
相良700年、保守と進取。500年続いた蒸留酒が、いま何に挑んでいるのか。
人吉に来たこともあり、球磨焼酎について、まとめて調べていました。
私は人吉で生まれました。
実家は八代に移りましたが、球磨の酒は身近なものとしてずっとあります。
それなのに、調べてみると知らないことばかりでした。
先日、八代のい草について長い記事を書きました。
そのときに、自分が育った場所の産業を何も知らなかったと痛感したので、今度は生まれた場所の産業を調べてみようと思いました。
結果として、い草の話とはずいぶん違う景色が見えてきました。
い草は、縮んでいく話でした。
球磨焼酎は、縮みながら別のものに変わろうとしている話でした。
長くなりますが、書きます。
そもそも球磨焼酎とは何か?
球磨焼酎は、熊本県南部の人吉・球磨地域で、米だけを原料に単式蒸留機で造られる本格焼酎です。
1995年、WTOのTRIPS協定に基づいて、国税庁の地理的表示(GI)に指定されました。
ボルドーやシャンパーニュ、スコッチ・ウイスキーと同じ制度です。
その土地の風土と伝統的な製法が、品質と評価に不可分に結びついていることを、国際的に証明して保護する仕組みです。
「球磨」を名乗るための条件は、かなり厳格です。
原料の穀類も麹米も、国内産米のみ。
副原料は一切使えません。
仕込み水と割り水は、球磨郡または人吉市内で採水された水だけ。
そして、糖化と発酵、単式蒸留機による蒸留、貯蔵、瓶詰めまで、全工程を地域内で完結させなければなりません。
球磨焼酎管理委員会が、これを厳正に運用しています。
ここが、まず驚いたところでした。
瓶詰めまで地域内、という条件は相当に厳しい。
地方の産業は、たいてい原料だけを作って、加工と出荷は外に持っていかれます。
それを制度で禁じている形です。
先日のい草の記事で、GI「くまもと県産い草」の話を書きました。
熊本は、県内の二つの産品で同じ仕組みを使っています。
盆地という、閉じた条件。
酒質を決めているのは、人吉盆地の環境です。
九州山地に囲まれた盆地で、昼夜と季節の寒暖差が激しい。
秋から春にかけて深い川霧が立ち込め、適度な湿度を保ちます。
人吉の朝霧は、見たことのある方も多いと思います。
あれが、米の登熟を支えてきました。
日本三大急流の一つである球磨川と、支流の川辺川。
その流域の山林が涵養した、ミネラルバランスのいい軟水の伏流水が豊富に湧きます。
軟水は、繊細な米もろみの発酵管理を安定させます。
閉じた地形と、水と、寒暖差。
ワインの世界でテロワールと呼ばれるものが、そのまま成立しています。
蒸留の方法は二つに分かれます。
常圧蒸留は、大気圧のまま約100度まで加熱する伝統的な方法です。
原料の米に由来する穀物香や重い成分まで留出するので、芳醇で骨太な風味になり、長期の貯蔵に耐えます。
減圧蒸留は、気圧を下げて40度から50度の低温で沸騰させます。
熱による変性や雑味が抑えられ、吟醸酒のようなフルーティーな香りと、軽快な口当たりになります。
同じ米から、まったく違う酒ができます。
500年の話。
国内で焼酎という文字が確認できる最古の物証は、1559年、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社で見つかった宮大工の落書きです。
内容が面白くて、施主がケチで一度も焼酎を振る舞ってくれなかった、という不平が書かれていました。
当時、大口地域は人吉盆地を本拠とする相良氏の勢力下にありました。
つまり、この時点で焼酎は庶民の労働や祝いの場に根付いていた、ということです。
サツマイモが日本本土に来たのは17世紀以降なので、この落書きの焼酎は米か雑穀を原料にしたものだったと推定されています。
蒸留技術の伝来については、相良氏が東南アジアや中国大陸、琉球と活発に交易していたことから、そこを通じて入ってきたという見方が有力です。
16世紀半ばには、ポルトガル商人からフランシスコ・ザビエルに、日本に米から造る蒸留酒があると報告されています。
さらに16世紀末の文禄・慶長の役で、従軍した相良氏が朝鮮半島から蒸留技術を持つ職人を連れ帰り、体系的に定着したとも伝えられています。
700年、一度も支配者が変わらなかった。
ここが、人吉球磨の特異なところです。
鎌倉時代の初期から明治維新まで、約700年間、この地域は一度も他家の支配を受けませんでした。
