メインコンテンツへスキップ
見出し画像

「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第5話 梶浦七実、迷った朝に薬局へ行く

    前の話はこちらです。


    午前6時18分。

    トースターの中で、食パンの端が先に色づいた。

    梶浦七実は、菜箸で耳の焦げかけたところを少しずらしながら、リビングの床に転がった靴下を足で寄せる。右足。たぶん2歳の陽和(ひより)のものだ。左足は、ダイニングテーブルの下から半分だけ顔を出している。

    「海音、パン半分でいい?」

    返事がない。

    いつもなら、5歳の梶浦海音(かじうら・かいと)は「ジャム」と言う。いちごか、ブルーベリーか、どちらを塗るかで2分ほど悩み、その間に陽和がスプーンを落とす。今朝は椅子に座ったまま、皿の上の食パンを指で押しているだけだ。

    「海音?」

    七実が顔をのぞき込むと、海音は目だけを上げた。

    「いらない」

    声が、かすかに湿っている。

    七実は額に手を当てた。熱い、というほどではない。けれど、いつもの朝の体温ではなかった。

    体温計は36.9℃を示した。もう一度測ると37.1℃。登園を止める数字ではない。園の基準にも引っかからない。喘鳴もない。咳は、朝方に二度。吸入はいつもの通りできている。

    それでも、七実の手は海音の額からすぐには離れなかった。

    いつもの海音ではない。

    「……今日、外来多いんだよね」

    自分で言ってから、誰に向けた言葉なのか分からなくなった。海音に言うことではない。陽和に言っても通じない。岳人に言えば、困らせるだけかもしれない。

    スーツの上着を腕にかけた梶浦岳人(かじうら・たけと)が、洗面所から顔を出した。ネクタイはまだ首に掛けただけで、片手には歯ブラシを持っている。

    歯ブラシの泡が、言葉の端に残る。岳人はそれに気づき、慌てて口元を手でぬぐう。

    「海音、食べてない?」

    「うん。熱は微妙。37.1℃」

    岳人は時計を見た。それからすぐ、海音の隣にしゃがんだ。

    「海音、しんどい?」

    海音は首を横に振った。横に振る力も、少し遅い。

    岳人の眉が寄る。営業先で見せる、予定を組み替える時の顔だった。スマホを取り出し、予定表を開く。七実は、その画面を見ないふりをする。

    画面を見なくても、午前の病院、午後のクリニック、移動時間の線は想像できた。医療機器の営業は、相手の診療時間のすき間に入る仕事だ。自分の都合だけで簡単に動かせる予定ではない。

    予定表の色つきの四角が、頭の中でいくつも重なる。どれかを動かせば、別の誰かの時間がずれる。家の朝は、その四角の外側へいつもはみ出す。

    トースターの音が朝に割り込む。七実は返事をする前に、焦げた端を指で折った。海音が食べやすいように小さくするだけの動作なのに、パンの熱さが指先を刺す。予定表の四角と、子どもの皿の上のパンは、同じ朝にあるのに同じ画面には並ばない。

    「午前、ひとつでもずらせないか聞いてみる」

    「いいよ。まだ熱ってほどじゃないし」

    「でも、いつもと違うんだろ」

    そう言われると、逃げ場がなくなる。

    七実は焦げ目のついたパンを皿に移した。海音のぶんは、小さく切って、耳をよける。休日に一緒にパン生地をこねる時、海音は粉のついた手で「ママ、ふくらんだ」と笑う。あの顔が、今朝の椅子の上にはない。

    「午前中、様子見てもらって、仕事終わったら小児科行く。もし園から連絡来たら、私が行く」

    「俺も、昼前なら折り返せるかもしれない」

    「うん。ありがとう」

    ありがとう、と言いながら、七実の声は先に結論を置いていた。

    登園させる。

    仕事へ行く。

    桜ノ町薬局の水曜午前は、いつも重い。

    登園できる数字なら、行く。

    その判断に、誰も悪者はいない。だから余計に、皿の上の食パンの耳が、いつまでも片づかなかった。

    *

    午前9時30分。

    桜ノ町薬局の裏口を開けた瞬間、七実は白衣の袖を通しながら頭の中のスイッチを切り替えた。

    「おはようございます」

    「おはようございます、梶浦さん」

    浜口柚衣が受付端末から顔を上げる。福田芳江は薬袋の束をそろえながら、目だけで七実の顔を見る。

    「今日は、朝から大変だった?」

    「下の子の園バッグの中身が、私の鞄に少し混ざってました」

    「あるあるね」

    笑って返したつもりだった。けれど福田の視線は、ほんの一拍だけ七実の顔に残る。見抜かれた、と思う前に、柏木が調剤室側から歩いてきた。

    「七実さん、朝の申し送りだけ。楠山さんは学校薬剤師の用務で、一日不在。外来は、七実さんと春日中心で回してもらいます」

    「それと、10時すぎにタマっこの矢野さんが取材に来ます。店内撮影なし、患者さん優先で」

    矢野光佐は、地域情報サイト「タマっこ」の記者だ。以前にも桜ノ町薬局を取材している。

    「了解。春日くん、午前の小児はこっちで見るね」

    鑑査台の向こうで、春日が背筋を伸ばした。手にした白カゴを、胸の前で抱え直す。

    「はい。お願いします」

    薬歴端末の横には、薄いメモが一枚残っていた。端に、多摩いずみ苑、とだけ書かれている。前回の施設同行から、何度も開いては閉じている紙だろう。けれど、その下はまだ白いままだった。

