
肩書きより先に、身体が現れる
※この記事では、黒澤明監督『天国と地獄』の内容に触れています。
権藤が、車を降りる。
ドアが開く。
足が地面につく。
そして、走り出す。
新一のもとへ向かって。
それだけの場面なのに、私は何度も思い出す。
派手なアクションではない。
名台詞があるわけでもない。
ただ、一人の男が車を降り、自分の足で走る。
なぜか、それが残っている。
車の中にいた権藤
車内にいる権藤は、製靴会社の重役だ。
丘の上の邸宅に住み、会社では大きな力を持っている。
誘拐事件が起きても、彼はすぐに走り出すわけではない。
電話を受ける。
考える。
決断する。
誰かと話す。
車に乗る。
それまでの権藤には、いつも何かがある。
家の壁。
窓。
車のドア。
座席。
その向こうに、街がある。
車が走っているあいだ、街は窓の外を流れていく。
権藤は、その内側にいる。
社会的な立場も、財産も、これまで積み上げてきたものも、すべてその内側にある。
だからこそ、車を降りる場面が気になる。
地面に足がつく
権藤が車を降りる。
靴が地面に触れる。
その瞬間、画面の中の人間が少し変わったように見える。
もちろん、権藤は権藤のままだ。
重役であることも変わらない。
財産を持っていたことも、それを失うかもしれないことも、彼が下した決断も、何一つ消えていない。
それでも、車の中にいた権藤と、車を降りた権藤は、少し違って見える。
車を降りたあとの彼には、説明より先に身体がある。
腕を振る。
足で地面を蹴る。
息をして、前へ進む。
その姿を見ていると、肩書きというものが急に遠くなる。
走ることには、嘘がつけない
人は、言葉ならいくらでも整えられる。
私はこう考えた。
これは正しい判断だった。
こうするしかなかった。
そんなふうに説明できる。
けれど、走っている身体は、そうはいかない。
急いでいる。
必死になっている。
そこへ行かなければならない。
身体そのものが、そう言っている。
権藤の走りは、きれいではない。
英雄のように颯爽としているわけでもない。
少し不格好で、ただ前へ進んでいる。
だから私は、あの走りが好きなのだと思う。
立派な人間に見せるための動きではない。
何かを証明するためでもない。
そこに行かなければならないから、走っている。
正しいことをしても、何も戻ってこない
権藤は、自分の子どもではない新一を救うために、身代金を支払う。
その決断によって、彼は大きなものを失う。
ここには、きれいな交換がない。
誰かを救ったから、別の何かが与えられるわけではない。
正しいことをしたから、報われるわけでもない。
失うものは、失ったままだ。
それでも権藤は走る。
自分の決断を説明するためでも、誰かに認めてもらうためでもない。
ただ、車を降りる。
そして走る。
決断は、もう言葉ではなくなっている。
身体の動きになっている。
天国の中にいる人間
『天国と地獄』という題名を思う。
権藤の家は、丘の上にある。
窓から街を見下ろす。
冷房の効いた部屋。
走る車。
その反対側には、暑い街がある。
坂の下がある。
煙がある。
汗がある。
権藤は、ずっと丘の上にいた。
けれど、車を降りた瞬間、その身体が地面に触れる。
そこに、丘の上と丘の下の違いがなくなるわけではない。
権藤の立場も、財産も、失うことへの恐怖も残っている。
それでも、その身体は地面を蹴っている。
人は、何かを失えば別の人間になるわけではない。
過去も、立場も、欲望も、恐れも、全部抱えたまま走る。
身体が先に答えている
映画を観ていると、人物の言葉を覚えていることが多い。
あの台詞がよかった。
あの場面の言葉が忘れられない。
そんなふうに思う。
でも、権藤について私の中に残っているのは、言葉ではない。
車のドアが開く。
足が地面につく。
そして、走る。
肩書きを説明する言葉より、その人が何をしたのか。
何を選んだのか。
どこへ向かったのか。
そちらのほうが、人間をよく表すことがある。
人は、自分が何者なのかを言葉で語る。
けれど、ときどき、身体のほうが先に答えてしまう。
だから、あの走りが残っている
映画を観終わってから、私は何度もあの場面を思い出した。
権藤は、車を降りる。
地面に足をつける。
そして、新一のほうへ走っていく。
そこに、立派な言葉はない。
肩書きも消えない。
恐怖も残る。
失うものも、そのままだ。
それでも、身体は前へ進む。
美術館で絵を見たあとと同じように、映画にも、あとから何度も戻ってくる場面がある。
私にとっては、あの走りがそうだった。
車の中にいた権藤でもない。
車を降りた権藤でもない。
その境目で、一人の人間が地面に足をつける。
そして、走り出す。