メインコンテンツへスキップ
見出し画像

高橋まことは、なぜ炎上したのか——「語る」と「黙る」の境界線

    朝、スマホを見たら、SNSが騒がしくなっていました。

    「高橋まこと」「BOØWY」という文字がタイムラインに流れてくる。何事かと思ってタップすると、高橋まことが高市首相のドラム演奏を「ポンコツ」「ドラム舐めんなよ」と批判して炎上している、という記事でした。

    BOØWYは私の青春でした。

    高校時代、「B・BLUE」を何度も聴いた。「MARIONETTE」「IMAGE DOWN」「ONLY YOU」——どの曲も、今でも歌詞を見ずに歌える。高橋まことのドラムに憧れて、スティックを握った時期もあります。結局、ギターに転向しましたが。

    「ミスター・エイトビート」「アトミック・ドラム」と呼ばれた、あのタイトで力強いドラム。日本のロック史に残るものだと、今でも思っています。BOØWYの疾走感は、高橋まことのドラムがあってこそ成立していた。

    その高橋まことが、72歳になって、Xで政治発言をして炎上している。「頭の悪い奈良の民」という言葉まで使って、謝罪に追い込まれている。

    正直、複雑な気持ちでした。

    彼の言葉は乱暴だった。それは間違いない。でも、「ミュージシャンは政治を語るな」という反応にも、どこか引っかかるものがありました。

    前回の記事で、「日本のミュージシャンは沈黙した」と書きました。高市首相の誕生に対して、祝福も批判もなかった、と。

    沈黙が多数派の中で、声を上げた人がいた。その声は、なぜこうも激しく叩かれるのか。

    何が起きたのか

    まず、事実を確認しておきたい。

    2026年1月13日、高市早苗首相は韓国の李在明大統領との首脳会談後、サプライズでドラムセッションを披露した。両首脳が揃いの青いジャケット姿で、BTSの「Dynamite」などを演奏。「ドラム外交」として日韓で話題になった。

    高市首相は学生時代にヘビーメタルバンドでドラムを叩いていた経歴がある。李大統領の「ドラムが夢だった」という言葉に応じた、親善パフォーマンスだった。

    これに対し、元BOØWYのドラマー・高橋まこと(72歳)は、2月4日にXで動画を引用してこう投稿した。

    「ドラマーから一言!! ドラム舐めんなよ。パフォーマンスとは言えなんだこれ!?」「ポンコツ!!」

    さらに別の投稿では、「高市なんて落選してただのオバさんに戻りゃいいだけ。まぁ頭の悪い奈良の民がね〜」と書いた。

    これが大炎上した。

    2月5日、高橋は謝罪文を投稿。「言葉を選ばず酷い物言いになってしまった」「奈良の皆様本当にすいませんでした」と述べたが、高市首相本人への言及や発言の撤回はなかった。

    表面的な答えと、その奥にあるもの

    高橋まことは、なぜ炎上したのか。

    表面的な答えは簡単だ。

    言葉が乱暴だったから。「ポンコツ」「ドラム舐めんなよ」という言い方が攻撃的だったから。「頭の悪い奈良の民」という表現が、地域全体への侮辱だったから。

    それは確かにそうだ。言葉の選び方に問題があった。謝罪すべき点はあった。

    しかし、もう少し深く考えてみたい。

    仮に、高橋まことがもっと丁寧な言葉で批判していたら、炎上しなかっただろうか。「高市首相のドラム演奏には、プロの目から見ると改善の余地があると感じました」——そう言っていたら、穏やかに受け入れられただろうか。

    おそらく、それでも批判されただろう。「ミュージシャンが政治に口を出すな」「音楽と政治を混ぜるな」という声は、必ず上がったはずだ。

    問題は、言葉の乱暴さだけではない。「ミュージシャンが政治を語ること」そのものへの抵抗感が、この国にはある。

    炎上の三つの層

    高橋まことへの批判を整理すると、大きく三つの層に分けられる。

    第一に、「プロがアマチュアを叩くのは大人げない」という批判。

    高市首相はプロのドラマーではない。学生時代にバンドをやっていた程度の、趣味レベルの経験しかない。その演奏を、プロ中のプロである高橋まことが「ポンコツ」と罵倒するのは、フェアではない——という声。

