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芳年武者无類 弾正忠松永久秀

    本作は、明治16年(1883年)から19年(1886年)にかけての芳年の武者絵シリーズ「芳年武者无類」の傑作、松永久秀(松永弾正)の壮絶な最期を描かれた。海外人気のため入手がかなり難しくなっている。

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    松永久秀(まつなが ひさひで)は三好長慶に仕え、永禄4年(1561年)には従四位下に叙され、将軍・足利義輝の側近にも列せられるなど、三好義興と並ぶほどの高い地位を得た。大和国一国の支配を任され、多聞山城を築き、茶人としても名を馳せる。長慶の死後は三好三人衆との関係を繰り返し変えながら、畿内の政情不安の中心人物となった(wiki)。

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    織田木瓜紋とも松永氏の家紋ともちがうようだ

    やがて織田信長が上洛すると降伏してその家臣となるが、天正5年(1577年)8月、足利義昭や毛利輝元ら反信長勢力と連携して信貴山城に立て籠もる。そして10月10日、織田軍の攻撃を受ける中で、名物茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を打ち砕いて天守に火を放ち、自ら命を絶った。

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    平蜘蛛は蜘蛛が這いつくばる姿に似た形状の茶釜で、下野国天明(現在の栃木県佐野市)で作られたとされる、室町時代初期から中期にかけての古天明釜の名品である(wiki)。久秀は信長に臣従した際に九十九髪茄子という名物を献上したが、信長から幾度も求められた平蜘蛛は最後まで譲らず、「命を助ける代わりに渡せ」との条件にも、平蜘蛛の釜と我が首、この二つを信長公にお目にかけるつもりはない。いっそ火薬で粉々にしてやると答えたと、川角太閤記には記されている。松屋名物集には、多羅尾光信が落城後の信貴山城から平蜘蛛の破片を集めたとあり、天正8年(1580年)にはその破片を使って復元された釜が茶会で用いられた記録も残る。茶器への執着は、荒木村重とも重なる。

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    江戸時代、松永久秀は下剋上の象徴として語られる存在であり、江戸の浮世絵ではその最期、平蜘蛛を砕き切腹する場面が繰り返し描かれてきた。

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    本作もその流れを汲み、左上には粉々に砕けた平蜘蛛の破片が舞い、上に流れる着物の紐や乱れた髪、頭上に広げられた手の表現が、まるで一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感を生み出している(出典)。芳年ならではの迫真の表現力が光る武者絵の傑作である。

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    摺りが良い、後刷りではない
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    日付入り、貴重な初刷に近いものか
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