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『戦争をしよう』と言えなくなった日——志磨遼平の改題が問いかけること

    導入「広島のライブハウスで、私は彼を見た」

    2011年11月6日、日曜日。

    広島CLUB QUATTROに、私はいた。

    毛皮のマリーズの解散ツアー「Who Killed Marie?」——武道館ファイナルまで残り一ヶ月を切った、ツアー中盤の一夜だった。キャパ数百人のフロアに、熱とざわめきが充満していた。私は当時47歳。客層の中では明らかに年長の部類に入ったはずだが、そんなことを気にする空気ではなかった。

    志磨遼平が現れた瞬間のことを、今も覚えている。

    凶暴だった。しかし美しかった。野蛮に見えた。しかし知的だった。叫んでいたが、ただ叫んでいるのではなかった。その叫びの中に、明確な意思があった。暴れていたが、その暴れ方に美学があった。ライブハウスという密室で、彼は言葉と音楽を武器に、何かと戦っていた。何と戦っているのかは、正確には分からなかった。しかしその戦いが本物であることは、フロアの全員が感じていたはずだ。

    その夜、私は「これがロックというものだ」と思った。

    叫んで暴れるだけがロックではない。叫びの中に意思がある、美しさがある——それがロックだと。

    あれから約15年が経った。

    2026年3月15日、志磨遼平はXにコメントを投稿した。毛皮のマリーズの1stアルバム「戦争をしよう」(2006年)を「ファースト」に改題する、と。その理由を、彼は自分の言葉で丁寧に説明した。

    広島のライブハウスで感じた「意思のある叫び」が、15年後、別の形で現れた——私にはそう見えた。

    Part1「『戦争をしよう』——24歳の言葉が生まれた場所」

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    まず、毛皮のマリーズとは何だったかを整理しておきたい。

    2003年結成。志磨遼平(Vo)、越川和磨(G)、栗本ヒロコ(B)、富士山富士夫(Dr)の4人組。バンド名の由来は寺山修司の戯曲「毛皮のマリー」だ。出発点からして、単なるロックバンドではない匂いがした。

    1stアルバム「戦争をしよう」は2006年、インディーレーベルDECKRECからリリースされた。パンクとグラムロックを軸に、日本語の美醜を剥き出しにしたような作品だった。志磨は当時24歳。「私ひとりのための戦いを開始すべく題した」と後に語るタイトルは、若い表現者が世界に向けて拳を振り上げる、純粋な宣戦布告だった。

    「戦争」という言葉には、2006年当時、特定の文脈がなかった。あの時代、日本の若者がライブハウスで「戦争をしよう」と叫ぶことは、社会への反抗であり、自己解放の隠喩であり、ロックンロールの伝統的なレトリックだった。それは誰かを殺す戦争ではなく、自分の内側で燃える戦争だった。

    その後、マリーズは加速し続けた。

    2010年にメジャーデビュー。翌2011年1月、ホーンセクションやストリングスを大胆に導入したコンセプトアルバム「ティン・パン・アレイ」でオリコン6位を記録した。パンクバンドが弦楽四重奏を使う——その逸脱が、このバンドの本質を示していた。毛皮のマリーズは、ジャンルではなく、志磨遼平の意志によって動いていた。

    解散の理由は「毛皮のマリーズが毛皮のマリーズであったこと」だったという。

    哲学的なのか、開き直りなのか、判断に迷う言葉だ。しかしよく考えると、これは正確な説明だ。バンドとは、特定の時間と人間関係と表現衝動が交差した、一回性の産物だ。その交差が終われば、バンドは終わる。謝罪も、惜別も、余韻も必要ない。「毛皮のマリーズが毛皮のマリーズであったこと」が終わった——それで十分だ。

    ラストアルバムのタイトルは「THE END」だった。

    リリース日まで、タイトルは一切告知されなかった。CDショップのスタッフが入荷当日に手書きでタイトルを書き込む——「店頭で完成するアートワーク」という演出での発売だった。解散宣言は、全国44局のFMラジオを同時ジャックして、志磨自身の肉声で行われた。最後の一手まで、このバンドは美学を貫いた。

