
蝸牛
耳の奥に、蝸牛がいる。
医師はそう言って、模型の渦を指した。
男の内耳には、不調があった。
床が傾き、妻の声が遠くなった。
耳の中の渦が、暮らしまで歪めている。
男は薬を飲み、妻にも説明した。
「だから、同じ話をさせないでくれ」
妻は口を閉じた。
会社でも、友人との席でも、男は耳を指した。
返事に困ると、いつもそうした。
やがて電話が鳴らなくなった。
静かなのは、耳が悪いせいだった。
少なくとも、男はそう思っていた。
春になり、めまいが消えた。
聴力も戻った。
男は診断書を持って帰った。
食卓には、妻の手紙があった。
「治ったら、読んでください」
忘れていた約束。
途中で遮った相談。
笑って済ませた、妻の泣き顔。
手紙には、そんなことばかり書いてあった。
男は妻の番号を押した。
呼び出し音が、驚くほど澄んでいた。
留守番電話に切り替わった。
録音の声は、昔と少しも違わなかった。
男は、何度も再生した。
最後まで聞いた。
そして、もう一度、最初から聞いた。
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