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映画の続きを、予告編が先に見せてしまう

    黒澤明の『天国と地獄』が好きだ。

    初めて観たとき、圧倒された。

    誘拐事件をめぐる緊張感。
    権藤と竹内。
    金持ちと貧しい者。
    そして、最後に向き合う2人。

    とにかく、すごい映画だと思った。

    ところが、私には、この映画について、もうひとつ忘れられないものがある。

    予告編だ。

    この予告編は、いきなり本編の最後の場面から始まる。

    権藤と竹内が、ガラスを隔てて向き合っている。

    2人の顔が、ガラスの表面で重なり合う。

    そこには、単純な善悪では片づけられないものが映っている。

    上と下。
    持つ者と持たざる者。
    隔てられているはずの2人が、ガラスの向こうで奇妙に重なる。

    そして、遮蔽板が下りる。

    ここまででも、十分に驚く。

    映画の結末を、予告編の冒頭に持ってくる。

    普通なら、そんなことをしたら、映画を観る楽しみを奪ってしまうのではないかと思う。

    ところが、この予告編は、そこで終わらない。

    本編の最後の場面の、その先を描いている。

    送ってもらった映像にある、あの場面だ。

    2人の男が、並んで歩いていく。

    後ろ姿。
    暗い廊下。
    その先にある光。

    私は、この映像にやられてしまった。

    本来なら、本編の最後に入っていてもおかしくない。
    いや、物語の流れからすれば、そうあるべきだと思うような場面だ。

    それを切り取って、予告編に置いてしまう。

    しかも、本編を観る前に見せてしまう。

    こんな仕掛けを、私はほかに知らない。

    不思議なのは、これだけ先のことを見せられても、ネタバレにならないことだ。

    映画の価値が下がるどころか、少しも損なわれない。

    なぜなのだろう。

    結末を知っていることと、映画を観ることは、別なのだ。

    何が起きるかを知っていても、そこに至るまでの時間は失われない。

    むしろ、先に見せられた映像が、本編を観ることで別の意味を帯びてくる。

    予告編が、本編の内容を紹介しているのではない。

    映画を観る人間が、何を知りたがり、何を見せられてもなお映画を観たいと思うのか。

    そのことを、作り手は心底わかっている。

    天才、という言葉では足りない。

    観客の心理を、ここまで見切ったうえで映画を作っている。

    そう感じる。

    本編は、もちろんすごい。

    けれど、私が『天国と地獄』を思い出すとき、いつも浮かんでくるのは、あの予告編の映像だ。

    映画の続きを、予告編が先に見せてしまう。

    それでも、映画は少しも終わらない。



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