
「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第4話 楠山啓一郎、足りないまま行く
前の話はこちらです。
八月上旬の朝は、開店前のアスファルトまで白く光っている。
楠山啓一郎(くすやま・けいいちろう)は、商店街の角で足を止めた。
青果の田中の跡地に建った白い建物。その正面の看板は、もう何日も前からそこにある。
ノルメディス薬局 北多摩店。
調剤併設の、全国チェーンだ。看板の下に、今朝から新しい横断幕が一枚加わっていた。
——12月1日オープン。スタッフ募集。薬剤師・登録販売者・医療事務。
募集の文字の横に、時給が並んでいる。楠山は数字を端から読んだ。
(時給の数字が、うちより上だ)
それだけ確かめて、歩き出す。腹を立てる場面ではない。大手は大手の原価で人を雇う。こっちはこっちの原価で店を回す。朝から確認することが一つ増えた、というだけの話だ。
建物のガラスは、まだ養生シートの内側だ。それでも外から、棚の骨組みが入りはじめているのが分かる。間口はうちの倍。駐車場は四台。処方箋の受け取りカウンターは、たぶん通りに向く設計だろう。経営者の目は、頼まなくても勝手に測る。測ってから、やめた。測った数字の置き場が、今朝はまだない。
ただ、横断幕の白さは、振り返らなくても背中に残った。うちの薬剤師の給料を、楠山は思い浮かべない。思い浮かべないという作業を、一秒だけした。
桜ノ町薬局の裏口を開けると、消毒用エタノールと紙の匂いがする。レセコンの低い唸り。受付プリンターの試し打ち。先代の頃から、開店前の音はほとんど変わらない。
「おはようございます」
受付では浜口柚衣が釣銭機を開け、市販薬の棚の前では春日樹が乱れた箱を正面へ戻している。柏木千晶は待合の椅子を拭き終えて、薬歴端末を立ち上げている。調剤室では福田芳江が、備品の補充をしていた。
開店前の店は、誰も大きな声を出さない。それぞれが自分の持ち場の音だけを立てる。先代の頃から変わらないこの30分が、楠山は嫌いではない。
楠山は頷いて、奥の席で経理画面を開いた。
月次の数字が並ぶ。外来、在宅、物販。画面を下へ送って、指が一箇所で止まる。
「多摩いずみ苑の請求、また赤だな」
声に出したつもりはなかったが、福田には聞こえたらしい。備品を棚へ戻す手を止めずに、こちらへ言う。
「先代の頃からですものね、あそこは」
「ああ」
それ以上は、どちらも続けない。30年付き合いのある施設の月次が赤いのは、今月始まった話ではない。往診同行の半日、配薬の準備、急配の車代。人件費と移動時間を積めば、正式担当の5名分で黒が出る構造になっていない。分かっていて、続けている。
画面の隣の列には、外来と物販の数字が並ぶ。こちらで埋めて、あちらが沈む。店全体では、まだ回る。まだ、という副詞を、楠山は頭の中で使うたびに聞き流すことにしている。
数字の中身を、楠山はもう一度だけ見た。騒ぐには小さく、忘れるには大きい。そういう赤だ。
切れば、数字は軽くなる。切る気はない。
「やめるなら、先代の墓前で言ってからですね」
福田が、冗談の形で本当のことを言う。楠山は返事の代わりに、画面を閉じた。やめる気がないことくらい、この人は三十年前から知っている。
開店前の朝礼は短い。柏木が申し送りを読む。内科の予約が多めなこと、卸の納品が昼になること、午後のFAX処方箋の受け方。春日が頷き、浜口が付箋を貼る。決めることだけ決めて、2分で終わる。長い朝礼は、開局時間を削るだけだ。
一通り終わったところで、楠山は口を開いた。
「今日は、俺と柏木で多摩いずみ苑へ行く」
春日が、頷きかけたまま止まる。
「楠山さんと柏木さん、二人とも外ですか」
言い方は平静だが、最後の一音にだけ不安が残った。9時半に出てくる梶浦七実の名前を、楠山が出す前に、福田が調剤室側から言う。
「外来は私とゆいちゃんで見るわ。9時半からは七実さんもいるし、混みそうなら早めに声かける」