    それでも柏木は、そのメモとペンを薬歴端末の横に残したまま、受付側へ出ていく。

    矢野が来たのは、午前10時を少し過ぎたころだった。白いシャツに黒いパンツ、肩から黒いショルダー。文庫本より少し大きい方眼ノートを胸に抱え、入口で一礼する。

    「柏木さん。本日はお時間いただき、ありがとうございます」

    「こちらこそ。患者さんの個人情報に関わるところは、前回と同じ条件でお願いします」

    「はい。撮影は外観だけ。店内はメモのみ。患者さんが来られたら、すぐ下がります」

    ノルメディス開業前の商店街特集。矢野のノートは、もう開かれている。

    七実の位置からは、全部は見えない。ただ、上のほうに「ノルメディス北多摩店 開業日」とあり、欄外に「白い看板 外観写真」と小さく書かれているのは見えた。次の取材先の欄には、Morgenkrume(モルゲンクルーメ)。括弧で、クルーメ。商店街のパン屋だ。

    七実は、手元の白カゴへ視線を落とす。

    小児の処方だ。粉薬と吸入薬、薬袋に薬剤情報提供文書とお薬手帳、年齢、体重、前回との違い、保護者へ確認すること。春日がそろえた吸入薬は白カゴの端にあり、粉薬はまだ分包機にかける前だ。

    「春日くん、粉の用量、体重換算は大丈夫?」

    「はい。体重15キロなので、用量は問題ありませんでした」

    「オッケー。吸入は継続みたいだけど、前回の処方間隔から、この本数で足りそう?」

    「あ、そこはまだ確認していません。すぐ見ます」

    「よろしくね」

    七実は頷いた。手順は崩さない。体重、用量、処方間隔、手元に残っている薬。子どもの処方は、保護者の焦りと一緒に来る。朝の自分みたいに、数字では切れない不安を抱えて来る人もいる。

    だからこそ、いま目の前のカゴを落とせない。

    待合には患者が三人。福田が受付で待ち時間を案内し、浜口がOTC棚の前で年配の女性にマスクの場所を示している。柏木は矢野に、薬局の動線を塞がない位置を指で示していた。

    「大手さんができたら」

    矢野の声が、受付側から届く。

    七実は処方箋から目を離さない。けれど耳だけが、そちらへ向く。

    「利用する側は、便利になりますよね」

    言い切る少し手前の、問いだ。

    その時、白衣のポケットでスマートフォンが震える。

    園からだ。

    画面の保育園名を見た瞬間、七実の手の中の処方箋が少しだけ沈んだ。朝、海音の額に置いた手の感触が戻る。

    この場で取る電話ではない。

    七実は白カゴを鑑査台の中央に置き、春日に短く言った。

    「春日くん、このカゴ、触らず待ってて。患者はまだ呼ばないで」

    「はい」

    七実はスマートフォンを伏せるように持ち、鑑査台から離れる。待合から見えにくい調剤室側のスタッフ動線へ入った。分包機の横、薬棚の影。ここなら、保育園名も、海音の状態も、待合には届かない。

    「いつもお世話になってます。梶浦です」

    電話の向こうで、担任の声が少し急いでいた。

    熱が38℃台に上がったこと。咳が朝より増えていること。ゼーゼーする音は強く聞こえないが、横になりたがっていること。迎えをお願いしたいこと。

    七実は「分かりました」と答えた。

    それ以上、担任に聞き返すことはしない。

    「すぐ向かいます。……はい。吸入は朝、いつもの通りしています。園の連絡帳にも書いてあります。はい、ありがとうございます」

    通話を切ると、スマートフォンの画面が黒くなる。そこに映った自分の顔は、朝より少し疲れて見える。

    やっぱり、ダメだった。

    その言葉は、声にはならない。

    「七実さん」

    振り向くと、柏木が調剤室の入口に立っていた。矢野への対応を、途中で切って来たらしい。

    「園から?」

    「海音が38℃台で。咳も少し。迎えに来てほしいって」

    「行ってください」

    早い。責めない速さだった。

    だから七実は、先に頭を下げてしまう。

    「ごめん。小児のカゴ、一件ある。処方内容は私と春日くんで見てる」

    七実は白カゴの札を指で確認する。

    「疑義札、不足札、電話札はなし。薬袋と薬剤情報提供文書は揃ってる」

    春日が、白カゴの前で固まったままうなずく。

    「吸入薬は処方間隔を確認中。残確認は保護者にする予定だった。春日くんには、カゴを触らず待つように言ってる」

    「分かりました。私が引き取ります」

    「あと、次の白カゴは入力済みだけど、処方内容の確認はまだ。福田さんから上がったばかりで、まだ私見てない」

    「未確認ですね。そこから私が見ます」

    七実は白カゴを柏木の手元へ寄せた。処方箋の上に自分の指を置き、もう一度だけ順番をなぞる。患者名、年齢、粉薬は分包前、吸入薬、薬剤情報提供文書、お薬手帳、保護者への確認。疑義なし、不足なし、電話札なし。