相良氏による単一統治が続きました。
四方を急峻な山地に閉ざされた盆地が、外敵の侵入を防ぎ、独自の文化を純粋培養する温床になりました。
司馬遼太郎が『街道をゆく』で、日本でもっとも豊かな隠れ里と書いたのは、この環境のことです。
そして、米焼酎が成立した経済的な理由もあります。
薩摩や大隅の火山灰土壌ではサツマイモが主軸になりましたが、人吉盆地では米でした。
江戸時代の相良藩の公称石高は2万2,000石です。
ところが、百太郎溝や幸野溝といった大規模な灌漑水路を開いて新田開発を進めた結果、実質的な生産力は4万石から10万石を超えていたとされます。
幕府の収奪から外れた余剰米、いわゆる隠し田です。
主食である米を、蒸留酒の原料に回す余裕があった。
米焼酎は、この余剰から生まれました。
藩は、これを貴重な財源として扱いました。
醸造株や「入立(いりたち)」と呼ばれる公認業者にだけ製造と販売を許し、薩摩藩や豊後に移出して外貨を稼がせています。
この入立を営んでいた家系が、いまの蔵元の多くの祖形です。
同時に、藩主は民衆統治の手段としても焼酎を使いました。
醸造や酒宴の遊興を寛容に認めて、領主と領民の一体感を作る装置にした。
酒が、統治の道具でもあった、ということです。
ガラとチョクと、球磨拳。
文化の話も書いておきます。
かつて原酒はアルコール度数45度ほどで流通していました。
これを水で割って35度前後に調整し、フラスコ型の扁平な陶器「ガラ」に注ぎます。
そして囲炉裏や火鉢の五徳に直接かけて温める。
これを直燗(じきかん)と言います。
飲むのは「チョク」と呼ばれる親指大の極小の盃です。
なめるように少しずつ味わう。
この極小の盃は、高濃度のアルコールの刺激を和らげて、香りを適度に抑えて滑らかに飲むための、合理的な設計でした。
酒席の座興として定着した「球磨拳」は、参勤交代のときに相良藩の江戸屋敷の家来衆が考案したとされます。
向かい合った二人が0から5までの指をリズミカルに出し合い、相手より指が1本多いときだけ勝ち、という独特の規則です。
負けた者は、チョク八分目を飲み干す。
現在は多良木町の指定無形民俗文化財になっています。
酒宴の最初の一滴を床や囲炉裏の隅に落として土地神に捧げる儀礼も継承されてきました。
そして、地域には「焼酎墓」が複数残っています。
徳利や盃の形を墓標に刻んだものです。
死んだあとも焼酎を飲み続けたい、ということだと思います。
このユーモアは、相当好きです。
これらの文化財群は、2015年に文化庁が指定した日本遺産の第1号、「相良700年が生んだ保守と進取の文化」の基幹的な構成要素になっています。
保守と進取。
この言葉が、このあとの話の全部につながります。
減圧蒸留という革命。
明治に入って酒造株制度が廃止されると、自由競争のもとで一時は60軒を超える蔵元が林立しました。
1884年には球磨郡酒造組合が設立され、粗悪品の排除と酒質の安定が図られます。
大正時代には、原料を玄米から白米に切り替えて雑味が減り、日本酒の技術を応用した二段仕込み法の導入で、酵母の育成とアルコール生成歩合が飛躍的に上がりました。
そして、近代における最大の革新が減圧蒸留です。
1974年、高橋酒造が主導して確立した減圧蒸留酒「白岳しろ」が、本格焼酎のイメージを根本から変えました。
それまで、焼酎は臭いが強くて重いと言われていた。
そこに、華やかな香りと澄んだ口当たりの酒が出てきた。
大都市圏の消費者と女性層の支持を得て、九州ローカルの地酒だった球磨焼酎は、一気に全国ブランドになりました。
1994年には、鳥飼酒造が清酒酵母と高度精白米で「吟香鳥飼」を出し、吟醸香をまとう高級米焼酎という市場を新しく作っています。
いまの球磨焼酎のイメージの大半は、この50年で作られたものです。
500年の歴史がある産業ですが、売れている形はかなり新しい。
市場は、縮んでいる。
ここからは、厳しい話です。
本格焼酎の市場は、2000年代初頭の第3次本格焼酎ブームを境に、構造的な縮小局面に入りました。
全国の課税移出数量は2005年度に約62.7万キロリットルでピークを迎え、そこから減り続けています。
若年層の酒離れ、消費者の高齢化、缶ハイボールや缶チューハイといったRTDの台頭。
2023年にはピーク比で43%減まで落ちました。
米焼酎に限ると、2022年の課税移出数量は約2万9,897キロリットルで、本格焼酎全体の7.9%です。
