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音響ハウス──坂本龍一とDavid Sylvian、半世紀の録音を支えた場所

    東京・銀座一丁目に、音響ハウスというレコーディングスタジオがある。英字表記は「ONKIO HAUS」。私の職場からも近く、これまで何度となくその前を通ってきた。

    その場所を改めて意識するようになったきっかけは、坂本龍一とDavid Sylvianによる「Forbidden Colours」だった。

    私はこの曲を長年聴き、そして歌ってきた。バンドの編成や自分の声の変化とともに、歌い方も少しずつ変わってきた。坂本の旋律が鳴り、そこへSylvianの書いた別の旋律を重ねる。何度も歌っている曲でありながら、声を出すたびに新しい発見がある。

    その「Forbidden Colours」のヴォーカルが録音されたのが、銀座の音響ハウスだったことをあるとき偶然知った。

    1983年、ひどい風邪をひいていたSylvianは、このスタジオで歌声を残した。後年のインタビューでは、録音時の体調だけでなく、音響ハウスの雰囲気についても語っている。

    自分が何度も歌ってきた曲の声が、普段歩いている銀座の一角で録音されていた。そのことを知り、音響ハウスという場所そのものに関心を持つようになった。

    そこには1970年代の日本の録音事情、CM音楽の制作現場、若き日の坂本龍一、そして録音機材を支え続けてきた人々の歴史がある。

    世界の録音スタジオが変わった時代

    1960年代から1970年代にかけて、レコーディングスタジオの役割は大きく変化した。

    磁気テープを使った録音技術が発展し、複数のトラックに楽器や歌声を分けて記録できるようになると、演奏を重ねたり、録音した音を加工したりする自由度が増していった。

    ロンドンのEMI Recording Studios、現在のAbbey Road StudiosでThe Beatlesが制作した『Revolver』や『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』には、その変化がよく表れている。限られたトラック数をやりくりしながら、録音と編集を繰り返すことで、演奏をそのまま記録するだけでは得られない音楽が生まれていた。

    当時の録音では、複数のトラックを一つにまとめて空きをつくり、そこへ新たな演奏を重ねる方法が使われていた。いわゆるピンポン録音である。しかし、この作業を繰り返すと、世代を重ねるごとに音質が変化することもあった。

    録音機のトラック数が増えることは、制作上の選択肢が増えることを意味していた。

    1960年代末から1970年代初頭には、欧米で16トラック、さらに24トラックの録音機が普及し始める。同時に、レコード会社が所有するスタジオとは異なる、独立した商業スタジオも存在感を増していった。

    1968年にはニューヨークにRecord Plantが開業し、翌年にはロサンゼルスへ進出した。1970年には、Jimi Hendrixが構想したElectric Lady Studiosがニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに開業している。

    Electric Ladyの設計を手掛けたJohn Storykは、音響性能だけでなく、音楽家が長い時間を過ごす創作空間としての快適さも重視した。

    録音技術が変われば、スタジオに求められる空間も変わる。演奏者、プロデューサー、エンジニアが同じ場所で長い時間を過ごし、音をつくり上げていく。スタジオそのものが、音楽制作の重要な要素になっていった。

    1974年に開業した音響ハウスも、こうした変化の中にあった。

    日本の録音スタジオ事情|1974年の16トラック

    日本では、戦後のレコード産業の発展とともに、日本コロムビア、ビクター、東芝音楽工業などのレコード会社が録音設備を整えてきた。

    その一方で、映画や放送、広告の音楽を制作するための施設や、レコード会社以外の制作チームが利用できる商業スタジオも増えていく。

    1970年代初頭には、モウリスタジオやサンライズ・スタジオなどが活動していた。音響ハウスは、その流れの中で1974年に誕生した。

    当時の状況を具体的に伝えているのが、音楽プロデューサーの牧村憲一の証言である。

    牧村によれば、1971年頃にモウリスタジオが4トラックから8トラックへ移行したことは、音楽関係者の間で大きな話題になったという。それから数年後、音響ハウスには16トラックの録音機が導入された。