「お願いします」
柏木がファイルの表紙を見て、それから楠山を見た。
「私も、ですか」
「ああ。見ておけ」
柏木は二秒だけ黙り、「分かりました」と答えて、すぐに午後の段取りを組み替えはじめる。春日への一包化の順番、浜口へのFAX処方箋の受け方。ひとつ言っては、もうひとつ言い足している。少し店を空けるだけで頭の中の段取りを何度もなぞり直すのは、管理薬剤師の職業病だ。なった者にしか、かからない病気でもある。
それだけ言って、楠山は保管棚から訪問用バッグを取り出す。
なぜ連れて行くのか、とは聞かれなかった。聞かれたら、何と答えたか分からない。人手の問題と言えば嘘になるし、本当の理由には、まだ名前を付けていない。
(そろそろ、見せておく)
頭の中にあるのは、その程度の言い方までだ。その先は、考えない。考える代わりに、バッグの中身を確認する。処方控えの綴り、残薬の回収袋、施設用の申し送り用紙。手は、考えるより先に動く。
*
午前の外来は、いつもの月のいつもの波で動いた。
楠山は経理画面と発注画面を行き来しながら、耳だけを店に向けている。受付の浜口の声が一段上がれば混みはじめた合図で、福田の「番号でお呼びしますね」が出れば、待合のどこかに苛立ちが溜まっている。画面の数字と、店の音。両方を同じ机で聞くのが、オーナー薬剤師という仕事だ。
途中、在宅の定期の電話が一本。薬の追加が一件。どれも線の太さは変わらない。多摩いずみ苑のファイルだけが、机の端で午後を待っていた。
午後1時前、昼の外来が切れる。
楠山は調剤室の奥で、多摩いずみ苑のファイルを開いた。隣で柏木が、往診用の端末に正式担当5名分の薬歴を出す。
午後は往診同行——医師が施設へ出向いて入所者を診る場に、薬剤師もつく。残薬や飲み方の様子を診察へつなぎ、決まった変更を店へ持ち帰るのが仕事だ。
多摩いずみ苑は、入所28名の、小さな特別養護老人ホームだ。うちが定期配薬と薬歴管理で深く関わるのは、そのうち5名。残りは入所前からのかかりつけや、家族手配の薬局がばらばらに入っている。
5名なら軽い、という話にはならない。朝食後、昼食後、夕食後、眠前、外用薬に頓服、施設での保管場所、飲めた日と飲めなかった日。紙の上では項目に見えるものが、施設では一日の順番になる。
「今日は、ここで全部を決めるわけじゃない。判断するのは沢田先生だ。こっちで見られる材料だけ持っていく」
「はい」
「喜美子さんは大きな変化なし。前回も通常確認だけで終わってる。外用薬は残数だけ見る」
柏木が薬歴を開く。沢田喜美子(さわだ・きみこ)。桜ノ町内科の沢田雅臣の母で、多摩いずみ苑に入所して、もう長い。
「山根さん。寝る前の薬が前回も残っていた。今回も残っている可能性がある。ただ、理由はまだ分からない。飲まずに眠れる日があるのか、飲み忘れか、飲みたくない事情があるのか。そこは診察で聞いてもらう」
「残数だけ先に確認ですね」
「そうだ。田代さんは前回、大きな体調変化なし。薬も継続。ただ、施設で何か出るかもしれない。残り2名は、いつもの内服と外用薬。現地で残薬と使い方を確認する」
「残り2名のうち、お一人は塗り薬の減りが遅い。もうお一人は、朝の薬が1日ずれてた月がある。どっちも、本人と施設の声かけ次第で変わる類のずれだ」
「分かりました」
柏木は端末へ短くメモを打っていく。喜美子、通常確認。山根、残薬。田代、変化なし。四行で終わる画面を、柏木はしばらく見ていた。
四行の向こうに何があるかは、書いていない。書けるものなら、誰かがとっくに書いている。
柏木の指が、キーの上で止まったまま動かない。楠山には、その横顔が画面とは別の場所に向いているように見えた。
「不安か」
聞くと、柏木は顔を上げる。
「不安というより、足りない感じです」
「足りないまま行く日もある」
楠山はファスナーを閉めた。
「足りないから、現場で拾う。拾ったものを、そのまま先生に投げない。薬歴と残薬と剤形と在庫に戻して、判断できる形にする」