最大産地である熊本県は1万258キロリットルで、前年比3.5%減でした。
人吉・球磨地域に現存する蔵元は27です。
全国的な流通網と量産体制を持つ大手と、年間数十石から数百石の規模で手造りや甕仕込みを続ける家族経営の蔵とに、はっきり二極化しています。
そこに、昨日書いたコメの話が乗ってきます。
原料米の価格が乱高下すれば、仕込みのコストが読めません。
小規模な蔵ほど、この変動に耐えられない。
エネルギー費と資材価格の高騰も重なっています。
そして、2020年7月の豪雨。
市場の問題に加えて、産地を根底から揺るがしたのが令和2年7月豪雨です。
2020年7月4日、球磨川とその支流が各地で氾濫し、決壊しました。
球磨焼酎酒造組合に加盟する27蔵のうち、半数近くが床上または床下浸水の被害を受けています。
特に球磨川沿いにあった3蔵は、製造場も貯蔵庫も完全に水没し、壊滅的な被害を受けました。
明治期以来の石造りの麹室が泥水に沈み、長年熟成を重ねてきた原酒のタンクが倒れて流された。
さらに、14蔵が共同で使っていた焼酎粕のメタン発酵・処理施設が水没しました。
被害額は約3億5千万円です。
これで何が起きたかというと、直接の浸水を免れた蔵も、蒸留の副産物を処理できなくなりました。
産地全体の生産活動が止まる、連鎖的な危機です。
これは、い草の記事で書いた構造とまったく同じです。
共同で使っているインフラが一つ止まると、無傷の事業者まで動けなくなる。
小さい産地ほど、この急所を持っています。
そこで機能したのが、組合だった。
この災禍で機能したのが、組合を中心とした共助のネットワークでした。
被害の軽かった蔵が、被災した蔵の焼酎粕を代わりに受け入れた。
泥の掻き出しを手伝い、設備を共同で使い、委託醸造を組織的に展開しました。
球磨村一勝地の蔵には、水上村の蔵がいち早く支援に入り、設備の連携を通じて製造再開を後押ししています。
そして、いちばん印象に残ったのが、人吉市の大和一酒造元の話です。
壊滅的な被害からわずか4カ月で醸造を再開しました。
それだけでも驚くのですが、本題はここからです。
濁流が蔵に運び込んだ土砂の中から、独自の蔵付き酵母を単離して培養することに成功しました。
この酵母を「球磨川酵母」と名付け、地元産の玄米と玄米麹を使って自然発酵させた新商品「球磨川」を開発します。
そして2023年、フランスで開かれた酒類コンクール「Kura Master」の本格焼酎・泡盛部門で、最高位のプラチナ賞を受賞しました。
自分の蔵を壊した川の名前を、商品名にしています。
そして、その川が運んできた土から酵母を見つけた。
災害を、嘆くのでも、乗り越えるのでもなく、素材にしている。
ここまでやれる発想は、なかなか出てこないと思います。
琥珀色を、出せなかった話。
ここからが、今日いちばん面白いと思った部分です。
米を原料にした球磨焼酎は、蒸留の段階で油分や雑味が穏やかに仕上がるので、木樽で貯蔵したときの相性が極めていいそうです。
ところが、長いあいだ樽熟成を阻んできたものがあります。
酒税法関連の通達にあった、着色度の規制です。
ウイスキーやブランデーとの税率の差と、市場の区分を維持するために、本格焼酎は特定の波長での吸光度が一定値以下、つまり淡い黄色程度でなければならない、と定められていました。
何が起きるかというと、長期の樽熟成で得られた深い琥珀色の原酒があっても、本格焼酎として出荷するには活性炭で脱色しなければならない。
そして脱色すると、樽由来の香味成分まで一緒に抜けます。
せっかく何年も樽で寝かせたものを、無色に戻して出荷する。
あるいは、ごく微量の食物繊維を添加して、酒税法上のリキュールとして出す、という迂回の方法が取られてきました。
分類を守るために、品質を落としていた、ということです。
2023年4月、税制改正で、輸出用とスピリッツ区分における着色度規制が撤廃されました。
これを受けて、球磨焼酎の蔵元は樽熟成のポテンシャルを生かした琥珀色のスピリッツを一気に展開し始めています。
制度がひとつ変わっただけで、何十年も出せなかったものが出せるようになった。
これは、制度設計の話として非常に示唆的です。
現場に技術があり、素材の相性もよく、市場もある。
それでも、分類の線引きが邪魔をして出せないことがある。
そして、その線引きは、たいてい別の目的(この場合は税率の区分)のために引かれたものです。
