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「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第6話 春日樹、踏み出す

    前の話はこちらです。


    アラームは、3回鳴る。

    1回目は夢の中で鳴っていた。2回目で、春日樹は枕の下に滑り込んだスマートフォンを押さえる。3回目でようやく目を開け、白い天井を見上げた瞬間、体の奥が冷える。

    「……まずい」

    声に出すと、眠気が剥がれた。

    机の上には、昨夜の残りが散らばっている。開いたままの実務書。疑義照会の流れを書き写したノート。赤いボールペンで囲った文字が、紙の端からはみ出していた。

    患者に説明する。

    要点を整理する。

    医師へ確認する。

    薬局だけで決めない。

    最後の一行は、眠気と焦りのせいで斜めに落ちていた。

    床に落ちていた白衣を拾い、リュックに押し込む。ファスナーが噛む。もう一度引くと、今度はノートの角が引っかかる。春日は舌打ちを飲み込み、ノートだけを取り出して手に抱える。

    部屋を飛び出すと、秋の空気が頬を刺した。

    商店街は、まだ半分眠っている。パン屋の換気扇から甘い匂いが流れ、酒屋の前ではケースを積む音がする。クリーニング店のガラスに、前髪を跳ねさせた春日の姿が一瞬映る。

    駅側の角を曲がると、ノルメディス北多摩店の白い看板が見えた。

    まだ開店前なのに、そこだけ朝日を先に受けている。汚れのない白。大きなロゴ。商店街の古い庇や色の褪せたのぼりの中で、妙にまっすぐ立つ。

    春日は視線をそらした。

    桜ノ町薬局の緑の看板が見える。自動ドアの横には、マスク、体温計、のど飴、湿布の小さな案内が並んでいた。処方箋だけではない場所。そう教わったことを、最近ようやく風景として見られるようになった。

    時計は8時49分。ぎりぎりだ。

    「おはようございます!」

    息を切らしてバックヤードへ入ると、受付の福田芳江がプリンター用紙を整えながら顔を上げた。

    「おはよう、春日さん。今日はずいぶん勢いのある出勤ね」

    「すみません、勢いだけはあります」

    「そこは売りにしなくていいですよ」

    やわらかい声に救われる前に、調剤室の奥から柏木千晶の声が飛んだ。

    「8時49分」

    「はい」

    「走った」

    「はい」

    「寝た」

    「少し」

    「コーヒーは」

    「まだです」

    「そこだけはいい」

    春日は返事をしながら白衣を羽織った。名札をつける手がもたつく。ボールペンも印鑑もメモ帳も、まだ手元にそろっていない。けれど、ノートだけは手から離していない。

    柏木は薬歴画面から目を離さず、そのノートを視界の端で捉える。

    「それ」

    「昨日、少し」

    「少しで患者さんの前に立つな」

    「……勉強しました」

    「なら、今日使いなさい」

    それ以上は言わなかった。

    朝の薬局は、短い静けさの上に成り立っている。白カゴを重ねる音、薬袋をそろえる紙の音、浜口柚衣がOTC棚の値札を直す音、楠山啓一郎が申し送り表をめくる音。受付プリンターが1枚だけ試し刷りを吐き出し、福田がそれを抜き取る。

