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プラハのカレル橋にあのザビエルが⁉聖人像に秘められたその歴史とは

    【チェコ・プラハ旅行記】プラハのカレル橋にあのザビエルが⁉聖人像に秘められたその歴史とは

    さて、いよいよプラハの最大の見どころたるカレル橋をご紹介しよう。

    これまで何度も記事に出てきたカレル橋であるが、今の形で出来上がったのは1402年。

    プラハ城と同じくカレル4世の首都建造の大号令によって作られたものだ。

    カレル橋はモルダウ川にかかる橋で有名だが、実はこのモルダウはドイツ語読み。

    現地の人はチェコ語でヴルタヴァ川と呼んでいる。

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    カレル橋は昼も夜も多くの人で賑わう。

    そしてこのカレル橋で一際目を引くのは、橋の欄干に並ぶ聖人の像だ。

    この像は両側の欄干に15体ずつ、計30体の像がカレル橋には設置されている。

    橋自体が1402年に出来上がっているので、この像もずいぶんと古いものかと思いきや、そのほとんどが1683年以降に置かれたものだそうだ。

    なぜその時期に像がたくさん置かれるようになったのか。

    実はそれも前回の記事で紹介したヤン・フスと密接に絡んでくるのだ。

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    ヤン・フス(1369頃-1415)の像

    ヤン・フスが火刑に処された1419年以降も、チェコはカトリックに反対するフス派が根強い地域となった。

    そして1517年、ルターの宗教改革が始まると、チェコのフス派もプロテスタントとしてカトリックと戦うことになっていく。

    ここで注意したいのは、プロテスタントとは固有の宗派の名前ではなく、カトリックに反対(プロテスト)するものという意味ということだ。

    だからフス派もプロテスタントの中の一つということになる。

    そしてそのカトリック対プロテスタントの最終戦争である30年戦争が1648年に終結。

    その結果、チェコはまたしても大国に痛い目に合わされることになる。

    チェコはカトリック側の神聖ローマ帝国やオーストリアの連合軍に敗北。

    そしてカトリックによる敗北でチェコのプロテスタントは完全にその活動を禁止されることとなる。

    プラハにあったプロテスタントの教会は全て破壊、あるいはカトリックの教会として再利用されることになった。

    フス派が多かったプラハ市民も強制的にカトリックへと改宗させられ、フス派の伝統はここで断たれてしまった。

    当時のカトリックと言えば、ハプスブルクが熱烈な擁護者となっていた。

    ハプスブルク家と言えば、スペインやドイツ、オーストリアなど広大な地域を支配していた王朝だ。

    このハプスブルク家がカトリックを世界に復活せんとして、支配下の国々で様々な政策を行っていく。

    その一つがカレル橋の聖人像だったのだ。

    なぜその政策がカレル橋にわざわざ聖人像を置くことと関係するのか?と思われる方も多いかもしれない。

    だが実は、聖人という概念が前面に出てくるのはカトリックの特徴でもあるのだ。

    それに対してプロテスタントは「『聖書』こそがすべてであって、聖人を介して救われることはありえない」と聖人崇拝を批判していた。そのようなプロテスタントの考え方を塗りつぶすために、街の最も目立つ場所、カレル橋に次々と豪華な像やご利益のある聖人像を設置していったのである。

    そしてその中でも橋の中心部という最も良い位置に置かれている像がある。

    それがヤン・ネポムツキーの像だ。

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    この聖人は1393年にプロテスタント王に反抗したため、このカレル橋から落とされて殺されてしまったという殉教の逸話が残っている。

    この聖人はボヘミアの守護聖人であり、水難から守る庇護者としても崇敬を集めているそうだ。

    そして何より、この像の台座のレリーフに触ると願いが叶うと言われている。

    写真の女性が嬉しそうな表情を浮かべているのは、そういう理由からなのだ。

    ただ、チェコ人からするとやはりこの聖人は人気がない。

    それもそのはず、この聖人は30年戦争が終結した後、カトリックがなんとかヤン・フスに変わる民族の英雄を作れないかと躍起になって探し出した聖人だからだ。

    もともとそこまでの知名度もない。

    ましてやチェコ人からするとプロテスタント王に歯向かったのだからそんな人を尊敬する気にはならない。

    ヤン・フスに代わる英雄を作りたいというカトリック側の意図はなかなか浸透することはなかったが、それでもカトリック側は同じような政策をどんどん続けていく。

    カトリックによる上書き。

    これは後の教会建築のお話でも重要なつながりを持ってくる。

    この像がこれまでの歴史の中でどのようにプラハの人に見られてきたのか、非常に興味深い。

    カレル橋にはそのような歴史が隠されていたのだ。

    ちなみにこのカレル橋には私達もよく知っているフランシスコ・ザビエルもいる。

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    ザビエルはイエズス会の宣教師。

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    フランシスコ・ザビエル(1506-1552)Wikipediaより

    イエズス会はカトリックの世界伝道を担った修道会だ。

    大航海時代に伴って世界中にカトリックの教えを布教する宣教師を育成するのがその目的で、ザビエルはその中でも特に優秀な宣教師として知られていたのだ。

    だからこそカトリックが世界に広がっていく象徴の一つとしてここに飾られているのだろう。

    下で支え担いでいる男は日本人だという説があるが、当時のヨーロッパでは日本人の姿を知るものは少なかった。

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    そのため刀や頭を見て頂ければわかるように、モンゴル系の姿をしている。

    モルダウの美しさや橋そのものの美しさがフォーカスされがちなカレル橋であるが、今回の記事ではあえてそこに並ぶ聖人達に目を向けて話してきた。

    カレル橋は本当に美しい。

    そしてそこから見る眺めも素晴らしい。

    だが、それだけではなく、プラハにはたくさんの思想的な思惑が至る所に秘められている。

    カレル橋にも実はそのようなエピソードがあるということを知り、私はますますこの景色を好きになるのであった。

    ※本記事の主要参考資料はこちら
    新教出版社 フスト・ゴンサレス『キリスト教史』
    現代書館 薩摩秀登『プラハの異端者―中世チェコのフス派にみる宗教改革―』
    講談社 江村洋『ハプスブルク家』
    河出書房新社 江村洋『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』
    平凡社 石鍋真澄『教皇たちのローマ』


    『世界一周記』記事一覧はこちらのまとめ記事にて


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