    「プロがこの言い方はないよなあ。高市さんは政治家であって、ドラマーじゃない。政治家がろくに政治もせずにプロ並みのドラムを叩いたら、そっちの方が問題だろう」

    そういうコメントがあった。これは、もっともな指摘だと思う。

    第二に、「地域差別」への批判。

    「頭の悪い奈良の民」という表現は、高市首相個人への批判を超えている。奈良県民全体を侮辱している。高市首相の政治姿勢に反対するのは自由だが、支持者や地元の人々をまとめて「頭が悪い」と言うのは、明らかに一線を越えている。

    高橋まことは謝罪文でこの点についてのみ謝罪した。それ自体は適切な判断だったと思う。

    第三に、「ミュージシャンは政治に口を出すな」という批判。

    これが、最も根深い層だ。

    「BOØWYの思い出を汚すな」「音楽と政治は別だ」「黙って叩いていればいいのに」——そういう声が、かなりの数あった。

    ここに、日本社会の特徴が見える。

    忌野清志郎との違い

    高橋まことの炎上を見ながら、私は忌野清志郎のことを思い出していた。

    清志郎は政治的な発言を恐れなかった。

    1988年、RCサクセションは「サマータイムブルース」で原発を批判した。「放射能はいらねえ、牛乳を飲みてえ」——歌詞は直接的だった。所属レコード会社はアルバムの発売を中止し、大きな騒動になった。

    「君が代」をパンク調でカバーして物議を醸したこともある。常に、タブーに踏み込んでいった。

    清志郎も批判された。しかし、今回の高橋まことほど「炎上」という形にはならなかった。もちろん時代が違う。SNSがなかった時代と、ある時代では、批判の広がり方が違う。

    しかし、それだけではない気がする。

    清志郎と高橋まことの違いは何か。

    いくつかの要素が思い浮かぶ。

    「歌」と「SNS投稿」の違い

    まず、形式の違いがある。

    清志郎は「歌」で語った。メロディに乗せて、作品として届けた。

    高橋まことは「SNS投稿」で語った。140字の短文で、絵文字付きで、感情をそのままぶつけた。

    この違いは大きい。

    歌には「作品」としての距離がある。聴く側も「これは作品だ」という構えで受け取る。批判にさらされても、「表現の自由」「アーティストの主張」という文脈で議論できる。

    しかし、SNSの投稿は「生の発言」として受け取られる。作品ではなく、本人の剥き出しの感情として。距離がない分、攻撃性がダイレクトに伝わる。

    清志郎の「放射能はいらねえ」は、歌として聴けば、ひとつの表現だと受け止められる。しかし、同じ言葉をXに投稿したら、おそらく炎上しただろう。

    高橋まことは、SNSという場の特性を理解していなかったのかもしれない。あるいは、理解した上で、それでも言いたかったのかもしれない。どちらにせよ、言葉は「作品」ではなく「暴言」として消費されてしまった。

    「政策批判」と「人格攻撃」の違い

    もうひとつ、批判の対象の違いがある。

    忌野清志郎が批判したのは「原発」であり「政策」だった。特定の政治家個人を名指しで罵倒したわけではない。「原発は怖い」「放射能はいらない」——政策への反対意見だった。

    高橋まことが批判したのは、高市早苗という個人だった。しかも、政策ではなく、ドラムの腕前という個人的な領域だった。

    「ドラマーから一言」と前置きして、プロの視点を装った。しかし、本当に言いたかったのは「この人が嫌いだ」ということだったのではないか。少なくとも、そう受け取られた。

    政策批判と人格攻撃は違う。「この政策はおかしい」と言うことと、「この人はポンコツだ」と言うことは、まったく違う。

    高橋まことは、その一線を越えた。だから、反発が大きくなった。

    画像

    BOØWYの「非政治性」という背景

    もうひとつ、見逃せない要素がある。BOØWYというバンドの性格だ。

    BOØWYは政治的なバンドではなかった。

    歌詞に社会批判はほとんどない。「B・BLUE」は孤独を歌っている。「MARIONETTE」は操られる自分を歌っている。「ONLY YOU」は恋愛を歌っている。「IMAGE DOWN」は——何を歌っているのか正確には分からないが、少なくとも政治ではない。

