
時間をかける少女
僕たちの町、早瀬町は「倍速の町」と呼ばれている。
十年前、町長が「人生を二倍に」というスローガンを掲げてから、町中の人が倍速で暮らすようになった。朝の会話は倍速。給食は五分。授業は一・五倍速で、下校はみんな小走りだ。スーパーのレジ係は、お客さんが財布を出すより早く「ありがとうございましたー」と言い終わる。
だから四月、転校生の春野のどかが
「はじめまして、はるの、のどか、です」
と自己紹介したとき、教室の全員が固まった。
遅い。
とんでもなく遅い。
一語一語が、つま先から地面に下りてくるみたいな話し方だった。
*
のどかは、何をするにも時間をかけた。
給食はいつも最後のひとりで、牛乳を飲むのに三分かかった。帰り道では、しゃがみこんでアリの行列を見ていた。体育のあとは、校庭のすみの木をぼんやり見上げていた。
「のどかさん、それ、倍速でもう一回言って」
みんながそう言うたびに、のどかは少し困った顔で笑った。
「ごめんね。わたし、これが倍なの」
僕の席はのどかの隣だった。正直に言うと、最初はいらいらした。こっちが三つ話すあいだに、のどかはひとつしか話さないのだ。
*
三月、先生が作文の宿題を出した。
題は「この一年でいちばん心に残ったこと」。
クラスのみんなは、その場で三分もかからずに書き上げた。僕も書いた。
「運動会。遠足。修学旅行。楽しかった。」
四行。それで十分だと思った。
のどかだけが、書き終わらなかった。次の日も、その次の日も。先生が「もう出していいよ」と言っても、首を横に振った。
提出されたのは一週間後だった。原稿用紙で十二枚あった。
*
先生は、それをのどか本人に読ませた。
倍速で読んでほしい、と誰も言わなかった。言えなかったのかもしれない。のどかの声は、いつもどおり、ゆっくりだった。
四月、校庭の桜が一日で散ったこと。誰も気づかなかったけれど、花びらが水たまりに浮いて、しばらく小さな舟みたいだったこと。
六月、給食のおばさんが、牛乳をゆっくり飲む子のためにずっと片づけを待っていてくれたこと。
十月、運動会のリレーで転んだ男の子が、ゴールのあとに体育倉庫の裏でひとりで泣いていたこと。
僕のことだった。
誰にも見られていないと思っていた。
「わたしは、その子が泣きやむまで、少しはなれたところにいました。声はかけませんでした。泣きやんだその子が空を見上げたので、わたしもつられて見上げました。すごくきれいな空でした。それが、いちばん心に残っています」
読み終わるまでに十五分かかった。
そのあいだ、教室は一度もざわつかなかった。僕たちが等速で誰かの話を最後まで聞いたのは、たぶん何年ぶりかのことだった。
*
その日の帰り道、僕は走らなかった。
のどかと並んで、一倍の速さで歩いた。そうしたら、知らなかったことがたくさんあった。パン屋の前はバターのにおいがする。歩道橋の手すりには、誰かが彫った小さな猫の絵がある。夕方の空は、赤くなる前に一度、少しだけ紫になる。
「のどかは、急がないの?」
のどかは足を止めて、少し考えてから言った。
「急いだら、泣いてる子の横を通りすぎちゃうでしょ?」
あの日、倍速で走っていたみんなは、体育倉庫の裏を一瞬で通りすぎていった。立ち止まったのは、のどかだけだった。
*
次の日、僕は先生に頼んで、作文を返してもらった。
「運動会。遠足。修学旅行。楽しかった。」
その四行を消しゴムで消して、一行目にこう書いた。
「十月の運動会で、僕はリレーで転びました。」
そこから先を書くのに、一週間かかった。
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、甘野充さんの企画「アマノ文筆クラブ」のお題「時間をかける少女」に参加しました。
読み終えたあと、少しだけ歩く速さを緩めたくなるようなお話になっていたらうれしいです。心に残った場面などがあれば、ぜひコメントで聞かせてください。
企画元の記事はこちらです。
ちなみに、こちらの記事で、前回のお題である『武藤さんは甘くない』に投稿したこちらの記事
なんと、甘野充賞を受賞しました!
本当にありがとうございました。
これからも読者の方が楽しめる作品を作っていきたいと思います。
ほかの記事や作品は、こちらのマガジンにまとめています。
家族との日常や、AIを使って感じたこと。
→ くらしのひとこま|あおのエッセイ
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はじめましての方は、こちらもどうぞ。
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