
第2章 #43 武士道は宇宙の進化は道徳的あるわけではないというハックスレーの断定を受け入れることはできいであろう
#43 Bushido could not accept the judgment of Huxley, that the cosmic process was unmoral.


私の訳:武士道は宇宙の進化は道徳的あるわけではないというハックスレーの断定を受け入れることはできいであろう。


ハクスリーの『進化と倫理』
スペンサーの進化倫理学やゴールトンの優生思想に対しては,19世紀末にすでにトマス・ヘンリー・ハクスリーの有名な批判(1894)が出ている.進化倫理学の可能性を探るためには,この批判の論点をも押えておく必要がある.この批判の骨子は,次の三点にほぼ尽きる(より詳しい検討については,内井1996,102-126を参照).(1)進化論は道徳的能力の進化の過程は明らかにするかもしれないが,われわれの倫理的判断を支持したり批判する理由づけは与えない.(2)「最適者生存」の規則を人間社会において適用すべき規範的規則と見なすことは,進化論における意味での「最適」(環境に対して最も適応している)と,倫理的な意味での「最適」(倫理的に最もすぐれている)との混同に基づいた誤りである.(3)社会の倫理的進歩は,社会において自然の過程を模倣することによってではなく,倫理的観点から悪だと見なされる結果が自然において生じるなら,それを克服するように自然の過程と戦うことにある.
ハクスリーのこの見解は,優生思想と政治とのグロテスクな結合のいくつかの結果をすでに知っているわれわれにとっては受け入れやすい見解である.また,社会的ダーウィニズムや優生思想の危険性をいち早く見抜いた慧眼には敬意も表すべきであろう.しかし,彼の価値判断(3)が,天下り的に,進化論とも科学とも無関係に前提されているという点では,スペンサー(快楽説価値論)や優生思想(「健康」で「知的,体力的にすぐれている」ことを善と見なす)の主張とまったく同じである.後者の価値判断の理由づけがないに等しいという批判は,(3)を天下り的に前提するのであれば,そっくりそのままハクスリーにも当てはまることに注意されたい.
実際は,ハクスリーは優生的「人種改良」に反対する理由としては,三つほど具体的にあげている.まず第一に,そのような試みを「成功させる」ためには,人間を選別するに際して途方もない残忍さが要求されるので,その試み自体が倫理的に望ましくない.第二に,(人種改良の目標を仮に認めたとしても)人間の人為淘汰を行なうためには,途方もなく強力な知性が必要であり,そのような淘汰を正しく行なうことは人間には不可能である.そして,第三に,現実にこれらの条件が整わない条件のもとでそういった試みを行なうことは,社会のなかで人々を結びつけている特有の人間的絆を壊してしまう危険性がきわめて大きい.

新渡戸稲造がこの一文(著書『武士道』の一節)で言いたいことは、「武士道は、自然の営み(宇宙のプロセス)を冷徹で道徳とは無関係なもの(非道徳的)とは見なさず、むしろ宇宙の本質には道徳的な正義や慈悲が宿っていると信じている」ということです。
トマス・ヘンリー・ハクスリー(Huxley)は進化論の立場から、「自然界(宇宙のプロセス)は適者生存の冷酷な世界であり、道徳(善悪)とは無関係(unmoral)である」と主張しました。
これに対して新渡戸は、武士道が持つ世界観を対比させています。
ハクスリーの主張(宇宙=非道徳): 自然の営みには倫理などない。
武士道の視点(宇宙=道徳的): 宇宙や自然の背後には、正義や仁(慈悲)という「道徳的な秩序」が流れており、人間(武士)はその宇宙の道徳に調和して生きるべきである。
つまり、武士道における道徳観は、単なる人間社会のローカルなルールではなく、「宇宙の真理そのものに基づいた絶対的なものである」というのが新渡戸の言いたい核心です。