    私が広島で見たのは、そのラストツアーの途中だった。

    武道館ファイナルまで残り一ヶ月。「THE END」へ向かう途中の、ある夜の志磨遼平。あの凶暴な美しさは、終わりを知っている者の美しさだったのかもしれない。

    その「戦争をしよう」が、20年後、名前を変えた。

    Part2「ことばは、いつ汚染されるのか」

    志磨遼平のXへの投稿を、もう一度読み直してみたい。

    「今やこのことばは口にすることすらおぞましく」——彼はそう書いた。「改題を決めたのはぼくです。しかし、ぼくにそれを決めさせたのは民衆を弾圧し命すら奪おうとする世界中の独裁者たちです」とも。

    この文章の構造は精密だ。責任の所在を二層に分けている。「決めた」のは自分だと明言しながら、「決めさせた」のは独裁者たちだと言う。これは言い訳ではない。言葉が汚染されるメカニズムを、正確に記述している。

    では、言葉はいつ汚染されるのか。

    言葉の意味は、使う者によって変わる。

    これは比喩ではなく、言語の現実だ。同じ言葉が、誰の口から発せられるかによって、まったく異なる意味を持つ。「愛国」という言葉を、詩人が使う時と、扇動家が使う時では、同じ文字列でも別の何かを指している。「改革」という言葉が、既得権益を解体する者の口から出るか、それを守る者の口から出るかで、意味は逆転する。

    「戦争」という言葉も、同じ構造を持つ。

    2006年、24歳の志磨遼平が「戦争をしよう」と言った時、その「戦争」は内なる戦争だった。世界に対して拳を振り上げる若者の、ロックンロール的な宣言だった。それは「ジョン・レノンがWar is Overと言った時の戦争」と同じ地平——つまり、暴力への批判を内包した言葉だった。ロックが「戦争」を語る時、それはほとんどの場合、反戦の文法で使われてきた。

    しかし2026年、「戦争」という言葉を取り巻く空気は変わった。

    世界中で、民衆を弾圧する者たちが「戦争」を肯定的に語るようになった。戦争を命令する者、戦争を賛美する者、戦争を道具として使う者たちが、公然と言葉を発するようになった。その結果、「戦争」という言葉は、2006年の志磨が込めた意味とは異なる文脈と結びつくようになった。

    言葉が汚染されるのは、その言葉が悪意ある者に繰り返し使われた時だ。

    使われるたびに、言葉には新しい連想が付着する。ある言葉を聞いた時に人々の脳裏に浮かぶ映像が変わる。「戦争をしよう」という言葉が、2026年の耳に届く時、そこに付着している連想は2006年とは別物になっている可能性がある。志磨はその変化を感じた。「今やこのことばは口にすることすらおぞましい」——その「おぞましさ」の正体は、言葉が別の何かと接続されてしまった感覚だ。

    歴史を振り返ると、こうした言葉の汚染は繰り返し起きてきた。

    「民族」という言葉は、詩人や民俗学者が愛着を込めて使ってきた言葉だったが、20世紀のナショナリズムの台頭によって別の含意を帯びた。「純粋」という言葉は、美しさや誠実さを表す言葉だったが、人種差別の文脈で使われることで汚染された。言葉そのものは変わらない。しかし言葉の周囲に積み重なる歴史が変わる。

    音楽の世界でも、この問題は繰り返し起きている。

    この連載の65本目で触れたように、権力はロックを盗もうとする。MetallicaやRed Hot Chili Peppers、Cardi Bの楽曲が、アーティストの同意なく政治的目的に使われた事例は枚挙にいとまがない。あの問題は「楽曲の無断使用」という形で現れたが、志磨が直面したのはその変形版だ。楽曲が使われたのではない。言葉そのものが、時代の空気によって書き換えられた。

    誰かが盗んだわけではない。しかし気づけば、自分の言葉が自分のものではなくなっていた。

    これは、より静かで、より根深い問題だ。

    ここで一つの問いが浮かぶ。

    言葉が汚染された時、アーティストに何ができるか。

    選択肢は、大きく三つある。

    一つは、そのまま使い続けること。「これは私が込めた意味で使っている」と主張し、言葉を手放さないことだ。しかしこの選択は、聴衆の受け取り方をコントロールできない。どれだけ意図を説明しても、汚染された言葉は別の連想を呼び続ける。