    欧米ではすでに24トラック録音が行われていたが、日本の制作現場にとって16トラックを使えることには大きな意味があった。

    牧村は、それまで8トラックでピンポン録音を繰り返しながらレコードやCM音楽を制作していたこと、海外のレコードを聴いて日本の録音環境に物足りなさを感じていたことを振り返っている。

    そして音響ハウスには、機能の異なる第一スタジオと第二スタジオが同じ建物に設けられていた。

    重要だったのは、そうした設備を、独自のスタジオを持たない制作会社や音楽事務所も借りて使えたことだ。

    録音機材の性能だけでなく、それを誰が利用できるのか。音響ハウスの登場は、日本の音楽制作における選択肢を広げる出来事だった。

    銀座にスタジオをつくる|1974年

    株式会社音響ハウスが設立されたのは1973年8月。翌1974年12月、銀座一丁目に完成した平凡商事音響ビルで、スタジオ業務を開始した。

    設立の背景には、出版社の平凡出版との関係がある。平凡出版が現在のマガジンハウスへと社名を変更するのは、1983年のことだった。

    音響ハウスの水野幸生は、1996年に発表した文章で、開業当時、銀座にレンタルスタジオをつくることには批判的な声も多かったと振り返っている。

    録音スタジオには、外部の騒音や振動を遮断する構造、室内の反射音や残響を調整する音響設計、機材を安定して動作させるための設備が求められる。

    銀座という都心の立地に、それだけの専門的な空間を設ける。現在では当たり前のように見える建物にも、開業までには多くの技術的な仕事があった。

    その経緯の一部は、日本音響エンジニアリングの記録に残されている。

    1974年4月、同社の発足披露パーティーに出席した平凡商事の社長が、音響ハウスのスタジオ工事を新会社へ発注すると表明した。工事は翌5月に始まったという。

    音響ハウスの開業は、日本音響エンジニアリングにとっても、会社発足直後の重要な仕事だった。

    建物全体の建築設計を誰が担当したのかについては、今回確認した資料からは特定できなかった。しかし、スタジオの音響工事に専門の技術者たちが関わっていたことは、当時の記録から分かる。

    1974年の銀座に、16トラックの録音設備を備えた商業スタジオが生まれた。

    「ONKIO HAUS」という名前とロゴ

    音響ハウスの英字表記は「ONKIO HAUS」。HOUSEではなく、ドイツ語で家や建物を意味するHAUSが使われている。

    ドイツは、録音技術や音響機器の発展に大きく貢献してきた国でもあり、Neumannのマイクロフォンをはじめ、TelefunkenやEMTなどの機器は、世界各地の録音スタジオで使われてきた。また、1919年に設立されたバウハウスは、建築や工芸、グラフィックデザインに大きな影響を与えた。幾何学的な構成や、文字そのものを造形として扱う表現は、現在のデザインにも受け継がれている。

    音響ハウスの創業時に使われていたLPキャリングバッグには、「ONKIO HAUS」の文字を図案化したロゴが描かれていた。後年、このバッグは映画『音響ハウス Melody-Go-Round』のBlu-ray発売を記念して復刻された。

    私はこのロゴに、バウハウスをはじめとするモダンデザインに通じるものを感じた。ただし、HAUSという表記を採用した人物や、ロゴの制作者については特定できていない。ドイツの音響技術やバウハウスを意識して命名・制作されたという証言も見つかっていない。名称とロゴの由来は、引き続き調べてみたい部分である。

    CM音楽の現場|大森昭男と若き日の坂本龍一

    1970年代の録音スタジオを考えるうえで、レコード制作と並んで欠かせないのがCM音楽だった。

    テレビ広告の発展とともに、短い時間で印象を残す音楽が求められるようになる。その制作現場で重要な役割を果たした人物の一人が、大森昭男である。

    三木鶏郎のもとで経験を積んだ大森は、1972年に独立し、ON・アソシエイツ音楽出版を率いた。大瀧詠一が手掛けた三ツ矢サイダーのCMソング「サイダー’73」も、大森の仕事から生まれている。