    薬歴端末の脇には、多摩いずみ苑と書かれた薄いメモが今日も置かれている。白かった余白に、いつのまにか細かい字が増えはじめている。

    9時を過ぎると、その静けさはすぐほどけた。

    内科の処方箋、整形外科の処方箋。マスクの箱を買いに来た女性。湿布だけ買えるか尋ねる男性。浜口が棚の前で説明し、福田が番号札を渡す。白カゴが一つずつ埋まっていく。

    春日は、多摩関節リハビリクリニックの処方箋を受け取った。

    佐々木朋範(ささき・とものり)の処方。腰痛。貼る薬。注意欄に、光線過敏への注意が必要なもの。

    処方としては珍しくない。腰に使うなら衣服で隠れる。春日は薬剤情報提供文書の注意文と、薬袋の記載を確認する。

    投薬カウンターに立つと、患者の男性は片手で腰を押さえ、もう片方の手で首の後ろをさすっている。

    「お待たせしました。今回は腰のお痛みで、貼るお薬が出ています」

    「ああ、腰ね。あと首も痛くてさ。先生に言い忘れたんだけど、これ、首にも貼っていいかな」

    春日の手が止まった。

    首。

    シャツの襟から出ている場所。外を歩けば日が当たる場所。

    頭の中で、昨夜ノートに写した注意文が急に大きくなった。光線過敏。貼った場所。日光。露出。

    春日は処方箋を見直した。腰痛に対する処方として、間違っているわけではない。佐々木は、腰に貼る前提で出している。患者が首の痛みを言い忘れた。ただそれだけだ。

    それだけなのに、薬の使われ方は変わる。

    「首にも、ですか」

    「そう。同じ痛み止めなら、いいかと思って」

    患者は軽い調子で言った。悪気も不満もない。日常の延長で、当然のように尋ねている。

    春日は息を吸う。

    「確認させてください。ええと、このお薬は、貼ったところに日が当たると、赤みやかぶれが強く出ることがあります」

    「腰なら服で隠れます。でも首は外に出やすいので……診察の時に首の痛みを伝えていないなら、先生に確認します」

    声が細くなった。

    患者が眉を寄せる。

    「え、貼っちゃだめなの?」

    「薬局だけで、だめですとか、別の薬にしましょうとは決められません」

    「先生は、腰の痛みで出しています。首にも使う話は、まだ伝わっていないので……確認が必要です」

    ここで止まるな、と春日は自分に言った。

    前に、説明できずに黙ったことがある。白カゴの前で、言葉が消えたこともある。今も喉は固い。けれど、患者は待っている。

    「診察の合間の確認になるので、少しお時間をいただくかもしれません。お待ちいただけますか」

    「どれくらい?」

    春日は一瞬詰まった。

    横から、柏木の声が静かに入る。

    「佐々木先生のところです。10分前後は見てください。混み具合によっては、もう少しかかることもあります」

    患者が柏木を見る。柏木は投薬カウンターの少し後ろに立ったまま、表情を大きく動かさない。

    「その間にこちらで確認内容をまとめます。確認が取れましたら、すぐお呼びします」

    「じゃあ、待ちます」

    「ありがとうございます」

    春日は頭を下げた。

    患者が待合へ戻ると、柏木が白カゴへ赤い疑義札を差し込んだ。

    「春日。何を聞く」

    「首にも貼っていいかを」

    「それだけ?」

    春日は口を閉じた。違う。違うのは分かる。けれど、言葉が並ばない。

    柏木が処方箋を指で軽く叩く。

    「処方は腰痛。患者さんは首の痛みを言い忘れている。薬は光線過敏への注意が必要。首は露出しやすい。医師に確認したいのは、首にも使用する前提でこの処方のままでいいか、別の対応が必要か」

    「はい」

    「メモ」

    春日はノートを開いた。昨夜の大きな字の下に、さらに大きく書き足しそうになり、慌てて字を小さくする。

    電話をかけると、受付の女性が出た。用件を伝えると、すぐに保留音へ変わる。

    電子音が、調剤室に薄く流れる。

    春日は子機を握ったまま固まった。

    1分。2分。

    保留音は同じ旋律を繰り返す。白カゴは止まらない。福田が新しい処方箋を回し、浜口がOTC相談を終えて戻ってくる。楠山が春日の横を通り、赤い疑義札を見てから、次の鑑査へ手を伸ばした。