    二つ目は、沈黙することだ。問題のある言葉を使わず、そのテーマを避けることで、汚染から距離を置く。多くのアーティストが、意識的か無意識かにかかわらず、この選択を取ってきた。しかしこれは、言語空間を汚染した者たちに、その領域を明け渡すことでもある。

    三つ目が、志磨遼平が選んだ道だ。

    言葉を手放す。しかし黙らない。なぜ手放すのかを、自分の言葉で説明する。「決めたのは私だが、決めさせたのは独裁者たちだ」という声明は、沈黙でも服従でもない。言葉の汚染に対する、明確な抵抗の表明だ。

    改題という行為は、一見すると後退に見える。自分がつけたタイトルを変えることは、何かを諦めることのように映るかもしれない。しかし志磨の声明を読むと、それが真逆の行為だと分かる。彼は「戦争をしよう」という言葉を、独裁者たちの言語汚染から守るために、一時的に封印したのだ。

    「あなたが24歳のころのぼくと同じような戦いを世界に挑むときには、そっとあのタイトルを思い出し、それにおさめられた曲に耳をかたむけてください」——この言葉が、それを証明している。タイトルを変えても、あのアルバムの魂は変えていない。変えられるものは変える。変えてはならないものは守る。その区別を、彼は正確についた。

    ロックの歴史は、言葉を巡る戦いの歴史でもある。

    エルヴィス・プレスリーが腰を振った時、それは「わいせつ」と呼ばれた。ジョン・レノンが「神は死んだ」と言った時、それは「冒涜」と呼ばれた。公民権運動の時代、黒人音楽家が自分たちの言葉を使うことは、しばしば「危険」と見なされた。権力は常に、ロックの言葉を自分たちの枠組みに押し込もうとしてきた。

    そのたびに、アーティストは言葉を守り、言葉を更新し、言葉を取り戻してきた。

    志磨遼平の改題も、その長い戦いの一コマだ。ただしこれは、派手な叫びではない。静かな、しかし精密な行為だ。広島のライブハウスで私が感じた「意思のある叫び」が、今度は声を上げない形で現れた。

    ロックは叫ぶだけではない。時に、沈黙の形を取りながら、最も明確なメッセージを発する。

    Part3「謝罪でも沈黙でもなく——改題という第三の道」

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    2026年3月15日、志磨遼平のXへの投稿は、短くなかった。

    謝罪文ではなかった。声明文だった。

    この違いは重要だ。謝罪文であれば、「不適切なタイトルをつけてしまい申し訳ありません」で済む。あるいは「時代の変化を受けて改題します」という一行で足りる。多くのアーティストや企業が、炎上や批判への対応として選ぶのはそういう文章だ。短く、曖昧で、責任の輪郭がはっきりしない言葉。

    志磨は、そうしなかった。

    彼は自分の言葉で、なぜ改題するのかを説明した。過去のタイトルがどういう意味で生まれたかを説明した。現在の自分がなぜそのタイトルを使えなくなったかを説明した。そして、あのアルバムをこれからどう聴いてほしいかを説明した。

    その投稿を読んだ時、私は一人のロックアーティストが自分の言葉の責任を取る場面を見た、と思った。

    声明の構造をもう少し丁寧に読んでみたい。

    まず彼は「改題を決めたのはぼくです」と言った。これが出発点だ。外部からの圧力でも、レーベルの判断でも、炎上への対応でもない。自分が決めた、と明言する。責任を自分に引き受ける言葉だ。

    次に「しかし、ぼくにそれを決めさせたのは民衆を弾圧し命すら奪おうとする世界中の独裁者たちです」と続ける。この一文は、読む角度によって意味が変わる。

    一つの読み方は、これを「責任転嫁」と取ることだ。「決めたのは自分だが、本当の原因は別にある」と言っているのだから。しかしそれは表面的な読み方だ。

    より深く読むと、この文章は責任転嫁ではなく、因果関係の正確な記述だ。「決断の主体は私だ」という責任と、「その決断を必要にした状況を作ったのは独裁者たちだ」という批判が、一つの文章に共存している。志磨は自分の責任を曖昧にしていない。同時に、言葉の汚染をもたらした者たちへの怒りも、曖昧にしていない。