    白カゴの縁は、思ったより冷たかった。手を離した瞬間、自分がいない時間の重さだけが、指先に残る。

    柏木は受け取った白カゴを、すぐ作業台へ置かない。七実の指が離れた場所を、処方箋の角で一度押さえる。

    春日の浮いた両手が、カゴの向こうで迷っている。

    「患者さん、待たせちゃって」

    「待ち時間は福田さんから説明します。通常通りに戻すより、安全優先で組み替えます」

    受付側で、福田がすでに立っていた。

    「梶浦さん、行って。待合は私から声かけるわ」

    浜口も端末横で頷く。指先は少し固いが、受付声は崩れていない。

    「会計側、私見ます」

    春日は白カゴの前で、両手を浮かせたまま立っていた。触るなと言われたから、本当に触っていない。

    「梶浦さん、あの、僕」

    「春日くん、大丈夫。柏木ちゃんの指示で動いて」

    「はい」

    七実はもう一度頭を下げる。

    「本当にごめん」

    「謝るのはあとでいいです」

    柏木の声は淡々としていた。

    「今は迎え」

    その一言で、胸の奥がほどけたわけではない。むしろ、ほどける前に結び直された気がした。仕事は置いていく。けれど、置きっぱなしにはしない。

    七実がトートバッグを取りに戻ると、受付側に立っていた矢野が口を開きかけた。

    さっきの質問の続きだったのかもしれない。大手ができたら便利か。個人薬局は何が違うのか。商店街特集に必要な、きれいに見出しになる問い。

    けれど矢野は、そのまま口を閉じる。

    ノートは閉じなかった。方眼紙の間に人差し指を挟んだまま、ペンだけを止めている。聞くべきではないと決めたように、矢野の肩が一段だけ下がる。

    「今日は改めます」

    矢野は小さく頭を下げた。ショルダーバッグのファスナーは開いたままだ。ノートをしまうこともせず、指を挟んだまま入口へ下がる。

    七実は白衣を脱ぎ、ロッカーの扉を閉めた。中に残した白衣の袖が、少しだけ扉に挟まりかける。

    引き戻して、もう一度閉める。

    スマートフォンには、岳人からの短いメッセージが入っていた。

    『昼前の予定、動かせるか確認中。迎え、間に合わなかったら連絡して』

    間に合わなかったら。

    みんな、間に合わせようとしている。

    それでも最初に走るのは自分だ。

    七実は裏口を出る。九月に近い日差しは、まだ夏の顔をしていた。駐車場までの数歩で、首筋に汗がにじむ。

    保育園まで、混んでいなければ10分。

    信号が青に変わるのを待つ間、七実はハンドルを握り直す。行ける朝だと思った。行かせた朝だった。その違いが、今になって膝のあたりを重くする。

    それでも、車は前に出る。

    海音のところへ向かう。

    *

    保育園の門を出る時、海音は七実の肩に頬を預けたまま、何も言わない。

    朝は自分で靴を履きたがる子だ。園バッグの恐竜キーホルダーを振り回し、陽和の靴下を片方だけ廊下へ投げて、七実に「時間ない」と言わせた。その海音の足が、いまは七実の腰の横で力なく揺れている。

    「ごめんね」

    駐車場までの短い道で、七実は何度目か分からない謝罪を口にした。

    海音は返事をしない。汗で額の髪が張りついている。保育園の先生は責めない。「お仕事中にすみません」と先に頭を下げてくれた。連絡帳には、午前中の様子が丸い字で残っている。午前の水分補給は半分ほど。外遊びは見学。午前10時40分ごろから熱感あり。

    もっと早く迎えに来ればよかった。

    その言葉は、喉の奥で何度も形を変える。けれど、どの形にしても誰かを責める言葉になる気がして、七実は黙る。

    小児科では、待合の時計ばかり見ていた。海音の背中をさすり、体温計の数字を確認し、問診票に今朝の体温と咳の様子を書く。仕事なら、確認事項を順番に並べられる。保護者の不安をほどく声の出し方も知っている。けれど、自分の子の頬が熱い時、その知識は手の中で小さく折りたたまれてしまう。

    家に戻ったのは、昼をかなり過ぎてからだ。

    ダイニングテーブルには、朝、海音が残したパンの耳が、小さな皿にのったまま乾きかけている。洗面所には、濡れたタオル。リビングの椅子には、保育園から持ち帰った着替え袋。薄い水色のシャツは汗を吸って重く、ビニール袋の内側が曇っている。

    七実は海音をソファに寝かせ、体温計をケースから出した。薬袋をテーブルの端に置き、連絡帳を開く。先生の字の下に、保護者記入欄がある。お迎え後、小児科受診。帰宅後は水分少し。服薬予定。

    書けることは、それだけだ。

    海音の額に冷却シートを貼ると、彼は少し顔をしかめた。

    「つめたい」

    「ごめん。すぐ慣れるよ」

    また、謝る。

    保育園に謝り、薬局に謝り、海音にも謝った。岳人には、まだLINEでしか謝れていない。柏木にも、春日にも、福田にも、浜口にも、楠山にも。誰も七実を責めない。だから、よけいに逃げ場がない。

    責められたら、たぶん言い訳できる。

    朝は37℃前後。登園できない数字ではなかった。岳人の予定も詰まっている。薬局は人手が薄い日で、小児科の処方箋が来る水曜だった。春日くんだけでは、まだ不安なものもある。

