
その人がいる日は、何も起きない
コピー機の横に、いつも紙が少し残っていた。
誰かが足している。
でも、その人の名前を私は知らなかった。
会議室のホワイトボードも、朝には白い。
昨日の議論の跡は消えている。
マーカーは、色ごとにそろっている。
その人がいる日は、何も起きない。
だから、誰も気づかない。
そういう仕事が途切れた朝だけ、組織は小さくつまずく。
何も起きない日をつくる人
数字の入った資料は、会議で前に出る。
発表者の名前は、最後のスライドに残る。
達成率はグラフになる。
リリース日は、社内のチャットに流れる。
それはそれで、まぶしい。
その手前に、名前のつきにくい仕事がある。
誰かの遅れに先に気づく。
荒れそうな会議の前に、ひとこと添える。
新人が黙っていることに気づく。
締切の前に、そっと段取りを直す。
何も起きないまま、1日が終わる。
だから、誰も気づかない。
火事を消す人は見える。
火事にならないように、湿った布を置いている人は見えにくい。
私は、そういう人の仕事を何度も見落としてきた。
「ここ、たぶん置き去りです」
昔、あるプロジェクトで、いつも議事録を取ってくれる人がいた。
ただの議事録ではなかった。
誰が何を言ったか。
何が決まったか。
次に誰が動くのか。
そこに、会議の温度が少し残っていた。
言いにくそうに出た一言。
流されかけた小さな懸念。
まだ形になっていない違和感。
その人のメモには、それが残っていた。
ある日、私の机の端に付箋が貼られていた。
「ここ、たぶん置き去りです」
短い言葉だった。
たしかに、置き去りになっていた。
誰かの不安も。
あとで大きくなるはずだった穴も。
その付箋がなければ、私たちはたぶん、きれいな顔で間違った方向へ進んでいた。
その人は、会議で大きな声を出す人ではなかった。
決め台詞を言う人でもなかった。
でも、場の底が抜けないように、ずっと手を添えていた。
成果になる前に、消えていく仕事
成果は、最後の形だけを見るとわかりやすい。
売上。
納期。
リリース。
採用。
合格。
その手前で、誰かが動いている。
資料の誤字を直している。
重い空気を持ち帰っている。
言わなくていい皮肉を飲み込んでいる。
そういう仕事は、成果物には残らない。
エクセルの列にもならない。
評価面談の項目にも入りにくい。
人が辞める前に出していた小さなサイン。
言えなかった疲れ。
会議後の沈黙。
チャットの返事が少し遅くなったこと。
それに気づく人がいる。
すごいことをしているようには、見えないかもしれない。
けれど、見えない糸を拾っている。
切れそうなところを、指でおさえている。
よく見てしまう人
その人は、よく見ている。
人の顔色。
部屋の空気。
言葉の端。
止まったカーソル。
返信のない数時間。
派手な名前はついていない。
リーダーシップとも少し違う。
マネジメントとも言い切れない。
サポートという言葉では、少し軽くなる。
紙の角が折れていること。
コーヒーが冷めていること。
「大丈夫です」の声が、少しだけ低いこと。
そんなものに気づいてしまう人がいる。
気づくから、動いてしまう。
動くから、仕事になる。
仕事になるのに、評価にはなりにくい。
少し、損な才能だと思う。
でも、その損な才能に救われている人は、たぶん多い。
その人がいない日
その人がいない日に、はじめてわかることがある。
会議の始まりが、少し固い。
連絡が、少し遅れる。
誰かの不満が、少し残る。
決まったはずのことが、なぜか進まない。
大きな事故ではない。
ただ、机の上に薄いほこりが積もるように、組織が少しずつ重くなる。
そのとき、やっと気づく。
あの人は、何かを足していたのではない。
余計なものを、毎日少しずつ取り除いていたのだ。
摩擦。
迷い。
遠慮。
小さな怒り。
言葉になる前の疲れ。
全部ではない。
でも、少しずつ受け止めていた。
長く働く場所には、そういう人がいた。
名前がつかなくても
私は、そういう仕事をしている人に、簡単に「報われますように」とは言えない。
報われるべきだと思う。
でも、現実はいつもそんなにきれいではない。
気づく人ほど疲れる。
支える人ほど、支えられていないことがある。
何も起きない日をつくる人ほど、何もしていないように見られる。
それでも。
もし、あなたがそういう仕事をしているなら。
名前のつかない場所で、誰かの明日を少し軽くしているなら。
私は、それを仕事だと思う。
ちゃんと、仕事だと思う。
会議室のマーカーをそろえること。
誰かの言いかけた言葉を拾うこと。
場が壊れないように、声の大きさを少し変えること。
誰かが見ているとは限らない。
すぐに評価されるとも限らない。
コピー機の横に紙がある。
会議室の椅子が戻っている。
付箋に、小さく言葉が残っている。
今日も誰かが、何も起きない1日をつくっている。
その人の名前を、せめて私は、忘れないでいたい。
まだ読めそうでしたら
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