    これは精密な言語使用だ。感情的ではなく、論理的だ。しかし冷たくもない。

    次に彼はこう書いた。「ぼくは今、まちがっても彼らと同じことばを毛皮のマリーズとそのメイニアたちに口走らせたくないのです」。

    この一文に、改題の本質がある。

    「口走らせたくない」——この動詞の選択が重要だ。「使わせたくない」ではなく「口走らせたくない」。「口走る」とは、意図せず発してしまうことだ。考えずに、反射的に言葉が出てしまうこと。

    志磨が守ろうとしているのは、ファン(メイニア)たちの無意識だ。「戦争をしよう」というタイトルを口にする時、今の時代、その言葉に独裁者たちの文脈が無意識に混入してしまうかもしれない。そのリスクを、彼は取りたくない。

    これはアーティストがファンに対して負う責任の、珍しい形だ。

    多くの場合、アーティストとファンの関係における「責任」は、良い音楽を作ること、約束したライブをやること、誠実であることといった文脈で語られる。しかし志磨が示したのは、もう一つの責任だ。ファンが自分たちの言葉を汚染から守れるよう、アーティストが先手を打つ、という責任。

    声明の後半で、志磨は過去のタイトルの由来に触れる。

    「2000年代初頭、ステージに上がったが最後無事には帰れなかった時代の、ぼくの偽らざる実感があのタイトルでした」。

    この一文で、「戦争をしよう」というタイトルの根拠が明確になる。それは比喩でも挑発でもなく、当時の志磨にとっての実感だった。ステージという場所が、命がけの行為に感じられた時代の言葉。その真剣さが、あのタイトルには込められていた。

    そしてこう続ける。「この意識の変化をぼくは『成長』ととらえています」。

    「成長」という言葉の選択も、興味深い。「後悔」でも「反省」でも「訂正」でもなく、「成長」だ。あの時の自分は間違っていなかった。あの時の言葉は本物だった。ただ、自分が変わった。時代が変わった。だから言葉も変える。それは後退ではなく、前進だと言っている。

    ここに、謝罪文との決定的な違いがある。

    謝罪とは、過去の行為を否定することだ。「あれは間違いだった」と言うことだ。しかし志磨はそう言っていない。「あれは正しかった。しかし今は変える」と言っている。過去を否定せず、現在を肯定する。その両立が、この声明を単なる改題のお知らせとは別のものにしている。

    声明の最後にある言葉も見ておきたい。

    「誰しも、自由と平和を訴えるより優先すべきことがたくさんあります。だから祈ってください。ぼくらが自由と平和を真っ先に訴えずとも暮らせる日々が一刻も早く戻ることを」。

    この締めくくりは、一読すると「政治的発言を控えめにする宣言」のように見える。しかし逆だ。

    「自由と平和を真っ先に訴えずとも暮らせる日々」——その言葉の裏には、今はそうではないという認識がある。今は、自由と平和を訴えなければならない時代だ、という認識だ。それを「祈り」という形で表現しているが、その祈りの内側には、現状への静かな怒りがある。

    これは声を上げない言葉ではない。声の形を変えた言葉だ。

    ここで、一つの対比を置きたい。

    もし同じ状況に置かれた日本の別のアーティストが、同じような判断を迫られたとしたら、何が起きるか。

    おそらく、何も起きない。

    改題は行われないか、あるいは行われたとしても、理由は説明されない。「諸般の事情により」という一文で処理される。過去との関係は曖昧なままにされ、現在の判断の根拠も示されない。そしてファンはその「諸般の事情」を詮索することを、暗黙のうちに禁じられる。

    なぜそうなるのか。それは、説明することがリスクだからだ。言葉を尽くすほど、批判の的が増える。曖昧にしておく方が、摩擦が少ない。

    志磨遼平は逆を選んだ。言葉を尽くすことで、自分の立場を明確にした。批判を受けるリスクを引き受けた上で、自分の判断の根拠を示した。

    それは、ロックの文法だ。

    叫んで暴れるだけがロックではない——と私は広島のクアトロで思った。志磨のXへの投稿を読んで、その確信が深まった。あの夜の凶暴で美しい叫びと、15年後の精密で静かな声明は、同じものでできている。どちらも、自分の言葉の責任を取る行為だ。