地域で事業をしていると、似た場面によく出会います。
できない理由が、現場にはなくて、制度の側にある。
ウイスキーと名乗れる。
もう一つ、定義にまつわる話です。
アメリカのアルコール・タバコ税貿易管理局(TTB)の規定では、ウイスキーは穀類を原料として、酵母で発酵させ、蒸留後にオーク樽で熟成させたもの、と定義されています。
米は、正当な穀類です。
だから、米麹と米を原料に単式蒸留して木樽で熟成させた球磨焼酎の原酒は、米国の法制上「Whisky」として表示して流通させることができます。
深野酒造や大石酒造場は、この構造を捉えて樽熟成の米焼酎をアメリカに輸出しました。
米特有の繊細な甘みと、バーボン樽やシェリー樽由来のバニラ香が融合した酒質が、現地のウイスキー愛好家やバーテンダーから、滑らかでエレガントなウイスキーとして評価されています。
2017年には、深野酒造の樽熟成原酒が米国の専門誌『Whisky Advocate』の年間TOP20に選ばれました。
同じ中身が、日本では本格焼酎で、アメリカではウイスキーになります。
商品を変えたのではなく、カテゴリーを変えた。
それだけで、戦う市場も、価格帯も、競合も、全部変わります。
これは観光の仕事でも、まったく同じことを感じます。
何を売っているかではなく、どのカテゴリーで売っているか。
ここを間違えると、良いものが安く買い叩かれます。
カルダモンの焼酎と、小学校跡地の蒸溜所。
挑戦の例を、あと二つ。
湯前町の豊永酒造は、自社田で無農薬・有機栽培の米を育てて焼酎を造っています。
そこが、米焼酎の原酒にハーブを漬け込んで再留・ブレンドした「カルダモン焼酎」を開発しました。
カレー店からの要望がきっかけだったそうです。
米焼酎の爽快感とカルダモンのシトラス調のスパイス香が合って、ハイボール需要やエスニック料理とのペアリングで異例のヒットになりました。
米焼酎が、他の素材の香りを受け止めて調和させるプラットフォームとして機能する、ということを証明した事例だと思います。
もう一つが、高橋酒造の田野蒸溜所です。
人吉市田野町の、2014年に閉校した旧田野小学校の跡地を再生して、2024年に開設、2025年秋に開所式が行われました。
標高およそ680メートルの高原地帯です。
ここでやっているのは、焼酎の延長ではありません。
スコットランドのフォーサイス社製の銅製ポットスチルと、ドイツ製のマッシュタンを導入して、輸入大麦麦芽を使った本格的なジャパニーズ・シングルモルトウイスキーを造っています。
標高680メートルの寒暖差、地下80メートルから汲み上げる軟水、かつての野焼きの風景を想起させるピート香の設計。
地域の風土を、徹底して製品に投影しているそうです。
120年以上の発酵と蒸留の知見を土台にして世界水準のウイスキーを造り、その相乗効果で海外の愛好家を源流である米焼酎に還流させる。
長期の戦略として、よく考えられていると思いました。
廃校の活用としても、これは相当に強い事例です。
地方の廃校は、だいたい交流施設や体験施設になります。
悪くはないのですが、収益性が弱い。
標高と寒暖差という、その場所でなければならない理由を持った製造業が入るのは、かなり珍しい形だと思います。
▪️これから、何が課題になるか
ここからは、自分の意見です。違ってたらごめんなさい。
一つ目は、テロワールの純度。
GI球磨の認証基準は、原料米を「国内産米」と規定しています。
地域内で採水された水を使い、全工程を地域内で行うという条件に比べると、原料米の縛りはゆるい。
プレミアムのカテゴリーを確立するなら、人吉球磨産米100%への回帰と、そのトレーサビリティの明文化が要ると思います。
盆地の過疎化と高齢化で、遊休農地が増えています。
蔵元が自社田を持つか、地元の農家と直接契約して酒造好適米の有機栽培や減農薬栽培を進める。
これは、農地の景観の維持にも、水資源の涵養にもつながります。
そして何より、人吉球磨の土と水から生まれた酒だ、と言い切れるようになります。
ワインでいうドメーヌの考え方です。
工業的な量産品との差を決定的にするのは、ここだと思います。
昨日、コメの価格が42%下落したという記事について書きました。
主食用米が余って、転作が課題になっている。
酒造好適米への転換は、そのひとつの出口になり得ると思います。
二つ目は、焼酎ツーリズム。