言葉にすれば、それだけだ。それだけのことを、何年も続けている。
入社したばかりの頃の柏木は、同じ質問ばかりする子だった。これ、大丈夫ですか。これは疑義照会ですか。薬歴にはどこまで書けばいいですか。確認しなければ動けない時期が、この仕事には誰にでもある。閉局後に一度だけ、不安を誰かに預けるな、と言ったことがあった。突き放す言い方だったと、言った後で思った記憶まで、なぜか残っている。
あの晩の柏木が今、管理薬剤師の名札を付けて隣に立っている。それを早いと見るか遅いと見るかは、考えない。
「管理薬剤師は、慣れたか」
「慣れたら終わりです」
「偉くなったもんだな」
「褒めていますか」
「半分くらいはな」
残り半分は言わずに、車のキーを取る。
出る前に、投薬カウンターの梶浦へ声をかけた。
「夕方、いずみ苑の変更が入るかもしれん。札が増えたら春日に分けさせてくれ」
「了解です。いってらっしゃい」
梶浦の返事は軽い。軽く返せる人間が店に残っている、ということが、外へ出る側の足取りを決める。
業務車を商店街から出すと、角の看板が嫌でも視界に入る。楠山は減速しない。助手席の柏木も、何も言わない。ただ、膝の上のファイルの角を、指で一度だけそろえた。
信号で止まる。フロントガラスの向こうで、八月の光が道路の白線を飛ばしている。冷房の風がファイルの角を小さく揺らした。
頭の中で、帰ってからの段取りを並べる。今日の往診で変更が出れば、夕方の便に間に合わせる必要がある。卸の締めは夕方4時。発注は戻ってすぐ。施設へ届け直すなら、夕食後の服薬時間が締切になる。変更が二件なら、春日に札を分けさせて、鑑査は柏木。一件なら俺が持って走ったほうが早い。
隣で柏木が、控えのページを行き来している。何度も同じ行に戻っているのが、めくる音で分かった。
締切から逆算して並べれば、どんな日も、やることは一本の線になる。
線にしてから、こなす。先代のやり方だ。教わったというより、隣で見ていた。
*
往診予定の30分前、多摩いずみ苑へ着く。
玄関の自動ドアが開くと、外の熱気が背中から押し込まれ、施設の冷たい空気にほどけた。受付横の壁に、季節の折り紙。朝顔と金魚。毎年、形が少しずつ違う。
「お疲れさまです。今日も暑いですね」
介護主任の安西真紀(あんざい・まき)が、保管室の鍵束を持って出てくる。短く結んだ髪の横で、鍵束が小さく鳴った。柏木がここへ来るようになるずっと前から、窓口はこの人だ。職員が入れ替わっても、薬の受け渡しの段取りだけは崩れたことがない。
楠山が頭を下げ、柏木も続いた。
「沢田先生が来る前に、先に保管分を確認させてもらえますか」
「はい、いつもの棚ですね」
保管室の棚には、入所者ごとのボックスが並ぶ。楠山は山根の札を見つけ、ボックスを手前に引いた。日付順に並んだ一回分ずつの薬。奥には塗り薬と頓服の袋。
寝る前の袋が、今回分にもいくつか残っている。
封を切っていない袋は、軽いのに棚の中で妙に場所を取る。楠山は数を確かめ、柏木が控えの端へ書き込んだ。残数、使いかけの塗り薬、いつからあるのか分からない袋。一つ確認しては戻し、次のボックスへ移る。
ボックスは同じ形で並んでいる。中身は同じではない。袋の残り方、塗り薬の減り方、メモの挟まり方。施設の一日が、棚の中に痕跡で残る。
柏木がボックスの持ち手の名前シールを、指の腹で押さえた。角が少しめくれている。何度も出し入れされ、何度も同じ場所へ戻されてきた跡だ。整理された棚でも、生活のずれは端から顔を出す。それを見つける指は、悪くなかった。
廊下の向こうから、車椅子のブレーキ音。ホールの一角に、診察用の机が少し斜めに置かれている。完全な個室ではないが、他の入所者から見えにくい向きで、声が通りすぎない距離が取られていた。安西の仕事だ。毎回、机の角度が同じになっている。
棚の確認を終えたところで、楠山は柏木に一つだけ言っておいた。
「診察の間、喜美子さんの周りの話は俺が受ける。お前は記録に集中しろ」