    3分。

    春日の手に汗がにじむ。

    「春日」

    柏木が呼んだ。

    「聞こえる音で。手は止めない」

    春日は子機をスピーカーに切り替え、音量を一つ下げた。保留音が、鑑査台の端で小さく鳴る。

    薬歴画面を開く。患者申し出。診察時未申告。首への使用希望。光線過敏への注意。処方医へ確認中。

    入力する指が一度止まる。つい「心配」と打ちそうになり、消す。

    「事実だけ」

    柏木が言う。

    「はい」

    春日は打ち直す。

    5分。6分。

    待合の患者が壁時計を見る。福田がカウンター越しに声をかける。

    「確認中ですので、もう少しお待ちくださいね」

    患者は小さく頷く。苛立っているようにも、納得しているようにも見えない。ただ、待っている。

    保留音は同じ旋律を繰り返す。その下で、薬局だけが動いている。浜口が受付へ戻り、福田が次の処方箋を入力する。柏木の前では、別の薬歴画面が開いている。

    楠山が、春日の横へ白カゴを一つ寄せる。

    一瞬、手が出ない。自分だけが、保留音に縫い止められている気がする。

    止めた患者がいる。けれど、止めてはいけない患者もいる。

    白カゴを引き寄せる。処方箋、薬袋、薬情。規格と数量を追う。耳だけは、鑑査台の端の子機から離せない。

    8分。

    一つ、次へ回る。赤い疑義札の白カゴは、まだ動かない。春日は入力した行をもう一度見直し、伝える順番だけをメモの端に番号で振る。

    10分に近づいたところで、保留音が切れる。

    「お待たせしました。佐々木です」

    春日はすぐに子機を耳へ戻す。

    「桜ノ町薬局の春日です。お忙しいところすみません。腰痛で貼る薬が出ている患者さんの件です」

    声が少し上ずる。柏木がメモを指した。春日はそこだけを見る。

    「患者さんから、首にも貼りたい、とお話がありました。診察では、首の痛みは伝えていないそうです」

    春日はメモの次の行へ目を落とし、息を吸い直した。

    「この薬は、光線過敏への注意があります。首は日が当たりやすい場所なので……」

    柏木の指が、メモの最後の行で止まっている。

    「首にも使う前提で、このままお渡ししてよいか確認をお願いします」

    言い切れた。声も最後まで保てている。

    電話の向こうで、佐々木が短く「なるほど」と言う。紙をめくる音が続いた。

    「首の痛みは聞いていませんでした。外に出る仕事の方ですね。首にも使うなら、別のものに変更しましょう。腰もそちらで対応できます」

    春日はメモを取り、変更内容を復唱する。数量と使い方を確認し、患者への注意点も聞き返す。

    「ありがとうございます。患者さんへご説明します」

    電話を切ると、指先が冷えていた。

    柏木が言う。

    「止まれた」

    「はい」

    「患者さんの一言を、流さなかった」

    「はい」

    「患者さんに、待つ理由を先に伝えた」

    「……はい」

    柏木は一拍置く。

    「続き。調剤し直し」

    春日は白カゴを取り直した。赤い疑義札の横に、医師確認済みのメモを置く。元の薬を戻し、変更後の内容で準備する。薬袋を作り直し、薬の説明書きを差し替え、鑑査へ回す。

    楠山が確認し、短くうなずく。

    「説明は春日」

    「はい」

    投薬カウンターに戻ると、患者は疲れの見える顔で立ち上がる。

    「お待たせしました。先生に確認しました。首にも貼るなら、日光に当たりやすい場所でも使いやすい薬に変更です」

    「聞いてよかったってこと?」

    「はい。腰だけなら、最初の薬でよかったそうです。でも首にも使うなら条件が変わるので、確認しました」

    春日は薬袋を開き、使う場所と注意点を説明した。貼ったところの皮膚を見ること。違和感があれば相談すること。首は服や汗で剥がれやすいこと。言いながら、薬の説明書きの該当箇所を指で示す。

    患者は薬の説明書きを眺めながら、目を丸くする。

    「湿布って、どこでも同じかと思ってた」

    「そう思われる方は多いです。使う場所で注意が変わることがあります」

    「首のこと、言ってよかったよ」

    春日は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

    「言っていただけてよかったです」

    会計へ回った患者を、福田が笑顔で受ける。春日は投薬カウンターを片づけ、薬歴へ戻った。

    患者申し出あり。

    診察時、首痛について未申告。

    処方医へ確認。

    医師判断により変更。

    患者へ説明済み。

    感想は書かない。

    それでも最後の一行を打つ時、指先は朝より少しだけ軽い。

    *

    昼休憩のバックヤードには、弁当の匂いと古い冷蔵庫の低い音がある。

    春日はコンビニのおにぎりを開けたまま、しばらく食べずに見ていた。柏木は向かいで小さな弁当箱のふたを外している。奥で白カゴの滑る音がする。受付側から、福田の声が低く届く。

    「春日」

    「はい」

    「午前の疑義。気づいたところは悪くなかった」

    春日はおにぎりを落としそうになった。

    「え」

    「一回で聞き取って。悪くなかった」

    「ありがとうございます」

    「ただし、保留で固まるな。電話は祈るための道具じゃない」

    「はい……」

    「患者さんへの説明も、途中で声が小さくなった。こっちが不安そうにすると、待つ側はもっと不安になる」

    やっぱり減点はある。春日は肩を落とした。

    柏木は卵焼きを箸で端へ寄せながら、少し間を置く。

    「私も、最初は確認ばかりしていた」

    春日は顔を上げる。

    「桜ノ町に来たばかりの頃。これは電話した方がいいですか。これは聞いていいですか。これは患者さんにどう言えばいいですか。何でも楠山さんに聞いた。確認しているつもりだった」

    「それは、だめなんですか」

    「確認は大事」

    柏木はすぐに言う。

    「でも、不安を誰かに預けるな」

    バックヤードの音が遠くなる。

    春日は開けかけのおにぎりを置く。

    「楠山さんの言葉ですか」

    「そう。確認したあと、どう判断するかは自分で持て、とも言われた」

    柏木の目は、春日ではなく、机の少し先を見ていた。白い壁と、古い掲示物の端。それだけがある場所だった。

    「聞けば軽くなると思っていた。誰かが大丈夫と言ってくれたら、自分の手から離れると思っていた」

    「離れないんですね」

    春日が言うと、柏木は小さくうなずく。

    「離れない。今日の春日も同じ。私に聞いた。佐々木先生にも聞いた。でも患者さんに説明したのは春日。何をどう伝えたかは、春日の仕事として残る」

    午前の患者の顔が浮かんだ。

    湿布はどこでも同じだと思っていた、と言った顔。

    首のことを言ってよかった、と少しほっとした顔。

    処方箋には書かれていない。患者の口から出た一言だ。

    「怖いです」

    「怖さがない方が危ない」

    柏木は弁当箱のふたを横へ置く。

    「怖いから確認する。それでいい。ただし、怖さを誰かに丸投げしない。患者さんの前に戻る時は、自分の言葉で持っていく」

    春日はノートを開いた。

    朝の4行の下に、余白はほとんど残っていない。それでも端の白いところへ書く。

    不安を誰かに預けるな。

    また字が大きくなる。

    柏木がそれを見て、短く息を吐く。

    「字」

    「すみません」

    「読めるならいい」

    春日はようやく、おにぎりを一口かじった。

    海苔はしんなりしていて、米は少し冷たい。けれど、午前中に飲み損ねたコーヒーより、ずっと確かに胃へ落ちていく。

    *

    午後の光は、午前より白く見えた。

    自動ドアの向こうに、商店街の角の白い看板が見えている。ノルメディス北多摩店、12月1日オープン。朝から何度も目に入っているはずなのに、矢野光佐がノートを開いた瞬間、春日はその文字をまた読んでしまう。

    柏木が矢野に向き直る。

    「先日は、途中で切り上げる形になってすみません」

    矢野は待合の端に立ったまま、小さく頭を下げた。黒いショルダーバッグを肩に掛け、文庫本より少し大きい方眼ノートを両手で押さえている。前に来た時より、ほんの少しだけ立つ位置が奥だった。受付カウンターの手元も、投薬カウンターの薬袋も見えない場所。柏木が指で示す前に、矢野自身がそこを選んだ。

