの左足。
    男は雨の中に立ち尽くし、その靴を見つめた。

    その瞬間――
    男の頭の中で、すべての疑問符が音を立ててひとつに噛み合った。

    「……そうか」

    背筋を、氷水のような悪寒が駆け抜けた。
    人間は、歩いている最中に「自分の靴」を落としたのではなかったのだ。

    靴を脱ぐ座敷。薄暗い玄関。酒に酔い、あるいは急ぎ足で立ち去る群衆。
    彼らは、他人の似たような靴を、「片方だけ」間違えて履いて出てしまったのだ。

    左右両方を取り違えるならまだいい。両方ともサイズが違えば、履いた瞬間に違和感に気づく。
    だが、右足は自分の靴、左足だけは他人の靴に足を入れてしまったとしたら?
    人間の脳は、片足が合っている安心感に騙され、もう片方のわずかな違和感を「足の浮腫み」や「疲れ」のせいだと錯覚してしまう。

    そして、歩き出す。
    他人の靴は、足の形もサイズも合っていない。だから、歩いているうちに簡単に脱げ落ちる。
    そして靴を落とした人間は、なぜ拾わないのか?
    なぜ、翌日になっても探しに戻ってこないのか?

    「当たり前だ……」

    道端に転がる片方だけの靴とは、誰かが愛着を失って落としたものではない。
    落とした人間にとって、それは最初から「他人の靴」だったのだ。

    男は暗闇の中で、快哉を叫びたくなった。
    男はタクシーを拾い、満足感に浸りながら帰宅した。
    部屋に入り、電気をつける。
    男は玄関の上がり框に腰を下ろし、濡れた黒い革靴を丁寧に脱いだ。

    男はなぜか、靴の内側に視線を落とした。
    靴の脱ぎ履きで擦り切れた中敷き。
    右足のインソールには、男の足の形がくっきりと沈み込み、金色の箔押しで「26.0」の文字が刻まれている。男の足のサイズだった。

    男は、何気なく左足の靴を手に取った。
    左足の中敷きには、見慣れないかすれ文字で、こう刻まれていた。
    ――「26.5」。

    男の呼吸が止まった。

    (終)


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