    形は変わった。しかし意思は変わっていない。

    Part4「語る側と、ことばを守る側」


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    この連載では、語るアーティストを追いかけてきた。

    Bruce Springsteenは4日間で曲を書いた。Bad Bunnyはグラミーの壇上で「ICE out」と叫んだ。スーパーボウルの13分間で、128年の植民地史をステージに乗せた。Billie Eilishは授賞式にメッセージを刻んだ。John LennonはImagineを書き、世界に向けて「これが私の政治だ」と言い続けた。

    彼らに共通するのは、語ることへの積極性だ。言葉を前に出す。声を上げる。沈黙を破る。

    しかし志磨遼平がやったことは、その文法とは少し違う。

    彼は新しい曲を書いたわけではない。政治的なメッセージを発信したわけでもない。自分がかつてつけた言葉を、静かに書き換えた。

    これを「語らない選択」と呼ぶことはできない。しかし「語る選択」とも少し違う。強いて言えば、**「言葉を守る選択」**だ。

    語ることと、言葉を守ることは、同じ行為の二つの側面だ。

    Springsteenが「Streets of Minneapolis」を書いた時、彼は語ると同時に、言葉を守った。Renée GoodとAlex Prettiの名前を歌詞に刻むことで、権力が消し去ろうとした記録を音楽の中に封じ込めた。Bad Bunnyがスペイン語で歌い続けることは、英語に吸収されることへの抵抗であり、スペイン語という言語そのものを守る行為だった。

    【関連コラム】
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    しかし彼らの「守り方」は、攻撃的だ。前に出ながら守る。叫びながら守る。

    志磨の守り方は、その逆だ。引きながら守る。封印しながら守る。

    どちらが正しいということはない。戦い方が違うだけだ。しかし日本と国際社会という文脈で見た時、この違いは興味深い示差性を持つ。

    なぜSpringsteenやBad Bunnyは「前に出ながら守る」ことができたのか。

    この連載の67本目で、三つの条件を整理した。語るべき集団の歴史がある。語る言語が市場を持っている。語ることを求めるファン層が存在する——その三つだ。

    【関連コラム】
    Bad Bunnyはなぜスペイン語で歌ったのか——スーパーボウルが戦場になった夜

    Springsteenにはニュージャージーの労働者の記憶があり、アメリカのロック市場という巨大な言語空間があり、彼の言葉を待つファンがいた。Bad Bunnyには128年の植民地史があり、世界5億人のスペイン語市場があり、ICEの恐怖の中に生きるラテン系コミュニティがいた。

    その三条件が揃っている時、アーティストは前に出ながら守ることができる。語ることで失うものより、得るものが大きいからだ。

    では志磨遼平にはその三条件がなかったのか。

    そうは思わない。彼には語るべき歴史がある。毛皮のマリーズが戦っていた「2000年代初頭の、ステージに上がったが最後無事には帰れなかった時代」の実感は、彼固有の歴史だ。語る言語は日本語で、市場は限られているかもしれないが、確実に存在する。そして彼の言葉を待つファン——メイニアたちは、今もいる。

    しかし日本という文脈では、前に出ることのコストが違う。

    語ることで失うものが、得るものを上回るリスクが高い。それは個人の勇気の問題ではなく、市場と文化の構造の問題だ——67本目でそう書いた。その構造の中で、志磨は別の戦い方を選んだ。前に出る代わりに、言葉の内側を守った。

    ここで一つ、重要な対比を置きたい。

    2011年、毛皮のマリーズが解散する数ヶ月前、日本では東日本大震災が起きた。

    あの時、多くの日本のアーティストが「音楽に何ができるか」を問われた。チャリティーライブが開かれ、支援ソングが作られ、「がんばろう日本」という言葉が溢れた。しかしその多くは、政治を語らなかった。原発事故という明白な政治的問題が目の前にあったにもかかわらず、主流の音楽シーンは「癒し」と「励まし」の文法で動いた。