    言い訳なら、いくらでもある。

    けれど、海音の息が浅くなるたび、その全部が床に落ちる。

    午後2時過ぎ、柏木からメッセージが入った。

    『楠山さん戻りました。休憩回せています。海音くん優先で』

    楠山は、今日は店舗へ戻らない予定だったはずだ。

    七実は返信欄に「すみません」と打って、消す。消してから、もう一度打ち直す。

    『ありがとうございます。ご迷惑をおかけしています』

    送信したあと、海音の寝息を聞いていた。

    迷惑をかけている。

    その事実は消えない。けれど、海音の息が少し乱れるたび、七実の視線はスマートフォンから布団へ戻る。

    謝る相手が多すぎるだけで、いま見るべきものはひとつしかない。

    *

    岳人が帰ってきたのは、午後9時を少し過ぎた頃だ。

    玄関の鍵が回る音で、七実はダイニングの椅子から顔を上げた。海音は寝室で眠っている。陽和も、いつもより早く寝落ちした。リビングには、畳んでいない洗濯物と、記入途中の連絡帳と、体温計が残っている。

    「ただいま」

    岳人の声は、いつもより小さい。ネクタイを緩めながら、テーブルの上の薬袋、体温計、連絡帳を見て、何か言いかけて、やめる。

    「海音は?」

    「寝た。さっき37℃台まで下がった」

    「そっか」

    岳人は鞄を置き、スマートフォンを出した。営業予定のカレンダーを開く。明日の午前には、色のついた予定がいくつも並んでいた。病院名、訪問時間、移動の線。七実には詳しい中身までは分からない。それでも、簡単に動かせる予定ではないことは分かる。

    岳人は画面を見たまま、しばらく黙っている。

    その沈黙に、七実は腹が立ち、すぐにその腹立ちにも疲れる。

    「ここまでして働く必要あるのかな」

    口に出した瞬間、喉がひりついた。

    岳人が顔を上げる。責める目ではない。ただ、聞いた言葉をどこへ置けばいいか探している目だった。

    岳人は、すぐには何も言わない。冷蔵庫が小さく唸って、止まる。その長さの分だけ、七実は自分の言葉をもう一度聞き直すことになる。

    七実は連絡帳の端を指で押さえた。

    「違う。辞めたいわけじゃない」

    矛盾している。

    自分で分かっている。辞めたいわけじゃない。薬局へ行きたい。白衣を着たい。小児科処方の薬袋を並べ、保護者の声が震えるところで少し速度を落としたい。春日くんに、そこで止まって、と言いたい。柏木ちゃんが管理薬剤師として前を向きすぎている時、横から茶化して息をさせたい。

    でも今日、七実は抜けている。

    途中で白衣を脱ぎ、処方箋の流れを誰かに渡して、海音を迎えに行くしかなかった。

    どちらも本当だ。

    岳人はカレンダーをもう一度見た。親指で予定を開き、閉じる。

    「午前の最初だけ、オンラインに変えられるか聞いてみる。二件目は……たぶん無理だけど、昼前までは何とかする」

    「無理しなくていい」

    言ったそばから、無理しなければ回らないことも分かっている。

    岳人は小さく息を吐く。

    「無理しないで済むなら、今日こうなってないだろ」

    その言い方は、優しすぎもせず、冷たくもない。正論で七実を救うつもりも、全部を引き受ける顔もしない。岳人はただ、明日の予定表を見ながら、今日の七実の言葉をそこに置く。

    「午後は、お母さん来てくれるんだよな」

    「うん。横浜から。昼過ぎには着くって」

    「じゃあ午前、俺。午後、お義母さん。七実は薬局」

    七実はうなずいた。

    それで解決したわけではない。予定表の隙間に、海音の熱と七実の仕事を押し込んだだけだ。それでも、明日の形はできる。

    画面の色つき予定は、ずらした先でもまだ詰まっている。空いたのではなく、別の場所へ寄せただけだった。

    岳人が連絡帳を見る。

    「書く?」

    「うん」

    「俺、体温欄だけ書くよ」

    「字、読めないって先生に言われる」

    「失礼だな。営業のメモよりは読める」

    七実は笑う。笑ったら、目の奥が熱くなる。

    *

    翌朝、海音の熱は落ち着いている。

    それでも保育園には行かせなかった。朝の体温は平熱に近い。食パンもひと口食べた。けれど、目の下にはまだ薄い影があり、咳も時々出る。

    「今日はお父さんとお留守番ね」

    海音は毛布を抱えたまま、こくんとうなずいた。陽和は保育園バッグを引きずって玄関に立ち、「にいに、いかないの」と不満そうに言う。七実は陽和の髪を結び直し、岳人はノートパソコンをダイニングに開いたまま、片手で海音の水筒を取る。

    「10時半の電話だけ出る。あとはチャットでいけると思う」

    岳人はそう言ったが、画面の隅では未読の通知が増えていた。七実はそれを見ないふりで、陽和の靴を履かせる。

    昼過ぎには、七実の母、村田由紀子(むらた・ゆきこ)が横浜から来る。由紀子からのLINEには、電車の時刻と、海音の好きなゼリーを買っていくという短い文があった。七実はスマートフォンを持つ親指で、その文を二度なぞる。ありがたい。ありがたいのに、また誰かの予定を動かしている。

