
バラは、そこにいる
バラの前では、足が止まる。
赤い花びらの奥に、少し暗い影がある。
近づくと、甘い匂いの中に青さが混じっている。
棘も見える。
神代植物公園のバラ園を歩いていて、ふと思った。
バラと桜は、どちらが美しいのだろう。
いまだに、わからない。
今年も桜を見た。
今年もバラの前で立ち止まった。
それでも、決着はつかなかった。
バラを見ていると、余計なことを考えなくなる。
1輪だけでも、目が離れない。
花びらが重なっている。
葉は濃い。
棘は隠れていない。
こちらがどう思うかなんて、知らない。
ただ、咲いている。
私はもう少し近づく。
花びらの端を見る。
影を見る。
棘を見る。
気づけば、しばらくそこにいる。
桜を見ると、少し違うことが起きる。
昔のことを思い出すのだ。
川沿いの道。
学校の校庭。
駅まで歩いた坂。
白っぽい空。
靴の先に落ちた花びら。
桜そのものより、その周りにあったものまで一緒に戻ってくる。
子どものころ、花見をした。
ビニールシートを敷いて、紙皿を並べた。
風が吹くと、誰かの皿が飛んだ。
笑い声がした。
花を見ていた時間は、たぶん短かった。
それなのに、何十年もあとになって、あのときの桜の色を思い出す。
少し離れたところで揺れていた枝。
ふと顔を上げたとき、そこにあった桜。
ちゃんと見ようとしていたわけではない。
ただ、そこにあった。
それだけの景色が、今になって戻ってくる。
桜を見上げると、きれいだと思う。
でも、花を見ているだけではいられない。
満開になった瞬間から、散ることを知っている。
「まだ散らないでほしい」
以前、そんな言葉が口から出たことがある。
誰かに言ったわけではない。
桜に言ったのかもしれない。
それとも、自分に言ったのかもしれない。
桜は咲いている。
それなのに、もう過ぎていくものの顔をしている。
だから、桜を見ると昔の春が戻ってくる。
まだ来ていない春まで、少し想像してしまう。
バラの前では、そういうことがあまり起きない。
満開の花を見ても、私は急がない。
明日もここにあるような気がする。
もちろん、バラだって散る。
それを知らないわけではない。
けれど、花を見ている間は、そのことを考えなくていい。
花びらを見る。
葉を見る。
棘を見る。
今、目の前に咲いている。
私は、しばらくそこにいる。
バラと桜。
どちらが美しいのかと聞かれると、やはり困る。
バラを見ているときは、目の前の花から離れられない。
桜を見ているときは、目の前の花だけでは済まなくなる。
同じ花なのに、ずいぶん違う。
春になれば、桜が咲く。
私はまた、その下を歩く。
風が吹けば、花びらが落ちる。
たぶんまた、昔のことを思い出す。
そして初夏になれば、どこかのバラ園で足を止める。
赤い花びらを見る。
葉を見る。
棘を見る。
たぶんまた、しばらく動かない。
バラは、そこにいる。
桜の下では、風が吹く。
私はまた、どちらの花が美しいのか、わからなくなる。