
翠雨がすき
濡れた葉の匂いを覚えている。
庭に出ると、雨が降っていた。
子どもの頃だった。
葉に手を伸ばした。
冷たかった。
触れた瞬間、葉に溜まっていた雨粒が落ちた。
小さな音がした。
その音を、今でも覚えている。
言葉を覚えるより先に、体が覚えている雨がある。
雨に名前をつける
日本語には、雨を表す言葉がたくさんある。
同じ雨でも、降る季節や景色によって、名前が変わる。
雨を見た人がいた。
葉の色を見た。
音を聞いた。
匂いを感じた。
その一瞬に、名前をつけた人がいた。
私は、そういう言葉が好きだ。
翠雨
「翠雨」という言葉がある。
青葉に降る雨。
意味なら、辞書を開けば分かる。
読み方も分かる。
けれど、ある五月の午後まで、その言葉は私のものではなかった。
雨が降っていた。
濡れた葉の緑が、いつもより深く見えた。
葉先の雨粒が光っている。
土の匂いがする。
その景色を見て、思った。
ああ、これが翠雨なんだ。
すいう。
声に出してみた。
その音が、すとんと自分の中に落ちた。
それまで辞書の中にあった2文字が、その日から景色になった。
「翠雨」と書かれているだけで、あの日の緑が浮かぶ。
雨の匂いまで戻ってくる。
言葉を覚えたというより、ようやく出会ったのだと思う。
型が入る
能の稽古を見る機会があった。
足の運び。
手の位置。
身体の向き。
同じ型を、何度も繰り返していた。
頭では分かっている。
けれど、分かっていることと、できることは違う。
繰り返すうちに、ある瞬間、考える前に身体が動く。
その人の中に、型が入っている。
私は、その瞬間を見るのが好きだった。
型を覚えることと、型が身につくことは違う。
言葉も、少し似ている。
意味を知っているだけでは、まだ遠い。
自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の記憶に触れたとき。
ずっと前から知っていた言葉が、急に近くなる。
春雨
春雨は、母から来た。
3月の終わり。
庭の沈丁花が咲く頃だった。
細い雨が降り始めると、母は傘を持たずに庭へ出た。
「春雨だから、濡れてもいい」
そう言って笑っていた。
私は、その後ろ姿を見ていた。
今でも、春雨と聞くと、辞書の意味より先に庭が浮かぶ。
沈丁花の匂い。
細い雨。
母の背中。
春雨という2文字の中に、あの頃の母がいる。
時雨
時雨は、京都から来た。
11月。
東山を歩いていた。
晴れていた空から、突然、短い雨が降った。
数分で止んだ。
軒先で雨宿りをしていた人が、空を見ながら言った。
「時雨やなあ」
それだけだった。
雨はすぐに止んだ。
私は観光客だった。
その人が何を思っていたのかは知らない。
ただ、その声と、雨の降った数分間が、ずっと残った。
「時雨」という言葉を見ると、今でも京都の空気がよみがえる。
言葉には、知らない誰かの声まで残ることがある。
私の中の雨
私の中にある雨の言葉は、まだ3つしかない。
翠雨。
濡れた葉の緑。
春雨。
母の後ろ姿。
時雨。
京都の空気と、知らない人の声。
どれも、辞書を開けば意味が分かる。
でも、意味を知るだけなら、あの日の景色には出会えなかった。
葉に触れたこと。
母の背中を見ていたこと。
旅先で、誰かの声を聞いたこと。
そういう時間が、言葉の中に残っている。
だから私は、言葉が好きなのだと思う。
まだ知らない言葉が、たくさんある。
いつか、どこかで出会うのだろう。
雨の降る庭で。
旅先の軒下で。
何気ない誰かのひと言で。
葉先から、雨粒が落ちた。
小さな音がした。