人吉球磨には、観光資源が密集しています。
国宝の青井阿蘇神社、人吉城跡、人吉温泉、球磨川下り。
そして27の蔵元。
豪雨の被災を経て、各蔵が見学施設を整備しました。
大和一酒造元は木造校舎風の研修室を作り、有料のガイドツアーを始めています。
田野蒸溜所も、ビジターの体験拠点として設計されています。
ただ、これを単発で終わらせると、たぶんもったいない。
蔵の見学は、どこの産地でもやっています。
差がつくのは、文化のほうだと思います。
ガラとチョクを使った直燗の体験。
球磨拳の手ほどき。
鮎や山菜、山うに豆腐といった郷土料理とのペアリング。
これは、他の産地には絶対にありません。
そして、こういう体験は宿泊しないとできません。
昼に蔵を見て帰る日帰り客からは、単価が取れません。
夜の体験を作ることが、滞在に変えるいちばん確実な方法です。
ここで、昨日まで書いていた泊食分離の話とつながります。
人吉球磨で宿に泊まって、夜に街に出て、直燗で球磨焼酎を飲む。
これは、地域全体をひとつの宿と食堂にする形そのものです。
ただし、そのときに必要なのは、夜に飲んだ人が宿に帰れる移動手段です。
酒の街で泊食分離をやるなら、ここを先に整えないといけません。
飲んで帰れない街では、焼酎ツーリズムは成立しません。
三つ目は、海外市場でのポジショニング。
世界の蒸留酒は、ジンもテキーラもウイスキーも、だいたい40度前後です。
バーテンダーがカクテルのベースに使うか、食後にストレートやロックで飲む。
これが主流の文化です。
球磨焼酎の強みは、25度前後で、繊細な食事の風味を邪魔せずに引き立てる食中酒としての機能にあります。
ところが、欧米では蒸留酒を食事と一緒に飲む文化が成熟していません。
ここが、本格焼酎の輸出の構造的なハードルになってきました。
だから、二つの方向を同時に進める必要があるのだと思います。
一つは、大都市のトップバーを対象にしたミクソロジー市場です。
度数を35度から40度以上に高めたカクテルベース用の米焼酎を出す。
米由来のアミノ酸と旨味を持つベーススピリッツは、他にありません。
もう一つは、ガストロノミーとの連携です。
Kura Masterのような品評会を起点に、和食だけでなくフレンチやモダン・エスニックのソムリエに向けて、食中酒としての提案を強める。
低糖質で低プリン体という健康機能も、論理的に説明できる材料です。
保守と進取。
27の蔵は、規模も思想もばらばらです。
地中に埋めた甕での仕込み、手造りの麹、木桶の蒸留。
こういう技術は、一度途切れると二度と戻りません。
い草の記事で、織機を直せる人がいなくなれば産地が消える、と書きました。
酒も同じです。
設備と技術は、人に付いています。
蔵の垣根を越えた若手技術者の交流や、設備と資材の共同調達は、たぶん待ったなしです。
豪雨のときに機能した共助のネットワークは、平時にも使えるはずだと思います。
そして、同時に。
球磨川酵母を探すような挑戦や、ウイスキー、クラフトジン、ミクソロジーといった他業種との越境を、厭わないこと。
日本遺産の名前になっている「保守と進取」は、たぶんこういうことだと思います。
守ることと、変えること。
どちらか一方ではありません。
500年のあいだ、この産地はずっとその両方をやってきました。
朝鮮半島から技術を持ち帰り、日本酒の二段仕込みを取り入れ、減圧蒸留で酒質を変え、いまは米国の法制度に合わせてウイスキーと名乗っています。
変え続けてきたから、500年続いた。
逆に言えば、変えなければ続かなかった。
最後に。
人吉で生まれた人間として、恥ずかしながら、ここまで調べたのは初めてです。
実家が八代に移ってからも、法事や親戚の集まりで人吉には行きます。
そのたびに焼酎は飲んでいたのに、何も知らずに飲んでいました。
調べてみて、いちばん心に残ったのは、豪雨で蔵を流された方が、その川が運んできた土から酵母を見つけた話です。
災害に遭った地域が、その経験を価値に変える。
言うのは簡単ですが、実際にやるのは難しい。
今年、熊本は地震に遭いました。
阿蘇の観光も、八代のい草も、いまだにその影響の中にいます。
人吉が2020年にやったことから、学べることは多いと思います。
まずは自分が、ちゃんと知ることから始めようと思いました。
実家のすぐ近く、むしろ昔は実家だった場所にある八百甚は最高です。是非いってみて下さい。