「……はい」
理由は言わない。言わなくても、薬歴の「沢田」の姓を見た時点で、半分は伝わっているはずだ。
往診の時間に、沢田雅臣が姿を見せた。白衣ではなく訪問用の軽いジャケットで、クリニックの事務が血圧計のバッグを机の脇へ置く。
「お疲れさまです」
「今日は5名ですね」
「最初は喜美子さんからお願いします」
安西の声は、いつもの往診の声だ。
ホールの反対側では、入所者が数人、テレビの前に座っている。音は小さい。職員が一人、車椅子の角度を直して回る。施設の午後は、診察が始まっても止まらない。その止まらなさの中に、診察の机だけが少し違う時間で置かれている。
喜美子が車椅子で診察席へ移る。薄いカーディガンを肩に掛け、膝の上に折りたたんだタオル。沢田がカルテ端末を開いた。
「喜美子さん、こんにちは」
沢田の声は、外来の診察室より半音だけ柔らかい。本人は気づいていないだろう。毎回そうなのだから、癖というより、ここでの正しい音なのだ。
喜美子は沢田の顔を見て、少し首を傾け、それから思い出したように笑う。
「先生、今日も来てくれたの」
沢田の指が、端末の縁で一度だけ止まる。
「はい。今日は体の調子を見せてください。食事は食べられていますか」
「食べてますよ。ここのお味噌汁、薄いけどね」
安西が横から小さく笑い、昨日の夕食が八割だったこと、水分も取れていること、夜に大きな変化がないことを順に補う。数字で言えば三つ。三つを毎日、28人分見ている人の声だった。
沢田は聴診器を手に取り、呼吸の音を聞き、むくみを確かめ、表情と受け答えを見ていく。医師として必要なことを、必要な順番で。その順番が崩れないことに、患者は安心する。
楠山は、半歩下がった位置でそれを見ている。
喜美子が沢田を息子として迎える日と、先生として迎える日があるのを、楠山は知っている。沢田が母をここへ預けた年も、最初の往診の日に、部屋の前で一度だけ立ち止まったことも。四半世紀も出入りしていれば、見たくなくても見える。見えたものを、口にしないだけだ。
「かゆみはどうですか」
「今は大丈夫。お風呂のあとに、塗ってもらってる」
「入浴後に声かけして、使えています」
安西が補い、沢田が楠山へ視線を寄越す。
「薬の残りは?」
「外用薬は使用中一本、未開封一本です。前回分で足りそうです。追加は急がなくて大丈夫だと思います」
言い切らない。判断は、沢田に渡す。
「では今回は追加なしでいきましょう。赤みが増えたり、かゆみが戻ったら教えてください」
喜美子は素直に頷いて、それから、ふいに言った。
「先生、ここの人たち、よくしてくれるのよ」
沢田の指が、カルテ端末の上で一拍止まる。
「そうですか。それはよかった」
声は穏やかで、雑ではない。次の瞬間には、いつもの町医者の顔に戻っている。
楠山は、自分の控えに外用薬の残数だけを書いた。書くべきことは、それで全部だ。書かないことのほうが、いつも少しだけ多い。
喜美子の車椅子が下がっていく。沢田は次のカルテを開く前に、一度だけ眼鏡の位置を直す。直す必要のない位置にあった眼鏡を、だ。それも、書かないことの一つに入れる。
「次、山根さんお願いします」
山根は小柄な女性で、膝の上に薄いカーディガンを置いている。冷房の風が当たりすぎないよう、安西が椅子の向きをずらした。
血圧の測定が終わると、安西が顔を上げた。
「寝る前の薬が、今回も残っていて……」
「前回もそうでしたね」
沢田は山根へ向き直る。声が、ほんの少しゆっくりになった。
「山根さん、こんにちは。最近眠れてますか?」
山根は、カーディガンの端を指でつまむ。
「飲まなくても眠れた日はあるんです。でも、薬がないとまた眠れなくなるんじゃないかと思うと……」
最後のほうだけ、言葉が細くなった。
薬局で見れば、残薬は数になる。何日分残っているか。次回処方をどうするか。数が合うか、合わないか。だが山根の指がつかんでいるのは数ではない。薬が手元からなくなった夜のほうだ。