    大森のもとでは、さまざまな音楽家がCM音楽に携わった。その一人が、YMO以前の坂本龍一だった。

    坂本は1970年代、ピアノやキーボードの演奏者として録音に参加しながら、編曲や作曲の仕事を重ねていた。大森はそうした坂本の才能を評価し、CM音楽の作曲にも起用した。

    1977年の日立「伝統美」センサーのCMでは、坂本がシーケンサーを使いたいと考え、大森が機材を探して借りてきたという。後にYMOの音楽を支える電子音楽の技術が、すでにCM制作の現場で試されていた。

    ただし、このCMが録音されたのはフリーダムスタジオであり、音響ハウスではない。(当時の坂本の仕事と、音響ハウスでの録音実績は分けて考える必要がある。)

    一方、大森の制作現場と音響ハウスには、明確な接点があった。

    1974年にON・アソシエイツへ入社した牧村憲一は、設備の整った音響ハウスを優先的に利用していたと振り返っている。

    牧村が入社後に初めて現場を任されたヤマギワのテレビCMも、音響ハウスで制作された。映像を担当したのは写真家の操上和美、音楽を担当したのは当時まだ桐朋学園大学の学生だった井上鑑である。

    大森、牧村、井上、坂本。彼らの仕事を辿ると、CM音楽とレコード制作が、共通する音楽家や技術者によって支えられていたことが見えてくる。

    音響ハウスは、その時代の制作現場を受け入れる場所の一つだった。

    第一スタジオで鳴った音|1979年

    音響ハウスの設備が実際の録音でどのような役割を果たしていたのか。その一端を伝える証言がある。

    1979年、牧村憲一は竹内まりやのアルバム『UNIVERSITY STREET』に収録された「イズント・イット・オールウェイズ・ラヴ」の録音を、音響ハウス第一スタジオで行った。

    演奏したのは、来日中だったLinda Ronstadtのバックバンドのメンバーたち。ギターのWaddy Wachtel、ドラムのRuss Kunkelらが参加していた。

    牧村は後年、彼らの演奏がスタジオのモニタースピーカーから鳴ったとき、その音の迫力に驚いたと振り返っている。

    ベースが一音鳴っただけで、地響きのような低音が響いたという。

    海外の第一線で活動する演奏家たちが持ち込んだ音。その演奏を受け止め、再生する録音設備。牧村にとっては、演奏の質とスタジオの能力を同時に実感する体験だったのだろう。

    録音設備の性能は、カタログに記された数字だけでは分からない。演奏者が音を出し、それをマイクが捉え、コントロールルームで再生する。そこで初めて分かることもある。

    1974年の開業から5年後、音響ハウスでは、日本と海外の音楽家たちが同じ空間で録音を行っていた。

    「Forbidden Colours」の午後|1983年

    1983年、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』が公開された。坂本龍一は俳優として出演するとともに映画音楽を担当。

    そのテーマ曲にDavid Sylvianが歌詞と歌声を加えたのが「Forbidden Colours」である。

    坂本とSylvianの交流は、それ以前から続いていた。坂本はJapanのアルバム『Gentlemen Take Polaroids』に参加し、1982年には「Bamboo Houses / Bamboo Music」をSylvianと共同で発表している。

    私は以前、「Forbidden Colours」を長年歌ってきた経験から、この曲について記事を書いた。

    そこで関心を持ったのは、坂本の主旋律に対してSylvianが別の旋律を書いたことや、録音当日の体調によって歌声が変わるということだった。

    今回は、その声が録音された場所に目を向けてみたい。

    1987年3月、英国の音楽制作誌『Sound on Sound』に掲載されたインタビューで、Sylvianは「Forbidden Colours」の録音を振り返っている。