    「七実」

    岳人が玄関まで来る。

    「薬局、遅れるなよ」

    その言葉に、七実は一瞬だけ目を伏せた。

    「うん」

    遅れずに行く。昨日抜けた場所へ、今日戻る。

    それが嬉しいのか、怖いのか、七実にはまだ分からない。

    *

    午前9時30分、七実は桜ノ町薬局の裏口を開けた。

    白衣に袖を通す前から、調剤室の音が耳に入る。受付プリンターが処方箋情報を吐き出す音、薬袋をそろえる紙の音、受付側で浜口が「おはようございます」と声を上げる音。いつもの音だ。昨日、自分が途中で抜けても続いていた音。

    「おはようございます。昨日は、本当にすみませんでした」

    七実は調剤室に入るなり、頭を下げる。

    柏木は鑑査台の前で処方箋をめくっていた。春日は薬棚の前で手を止め、福田は受付端末から顔だけ上げる。浜口の電話声が一瞬だけ弱まり、すぐに戻る。

    「海音くんは?」

    柏木が先に聞く。

    「熱は下がった。今日は念のため休ませてる。午前は夫が見て、午後は母が来る」

    「そっか。よかった」

    それだけだった。

    大丈夫だったよ、と柏木は言わない。迷惑じゃなかった、とも言わない。七実が一番聞きたい言葉を、雑に渡してこない。

    柏木は処方箋から顔を上げずに、短く言った。

    「昨日の分は、今日戻します」

    「その戻すのを、春日くんが顔色なくしながら頑張ってたわ」

    「福田さん、それ言わないでください」

    春日が小さく抗議する。けれど、その声には昨日の硬さが少し残っている。

    七実はもう一度頭を下げた。

    「春日くんも、ごめんね」

    「いえ。僕、昨日……止まりました」

    春日はそう言って、鑑査台の横に置かれた白カゴを見る。

    そこには、昨日の日付の処方箋が一枚、個人情報が外から見えないよう裏返され、専用のクリアホルダーに入っていた。カゴの側面には、紫の電話札ではなく、細い付箋が一枚だけ貼られている。赤いボールペンで、短く書かれていた。

    宮田皮ふ科医院。昨日対応済み。OJT用控え。

    七実の胸が沈む。

    昨日の不在中に来たものだろう。宮田皮ふ科の宮田澄乃(みやた・すみの)——手書き処方箋の、あの字だ。

    「宮田先生の字はね、きれいなのに解読に10分かかるのよ」

    福田が受付から、補足とも脅しともつかない調子で言う。

    「新人さんの最初の関門。私は三年かかったわ」

    七実なら、最初の一目で「いつもの字」と分かる。春日にはまだ分からない。

    「患者さんは?」

    春日は、クリアホルダーの端を指で押さえた。中にあるのは、控えだけだ。付箋の隅には、原本保管済みの小さな印もある。

    「昨日のうちに、柏木さんが宮田皮ふ科へ確認しています。調剤と服薬説明も済んでいます」

    春日は、付箋を見てから続ける。

    「今日はこの控えをOJTにって」

    春日は言葉を選びながら言った。

    柏木が短くうなずく。

    「患者情報、外から見えないところでやって。七実さん、お願いできますか」

    「うん」

    必要とされている。

    そう思った瞬間、昨日の白い薬袋が頭をよぎる。海音の熱い額、連絡帳、何度も謝った声。

    必要とされていることと、迷惑をかけたことは、打ち消し合わない。

    どちらも残ったまま、七実は白カゴを持ち上げた。

    白カゴの重さが、昨日とは別の場所に掛かる。持ち上げたのに、昨日の不在だけはまだ手の中にあった。

    *

    調剤室の奥、鑑査台の横には、患者情報が待合から見えない位置に小さな作業台がある。七実はそこへ処方箋を置き、春日を自分の隣に立たせる。柏木は少し離れた薬歴端末の前で画面に向かう。必要なら声をかけられる距離にいる。

    「春日くん、まずこれ、読めるところだけ言ってみて」

    春日は処方箋に目を落とす。

    宮田先生の字は、相変わらずきれいだった。きれいすぎて、処方箋の上で流れている。万年筆の線は太いところと細いところがあり、用法の略号は文字というより記号に近い。右下の朱印だけが、くっきり赤い。