楠山は控えの「前回残」の文字を見る。前回もこの数字を書いて、理由の欄を空けたまま帰っている。今日、その空欄に言葉が入る。診察というのは、そのためにある。
「薬が手元にないと、不安になりますか」
「はい。眠れない夜は、長いので」
沢田が楠山を見る。
「残薬はどのくらいですか」
「寝る前の薬が、前回から続けて残っています。今回も予定より多いです。残っている分を使えば、次回までは足りそうです。日数調整をご検討いただけると思います。ただ——」
楠山はそこで、一度だけ言葉を選んだ。
「薬が急になくなると、山根さんの不安が強くなるかもしれません」
「分かりました。では今日は、その形でいきましょう。次まで、飲んだ日と眠れた日を一緒に記録してください」
安西が申し送り帳に書き込む。ペン先の音が、少しだけ長く続いた。
隣で、柏木が小声を寄越す。
「楠山さん。山根さん、さっきから、カーディガンの端をずっと……」
「見えてる」
短く返す。柏木は頷いて、端末に何かを打ち足した。
(見るところは、悪くない)
口には出さない。褒めて伸びる段階は、この子はもう過ぎている。
田代は、診察席へ移るまでに時間がかかった。安西がブレーキを確かめ、職員が膝掛けを整える。田代は膝掛けの端を握り、小さく「ごめんね」と言った。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
沢田の声に、急かす色はない。
安西が少し眉を寄せた。
「最近、錠剤が口に残ることが何度かあって」
夕食後、湯飲みを持ったまま口を閉じて黙っていた日。舌の上に白い錠剤が残っていた日。飲み込んだつもりが、頬の内側に張りついていたこともある。安西の報告に、責める響きはない。見たものをどう渡せばいいか探している声だ。
「飲み込みにくい感じがありますか」
「前より、ちょっと。うまく下りていかない時があるの」
「食事の時にも、むせることはありますか」
「お茶を飲む時に、たまに」
沢田が口元と声の出方を確かめている間に、楠山の頭の中では、線が走り出している。
口に残った薬。同じ成分で、口の中で溶ける形があるか——ある。薬局の在庫——ある。今夜の夕食後に間に合うか——間に合う。粉の形しかないもう一剤——卸に手配がいる。締めは4時。明日午前着。次回の定期便——合流できる。
砕けばいいという話ではない。砕いてはいけない薬がある。ゆっくり溶けるように作られた錠剤を砕けば、効き方ごと壊れる。形を変えるなら、初めからその形に作られた薬へ切り替える。だから在庫と、手配と、届く日付の話になる。
線は、五本目まで一息につながった。つながってから、口を開く。
「先生、今の薬を、飲み込みやすい形に変えられるか確認します」
柏木の端末をのぞき、薬の名前を指で追う。
「候補は、口の中で溶ける形か、粉の形です。ただ、選べる形は薬によって違います。砕かないほうがいい薬もあります。今日、口に残っていた薬は、同じ薬で口の中で溶ける形があります。薬局に在庫もあるので、変えるなら今夜の分から用意できます。こちらは粉の形ですが、手配が必要です。急ぐか、次回の分からでよいかは、先生のご判断です」
「では、口に残っていた薬から変えましょう。今日必要な分は、薬局で準備できますか」
「はい、夕食後に間に合うようにします」
沢田が安西へむせ込みの記録を頼み、田代が口元から手を下ろして、息を吐いた。
楠山は控えに剤形変更の段取りを書き込みながら、隣の気配に気づく。柏木がまだ、端末の画面の中で線を辿っている。口腔内崩壊錠、在庫、夕食後。一本ずつ、指でなぞるように。
四十の時の自分が、同じ顔をしていたはずだ。親父の背中の向こうで、つながらない線を数えていた。
それだけ思って、次のボックスへ手を伸ばす。
残り2名は、確認だけで済んだ。塗り薬の残りが多い一人は、本人が「もうかゆくない」と笑い、沢田が皮膚を見て継続を決める。朝の薬が1日分ずれていた一人は、薬ではなく声かけの重なりが原因で、次回まで施設の記録で追う形に整えた。どちらも、紙の上では一行で終わる。一行にするまでが、仕事だ。