    そこには、ヴォーカルの録音場所が東京の音響ハウスであり、オノセイゲンが協力したことが明記されている。

    Sylvianが参加したのは、映画のサウンドトラックがほぼ完成していた段階だった。当時はひどい風邪をひいており、ほとんど声が出ない状態だったという。それでも、午後の時間を使ってヴォーカルを録音した。

    この録音については、すでに公開した記事でも触れている。歌う側として考えると、その日の体調や声の状態が作品に残ることは、決して不思議ではない。

    一方、1987年のインタビューには、録音場所についての興味深い証言も残されている。

    Sylvianは、スタジオに入ったとき、機材よりもまず、その場所の雰囲気を感じ取ると話している。そして音響ハウスについて、設備が整っているだけでなく、仕事のしやすい、雰囲気のよいスタジオだったと振り返った。

    さらに、坂本は音響ハウスを頻繁に利用しており、Sylvian自身も、一緒に仕事をしていないときに何度も坂本を訪ねていたという。

    この話から分かるのは、音響ハウスが二人にとって、一度だけ訪れた録音施設ではなかったということだ。

    坂本が日常的に仕事をし、Sylvianが訪ねていた場所。その中で「Forbidden Colours」のヴォーカルも録音された。

    また、Sylvianは1987年のインタビューで、音響ハウスを四つのスタジオからなる施設として紹介している。1974年の開業時に牧村が語った第一・第二スタジオから、施設が発展していたことをうかがわせる証言でもある。ただし、四つのスタジオがいつまでに整備されたのかについては、今回確認した資料からは特定できなかった。

    私は長年「Forbidden Colours」を聴き、歌ってきた。坂本の旋律が鳴り、そこへ自分の声を入れる。その繰り返しの中で、曲の構造や歌い方について考えてきた。

    しかし、その歌声が録音された場所については、ほとんど意識していなかった。

    1983年のある午後、風邪をひいたSylvianが、銀座の音響ハウスで歌っていた。

    その事実を知ったことで、私にとって「Forbidden Colours」は、以前よりも具体的な風景を持つ曲になった。

    オノセイゲンと録音の仕事

    「Forbidden Colours」の録音に関わったオノセイゲンも、音響ハウスと深い接点を持つ人物だ。

    坂本龍一が監修した『commmons: schola』の対談で、オノは音響ハウスでの仕事を振り返っている。松任谷由実の『SURF&SNOW』でアシスタントとしてクレジットされたことや、フリーランスになって最初のエンジニアとしての仕事が映画『戦場のメリークリスマス』だったことにも触れている。

    録音エンジニアは、マイクの選択や配置、録音する音の調整などを通じて、作品の響きに関わる。同じ演奏や歌声でも、録音の方法によって残る音は変わる。

    オノはその後、録音エンジニアとしてだけでなく、音楽家としても独自の活動を続けていく。その仕事については、別の機会に詳しく辿りたい。

    ここでは、音響ハウスで経験を積んだエンジニアが、坂本龍一とDavid Sylvianの作品に関わっていたという接点を押さえておきたい。

    録音技術の変遷|1995年の第一スタジオ

    音響ハウスの歴史を調べると、録音設備を更新しながら仕事を続けてきたことも分かる。

    1994年11月、第一スタジオの大規模な改修工事が始まり、翌1995年3月20日に新装オープンした。

    改修後の第一スタジオには、遮音された五つのブースが設けられた。コントロールルームも広く確保され、録音の作業効率や音響特性が検討された。

    ピアノには、演奏者たちの意見も参考にして、スタインウェイのハンブルグ製フルコンサートモデルDが選ばれている。

    ミキシングコンソールには、Solid State LogicのSL 9064J-64VUが導入された。音響ハウスの技術報告によれば、SSL Jシリーズの第一号機だった。

    録音機には、アナログのSTUDER A820と、デジタル48トラックのSONY PCM-3348などが用意されていた。さらに、ハードディスクレコーダーのSSL DiskTrackも導入されている。