    「いえ。患者さん優先なのは、分かっています」

    「ただ、今日も患者さん優先です。必要があれば、こちらから止めます」

    柏木がそう言うと、矢野はすぐ頷く。

    「はい。邪魔しません。書けないことは書きませんし、聞かないほうがいいところは、聞きません」

    その言い方が、以前より少し固い。覚えたことを忘れないように、言葉の端を握っているように聞こえる。

    「今日は、ノルメディスさんの開業前特集の続きで。大手が来る中で、町の薬局がどういう役割を持っているのかを、もう少し掘りたくて」

    矢野はペンを構え、すぐには走らせない。

    「ただ、正直に言うと、まだ記事の切り口が浅い気がしてます。『昔ながらで温かい個人薬局』って、書けなくはないんですけど、それだけだと、たぶん何も見えてない気がしていて」

    受付プリンターが短く鳴った。福田が処方箋を入力しながら「38番の方、少々お待ちください」と声をかける。浜口がOTC棚の前で、マスクの箱を年配の男性に示している。白カゴの中で薬袋がかすかに擦れる。

    春日は薬歴画面に目を戻した。午前の佐々木への疑義照会で、まだ肩の奥に変な力が残っている。手元の付箋には、さっき柏木に言われた言葉が大きな字で残っていた。

    不安を預けない。

    確認したあと、自分で持つ。

    「昔ながら、で済むなら」

    柏木は矢野のノートではなく、待合の動線を見ながら言う。

    「私たちも、もう少し楽です」

    矢野のペン先が、一度だけ方眼紙に触れた。そのとき、自動ドアが開く。

    入ってきた女性は、入口のマットの上で立ち止まった。薄いグレーのカーディガン。肩から掛けたバッグの持ち手を、両手で握っている。春日は年齢を推測しそうになって、すぐやめた。患者を、情報より先に印象で決めない。柏木なら、そう言う。

    女性は受付に処方箋を差し出した。

    「青葉心療内科クリニックさんですね。お薬手帳はお持ちですか」

    福田の声は、いつも通り柔らかい。女性はバッグから手帳を取り出した。表紙の端が反り返っている。福田はそれを受け取り、処方箋と一緒に白カゴへ入れる。

    春日は入力待ちの間に、ちらりと矢野を見る。矢野はもうノートを閉じかけていた。患者が入ってきたからだ。取材の目を、一段だけ下げる。それができるようになっている。

    それでも柏木は、矢野の方へ一歩近づく。

    「矢野さん、ここからはしばらく待合の観察も止めてください。患者さんの声が入る可能性があります」

    「はい」

    返事は早い。矢野はペンをしまい、ノートをショルダーバッグに入れた。福田が物販棚の側を手で示すと、矢野はバッグの紐を肩に掛け直す。

    「すみません、移動します」

    「すみませんじゃなくて、それが条件です」

    柏木の声は冷たいわけではない。けれど、線は引いている。

    矢野はもう一度頭を下げ、物販棚の陰へ移った。中央の棚を一本はさんだだけで、待合のざわめきは薄く届いても、投薬カウンターの声までは届かない。

    春日は白カゴを受け取った。処方箋、お薬手帳、薬歴画面。青葉心療内科クリニックの患者。処方箋の氏名欄には、三浦真帆(みうら・まほ)とある。今回の処方内容を確認し、前回との差を追う。

    そこで、手が止まった。

    お薬手帳の新しいページに、青葉心療内科クリニックではない医療機関のシールが貼られている。日付はここ2週間以内。薬局名も違う。青葉の前回処方より後の日付だった。

    春日は薬の欄を目で追い、今回の処方箋へ戻る。

    薬の名前を一つずつ確かめるより先に、組み合わせのほうが気になった。青葉で様子を見ることになったあと、別の病院で出た薬がある。今日渡す薬と、同じ体の中で重なるかもしれない。

    春日の胸の奥が、すっと冷えた。

    見なかったことにはできない。けれど、聞き方を間違えれば、患者を責めることになる。

    「楠山さん」

    声が固くなった。鑑査台にいた楠山が顔を上げる。

    「お薬手帳に、別の医療機関の記録があります。今回の処方と、重なる可能性があるかもしれません」

    楠山は手帳を見て、今回の処方箋へ目を戻す。

    「日付は」

    「ここ二週間以内です」

    「今も飲んでいるか。青葉先生に伝えているか」

    「確認します」

    「変更か、追加かも聞け。そこを間違えるな」

    「分かりました」

    春日は頷く。足の裏が床にうまくつかない感じがする。

    「責めるなよ。確認するだけだ」

    「はい。聞き方に気をつけます」

    「詰まったら呼べ」

    春日は「はい」と言ったつもりだった。けれど、喉の奥で音が引っかかり、ほとんど息だけになる。

    楠山は手帳と処方箋を春日に戻し、鑑査台へ戻った。

    以前の徳田の顔が浮かぶ。薬剤師の仕事を聞かれて、何も返せなかった自分。すみません、とだけ言って、頭の中が真っ白になった自分。

    今も白くなりかけている。

    けれど、手元にはお薬手帳がある。薬歴がある。患者がここにいる。

    春日は投薬カウンターの端にメモ用紙を置き、待合へ出る。

    「39番の方、少し確認したいことがありまして、こちらでお話を伺ってもよろしいですか」

    三浦は顔を上げた。目の下に薄い影がある。怒っているというより、すでに疲れている顔だ。

    「時間、かかりますか」

    「すみません。安全にお薬をお渡しするための確認です。必要があれば、青葉先生にも確認します」

    三浦は少しだけ顔をこわばらせた。それでも立ち上がる。

    投薬カウンターの端に移ると、待合の音は近いまま、少しだけ輪郭がぼやける。プリンターの紙送り、福田の会計の声、薬袋をそろえる音。どれも聞こえるのに、言葉の細部までは届かない。