途中、配膳車の車輪が廊下の向こうで鳴った。食器の触れる音が、診察の合間へ入り込む。薬の話は、食事と介助と声かけの話と切り離せない。薬局のカウンターの中にいるだけでは、一生聞こえない音だった。
往診が終わると、部屋の空気が少し緩む。
職員が入所者を戻し、安西が申し送り帳を抱えて廊下へ出ていく。残ったのは沢田と、クリニックの事務と、楠山と柏木だけになった。
クリニックの事務が処方箋と次回予定を整え、紙の端をそろえる音が机の上で乾いて響く。廊下の先では、安西の申し送り帳がもう次の頁を開いているだろう。往診が終わっても、施設の時間は止まらない。
沢田はペンを胸ポケットへ戻し、廊下の先へ一度だけ目を向ける。
「母は、ここを気に入ってるんです。職員さんがよく見てくれるって、いつも言っている。だから、助かってます」
誰に向けたというより、そこに置いた言葉だった。楠山は黙って聞く。
「ただ……毎回、ここで薬局さんに拾ってもらうことになりますね」
「そうですね」
それだけ返した。
拾ってもらう。沢田の言い方に、嫌味はない。事実を事実として置いただけだ。だから余計に、置かれた場所が分かる。
(拾う形は、俺の足腰と同い年だ)
山根の残薬も、田代の錠剤も、今日この場で拾えたのは、30年分の薬歴と段取りが頭に入っているからだ。頭に入っている人間が、ここに一人しかいないことと、それは同じ意味になる。
隣で柏木が、端末を閉じる手を止めて、こちらを見ていた。何かを聞きたい顔で、聞かない。聞く場所が、ここではないと分かっている顔だ。
玄関まで、安西が見送りに出た。廊下の掲示板に、夏祭りの貼り紙がある。来月の第一土曜。施設の時間は、薬と食事と入浴だけでできているわけではない。
「田代さんの分、夕方お持ちします」
「お願いします。配薬表、直しておきますね」
病院事務が処方箋を渡してくる。楠山は変更箇所を確かめ、いつもの声で答える。
「帰局後、こちらで進めます」
「お願いします」
*
帰りの車内は、行きより静かだった。
バックミラーの中で、多摩いずみ苑の建物が小さくなっていく。柏木は膝の上の控えを開いたまま、何かを書いては、止まっている。
「今日の往診って、いつもあんな感じなんですか」
信号待ちで、ようやく聞いてくる。
「まあ、だいたい」
「だいたい、ですか」
「施設は毎日動いてるからな。前回と同じように見えても、同じ日はない」
それ以上は説明しなかった。説明できることは、たぶん半分もない。
商店街へ入ると、角の白い看板が、夏の光の中でやけに新しく映った。
帰局してからの桜ノ町薬局は、往診の続きと外来の続きが同じ調剤室に押し込まれる。楠山は白衣を脱がないまま、鑑査台に処方箋を広げた。
「田代さん、今日の夕食後から使う分だけ先に出す。春日、札。今日使う分だけ分ける」
「はい」
「柏木、田代さんの今日の聞き取り、薬歴に残してくれ。錠剤が口に残ったことと、沢田先生が確認した内容」
「書きます」
春日が、持ち帰った田代の一包化を用法ごとに分けていく。変わらない薬は残し、変える薬だけを抜く。今日の夕食後の分。明日からの分。手つきは慎重で、その分だけ遅い。遅くていい。ここで速さを求めると、別のものが削れる。
自動ドアが開くたび、外の熱気が床をすべって入ってくる。受付では福田が処方箋を受け取り、浜口が会計トレーを戻し、梶浦が投薬カウンターで説明を続けている。外来は外来で、午後の波が来ていた。白カゴは減ったそばから、また増える。
棚の前で剤形の在庫を確かめる。今日分は足りる。次回定期分は発注が先だ。発注画面を開きながら、壁の時計を見る。卸の締めまで、40分。
「これ、次回分も今日発注でいいですか」
柏木が在庫画面から聞いてくる。
「卸の締めに間に合う。明日午前着で頼む。次の便には間に合う」
