
ショートショート|信じていた嘘|拝啓文芸部
男は幼い頃、たいへん欲望が強く、わがままな子供だった。
おもちゃ売り場の前で泣き叫ぶ息子に手を焼き、ある日、母親はひとつの嘘をついた。
「いいかい。人間の頭の上にはね、神様がつけた見えないメーターがあるの。我慢をしたり、他人に優しくしたりするたびに、目盛りがカチリとひとつ進む。そしてそれが満タンになったとき、人生で一度だけ、どんな願いでも叶う奇跡が起きるのよ」
子供だましの作り話だったが、効果は絶大だった。
男はその日から、人が変わったように我慢強い子供になった。欲しいものを我慢し、おやつを弟に譲った。何かを諦め、自分の欲を押し殺すたびに、彼の頭の中では確実に「カチリ」とメーターが進む音が聞こえたからだ。
男は成長し、社会に出ても、その教えを忠実に守り続けた。
理不尽な上司に怒鳴られても笑顔で耐え、同僚に手柄を横取りされても静かに拍手を送った。恋人にひどい裏切り方をされても、決して怒らずに身を引いた。
周囲は彼を「底抜けのお人好し」と呼び、同時に都合よく利用し、徹底的に搾取し続けた。
それでも男は一切の不満を漏らさなかった。他人に何かを奪われ、踏みにじられるたびに、頭の中でメーターが心地よく進んでいくのを感じていたからだ。奇跡の瞬間は、着実に近づいている。
男が四十歳になった秋、母親が病床で息を引き取る間際、懺悔するように告白した。
「本当にごめんなさい。メーターなんて嘘よ。ただのしつけのつもりだったの。あなたはそのせいで、他人に人生を搾取されすぎたわ。……これからは、自分のために生きなさい」
男は静かに頷き、母を看取った。
だが、男の日常はまったく変わらなかった。
いや、変わらないどころか、以前にも増して自己犠牲に拍車がかかった。
男は幼い頃から今日に至るまで、ずっと考え続けてきたのだ。
「メーターが満タンになったとき、どんな奇跡を起こすか」を。
最初は「一生食べきれないお菓子」だった。それが「莫大な富」に変わり、やがて彼が社会の理不尽と他人の醜悪さに直面し続けるにつれ、その願いはひとつの明確な形に変容されていった。
母親からの告白を聞き、魔法のメーターが存在しないと知ったとき、彼は絶望するどころか、憑き物が落ちたような深い安堵を覚えた。
そして男は、自らの人生を縛り続けてきた「信じていた嘘」に向けて、静かに想いを馳せた。
――あの嘘は、俺の精神を冷徹に鍛え上げるための、完璧な揺り籠だった。
母の嘘がなければ、俺はただの衝動的で愚かな犯罪者に成り下がっていたかもしれない。理不尽を甘露のように味わい、搾取される痛みを歓喜へと変換できたのは、他でもない、あの美しい嘘があったからこそなのだ。
(ああ、なんだ。超自然的な奇跡など待つ必要はなかったのだ。すべて、自分の手で叶えればいいだけのことじゃないか)
それだけではない。
見えないメーターの最大の欠点は、「上限がどこにあるか分からない」ことだった。いつ満タンになるのか分からないからこそ、彼はただ漫然と我慢を続けるしかなかった。
しかし嘘だと分かった今、彼は自分自身で「メーターの上限」を確定させることができたのだ。
男は上限を、きりのいい「一万回」に設定した。
終わりが見えたことで、彼の心にはかつてないほどの張り合いが生まれた。だからこそ彼は、自ら進んで理不尽を引き受けに行くようになったのだ。自ら設定したカウントダウンの針を、少しでも早く進めるために。
男は今日も、上司の執拗な嫌味に深く頭を下げながら、頭の中で自ら「カチリ」と音を鳴らした。
(これで、九千九百九十五回)
目標まで、あと五目盛り。
男は定時を過ぎてから帰宅すると、自宅の地下室へ降りた。
そこには、彼が数年かけて買い揃えてきた大型の電動ノコギリ、大量の薬品、そして血糊を洗い流すための巨大な排水溝が完備された、完璧な防音室が広がっていた。
「さて、明日は誰の罪を被ってやろうか」
男は善良な市民の顔のまま、壁にずらりと並べられた鋭利な刃物たちを、愛おしそうに撫でた。
(終)
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