    春日は名札を指で押さえた。

    「三浦さん。薬剤師の春日です。今日のお薬をお渡しする前に、今飲まれている薬について確認させてください」

    三浦は立ったまま、肩に掛けたバッグの持ち手から手を離さない。

    「お薬手帳に、別の医療機関のお薬の記録がありました。今も飲まれているものはありますか」

    三浦の指が止まった。

    「あります」

    「ありがとうございます。差し支えなければ、そのお薬が追加になったものか、前のお薬から変わったものかを確認させてください」

    「それ、もう医者に話しました。なんで薬剤師さんにまで同じことを聞かれなきゃいけないんですか?」

    声は大きくない。けれど、春日の胸にまっすぐ当たる。

    少し離れた場所で、柏木の声が途切れた。白衣の擦れる音が、一つ近づく。

    反射で、すみません、と言いかける。口の中まで、その形ができている。謝るだけなら簡単だった。けれど、それだけでは確認は終わらない。患者の不安も、薬の重なりも、青葉先生に伝わらないままになる。

    「すみません。同じことを何度も聞かれるのは、負担だと思います」

    白衣の音は、そこで止まる。

    春日は一度そこで切った。三浦の警戒は解けていない。

    「でも、ええと、僕たちは診断をやり直したいわけではなくて」

    春日は手元のメモ用紙を見ずに、言い直した。

    「すみません。言い方が固かったです。先生は、病気や症状を見て、治療を決めます」

    「僕たちは、今日出た薬が今飲んでいるものと重なったり、生活の中で困ることが出たりしないかを見ます」

    三浦は黙っている。視線は春日の名札ではなく、机の端に落ちている。

    「同じ質問に聞こえると思います。でも、見る場所が少し違うんです」

    「三浦さんを疑いたいんじゃありません。今日お渡しする薬が、ほかで出ている薬と一緒になっても大丈夫かを、青葉先生に確認するためです」

    「じゃあ、今日のお薬、もらえないんですか」

    「まだ、そう決まったわけではありません」

    春日はそこだけ、少しはっきり言えた。

    「今分かっていることを青葉先生に伝えて、今日お渡ししていいか確認します」

    三浦の肩が、わずかに落ちる。納得ではない。これ以上押し返す力が、少し弱くなっただけだ。

    三浦はバッグの持ち手を握り直す。

    「青葉先生に、電話するんですか」

    「必要があれば、確認します。今のお話を、先生に伝えていいかも含めて確認させてください」

    三浦の視線が、お薬手帳へ落ちる。

    「じゃあ、今日はいいです」

    春日はペンを持つ手を止めた。

    「お薬を受け取らない、ということですか」

    三浦はすぐには答えない。バッグの持ち手だけが、指の中で少しねじれる。

    「次の診察で、自分で言います。だから、今日は……」

    言葉がそこで切れる。

    春日は急いで頷きそうになり、止めた。帰ると言われれば、話は終わる。けれど、今日渡すはずだった薬も、今飲んでいる薬も、そのまま残る。

    「分かりました。無理に電話をするための確認ではありません」

    「ただ、今日のお薬を安全にお渡しできるかを見るために、今飲んでいる薬と、青葉先生に伝わっている内容を確認したいんです」

    三浦はバッグの持ち手から、少しだけ指をゆるめた。

    「……青葉先生には、言ってません」

    春日はペンを握る。すぐ書きそうになり、止めた。まず聞く。

    「別の医療機関を受診されたことを、ですか」

    三浦は頷いた。

    「悪い気がして。前に、青葉先生にしばらく様子を見ましょうって言われて。でも、夜になると長くて」

    夜が長い。

    春日の頭の中に、その言葉だけがゆっくり残る。

    「寝られない、っていうのと少し違うんです。電気を消しても、朝が来ない感じがして」

    「時計ばかり見てしまって、まだ1時間しか経ってない、まだ2時間も経ってないって。昼間は、青葉先生に次の診察で話せばいいと思えるんです。でも夜になると、待てなくなる」