山根の分は、今日届ける薬ではない。だが何もしなくていいわけでもない。次に見る人が同じところで迷わないよう、施設へ渡す紙に要点を絞って書く。飲んだ日と眠れた日を、次まで一緒に見てもらう。
「私、書きます」
「じゃあ、こっち」
田代の施設向け説明を、柏木の前へ置いた。柏木はペンを持ち、途中で止まる。剤形変更。今日の夕食後から。古い一包化は回収済み。そこまでは書けている。施設側がどの場面で迷うかが、まだ書けていない。
楠山は紙を半分だけ引き寄せ、別の欄を指で示した。
「ここに今日からって書く。こっちに、作り直し済みだって書く。受け取り時に安西さんへ口頭でも伝える」
「あ……はい」
「悪い、急ぐ」
責めたわけではない。だが、急いだのは事実だ。夕食後という締切は、こちらの都合を待たない。
夕方の便は、楠山が自分で持って走った。一件なら、そのほうが早い。
多摩いずみ苑の玄関で、安西が受け取りに出てくる。
「田代さんの夕食後の分、作り直してあります。古い一包化はこちらで回収済みです。今日から、この束だけでお願いします」
「この束だけですね。夕食の配薬の時、職員にもそう伝えます」
安西は紙を受け取り、その場で要点に丸を付けた。丸の位置が、こちらが迷うだろうと思った場所と一致している。この人がいる間は、この施設の配薬は崩れない。いる間は、という言い方を、楠山はまた頭の中で聞き流す。
帰り際、ホールの奥で田代が夕食の席に着くのが見えた。湯飲みが、膳の右側に置かれている。今夜から、あの湯飲みの仕事が少しだけ軽くなる。それだけのために、今日一日分の段取りがある。
戻りの車で、信号に二度つかまった。二度とも、頭の中の線はもう明日へ移っている。明日午前着の粉の剤形、次回便への合流、山根の記録の確認の頼み方。線を引く先が尽きないことと、引く手が一本しかないことは、別の問題のはずだった。今日までは、同じ問題として扱ってきただけで。
店へ戻ると、外来の薬歴も送信が終わっていた。春日は最後まで残ろうとして、柏木に「帰れ」と言われ、素直に白衣を脱いだ。福田と浜口が裏口から出ていき、自動ドアの電源が落ちる。
調剤室の奥の照明だけが残った。
楠山は多摩いずみ苑のファイルを閉じずに、クリップの位置を直す。安西の丸い字と、自分の青いボールペンの追記が、同じ紙の上で重なっている。
調剤室の照明が半分落ちて、白い台の端だけが明るい。分包機は止まり、レセコンのファンだけが低く鳴っている。机の上には、今日の処方箋の束と、施設用の申し送りの控えと、使い終えたボールペンが、それぞれの場所で静かに残っている。
「今日、どうして私を連れて行ったんですか」
柏木が、薬歴画面を閉じて聞いてきた。
「人手があったからだ」
嘘だと自分で分かる言い方は、嘘をつくうちに入らない——ことにしておく。
「それだけじゃないですよね」
答えなかった。怒ったわけでも、ごまかしたわけでもない。言葉にすると、別のものまで一緒に渡してしまう。
「今日の往診、すごいと思いました」
柏木は引かない。机の上の申し送りの控えを、目で順にたどっている。山根の欄、田代の欄、安西の丸印。それから、楠山の顔へ戻ってくる。
「山根さんの残薬も、田代さんの嚥下も。薬歴と、処方予定と、薬局にある剤形を、その場でつないでましたよね」
「慣れだよ」
嘘ではない。三十年へ向かう年月を慣れと呼ばずに何と呼ぶのか、こっちが教えてほしいくらいだ。ただ、慣れという言葉には、代わりがいないという意味は入っていない。入っていないから、便利に使える。
「慣れで済ませていいんですか」
「済ませてるわけじゃない。そうしないと、終わらないだけだ」
「でも、それって楠山さんが倒れたら終わりってことですよね」
まっすぐ来た。
図星は、痛むものだな、と思う。目を伏せ、口元で息を逃がす。患者の前では出さない顔が、出たのが自分でも分かった。
倒れたら終わり。その通りだ。今日の往診を回した頭は、ここに一つしかない。時給の高い募集が通りの向かいに貼られて、跡を継ぐ当てはどこにもなくて、俺の腰は届出のたびに軋む。数字にすれば、答えはとっくに出ている。