    1995年という時代を考えると、この構成は興味深い。アナログテープ、デジタルテープ、ハードディスクという異なる記録媒体が、同じスタジオで選択できる環境にあった。

    音響ハウスは、音楽家やエンジニアが求める制作方法に応じて、それぞれの録音技術を使えるようにしていた。

    なお、これらは1995年の改修時に導入された設備であり、1983年の「Forbidden Colours」の録音に使われた機材ではない。

    新しい録音技術を導入しながら、それ以前の機材も維持する。音響ハウスの歴史には、そうした仕事の積み重ねもある。

    機材を守る人々|遠藤誠

    録音スタジオの仕事には、演奏者やエンジニアだけでなく、設備を維持する技術者たちも関わっている。

    1975年に音響ハウスへ入社した遠藤誠は、長年にわたりスタジオの機材管理やメンテナンスを担当してきた。2021年度には、日本オーディオ協会の「音の匠」に選ばれている。

    日本オーディオ協会の記録によれば、遠藤は学生時代から電子機器に関心を持ち、自ら真空管アンプを製作していたという。音響ハウスへの入社後は、録音設備を安定して使える状態に保つ仕事に携わった。

    録音中に機材が故障すれば、演奏や制作の流れが止まってしまう。問題が起きた際に対応できることはもちろん、日々の点検や調整によって、問題を未然に防ぐことも重要になる。

    完成したレコードのクレジットには、こうした仕事が記されないことも多い。しかし、長年にわたって録音を続けるには、設備を維持する技術者の存在が欠かせない。

    音響ハウスで録音された音楽を辿ることは、その環境を支えてきた人々の仕事を知ることにもつながっている。

    音響ビルと映像ビル

    音響ハウスの仕事は、音楽録音だけにとどまらない。

    公式沿革によれば、1976年12月にはVTR編集研究室を設置し、1979年10月には別館の映像ビルに設備を増強・移設して、映像のポストプロダクション業務を開始した。

    1986年にはCDマスタリングルームを増設。1999年には映像制作業務を開始し、その後もDVDオーサリングなどへと事業を広げている。

    現在の施設案内にも、音響ビルと映像ビルがそれぞれ掲載されている。

    音響ハウスという名前から、私は長い間、音楽の録音スタジオを思い浮かべていた。しかし、その沿革を読むと、映像編集やマスタリングなど、録音した音を作品として仕上げる仕事も早い時期から積み重ねられてきたことが分かる。

    1974年の開業時から、音楽録音とフィルム録音を扱う総合スタジオとして構想されていたことを考えると、その後の事業展開にも連続性がある。

    人々の記憶を辿る映画|『音響ハウス Melody-Go-Round』

    2020年、音響ハウスを題材にしたドキュメンタリー映画『音響ハウス Melody-Go-Round』が公開された。監督は相原裕美。

    映画では、新たな楽曲を制作する過程を軸に、音響ハウスに関わってきた音楽家やエンジニアたちのインタビューが織り交ぜられている。

    坂本龍一、松任谷由実、矢野顕子、佐野元春、高橋幸宏、井上鑑ら、数多くの音楽家が出演する。

    映画の企画は、もともと長年機材のメンテナンスを担当してきた遠藤誠を紹介する短い映像から始まったという。その後、ギタリストの佐橋佳幸や録音エンジニアの飯尾芳史らの協力を得て、音楽ドキュメンタリーへと発展していった。

    私も今回、音響ハウスについて調べる中で、この映画を視聴した。

    映画では、新たな音楽がつくられていく時間と、かつてこの場所で仕事をしてきた人々の記憶が重ねられている。

    その具体的な内容については、ここで詳しく紹介することを控えたい。これまで資料を通じて辿ってきた音響ハウスの歴史を、実際にその場所で仕事をしてきた人々の声から知ることができる作品でもある。

