
同じ映画を、もう一度見る理由
「またこれ見るの? もう内容知ってるじゃん」
学生のころ、同じ映画を3度目に見ようとした私に、友人が言った。
たしかに、その通りだった。
結末は知っている。
誰が何を言うのかも、どこで驚くのかも覚えている。
それでも、もう一度見たかった。
なぜだったのか。
今なら、少しだけわかる気がする。
1度目は、先を見ている
初めて見る映画では、先のことばかり考えている。
この人は味方なのか。
次に何が起きるのか。
この伏線は、どこにつながるのか。
画面に映っているものを追いかけるだけで、精一杯だった。
登場人物の何気ない表情も、窓の外に映る景色も、机の上に置かれたものも、ほとんど目に入っていなかった。
映画が終わる。
私は「何が起きたか」を知って、席を立つ。
それが1度目だった。
2度目は、物語の外側が見えてくる
結末を知っていると、映画の見え方が変わる。
冒頭の何気ない台詞が、別の意味を持って聞こえる。
最初は気にも留めなかった人物の表情が、妙に気になる。
「ああ、ここだったのか」
そんな瞬間が、いくつも出てくる。
物語は同じだ。
変わったのは、私の知っていることだった。
1度目には通り過ぎた場所で、足が止まる。
同じ道を歩いているはずなのに、初めて気づくものがある。
3度目は、映画の時間に身を置く
3度目になると、先を急がなくなる。
台詞を待つ必要もない。
誰かが話す前の、ほんの少しの沈黙。
カメラが人物を追わず、部屋を映している時間。
音楽が入る、その少し前。
以前は「遅い」と感じた場面が、今度は心地よく感じられる。
何も起きていないように見える時間を、いつまでも見ていられる。
映画を見ているというより、その映画に流れている時間に身を置いている。
そんな気がした。
映画は同じでも、見る人間は変わる
何年か経って、また同じ映画を見る。
今度は、以前とは違う人物が気になる。
昔は主人公ばかり見ていたのに、脇役の何気ない表情から目が離せなくなる。
以前は何とも思わなかった台詞が、妙に胸に残ることもある。
その間に、いろいろなことがあった。
誰かと別れた。
仕事で失敗した。
自分ではどうにもならないことがあると知った。
映画の中の人物は、以前と同じ顔で、同じ台詞を話している。
それなのに、聞こえ方が違う。
昔の自分なら通り過ぎていた言葉に、今の自分は立ち止まる。
映画が変わったわけではない。
変わったのは、見る側だった。
忘れたころに、また見る
何度も見ているうちに、細かな台詞を忘れていく。
場面の順番も、どこで泣いたのかも、少しずつ曖昧になる。
そして、何年か経ってから、また見たくなる。
「この映画、こんな話だったっけ」
そんなことを思いながら見ていると、ふいに覚えのある場面が現れる。
懐かしい、と思う。
けれど、懐かしいだけではない。
以前は何とも思わなかった場面で、手が止まる。
昔、好きだった場面は、今も好きだろうか。
あのころ、なぜここで胸がいっぱいになったのだろう。
画面を見ながら、そんなことを考える。
そして、ふと気づく。
あのころの自分は、もういない。
映画の中に、昔の自分がいる
学生のころ、3度目の映画を見ようとしていた私は、そんなことを考えていなかった。
ただ、もう一度見たかった。
友人に理由を聞かれても、うまく答えられなかった。
今なら、少しだけわかる。
同じ映画を見直すと、以前の自分が好きだった場面に、もう一度立つことができる。
そこには、昔と同じ台詞があり、同じ顔がある。
けれど、今の自分には、違って見える。
画面の向こうにいる人物を見ているはずなのに、ときどき、昔の自分のほうを見ている気がする。
「あのころ、私はここを見ていたんだな」
そう思う。
同じ映画を見ても、同じ感想にはならない。
同じ台詞に、同じように心を動かされるとは限らない。
かつて好きだったものが、今は何でもなくなることもある。
逆に、昔は見過ごしていたものが、今になって離れなくなることもある。
だから、同じ映画を何度も見る。
映画が変わらないことを確かめるためではない。
自分が変わったことを確かめるためでもない。
ただ、もう一度、あの映画の前に座ってみたい。
そこには、今の自分と、もう会えない自分がいる。
また見たくなったら、最初から見る。
結末を知っている映画を。
何度も見た映画を。
今度は、どこで足が止まるだろう。