    春日は眉間に皺を寄せた。

    「……先生のお名前と、日付は読めます」

    「うん。そこからでいい」

    「薬品名が、たぶん、略号で……用法も、学校で見た書き方じゃないです」

    「そう。宮田先生は昔からこの書き方。達筆で、略号が多い。字の跳ね方ひとつで、別の略号に見えることがある」

    春日の肩が少し固くなる。

    「それ、疑義照会したほうがいいですか」

    「読めないところが残るならね」

    七実は調剤室の棚から、少し日焼けした背表紙のクリアファイルを抜いた。表紙には「宮田皮ふ科医院 処方覚書」とある。

    「宮田先生用の覚書。字の癖と略号、前にどう確認したかだけ見る」

    七実は処方箋の患者名が見えないよう紙を重ね、該当するページだけを開く。

    「覚書で分かるのは、読めない字をどう読むかまで。部位の記載がなければ、前回と同じだと決めつけない。止めて確認する」

    「うん。処方箋だけで読めた気になるのが一番危ない」

    「昨日、春日くんが止まったのは正しい」

    春日が顔を上げる。

    「でも、僕、読めなかっただけで」

    「読めないなら止める。読めたふりをしない。確認する。それも薬剤師の仕事」

    七実は処方箋の端を指で押さえた。

    「宮田先生の字を読めるようになることがゴールじゃない。読めない時に、読めないって言えること」

    春日のペン先が、処方箋の端で止まる。

    「覚書と問い合わせ記録で、根拠を探す。それでも残るなら、患者さんに渡る前に電話する」

    春日は、メモを取ろうとして、いったんペンを止めた。

    字を覚える話ではない。止まる場所を覚える話なのだと、春日の顔が少し遅れて追いつく。

    「知らないから、止めていいんですね」

    「止めていい、じゃなくて、止めるの。必要なら」

    春日は頷いた。落ち込んだ顔ではない。困惑は残っている。でも、目は逃げていない。

    「昨日これで止まったんです。梶浦さんの見方、教えてください」

    その一言で、七実の胸の奥が揺れた。

    昨日いなかった自分が、今日ここで春日に教えている。

    昨日抜けたことで露出した穴を、今日、自分の手で塞いでいる。

    でも、穴が開かなかったことにはならない。

    「じゃあ、順番に見るよ」

    七実はクリアファイルのページを一枚めくった。古い紙の端に、新しいボールペンの線が重なっている。

    「私も、最初から読めたわけじゃないよ。宮田先生の字、きれいなのに読めないから」

    「きれいなのに読めない」

    「そう。薬局あるある」

    春日が、ほんの少し笑う。

    その笑いで、調剤室の空気が戻る。受付側では福田が次の患者を案内し、浜口の電話声がいつもの高さで響く。柏木は薬歴端末から顔を上げず、こちらの会話を聞いている気配だけを残している。

    七実は処方箋をクリアホルダーへ戻し、控えと実務は分けること、メモはこの場で必要な分だけにすることを短く確認した。春日の返事は、さっきより少しだけ強い。

    七実は白カゴを持ち上げ、鑑査台へ戻った。腕にかかる重さは、昨日の薬袋とは違う。けれど、どちらも軽くはない。

    *

    午後の外来が、いったん細くなった。

    受付前の椅子には、まだ二人分の荷物が残っている。福田が会計を閉じ、浜口がOTC棚の前で年配の女性に湿布の場所を案内していた。春日は午前の宮田先生の処方箋を片づけたあと、鑑査台の端で自分のメモを見返している。

    七実は白カゴを一つ受け取り、処方箋と薬袋を見比べた。

    小児科、4歳、咳。吸入のお薬と、咳の症状に合わせて出された薬。薬袋の印字はそろっている。薬剤情報提供文書も出ている。

    名前の欄に、高森湊(たかもり・みなと)、とある。

    「四十二番の方、こちらへどうぞ」

    呼ぶと、待合の端に座っていた女性が顔を上げる。高森彩乃(たかもり・あやの)は、ショルダーバッグを膝の上で抱え直し、すぐに立った。動きが速い。けれど、その速さの最後で、膝が少しだけ止まる。