    三浦は、バッグの持ち手を握り直す。

    「別の病院なら、少しだけ何かしてくれるかもしれないと思いました。青葉先生を信じてないわけじゃないんです。ただ、言ったら、先生を裏切ったみたいになる気がして」

    「裏切ったみたいに」

    春日は繰り返す。責める調子にならないよう、ただ受け取るだけにする。

    三浦は小さく頷く。

    「だから、手帳を出すのも迷いました。出さなければ、分からないかもって。でも、それも怖くて」

    春日はようやくメモに書いた。別医療機関受診。青葉先生へ未伝達。不安増強。夜間に時間が長く感じる。本人、責められる不安あり。

    三浦が話した順番を崩さず、確認に必要なところだけを残す。

    「今のお話を、青葉先生に確認してもいいですか」

    三浦の顔がまた強張る。

    「全部ですか」

    「必要なことだけ、整理して伝えます。別の医療機関のお薬を今も飲まれていることと、夜の不安が強くなっていることです」

    「青葉先生にはまだ話せていなかったことも伝えます。今日の薬をこのままお渡ししていいか、先生に確認したいです」

    「怒られますか」

    その声は、さっきの反発より幼く聞こえた。

    春日はすぐ否定しそうになって、止める。医師がどう言うかを勝手に決めることはできない。

    「青葉先生がどう受け止めるかを、僕が決めることはできません。でも、こちらから責める話にはしません」

    「今日のお薬を安全に続けられるか、確認するために連絡します」

    三浦は長く黙った。

    待合では番号札を呼ぶ声がして、すぐに低くなる。こちらの沈黙だけが残る。

    「……お願いします」

    三浦が言う。

    「青葉心療内科クリニックさんへ連絡します」

    春日は三浦にそう告げ、薬局の子機を取った。青葉心療内科クリニックの番号を押す指が、少し滑る。押し直す。呼び出し音が鳴る間、メモをもう一度見る。

    メモの上で、三浦から聞いた言葉を目で追う。

    受付の声が出る。春日は用件を短く伝えた。少し待ってほしいと言われ、保留音が流れる。

    午前の佐々木の10分保留を思い出して、春日は反射的に固まりかけた。

    スピーカー。手は動かす。

    春日は子機を耳から離し、スピーカーに切り替えた。音量を下げ、待合に漏れないよう子機を手で覆う。メモ用紙の余白に、短く書き足す。

    本人来局。手帳。他院あり。夜間不安。青葉未相談。

    やがて、穏やかな低い声が電話口に出た。

    「青葉です」

    春日の背筋が伸びる。

    「桜ノ町薬局、薬剤師の春日です。お忙しいところ失礼します。患者さんご本人が来局されています。お薬手帳で、別医療機関での受診とお薬の記録を確認しました」

    春日は一度、メモへ視線を戻した。今度は少し速度を落とす。

    「ご本人に確認したところ、最近、不安が強くなり、夜が長く感じるようになったため、別の医療機関を受診されたとのことです」

    「青葉先生には、まだお話しできていなかったそうです」

    「今回のお薬をこのままお渡ししてよいか、別医療機関のお薬との関係も含めて、先生に確認したくお電話しました」

    青葉は少し間を置き、日付を尋ねた。

    春日は手帳のシールを指で押さえ、年月日を読み上げる。医療機関名を告げる時だけ、声を少し落とす。

    「お薬の名前も確認できますか」

    春日は子機を耳に寄せたまま、手帳の薬剤名を目で追った。青葉が確認したものだけを、短く返す。

    「患者さんと、少し直接話せますか」

    春日は返事をしかけて、三浦を見た。まだ、子機を渡していいとは聞いていない。

    「ご本人に確認します」

    春日は子機の送話口を押さえ、三浦のほうへ向く。

    「青葉先生が、少し直接お話ししたいそうです。ここで電話をお渡ししてもいいですか。僕たちは少し離れます」

    三浦は子機を見た。怖いのか、安心したのか、春日には分からない。たぶん、その両方なのだろう。

    「……はい」

    春日は子機を三浦へ渡した。そこからさらに一歩下がる。聞かないための距離。すぐ助けに入れるための距離。

    三浦は両手で子機を持つ。

    「青葉先生……すみません」

    その先の言葉は、春日には聞こえなかった。

    春日は調剤室側へ下がる。受付プリンター、会計トレー、白カゴの滑る音が戻ってくる。

    春日は白カゴに貼られた赤い疑義札を見た。

    まだ何も解決していない。薬は渡していない。患者が納得したわけでもない。青葉の判断も、このあと返ってくる。

    それでも、春日はメモの最後に、ゆっくり書く。

    本人同意。青葉へ連絡中。

    投薬カウンターの端では、三浦が子機を持ったまま、低い声で何かを答えている。声の内容は、春日のいる位置までは届かない。届かせてはいけないのだと、春日は自分の足元を見ながら思った。

    白カゴの中には、まだ交付できない薬袋が残っている。薬情の紙は裏返しに伏せられ、赤い疑義札だけが妙に目立っている。

    やがて三浦が子機を胸元から少し離し、春日のほうを見る。

    春日は投薬カウンターへ戻り、子機を受け取った。青葉の声が戻る。

    「春日さん、でしたね」

    「はい。春日です」

    「患者さんには、こちらへ一度戻っていただくことになりました。今日の予約枠はもう埋まっているので、夕方の診察の最後になりますが、今日のうちに確認します」

    「はい」

    「不安がなくなったわけではありません。むしろ、ここから整理し直す必要があります」

    春日は、子機を握る手に力を入れる。

    「はい」

    「でも、今日ここで止めていただいてよかった。気づいていただきありがとうございました」

    言葉は、静かだった。拍手でも、賞賛でもない。業務の流れの中で、必要なところに必要な印をつけるような声だ。

    それなのに、春日は返事を失敗した。

    「……いえ、僕は」

    喉の奥が詰まる。目の奥が急に熱くなった。患者はまだ投薬カウンターにいる。泣くな、と頭では思う。いま泣く場所ではない。泣いていい話でもない。患者の不安は残っている。青葉の声にも、軽い解決の響きはない。