    BOØWYが歌っていたのは、「私」の世界だった。都会の孤独、恋愛の駆け引き、スタイリッシュな生き方。ファンが愛したのは、そのクールで非政治的な世界観だった。

    その BOØWYの元メンバーが、72歳になって、Xで政治的な暴言を吐いている。

    ファンにとっては、「思い出を汚された」という感覚があったのではないか。

    「BOØWYの看板をぶら下げるのはやめてほしい」——そういうコメントがあった。「ヒムロとホテイの足を引っ張るな」という声もあった。

    厳しい言葉だが、気持ちは分からなくもない。

    「沈黙」を強化する炎上

    前回の記事で、日本のミュージシャンの多くは高市首相について沈黙した、と書いた。

    【関連記事】
    高市早苗という「変化」を、なぜ誰も歌わないのか

    沈黙には沈黙の理由がある。炎上を避けたい。ファンを失いたくない。面倒なことに巻き込まれたくない。商業的なリスクを取りたくない。

    高橋まことは、その沈黙を破った。声を上げた。

    しかし、その声の上げ方が、あまりにも乱暴だった。

    結果として、「だから黙っていた方がいいんだ」という教訓を強化してしまった可能性がある。「政治発言をするとああなる」「余計なことを言わない方がいい」——そう思った人は多いだろう。

    皮肉なことだ。沈黙を破った人が炎上することで、沈黙がさらに正当化される。

    これは高橋まこと個人の問題ではない。私たち全体の問題だ。

    政治について語ろうとすると、炎上する。だから黙る。黙ることが「賢い」とされる。そういう構造が、ますます強化されていく。

    「出る杭は打たれる」国で

    日本には「出る杭は打たれる」という言葉がある。

    目立つことをすると叩かれる。空気を読まないと排除される。黙っているのが一番。

    高橋まことは、杭を出した。叩かれた。

    アメリカなら、ミュージシャンの政治発言は賛否両論になる。支持する人もいれば、反対する人もいる。議論が起きる。テイラー・スウィフトが民主党支持を表明したとき、反発もあったが、支持の声も大きかった。

    日本では、「発言したこと自体」が批判される傾向がある。

    内容の是非よりも、「なぜ空気を読まないのか」「なぜ波風を立てるのか」という反応が先に来る。「黙っていればいいのに」「余計なことを言うから」という声が上がる。

    これは、政治発言に限った話ではない。日本社会全体に通底する感覚だ。

    ただ、音楽の世界では特に、この傾向が強い気がする。「音楽は楽しむもの」「政治を持ち込むな」という意識が、聴く側にも演る側にもある。

    世代の問題もある

    高橋まこと(72歳)の世代は、全共闘や反戦運動を経験した世代だ。

    学生運動が盛んだった時代に青春を過ごした。ベトナム戦争反対、安保闘争——政治に対して声を上げることが「正しい」と信じてきた世代でもある。

    ジョン・レノンの影響を受けた世代でもある。「イマジン」を聴いて、平和を願った。音楽と政治は結びつくものだ、という感覚がある。

    高橋まこと自身、Xで「ミュージシャンこそこの国のおかしい事に声を上げろよ」「清志郎さんは声を上げてたんだよ」と書いていた。

    一方、SNSで彼を批判している世代の多くは、政治発言を「面倒なもの」「避けるべきもの」と感じている。

    政治的な対立に巻き込まれたくない。右とか左とか、そういう議論に参加したくない。音楽は音楽として楽しみたい。

    この世代間の感覚のズレも、炎上の背景にあるのかもしれない。

    58歳のミュージシャンとして

    正直に言うと、高橋まことの炎上を見て、複雑な気持ちになりました。

    BOØWYは私の青春でした。高校時代、「B・BLUE」を擦り切れるほど聴いた。文化祭でコピーバンドをやったこともあります。高橋まことのドラムに憧れて、スティックを買った時期もある。結局、ギターに転向しましたが、あのタイトなエイトビートは今でも耳に残っています。

    その高橋まことが、72歳になって、Xで炎上している。

    彼の言葉は乱暴でした。それは間違いない。プロがアマチュアを「舐めんなよ」と罵倒するのは、カッコいいとは言えない。奈良県民を巻き込んだのは、明らかにやりすぎでした。