    湊は彩乃の横で、母親の服の裾を握っていた。4歳らしい丸い指。目は眠そうで、頬だけが少し赤い。さっきまで咳き込んでいたのか、口元を手の甲でこすった跡が残っている。

    「こちらへどうぞ」

    七実は投薬カウンターの内側へ移動した。患者の名前や症状が待合へ広がらないよう、声はいつもより一段だけ落とす。

    彩乃はカウンターの前に立ち、湊を自分の足元へ寄せる。

    「すみません、あの、急いでいて」

    「高森湊くんですね。お名前、確認します」

    彩乃がうなずき、湊の肩に手を置いた。

    「大丈夫です。湊くんのお薬の説明、必要なところだけ順番に確認しますね」

    返事は早い。早いのに、目だけが薬袋ではなく時計へ行く。

    七実はその目線を追わないふりで、薬袋を並べた。

    「湊くん、今朝から咳が強かったんですね」

    彩乃の指が、バッグの持ち手に沈んだ。

    「……はい。朝、いつもより強くて」

    「湊、喘息気味って言われていて。咳が強い日は、いつも迷うんです」

    湊が小さく咳をした。彩乃は反射的に背中へ手を当てる。慣れた手つきだった。迷いはなく、けれど力を入れすぎない。何度もそうしてきたのだと分かる。

    「熱は、朝はそこまでなくて。保育園も、行けるかなって」

    彩乃は言い訳のように言って、それに自分で傷ついた顔をした。

    「私、クルーメで働いてるんです。Morgenkrume。パン屋の」

    「商店街の」

    「はい。朝、仕込みとレジが重なる時間で。焼き上がりの受け渡しもあって」

    彩乃の声が乾く。

    「店長と二人で回してて、パートさんが来るのは10時過ぎで。私が抜けたら、レジも、焼きたての取り置きも、全部止まるんです」

    「開店の棚、空にしたくなくて。あの店、朝のパンを買いに来る人が多いから」

    湊の指が、母親の服に沈む。

    「でも、咳はしてて。強いなとは思ってて。だから、保育園から電話が来たら、その時に行けばいいって」

    そこで彩乃は口を閉じる。

    七実は、薬袋の角をそろえたまま、何も言わない。先に頷くと、彩乃が自分を責める言葉を急いで足してしまう気がした。

    案の定、彩乃は小さく息を吸う。

    「でも、あの時間に抜けたら店も回らなかった」

    言ってすぐ、彩乃の顔から力が抜ける。

    その言葉が誰かへの抗弁ではなく、自分に刺さる刃だったことを、七実は見ている。彩乃は湊の背中に当てた手を、一度だけ離しかけ、また戻す。

    処方箋を抱えたまま、保育園の番号を見た時の胃の沈み方を、まだ身体が覚えている。

    「高森さん」

    七実は、薬剤情報提供文書を一枚、彩乃の見える向きに置いた。

    「まず、お薬の使い方から確認しますね」

    彩乃は、叱られる前に姿勢を正す人みたいに、背筋を伸ばす。

    「湊くんの場合は、先生からこう説明されています。吸入のお薬は今日から指示された回数で、こちらの薬は咳の症状に合わせて、薬袋の通りに使います」

    七実は薬剤情報提供文書の端を押さえ、該当箇所を指で示す。一般論へ広げそうになる言葉を、薬袋の上で止める。自分の子の時はこうだった、とも言わない。湊に出された薬と、医師が今日説明した指示。その線の内側だけを、丁寧になぞる。

    彩乃が薬袋を目で追う。

    「吐いてしまった時や飲めなかった時は、自己判断で足したりせず、クリニックか薬局へ確認してください」

    彩乃がうなずく。

    「保育園に持っていく時は、園の投薬依頼に必要な範囲で確認してください」

    七実は薬袋の名前欄と用法欄を順に指す。

    「名前と用法欄は、ここで見せられます。連絡帳や投薬依頼書は園のルールに合わせてください」

    「分かりました」

    彩乃は返事をしながら、湊の髪を指で撫でた。額に触れ、熱を確かめる。朝から何度もそうして、何度も迷ってきた親の手だった。

    「先生からは、こういう時はもう一度連絡、という説明がありましたか」

    「はい。息が苦しそうだったら、とか、咳が止まらない時は、って」

    彩乃はバッグから診療明細と一緒に小さなメモを出す。端に、医師の言葉らしい短い箇条書きがある。字は急いでいる。待合で湊を膝に寄せながら書いたのだろう。

    「湊くんの場合は、この目安を優先してください。不安な時は、薬局で分かることは一緒に確認します」

    七実はメモを彩乃の手元へ戻す。

    「ただ、受診の判断が必要な状態かどうかは、先生の指示に沿って連絡してください」

    「はい」

    彩乃の声が少し低くなる。理解したというより、ようやく言葉が自分の中へ入る場所を見つけたような声だ。

    湊が小さく「ママ」と言った。

    彩乃は「うん」と返し、片手で背中を撫で続ける。

    「私、今朝、ちゃんと見てたのに」

    その声は、七実へ向けたものではない。

    「見てたのに、行かせちゃった」

    七実は、薬袋を白カゴから出し、彩乃の前へ置いた。紙の音が、カウンターの上で小さく鳴る。

    「見ていなかったわけじゃないと思います」

    彩乃の視線が上がる。

    七実は、そこから先を急がない。

    「朝の咳が強いって気づいて、熱を見て、保育園から電話が来たら動くって考えていた」

    七実は、薬袋の角を指でそろえる。

    そこで言葉を止める。言い足せることはいくつもある。どれも、きれいすぎた。

    彩乃の唇が少し動く。けれど、言葉にはならない。

    「それでも、あとから悔やむことはあります。私も、あります」

    海音の名前は、出さない。彩乃の話を、自分の話に塗り替えない。

    七実は、薬袋の端から指を離した。

    彩乃の指が、湊の上着の袖を小さく握る。保育園からの電話。店のシフト。休むたびに、誰かの時間を借りること。そのどれも、七実がここでほどけるものではない。

    七実の頭の片隅で、朝の予定表がまた光った。岳人が動かそうとした四角、保育園からの着信、柏木へ渡した白カゴ。彩乃の前に立っている今も、それらは消えていない。だからこそ、簡単に「大丈夫」と言うのは違う。

    彩乃の目が赤くなる。

    「でも、私、働きたいって思ってて」

    言った途端、彩乃はまた俯く。働きたい。その言葉だけで、子どもより仕事を選んだように聞こえるのを怖がっている顔だった。

    七実は、その顔をまっすぐ見る。

    「働きたいって思うことまで、悪いことにしなくていいと思います」

    言い切ってから、薬袋の端を押さえる爪が白くなっていた。

    彩乃は返事をしない。

    湊の背中を撫でる手だけが、少しゆっくりになる。

    七実は薬袋の印字へ視線を戻した。ここで渡せるのは、彩乃の明日を軽くする言葉ではなく、今日の処方を安全に使うための確認だ。その線を越えないために、もう一度、紙の上の文字を読む。