    それでも、胸の奥で固まっていた何かが、音もなく崩れた。

    「春日さん?」

    「はい。承知しました。こちらでも、そのように記録します」

    「お願いします」

    電話が切れる。

    子機を置いた瞬間、春日は一歩だけ後ろへ下がった。白衣の裾がスツールに引っかかり、スツールがかすかに軋む。慌てて直そうとしたが、視界がにじんで手元が見えない。

    「春日」

    楠山が呼ぶ。

    春日は返事をしようとして、失敗する。

    「……はい」

    「泣いてる場合か」

    楠山は待合側へ声を飛ばした。

    「柏木」

    その声で、矢野の方を向いていた柏木が振り返る。

    柏木は一瞬で状況を見て、足早に調剤室側へ戻ってきた。白衣の裾が、カウンターの角をかすめる。

    「春日、戻して」

    「はい」

    返事の声が、自分のものではないみたいに歪む。

    福田が受付からすっとティッシュ箱を差し出す。浜口がその箱を受け取り、薬歴端末の横に置いた。置き方があまりにも静かで、それがかえって春日の涙腺に追い打ちをかける。

    「すみ、ません」

    二度目を言いかけた息に、柏木の声が重なる。

    「謝罪は1回でいい」

    柏木は患者のいる投薬カウンターの方を一度見て、声を落とす。

    「青葉先生の指示は」

    春日はティッシュを2枚取ろうとして、5枚ほど抜いてしまった。白い紙が手の中で膨らむ。

    「このあと、青葉先生のところへ戻っていただくことになりました。今日のお薬は、先生が改めて確認してからです」

    「患者さんには」

    「まだ説明していません」

    「分かった。私が行く」

    柏木はそこで一度だけ、春日の顔を見る。

    「いま泣いている理由を、間違えないで」

    春日は鼻を押さえたまま、頷いた。

    「情報を戻せた。医師に返せた。それだけ」

    春日は何度も頷く。頷きながら、鼻を押さえた。自分でも情けないほど息が乱れている。

    楠山が棚の向こうから言った。

    「柏木、春日は3分使えない」

    「5分です」

    春日は涙声で訂正する。

    「自分で延長申請しない」

    福田が受付で小さく咳払いをした。笑いを飲み込んだのだと分かる。浜口は薬袋の束をそろえながら、視線だけで大丈夫ですかと聞いてきた。

    柏木は薬歴画面を指さす。

    「薬歴」

    「はい」

    「泣いたことは書かない」

    「書きません」

    「書いたら消す」

    「書きません」

    春日は椅子に座った。薬歴画面の白さが、いつもより眩しい。入力欄にカーソルが点滅している。そこに書くべきなのは、胸の動きではない。患者の言葉の全部でもない。今日、次の人が見落とさないための、事実だけだ。

    本人より別医療機関受診の申告あり。

    不安の増強、夜間のつらさについて本人より聴取。

    処方医へ情報提供。

    処方医より本人再確認の指示あり。

    交付については医師指示確認後に対応。

    打ちながら、春日は何度も指を止めた。いくつもの場所に少しずつ置かれた不安が、今日たまたま、薬局のカウンターを通っていった。

    投薬カウンターの端で、三浦は青葉と話す前より、少し疲れた顔をしている。安心した顔ではない。それでも、柏木の説明に小さく頷き、次の受診について確認していた。

    春日は立ち上がりかけて、楠山に手で制される。

    「今は座ってろ」

    「はい」

    柏木が待合へ目を戻すと、物販棚の脇で、矢野は方眼ノートを開いたまま立っていた。ペンは止まっている。

    福田が新しく来た患者の番号札を、いつもより少しゆっくり渡す。浜口は待合の椅子を一脚ずらし、投薬カウンターの前を空けた。

    矢野は、それも書かなかった。

    患者が薬局を出たあとも、矢野はしばらく動かなかった。ペン先を紙につけず、ただ持っている。やがて、静かにキャップを閉じる。

    ぱちん、という小さな音がした。

    柏木が矢野のいる位置へ近づく。開いたままのノートが見えた。日付の下に、見出しの候補らしい線が1本。その先は、空白のままだ。

    「お待たせしてすみません」

    「いえ」

    矢野は首を振った。ノートを見下ろし、ゆっくり閉じる。紙の束が重なる音は、店内の消毒液の匂いの中でやけに乾いて聞こえる。

    「これ、書けないですね」

    責める声ではない。書けないものの前で、ようやく立ち止まった人の声だ。

    柏木は答えない。

    矢野は閉じたノートに手を置いたまま、もう一度、調剤室の方を見た。春日は目を赤くしたまま、薬歴画面に向かっている。鼻声を隠しきれていないのに、次の患者へ渡す説明は、いつもより慎重だ。

