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同じ「来月」を待っていた

    通帳アプリを開くのが怖い時期があった。

    数字は減っていくだけなのに、夜になると、また開いてしまう。

    暗い画面に、自分の顔が薄く映る。

    あと何日、持つだろう。

    そのころ私は、医療機器スタートアップで品質管理責任者をしていた。

    在宅医療向け機器の許可を得るため、何度も規制当局へ足を運んでいた。

    その日も、担当者は穏やかだった。

    机の上には付箋の貼られた資料が積まれ、ページをめくる音だけが静かに響いていた。

    ひとつずつ確認が終わると、担当者が言った。

    「では、来月また詳細を詰めましょう」

    私は笑顔で頭を下げた。

    「よろしくお願いいたします」

    窓口を出て、駅まで歩いた。

    そのまま駅前の小さな公園へ入り、人目を避けるように奥のベンチへ座った。

    目の前には注意看板が立っていた。

    してはいけないことが、いくつも並んでいる。

    私はどれにも当てはまらないはずだった。

    それでも、自分も何かを注意されている側にいるような気がした。

    その瞬間、涙が出た。

    「来月って、いつのことですか」

    のどが異様に乾いていた。

    缶コーヒーを2本続けて飲んだ。

    許可が下りなかったからではない。

    冷たくされたからでもない。

    むしろ、話は通じていた。

    だから苦しかった。

    同じ「来月」という言葉なのに、その長さだけが違っていた。

    そのことを理解したのは、ずっと後になってからだった。

    数字の形をした時間

    毎朝、最初に開くのはメールではなかった。

    口座残高だった。

    給料日の3日前になると、資金繰り表の数字が妙にはっきり見えた。

    昨日決めたことが、今日には古くなる。

    まず動く。

    走りながら考える。

    1週間あれば仮説を変える。

    1か月あれば試験計画を書き換える。

    3か月あれば、会社の空気まで変わる。

    時間は、数字の形をしていた。

    行政の窓口へ行くと、時計の進み方が変わる。

    前例を確認する。

    関係部署と調整する。

    必要なら意見を集める。

    記録に残る形で判断を積み上げる。

    ある日、私は尋ねた。

    「今週中にご回答いただくことは難しいでしょうか」

    担当者は少し考えて答えた。

    「関係部署が3つありますので、早くても1か月ほどです」

    私は頷いた。

    でも頭の中では、別の時計が動いていた。

    次の給料日。

    開発スケジュール。

    追加試験の日数。

    口座残高。

    担当者は資料へ新しい付箋を貼っていた。

    私は社内へ何をどう伝えるかを考えていた。

    見ている時計が違っていた。

    私の時計には給料日があった。

    担当者の時計の先には、まだ会ったことのない患者さんがいた。

    どちらの時計も、間違ってはいなかった。

    会社へ戻りたくない日

    当局との相談が終わると、会社へ戻りたくない日があった。

    駅のホームで、1本見送ったこともある。

    開発には、また確認をお願いしなければならない。

    営業には、まだ出せないと伝えなければならない。

    品質管理責任者として、

    「確認が必要です」

    「記録を残してください」

    「この表現では足りません」

    そう言い続ける役目だった。

    止めたいわけではない。

    それでも、止める人に見えていた。

    同じ船に乗っているはずなのに、自分だけ岸から旗を振っているような日があった。

    少しだけ間があった

    私は質問されると、すぐ答える癖があった。

    その場を止めたくなかった。

    仮説でもいいから返したほうが、誠実だと思っていた。

    ある日、製品の使用条件について質問された。

    私は記憶だけを頼りに答えた。

    「問題ないと思います」

    担当者は少しだけ間を置いた。

    そして静かに尋ねた。

    「その内容は、社内で確認されたものでしょうか」

    胸の奥が冷たくなった。

    「確認して、改めて回答します」

    そう答えると、担当者は小さく頷いた。

    その静けさだけが、いつまでも残った。

    分からないことは、分からないと言う。

    確認が必要なら、確認すると言う。

    急いでいたのは、回答だったのか。

    それとも、不安を消すことだったのか。

    押すのではなく、引く

    転機になったのは、小さな質問だった。

    私は尋ねた。

    「この確認項目は、なぜ必要なのでしょうか」

    電源ボタンの形状についてだった。

    担当者は言った。

    「押すのではなく、引く形にできませんか」

    一瞬、意味が分からなかった。

    押すボタンなら、荷物が当たってしまうかもしれない。

    介助している人の腕が触れるかもしれない。

    寝具が押してしまうこともある。

    引くには、意識して指をかけなければならない。

    何かが触れただけでは、動かない。

    その瞬間、目の前の書類がただの紙ではなくなった。

    そこに書かれている確認の向こうに、使う人の暮らしが見えた。

    私たちが作っているのは、書類でも、許可を得るための製品でもない。

    誰かが自宅で使う機器だった。

    一度出した判断は、その人の生活に残る。

    だから確認する。

    だから記録に残す。

    だから、もう一度別の部署でも確かめる。

    制度の背景を知っても、開発が早く進むわけではない。

    社内の予定が待ってくれるわけでもない。

    それでも、その日から、付箋の貼られた書類の向こうに見えるものが少し変わった。

    「来月」の長さ

    今でも、歯がゆい夜はある。

    確認が長引き、

    「もう少しお待ちください」

    と社内へ伝えることもある。

    胃が重くなる感覚は、昔と変わらない。

    相手の机にも、付箋の貼られた資料がある。

    私の机には、資金繰り表と未回答の確認事項がある。

    振り返れば、私たちは最初から同じ日本語を話していた。

    違っていたのは、言葉ではない。

    その言葉の向こうに流れている時間だった。

    私の「来月」の先には、給料日と社内への報告があった。

    担当者の「来月」の先には、まだ会ったことのない患者さんがいた。

    だからといって、私の焦りがなくなったわけではない。

    早く進めたい気持ちは、今もある。

    ただ、以前ほど、すぐに答えを求めなくなった。

    「確認して、記録に残る形で回答します」

    そう言って、一度持ち帰る。

    昔の私は、すぐ答えることが誠実だと思っていた。

    今は少し違う。

    この人の「来月」は、どんな長さなのだろう。

    そう思って、返事をひと呼吸だけ遅らせる。



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