「じゃあ今日、田代さんを待たせるか」
「そういう話じゃ……」
「そういう話だよ。現場では、今困ってる人が先に来る」
声は荒げなかった。荒げる必要のない、ただの事実だからだ。田代の夕食後は今日で、仕組みの整備は今日ではない。その順番で、ずっとやってきた。その順番のまま、ここまで来てしまっている。
「でも、このままは無理です」
柏木の声が、調剤室に硬く残る。
楠山は、すぐには返さない。
「親父の代からの約束だからな」
多摩いずみ苑。先代が始めて、先代が死んだ年に、俺が引き継いだ。約束という言葉で片づけるには、あそこにはもう、具体的な顔が多すぎる。喜美子の味噌汁。山根の夜。田代の湯飲み。安西のペン先。
「約束をやめろって言ってるんじゃありません」
柏木は机の上の紙を見て、それから顔を上げる。
「楠山さんの頭の中を、外に出してください。紙でも、画面でも、私にでも。今日見た線を、楠山さんの中だけに置いておくのは、もう」
最後まで言わせずに、楠山は青いボールペンのキャップを閉めた。
外に出す。簡単に言ってくれる。三十年分の段取りに、出せる形があるなら。——あるのかもしれない。考えたことがなかっただけで。考えてこなかったのは、考える時間がなかったからで、時間がなかったのは、全部自分で拾ってきたからだ。輪の閉じ方が、ようやく見えた。
「じゃあ柏木。続けられる形を、お前が考えろ」
言ってから、丸投げに聞こえたか、と思う。半分は丸投げだ。残りの半分には、まだ名前を付けない。
柏木は、すぐに返事をしなかった。安請け合いをしない間の取り方に、楠山には見える。それでいい。今日見たものは、明日からこうしますと言えるほど、単純ではない。
沈黙の長さを、楠山は止めなかった。考える時間は、人から渡されるものの中で、たぶん一番値が張る。先代は俺に、それを一度もくれなかった。突然死というのは、そういう渡し損ねの形をしている。
——一行で済む話を、胸の中で一行のまま閉じる。
「今日はもう帰れ。考えるのは、明日からでいい」
柏木は何か言いかけて、やめた。引き受けるとも、できないとも言わないまま、頷く。それでいい。即答される宿題なら、出す意味がない。
楠山は椅子から立ち、開いていたファイルを柏木の前に残した。荷物をまとめ、白衣を椅子の背に掛ける。
「戸締まり、頼む」
「……はい」
裏口を出る前に、一度だけ振り返った。
帰れと言ったはずの柏木が、机の端から白いメモを一枚、引き寄せている。ファイルはまだ開いたままで、調剤室の残り半分の照明が、白い紙と白衣の肩を同じ色に照らしていた。何を書くのかまでは見えない。書けずに終わるのかもしれない。それでも、紙を引き寄せる手の動きは、迷っているようには見えない。
見ないまま、戸を閉めた。
(言ったそばから、帰らない)
口元だけで息が漏れる。苦笑のような、それよりもう少し乾いたものだ。
夜の商店街を歩く。シャッターの下りた通りに、自分の足音だけが続く。惣菜屋の換気扇はもう止まり、自販機の灯りだけが等間隔に並んでいる。
この道を、先代は毎晩歩いて帰った。歩幅まで覚えているわけではない。ただ、店から家までの十数分で、その日の数字を頭の中で締めていたことは知っている。締め方だけは、ちゃんと継いだ。
角の白い看板の前で、足は止めない。視線だけが、横断幕の日付を拾った。
12月1日。
(あと、四ヶ月足らずか)
楠山は歩く速度を変えない。
家の角を曲がると、台所の灯りが見えた。玄関の戸に手をかけて、一度だけ、商店街の方角を振り返る。
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第5話では、子どもの体調と仕事のあいだで揺れる薬剤師・梶浦七実の一日を描きます。
働きたい気持ちと、謝り続ける朝。その両方を抱えた人の話です。
「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。