メインコンテンツへスキップ
見出し画像

蝸牛

    耳の奥に、蝸牛がいる。

    医師はそう言って、模型の渦を指した。

    男の内耳には、不調があった。

    床が傾き、妻の声が遠くなった。

    耳の中の渦が、暮らしまで歪めている。

    男は薬を飲み、妻にも説明した。

    「だから、同じ話をさせないでくれ」

    妻は口を閉じた。

    会社でも、友人との席でも、男は耳を指した。

    返事に困ると、いつもそうした。

    やがて電話が鳴らなくなった。

    静かなのは、耳が悪いせいだった。

    少なくとも、男はそう思っていた。

    春になり、めまいが消えた。

    聴力も戻った。

    男は診断書を持って帰った。

    食卓には、妻の手紙があった。

    「治ったら、読んでください」

    忘れていた約束。

    途中で遮った相談。

    笑って済ませた、妻の泣き顔。

    手紙には、そんなことばかり書いてあった。

    男は妻の番号を押した。

    呼び出し音が、驚くほど澄んでいた。

    留守番電話に切り替わった。

    録音の声は、昔と少しも違わなかった。

    男は、何度も再生した。

    最後まで聞いた。

    そして、もう一度、最初から聞いた。



    よろしかったら、こちらもどうぞ。


    マガジンの玄関はこちらです

    よろしければ、ここから全体の流れをご覧ください。


    全体の玄関はこちらです

    ほかのテーマやシリーズへの入口を、ここにまとめています。


     
     
    SaMD・医療AI、生成AI、仕事、文化、記憶、日常について書いています。 技術や制度、言葉や美意識のあいだに立ち上がる「人間らしさ」を、静かに言葉にしていくnoteです。 初めての方は「このnoteを歩くための小さな地図」からどうぞ。

    あなたへのおすすめ