    音響ハウスに関心を持った方には、ぜひ映画そのものを観ていただきたい。


    銀座の街に残るもの

    坂本龍一は2023年に亡くなった。

    David Sylvianが「Forbidden Colours」を録音した1983年からも、すでに40年以上が経っている。

    1974年に音響ハウスが開業した頃、世界では録音技術が大きく変化していた。日本でも、レコード会社の外に商業スタジオが増え、CM音楽やレコード制作の現場で新しい録音方法が試されていた。

    大森昭男が若い音楽家たちを起用し、坂本龍一がスタジオミュージシャンや作曲家として経験を積んでいたのも、その時代だった。

    音響ハウスは、そうした仕事を受け入れる場所として銀座に生まれた。

    やがて坂本はDavid Sylvianと「Forbidden Colours」を制作する。音響ハウスで録音されたSylvianの歌声は、現在も聴くことができる。

    その後もスタジオは設備を更新し、映像制作へと仕事を広げ、数多くの音楽家や技術者が関わってきた。

    半世紀以上の歴史を辿ると、一つの建物の中で、時代ごとに異なる音楽と技術が交差していたことが分かる。

    私がその前を通っていた頃、こうした歴史を意識することはなかった。建物の中で、かつて誰が演奏し、誰が録音し、どのような仕事が行われていたのか。街を歩いているだけでは分からない。

    それでも、録音された作品や、当時の人々が残した言葉を辿ることで、その場所で起きていたことを少しずつ知ることができる。

    私が何度も聴き、何度も歌ってきた「Forbidden Colours」。その歌声が、日常的に歩いてきた銀座の一角で録音されていた。

    次に音響ハウスの前を通るときには、1983年のある午後にSylvianが残した声とともに、1974年にこの場所をつくった人々や、その後も録音環境を守り続けてきた人々のことを思い出すだろう。

    音響ハウスは、今もそこにある。

    関連リンク

    参考資料

    株式会社音響ハウス「会社概要・沿革」
       https://www.onkio.co.jp/company/index.html

    株式会社音響ハウス「施設案内」
       https://www.onkio.co.jp/floor/index.html

    水野幸生「音響ハウス『第一スタジオ』」日本音響エンジニアリング『技術ニュース』第14号、1996年
       https://www.noe.co.jp/technology/14/14std1.html

    日本音響エンジニアリング「音響エンジニアリング物語その2」
       https://www.noe.co.jp/technology/20/20sty1.html

    渡辺亨「映画『音響ハウス Melody-Go-Round』牧村憲一が明かす歴史的スタジオへの思い、“い・け・な・いルージュマジック”録音秘話」Mikiki、2020年11月24日
       https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/26868

    Mark Prendergast, “Master Craftsman,” Sound on Sound, March 1987. David Sylvianインタビュー
       https://www.davidsylvian.net/articles-and-interviews/transcripts/master-craftsman-sound-on-sound-march-1987/

    commmons: schola「坂本龍一×オノセイゲン 対談」
       https://www.commmons.com/archive/schola/interview3.html

    田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた。大森昭男ともうひとつのJ-POP』徳間書店、2007年。関連企画『ほぼ日刊イトイ新聞』
       https://www.1101.com/cm_ongaku/

    日本オーディオ協会「第25回『音の匠』顕彰 株式会社音響ハウス メンテナンス・エンジニア 遠藤誠様」
       https://www.jas-audio.or.jp/journal_contents/journal202201_post16702

    映画『音響ハウス Melody-Go-Round』公式サイト
       https://onkiohaus-movie.jp/

    ソニー・ミュージック「映画『音響ハウス Melody-Go-Round』Blu-ray発売・創業時LPバッグ復刻関連資料」
       https://www.110107.com/s/oto/page/onkio_haus

    Rock oN「音響ハウス」スタジオ取材記事、2023年
       https://www.miroc.co.jp/rock-on/onkio-haus/

     
     

    Naja

     
     
    Massive Attackを中心に、長く聴いてきた音楽を、人や制作背景、その周囲の文化まで辿って書いています。 Management/Consulting/Design/Photo/Music/Sculpture

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