    例外はいた。忌野清志郎はすでに亡くなっていたが、彼の「ラブ・ミー・テンダー」の替え歌——原発を批判した歌詞——が改めて注目された。坂本龍一は脱原発の運動に関わった。しかしそれらは「例外」として処理され、主流にはならなかった。

    志磨遼平はその時代を生きていた。

    「THE END」ツアーは、東日本大震災と重なる時期を挟んでいた。ラストアルバムの制作はロンドンのアビー・ロード・スタジオで行われ、帰国後にフジロックを含む野外フェスを11本こなした。あの夏の日本で、あのバンドは何を感じていたか。直接は語られなかった。しかし「THE END」という言葉には、バンドの解散だけでなく、あの時代の何かへの感覚も込められていたのではないか——そう読むことも、できなくはない。

    あれから20年。世界はさらに変わった。

    「戦争をしよう」という言葉が「おぞましい」と感じられるほどに、戦争が現実のものになった時代が来た。志磨はその変化を、誰よりも敏感に受け取った。それは彼が言葉の人間だからだ。音楽家であり、言語の使い手だからだ。

    Bad BunnyやSpringsteenと志磨遼平を並べると、一つのことが見えてくる。

    語り方に正解はない、ということだ。

    叫ぶことが正解である時もある。歌うことが正解である時もある。そして、言葉を封印して声明を出すことが正解である時もある。何が正解かは、アーティストが置かれた文脈、市場、歴史、そして言語空間によって変わる。

    しかし一つだけ共通していることがある。

    どの選択も、自分の言葉の責任を取っているということだ。

    Springsteenは書いた言葉に責任を取る。Bad Bunnyは語った言葉に責任を取る。志磨遼平は、過去に自分がつけた言葉に責任を取る。

    責任の取り方は違う。しかし責任を取ることから逃げていない。

    日本の音楽シーンで「語らない」ことが続いてきた理由の一つは、語ることへの恐れだけでなく、語った後の責任への恐れでもあると私は思っている。言葉を出せば、その言葉の責任を負わなければならない。批判される。解釈される。文脈を外れて使われる。それが怖いから、最初から言葉を出さない。

    志磨遼平の改題は、その恐れへの一つの答えだ。

    語ることを恐れるなら、語らなければいい。しかしその代わりに、自分の言葉を守れ。言葉の番人であれ。それが、あの声明の静かなメッセージだと、私には読める。

    結び「音楽家は自分の言葉の番人である」

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    2011年11月6日、広島CLUB QUATTROのフロアで、私は一つのことを考えていた。

    志磨遼平が叫んでいた。暴れていた。しかしその叫びと暴れ方には、明確な意思があった。美学があった。ただ感情を放出しているのではなく、感情を言語化しようとしている人間の、制御された激しさがあった。

    あの夜から15年が経って、私はその「制御された激しさ」の意味が、少し分かった気がしている。

    志磨遼平は、ずっと言葉の番人だったのだ。

    「音楽家は自分の言葉の番人である」——これは義務ではなく、選択だ。

    番人であることを選ばないアーティストもいる。言葉を軽く扱い、流行に乗り、時代の空気に合わせて言葉を変えるアーティストもいる。それが間違いだとは言わない。音楽には様々な役割がある。癒しでもいい。娯楽でもいい。

    しかしロックという形式は、その誕生から今日まで、言葉に責任を持つことを美学の核心に置いてきた。エルヴィスが腰を振った時、それは言葉以前の身体の宣言だったが、その後ロックは言葉を獲得した。ディランが言葉を音楽に持ち込み、レノンが言葉で世界と戦い、スプリングスティーンが言葉で労働者の歴史を記録した。言葉に責任を持つことが、ロックという形式の背骨だった。