    でも、「だから黙っていろ」とは思わないんです。

    私自身、前回の記事で「日本のミュージシャンは沈黙した」と書きました。そして、その沈黙を批判したわけではない。沈黙には沈黙の理由がある、と書きました。

    でも、沈黙を破る人がいてもいいと思うんです。むしろ、いるべきだと思う。全員が黙っている社会は、健全ではない。

    問題は、「語り方」だったのではないでしょうか。

    忌野清志郎は、歌で語りました。メロディに乗せて、作品として届けました。時間をかけて言葉を選び、曲を作り、レコーディングした。その過程で、感情は濾過され、表現として昇華された。

    高橋まことは、SNSで語りました。140字で、絵文字付きで、思いついたままを投稿しました。感情がそのまま、生のまま、世界に放り出された。

    その差が、受け取られ方の差になったのではないでしょうか。

    58歳の私も、SNSとの付き合い方には苦労しています。思ったことをそのまま書くと、角が立つ。かといって、何も言わないのも違う気がする。

    どこまで言うか。どんな言葉を選ぶか。毎回、迷います。

    高橋まことの炎上を見て、改めて思いました。語ることは大事だ。でも、語り方を間違えると、伝えたいことが伝わらない。むしろ逆効果になる。

    彼が本当に言いたかったことは何だったのか。高市首相への政治的な反感なのか。ドラマーとしてのプライドなのか。「音楽を政治に使うな」という怒りなのか。

    たぶん、全部が混じり合っていたんだと思います。複雑な感情があった。でも、その複雑さは伝わらなかった。「ポンコツ」という一言だけが切り取られて、拡散されてしまった。

    それは、SNS時代の悲劇かもしれません。

    でも、SNSを使う以上、その特性を理解しなければならない。それを「わかってなかった」では済まされない。

    厳しいことを言うようですが、高橋まことは72歳の大人です。言葉の責任は取らなければならない。

    ただ、彼を叩いている人たちにも、考えてほしいことがあります。

    「黙っていればよかったのに」——その言葉は、「政治について語るな」という圧力になっていないでしょうか。

    画像

    「語る」と「黙る」の境界線

    高橋まことは、なぜ炎上したのか。

    言葉が乱暴だったから。人格攻撃をしたから。地域を侮辱したから。——それは確かだ。彼には反省すべき点がある。

    しかし、それだけではない。

    「ミュージシャンは政治を語るな」という空気が、この国にはある。沈黙が正しく、発言はリスク。そういう構造がある。

    高橋まことは、その空気を読まなかった。沈黙を破った。しかし、語り方を間違えた。結果として、「だから黙っていた方がいい」という教訓を強化してしまった。

    これは、彼だけの問題ではない。私たち全員の問題だ。

    私たちは、政治について語る言葉を持っているだろうか。怒りを感じたとき、それを「作品」に昇華する方法を知っているだろうか。あるいは、SNSで語るとき、どんな言葉を選べばいいか、分かっているだろうか。

    忌野清志郎は、それができた。高橋まことは、できなかった。その差は何か。

    才能の差かもしれない。経験の差かもしれない。あるいは、時代の差かもしれない。SNSがなかった時代と、ある時代では、「語る」ことの意味が変わっている。

    答えは出ない。出すつもりもない。

    ただ、問いだけは残しておきたい。

    あなたは、政治について語ることがありますか。

    語るとしたら、どんな言葉を選びますか。

    沈黙を選ぶとしたら、その理由は何ですか。

    高橋まことの炎上は、私たち全員への問いかけでもある。「語る」と「黙る」の境界線は、どこにあるのか。その境界線を、私たちはどう引けばいいのか。

    その問いを、静かに置いて、この文章を終えたいと思います。

    【関連記事】
    「イマジン」が世界を変えられなかった理由——ジョン・レノンの祈りは何処へ
    ジョニ・ミッチェルは社会を告発しなかった——それでも彼女は戦っていた
    高市早苗という「変化」を、なぜ誰も歌わないのか


     
     
    ロックと人生。ときどき政治。 音楽が先に鳴らしていた違和感を、 日本人の感覚から考えています。 代表作: ・ロックはなぜ戦争を嫌ってきたのか ・吉川晃司は、なぜアベフトシをステージへ呼び戻したのか ・はっぴいえんどは、なぜ「日本語でロック」を成立させたのか

    あなたへのおすすめ