    「中身は、聞いていません」

    「はい」

    「書きません」

    「お願いします」

    それだけのやり取りで足りる。

    矢野は、記事になる言葉を探すような顔をしない。薬局の良さをきれいにまとめようともしない。ただ、閉じたノートに手を置いた。

    少し長い沈黙が落ちる。

    その沈黙の中で、受付プリンターが一度鳴った。福田が「お待たせしました」と声をかける。薬局は、また次の患者の時間へ移っていく。

    矢野はノートをバッグにしまう。

    「今日は、ここまでにします」

    「はい」

    柏木は、ほんの少しだけ頷いた。

    *

    閉局後、春日はいつもよりゆっくり白衣を脱いだ。

    泣いたあとに通常業務へ戻るのは、思っていたより疲れる。目の奥がまだ重い。鼻の奥も痛い。ロッカーの扉に映った自分の顔は、薬剤師というより、花粉症のひどい学生のようだった。

    「春日、名札」

    「あ、はい」

    柏木に言われて、胸元の名札を外す。外したつもりが、クリップが白衣に引っかかり、白衣ごと持ち上がる。

    「落ち着いて」

    「はい」

    「今日はもう十分泣いた」

    「それ、引っ張りますか」

    「必要なら」

    商店街へ出ると、夜の空気がひんやりしている。柏木は自転車を押し、春日はその隣を歩いた。昼間は人の声で満ちていた通りが、シャッターの金属音と、遠くの車の音だけになっている。ノルメディス北多摩店の白い看板は、閉店後の店々の中で、まだ新しい明るさを持っていた。

    春日はしばらく、黙ったまま隣を歩く。

    言葉にすると、今日のことが急に軽くなりそうだった。患者はまだ不安の中にいる。青葉に戻ったから終わりではない。春日が泣いたから、何かがきれいにまとまるわけでもない。

    それでも、胸のどこかで、小さく灯ったものがある。

    「柏木さん」

    「何」

    「今日、少しだけ」

    春日は名札の入ったポケットを押さえる。

    「少しだけ、自分が薬剤師として、ここにいていい気がしました」

    柏木はすぐには返事をしなかった。

    自転車の車輪が、歩道の継ぎ目を越えて小さく鳴る。

    「認められた気がした、ではなく」

    柏木が言う。

    「いていい気がした?」

    「はい。認められた、だと、たぶん言いすぎです。僕、今日も途中で手が震えましたし」

    「薬歴も柏木さんに言われなかったら感想を書きそうでしたし、電話を切ったあと泣きました」

    「泣いた」

    「確認しなくても覚えてます」

    「大事な事実だから」

    春日は少し笑う。その笑いは、夜の空気にすぐ溶ける。

    「でも、見えたんです。処方箋だけ見ていたら見えなかったことが、少しだけ」

    「患者さんが悪いとか、先生が悪いとかじゃなくて、間に落ちそうになっているものがあるって」

    柏木は自転車を押す手を止める。

    「その言い方は、忘れない方がいい」

    「え」

    「間に落ちそうになるものは、薬局に来る。全部拾えるわけじゃない。拾ったつもりで抱え込んでもだめ」

    「医師に戻すこともある。家族につなぐこともある。今日は、医師に戻した」

    「はい」

    「春日が救った話にしないで」

    「しません」

    「でも、春日が見つけたことも消さないで」

    春日は、柏木を見る。

    柏木は前を向いていた。街灯の下で、横顔の輪郭だけが白く浮かぶ。褒められたのか、釘を刺されたのか、春日には分からない。たぶん両方だ。

    「明日、薬歴、もう一回見てもらっていいですか」

    「朝ぎりぎりに来なかったら」

    「そこからですか」

    「そこから」

    「分かりました」

    春日は頷いた。

    薬剤師に向いているかどうかは、まだ分からない。明日また失敗するかもしれない。説明が通じない日だってある。泣いている暇などない日も来る。

    けれど、今日の自分は逃げていない。

    その事実だけは、薬歴には書けないまま、胸の内側に残る。

    *

    柏木千晶は春日と別れたあと、ひとりで部屋に戻る。

    明かりをつける前に、保留音が耳の奥で鳴った気がした。

    今日の薬局の音ではない。佐々木のクリニックの音でもない。もっと平坦で、もっと白い音。

    白い薬歴画面。

    バックヤードの消毒液の匂い。

    夜なのに明るすぎる部屋。

    ノルメディスの、内藤東口店の整いすぎた棚。

    不安を誰かに預けるな。

    昼に春日へ渡した言葉が、遅れて自分の胸を打つ。

    春日は、震えながらも持っている。自分の不安を患者へ押しつけず、医師へ丸投げもせず、事実を拾って、次へ渡していた。

    千晶はバッグを床に落とすように置く。

    暗い部屋の中で、白い画面だけがまぶたの裏に焼きつく。

    私は逃げた。


    続きはこちら。

    第7話では、常葉庵で過ごす人たちの「最後の処方」と向き合います。
    薬歴に残せることと、残してはいけない時間。その境目に千晶が立つ回です。

    「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。

    #創作大賞2026
    #お仕事小説部門


     
     
    現役薬剤師・著者。薬局の見えにくい仕事を、物語と安全な実践知にして届けています。 お仕事小説『私、薬剤師なんで。』全9話公開中(note創作大賞2026応募作)。 Kindle『薬剤師、AIはじめました』著者。 薬局の仕事、AI時代の創作、安全なAI活用について発信しています。

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