    志磨遼平もその系譜にいる。日本語で、日本という文脈で、その系譜を引き受けてきたアーティストだ。

    「戦争をしよう」を「ファースト」に変えることは、小さな出来事に見えるかもしれない。

    アルバムタイトルが変わっただけだ。音楽は変わっていない。収録曲も変わっていない。あのアルバムが持つ凶暴さも美しさも、そのままだ。

    しかし私には、この改題が小さく見えない。

    なぜなら、この行為が示しているのは「言葉は変えられる」ということではなく、「言葉は守られなければならない」ということだからだ。

    守るためには、時に手放す必要がある。封印することが、保存することになる場合がある。志磨はそれを知っていた。だからこそ「改題を決めたのはぼくです」と言い切り、「ぼくにそれを決めさせたのは独裁者たちです」と続けた。自分の判断と、その判断を迫った状況を、明確に分けた。

    その精度が、この行為をロック的にしている。

    この連載を通じて、私は繰り返し問い続けてきた。なぜ日本の音楽家は政治を語らないのか、と。

    しかし志磨遼平の改題を見て、問いの立て方を少し修正したくなった。

    「語る」か「語らない」かという二項対立は、実は粗すぎる枠組みかもしれない。Bad BunnyやSpringsteenのように前に出て叫ぶことだけが「語ること」ではない。自分の言葉の責任を取り、その言葉の由来を説明し、言葉が汚染された時に静かに封印する——それもまた「語ること」の一形態だ。

    日本の音楽家は政治を語らない、と私は書いてきた。それは今も基本的に正しいと思う。しかし「語る」の定義を広げると、志磨遼平のような動き方をしているアーティストが、実は存在するのかもしれない。声を上げる代わりに、言葉を守る。叫ぶ代わりに、沈黙の形を精密に設計する。

    それを「不十分だ」と切り捨てることは、簡単だ。Bad Bunnyのように1億3,500万人の前でスペイン語で歌えと言うことも、簡単だ。しかしアーティストが置かれた文脈を無視した要求は、批評ではなく、ただの無責任だ。

    志磨遼平は、自分が立っている場所で、自分にできる形で、言葉の責任を取った。その場所は広島のライブハウスであり、日本語の市場であり、「戦争をしよう」と言った24歳の自分との連続性の中だ。

    声明の最後で、志磨はこう書いた。

    「そのころのぼくが及ばずながらあなたの味方となるでしょう」。

    24歳の志磨遼平が書いた「戦争をしよう」というタイトルは、封印された。しかしそのアルバムに込められた魂は、封印されていない。今も、どこかで同じような戦いを始めようとしている誰かの、「味方」として待機している。

    言葉は消えない。封印された言葉は、開かれる時を待つ。

    それが分かっているから、志磨は「ファースト」に改題しながら、アルバムを廃盤にしなかった。配信を止めなかった。あのアルバムは今も聴ける。ただ、タイトルが変わっただけだ。

    その「ただ」の中に、すべてがある。

    2026年の世界は、言葉が激しく戦う場所になっている。

    権力は言葉を盗み、言葉を汚染し、言葉を武器に変えようとする。その圧力の中で、アーティストは選択を迫られる。叫ぶか、沈黙するか、あるいは別の道を探すか。

    Springsteenは4日間で「Streets of Minneapolis」を書いた。Bad Bunnyはスーパーボウルで128年の歴史をステージに乗せた。そして志磨遼平は、20年前に自分がつけたアルバムタイトルを、静かに書き換えた。

    三者三様の「語り方」だ。しかしどれも、言葉の責任から逃げていない。

    音楽家は自分の言葉の番人だ——と私は思う。

    番人の仕事は、言葉を前に押し出すことだけではない。言葉を守ること、言葉の由来を記憶すること、言葉が汚染された時に適切に対処すること、そして言葉が再び使える日のために、その魂を封印の中に保存すること。それも番人の仕事だ。

    広島のライブハウスで私が感じた「意思のある叫び」は、そういう番人の仕事から生まれていた。

    あの夜の志磨遼平は、叫びながら言葉を守っていた。

    2026年3月の志磨遼平は、沈黙に近い形で言葉を守っている。

    形は変わった。しかし仕事は同じだ。

     
     
    ロックと人生。ときどき政治。 音楽が先に鳴らしていた違和感を、 日本人の感覚から考えています。 代表作: ・ロックはなぜ戦争を嫌ってきたのか ・吉川晃司は、なぜアベフトシをステージへ呼び戻したのか ・はっぴいえんどは、なぜ「日本語でロック」を成立させたのか

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