    「……そんなふうに言ってもらえると思わなかったです」

    「私も、いつもそう思えているわけではないです」

    七実の口から、思ったより正直な声が出た。

    彩乃が目を上げる。七実は笑った。小児科の保護者へ向ける、柔らかいが崩れすぎない顔。

    「だから、今日はお薬のことを一緒に確認します。湊くんが今夜少しでも楽に過ごせるように」

    彩乃は、唇を引き結んでうなずく。

    会計を終えたあと、彩乃は薬袋をバッグへ入れ、湊の手を取った。自動ドアの前で一度振り返る。

    「クルーメ、夕方にはまだ少し残ってると思います。よかったら」

    言い方は、宣伝ではない。自分の働いている場所を、まだ嫌いになりたくない人の声だ。

    「寄れたら、寄ります」

    七実が答えると、彩乃は小さく頭を下げた。湊も母親に促されて、少しだけ手を振る。

    自動ドアが閉まった。

    待合に音がもどる。プリンターが紙を吐いた。浜口の声も高い。鑑査台から春日が呼ぶ。

    「梶浦さん、こちら確認お願いします」

    春日は白カゴを差し出しながら、声を落とす。

    「さっきの説明、僕だったら急いで終わらせようとしてました」

    七実は白カゴを受け取り、処方箋へ目を落とす。

    言葉は、胸の中でまだ少し硬かった。誰かに渡せる形にしただけで、自分の中では、まだうまく溶けていない。

    それでも次の白カゴを支える指に、昨日より力が戻っている。

    *

    夕方、七実はクルーメの前で車を停めた。

    通りの先に、ノルメディス北多摩店の白い看板が見える。昨日の昼前に見た矢野のノート欄外の「外観写真」という文字だけがふと浮かび、七実はすぐ、目の前のクルーメへ視線を戻す。

    Morgenkrumeの小さな看板は、夕方の光で文字の縁だけがやわらかい。店内には、焼きたての時間を過ぎたパンが、数を減らして並んでいる。レジにいるのは彩乃ではなく、店長らしい男性だ。

    七実は、ミルクパンと丸い食事パンを二つ買った。会計の横に、取り置き用の札が数枚重なっている。

    朝、この札とレジと焼き上がりの棚を、彩乃は見ていたのだろう。

    袋を受け取ると、紙越しにまだ少し温度が残っている。

    *

    家に帰ると、海音はソファの端でタオルケットを抱えていた。熱は下がっている。けれど本調子ではない。目の下が少し重く、咳のあとに小さく息を整える。

    「ただいま」

    「おかえり」

    声は細い。

    陽和は先に夕飯を食べ、床でブロックを並べている。岳人はキッチンで洗い物をしている。

    午前は岳人、午後は由紀子。岳人は昼から出社して、いつもよりずっと早く切り上げて帰ってきた。誰かの予定が少しずつずれて、今日一日がどうにか形になっている。

    「パン、買ってきた」

    七実が袋を開けると、海音が顔を上げる。

    「パン?」

    「商店街のパン屋さん。ひと口食べる?」

    海音は迷うように口元を動かし、それから小さくうなずいた。七実はミルクパンをひとかけ、皿に置く。海音はそれを指でつまみ、ゆっくり口へ運んだ。

    一口。

    それだけで、七実の肩から何かが少し抜けた。

    全部治ったわけではない。咳はまだ残っている。明日の保育園に行けるかも分からない。岳人の予定も、由紀子の帰る時間も、薬局のシフトも、どれも都合よく軽くはならない。

    食卓に座り、七実は連絡帳を開いた。

    今日の体温。咳の様子。受診したこと。処方された薬のこと。園に伝える必要があることだけを、短く書く。余計な罪悪感は、連絡帳に書いても先生を困らせるだけだ。

    ペン先が、明日の体温欄の上で止まる。

    空欄。

    明日の朝、ここに何度を書くのかは、まだ誰にも分からない。

    皿の上には、海音が残したパンの耳が一本だけあった。朝は避けた耳だ。夜になっても、そこだけ少し硬い。七実はそれを捨てる前に、指で半分に折った。

    朝、予定表の色つきの四角を見ないふりをした自分を思い出す。薬局で彩乃に言った言葉は、七実自身にもまだ半分しか届いていない。働きたいと思うことを悪くしない。その言葉を明日の朝も持てるかどうかは、まだ分からない。

    パンの耳は、折ってもやはり少し硬い。

    捨てるには軽く、見なかったことにするには目立った。

    椅子の背には、明日着る白衣を入れたバッグがかかっている。ポケットには、今日使ったボールペンと、折りたたんだシフト表。スマートフォンの画面には、柏木から共有された明日のシフト確認が残っていた。

    『明日、海音くんの様子優先で。朝の状況だけ教えてください』

    その下に、春日からの短いスタンプと、浜口の「お大事にしてください」が続いている。

    七実は返信欄を開き、すぐには打たなかった。

    謝る言葉はいくらでも浮かぶ。昨日も、今日も、何度も口にした。保育園に、薬局に、海音に、岳人に。誰も責めていないのに、謝らないと自分が立っていられない時がある。

    現実は変わらない。

    仕事も、育児も、迷いも、謝ることの多さも、明日の朝の体温欄も。

    それでも七実は、連絡帳の今日の欄を書き終え、ペンを置かずにもう一度持ち直した。

    手は、まだ少し強張っている。

    ただ、昨日ほどではなかった。


    続きはこちら。

    第6話では、春日樹がもう一歩、薬局の現場に踏み込みます。
    「知らない」ままではいられなくなった新人が、何を見て、何を選ぶのか。

    「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。

    #創作大賞2026
    #お仕事小説部門

     
     
    現役薬剤師・著者。薬局の見えにくい仕事を、物語と安全な実践知にして届けています。 お仕事小説『私、薬剤師なんで。』全9話公開中(note創作大賞2026応募作)。 Kindle『薬剤師、AIはじめました』著者。 薬局の仕事、AI時代の創作、安全なAI活用について発信しています。

    あなたへのおすすめ