
遠回りの地図
母の地図は、いつも少し間違っていた。
曲がる角がひとつ早かったり、もうなくなった薬局が描かれていたり。
バス停の位置も、実際とは少し違う。
正しい地図なら、スマートフォンの中にある。
母の地図は、正しくないから母のものだった。
母が亡くなってから、私は週末になると、母の家に通っていた。
片づけるものは、まだ残っていた。
ある日、押し入れの奥から、古い菓子の缶が出てきた。
蓋を開けると、折りたたまれた紙が何枚も入っていた。
どれも、母が描いた地図だった。
「郵便局」
「白い犬の家」
「桜」
「小さい橋」
「ここで左」
道の途中に、そんな言葉が添えられている。
どこへ行くための地図なのか、分からないものもあった。
母はよく道に迷った。
私がスマートフォンの地図を見せると、母は画面をのぞき込み、少し困った顔をした。
「画面の道は、速すぎるのよ」
そのときは、何を言っているのか、よく分からなかった。
缶の底に、私の勤め先までの地図があった。
母が、そこまで来たことがあるとは聞いていない。
地図には、駅から会社までの道とは違う道が描かれていた。
商店街を抜け、川沿いを歩き、いくつか角を曲がる。
途中に、母の字で書き込みがあった。
「花屋」
「パンのにおい」
「ここ明るい」
「風」
そして、最後に。
「帰りはこっち」
私は、その地図を持って、会社から歩いてみた。
花屋と書かれた場所には、花の並んだ不動産屋があった。
小さな公園があり、その先にパン屋があった。
パンが焼ける匂いが、道まで流れていた。
子どものころ、母とこのあたりを歩いたことがある。
父が家を出ていったあとだった。
母は私を連れて、ここまで来た。
パン屋で甘いパンをひとつ買い、半分にしてくれた。
何を話したのかは、覚えていない。
ただ、パンの袋を開ける音を、今も覚えている。
母が、あのときのことを思い出して、この地図を描いたのだろうか。
それとも、別の日に、ひとりで歩いただけなのだろうか。
私には分からなかった。
別の週末、私は缶の中から、もう古びた地図を取り出した。
昔、家族で住んでいた団地までの地図だった。
地図の隅に、小さく書かれていた。
「泣いた日」
私は、その場所を訪ねた。
父がいなくなった日、母は家を出た。
私はひとりで待っていた。
いつ帰ってくるのか分からなかった。
やがて怖くなり、近くの公園で泣いた。
母は、走って戻ってきた。
そして、私に謝った。
あの日のことを、私は長いあいだ、母が私を置いていった日として覚えていた。
母も、覚えていたのだ。
地図に、わざわざ書き残すほどに。
母は、いい母親だった。
でも、それだけではなかった。
私を待たせ、怖がらせた。
何も説明してくれなかった。
自分がどんな気持ちだったのかも、ほとんど話さなかった。
それでも、あの日、母は走って戻ってきた。
地図には、その先のことは書かれていない。
私はしばらく、公園のベンチに座っていた。
帰り道、駅までの最短ルートを調べることはしなかった。
母の地図にあった道を、少し遠回りして歩いた。
その週、雨が降った。
私は、母の地図を思い出しながら家に帰った。
パン屋の前を通り、小さな公園を抜け、商店街を歩く。
川沿いでは、雨の音が水面に細かく広がっていた。
急いで帰る理由はなかった。
家に着くと、仏壇の前で手を合わせた。
「今日、遠回りしたよ」
返事はなかった。
私は、母の地図をもう一度、缶から取り出した。
そして、自分の地図を描いてみた。
最初の角。
古いクリーニング店。
猫がよくいる駐車場。
雨の日に水たまりができる場所。
朝だけパンの匂いがする道。
道は少し曲がり、実際の位置とはずれていた。
最後に、私は地図の端に書いた。
「急がない日」
それを母の地図と一緒に、菓子の缶にしまった。
母の家に通うのは、もう毎週でなくてもいいのかもしれない。
そう思った。
それでも、次の日曜日、私はまた母の家へ行った。
缶は、元の場所に戻した。
帰りに玄関を出て、私は少し考えた。
駅へ向かう道とは反対に、細い道が続いていた。
母の地図に描かれていた道だった。
曲がる角は、たぶんひとつ早かった。
それでも私は、そのまま歩いた。
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