第3章 #7 この例え話は孟子の300年後にキリストによって提示されたものである
#7 Have we not here "as in a glass darkly" a parable propounded three hundred years later in another clime and by a greater Teacher, Who called Himself the Way of righteousness, through whom the lost could be found?


私の訳:我々は、言うなれば鏡の中にぼんやりとであるがここに(義)を持っているのではないか。この例え話は(孟子の)300年後に他の国において、そしてより偉大なる教師(キリスト)によって提示されたものである。キリストは自分自身を義の道と呼び、失われた義の道はキリストを通して見出され得るであろう(と言ったのである)。










この一文の主旨(言いたいこと)は、シンプルに言うと以下の通りです。
「ここにある話は、300年後に別の国で『偉大な教師(イエス・キリスト)』が語った『失われた者が見出される』というあの有名な例え話(放蕩息子の例えなど)と、本質的に同じことを意味しているのではないか」
なぜ分かりにくいのか?(構造の紐解き)
この文章を分かりにくくしている要素を分解すると、以下のようになります。
"as in a glass darkly"(鏡に映るおぼろげな姿のように)
新約聖書(コリント人への第一の手紙13章12節)に由来する有名なフレーズです。「今はまだはっきりとは見えないが、うっすらと予兆が見えている」という意味の修飾語です。
a parable propounded three hundred years later(300年後に提唱された例え話)
「いま目の前にある古い話(A)」が、その300年後に現れた「別の話(B)」の先駆け(パラブル=例え話)になっているのではないか、と言っています。
a greater Teacher... (より偉大な教師)
キリスト教におけるイエス・キリストのことを指しています。後ろの "Who called Himself the Way..."(自らを義の道と呼んだ方)や "through whom the lost could be found"(その人を通じて、迷える者が救われる/見出される)という修飾は、すべてキリストの特徴を説明しています。
ざっくりとした現代語訳
「ここで語られていることは、(鏡に映るおぼろげな姿のように分かりにくいかもしれないが、)その300年後に別の土地で、自らを『義の道』と呼び、迷える者を救う存在であると称した『より偉大な教師(イエス)』が語ったあの例え話と、同じ真理をあらかじめ示しているのではないだろうか。」
要するに、「今扱っている古いエピソードや思想(A)は、後世のキリストの教え(B)を予言・暗示するような、深い共通点を持った話である」 ということを文学的に表現しています。
新約聖書の『ルカによる福音書』第15章に登場する、イエス・キリストが語った「見失ったものの3つの例え話」のことです。 [1, 2]
当時、社会的に蔑まれていた「罪人」や徴税人たちと親しく食事をするイエスを見て、宗教指導者(ファリサイ派など)が「なぜあんな連中と付き合うのか」と批判しました。それに対するイエスの反論として語られたのが、以下の3つの連作エピソードです。 [1, 2, 3]
どれも「失われたものが必死に捜され、見出されたとき、天(神)では大きな喜びがある」という共通のテーマを持っています。 [1, 2, 3]
1. 見失った羊の例え(The Lost Sheep)
あらすじ: 100匹の羊を飼っている羊飼いが、そのうちの1匹を見失ってしまいます。彼は残りの99匹を野原に残したまま、見失った1匹を見つけるまで探し回ります。そして見つけると、大喜びで肩に担いで帰り、友達や近所の人を集めて「一緒に喜んでください」と祝宴を開きます。 [1, 2, 3]
意味: 神にとって、大勢の中の「迷える1人(罪人)」は決して見捨ててよい存在ではなく、自ら捜し出して救い出すほど大切な存在であるという意味です。 [1, 2]
2. なくした銀貨の例え(The Lost Coin)
あらすじ: ある女性が10枚の銀貨(ドラクメ銀貨)を持っていましたが、そのうちの1枚をなくしてしまいます。彼女は家の中に明かりをつけ、床をきれいに掃いて、見つけるまで注意深く捜します。見つかると、やはり友人や近所の人を呼んで「一緒に喜んでください」と祝います。
意味: 羊の例えと同様に、神が人間(罪人)をどれほど執念深く、価値あるものとして捜し求めているかという神の愛の深さを強調しています。
3. 放蕩息子の例え(The Prodigal Son / The Lost Son)
3つの中で最も有名で、人間の心理をリアルに描いた最高傑作とされる物語です。 [1, 2]
あらすじ:
ある父親に2人の息子がいました。弟の放蕩: 次男(弟)は父親がまだ生きているうちに「遺産をくれ」と要求し、それを持って遠い国へ旅立ちます。そこで彼は不摂生な暮らし(放蕩)をして全財産を使い果たし、その国が飢饉になったため、豚の餌すら満足に食べられないほど落ちぶれてしまいます。
悔い改めと帰郷: 弟は我に返り、「父の家なら、雇い人ですらお腹いっぱい食べている。戻って、息子ではなく雇い人として置いてくれと頼もう」と決意し、恥を忍んで家へ向かいます。
父親の無条件の愛: 父親は、まだ遠く離れたところにいる息子の姿を見つけると、哀れに思って自ら走り寄り、首を抱いて熱い口づけを交わしました。息子が「私は罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言うのも遮り、父親は一番良い服を着せ、指輪をはめ、太らせた子牛を屠って盛大な祝宴を始めました。
兄の怒り: 家を飛び出さず、真面目に父親に仕えてきた長男(兄)は、これを知って激怒します。「私は何年も真面目に働いたのに子山羊一匹すら founder(祝うため)にくれなかった。それなのに、財産を食いつぶして帰ってきたあんな奴のために宴会を開くのか」と。
結末: 父親は兄をなだめてこう言いました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、このお前の弟は、死んでいたのに生き返ったのだ。いなくなっていた(失われていた)のに見つかったのだから、祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。」


