
校正者 ─ 第九章 校了
世間は待ちかねていた。
蓮見の死は十五年の沈黙を破って、ようやく小さく報じられた。そして、その死とともにもう一つの報せが流れた。卯辰書林という、聞いたこともない小さな版元が、巨匠の遺稿を世に出すらしい――。問い合わせの電話が鳴りやまなかった。大手も新聞もあの蓮見の最後の一冊を奪い合うように欲しがった。
相良は人が変わったように明るかった。倒れかけた家に四十年に一度の追い風が吹いている。返品の段ボールの山の前で彼は何度も拝むように手を合わせた。
「桐谷くん。あとはきみが校了を出すだけだ」
校了。
校了とはこれでよし、と判を捺すことだ。誤りはもうない。直すところはない。完成しました、と世に送り出す、その最後の一判。校正者が三十年、捺しつづけてきた、いちばん重い判。
桐谷がその判を捺せば。この原稿は刷られ、綴じられ、世に出る。何万部と。北陸じゅうの墓の在りかを誤りという暗がりに封じこんだまま。誰にも読めない地図が書店の棚に平積みになって並ぶ。
彼はようやく蓮見の最後の意図に触れた気がした。
蓮見はこれを世に出したかったのだ。墓を本にして、人々の手に渡したかった。直さず、暴かず、ただ在らしめたかった。完璧な告白を――誰にも告白と気づかれぬ、完璧な告白を。そしてその最後の仕上げ、校了の判を桐谷の手に握らせた。
判を捺すこと。それは蓮見の最後の命令に従うことだった。死んだ男の手が桐谷の手を取り、判を導こうとしている。
厄介なのは――桐谷のその手のほうが、判を捺したがっていることだった。
三十年、彼は未完のものを放っておけない人間だった。校了を出さずに机に伏せたゲラは、夜ごと彼を責める。傾いだ額縁と同じだ。完成させたい。直し終えたい。最後の升目まで埋めたい。その本能がよりにもよっていま、殺人者の設計図を仕上げろと桐谷を急かしている。彼は自分の几帳面さがこれほど恐ろしいものだとは、思わなかった。
眠れない夜が続いた。
ある晩、机に向かっていて、桐谷はふいに別の恐怖に襲われた。
もし、この本が世に出たあと、いつか墓のどれかが見つかったら。誰かが自分のように暗がりの図を解いてしまったら。そのとき、調べはどこへ向かう。
遺稿を預かり、ひとりで校正し、原稿を抱えて、北陸の山を巡り、墓の上に立った男。けれど、ただの一度も警察に報せなかった男。――誰が見てもいちばん近いところに立っているのは、蓮見ではない。自分だ。
桐谷ははじめて、あの不自然な届き方を別の角度から見た。伝票も消印も差出人もない包み。正規の経路をことごとく避けて、まっすぐ、自分ひとりの名に届いた原稿。まるで自分以外の誰の手も、触れなかったことにするように。
仕立てられたのではないか。身代わりに。賞とも名声とも無縁の忘れられた校正係。消えても誰も騒がない男。蓮見の罪をまるごと着せるのにこれほど都合のいい人間が、ほかにいるか。土間の暗がりから自分を見ていた、痩せた背の高い影がまた、よぎった。
桐谷はその晩、はじめて、本気で警察を考えた。
だが――と几帳面な頭がすぐに穴を見つけた。
替え玉が欲しいなら、何も気づかぬ男を選ぶ。原稿をただの遺作だと信じこみ、誤植を直して、何も知らずに刊行する男を。そういう男なら、墓のことなど、永遠に気づかない。罪を着せるのにこれほど安全なことはない。
なのに蓮見は気づく男を選んだ。誤りを一つ残らず拾い、並べ、その底の図を読み解いてしまう、ただ一種類の人間をわざわざ。
それは罠ではない。罠なら、解かれては困る。これは――宛名だ。読み解かれることを望んでいる。校する人へと。蓮見は桐谷を嵌めようとしたのではない。何かを伝えようとしたのだ。よりによって、この自分に。
なぜ、自分なのか。問いは囮の答えを一つ潰すたびにより深く、より暗く、もとの場所に戻ってきた。死んだ男が暗がりの底から、まっすぐ、自分に話しかけている。その声が何を言おうとしているのか、桐谷にはまだ聞き取れなかった。
判は捺さなかった。
刊行を待ってほしい、と桐谷は相良に頼んだ。理由は言えなかった。本文にどうしても確かめたい箇所がある、とだけ。相良は露骨に落胆し、それから無理に笑った。あまり、待たせないでくれ、と。家がもたない、と。
その代わりのように桐谷は、二つめの図を解いた。
二番目の塊が指していたのは、河内という、やはり白山麓の土地だった。文章がくどく描いていたのは、古い神社の二の宮の石灯籠。孤字は西。化けた数字は六。
河内の二の宮の石灯籠から、西へ六歩。
彼はそこへ行った。果たして、苔むした石灯籠があった。西へ六歩。下生えの下に土がわずかに窪んでいた。一度掘り返され、長い時をかけて馴染んだ土のあのなだらかな窪み。
今度は桐谷は掘らなかった。掘る必要がなかった。窪みのかたちがもうすべてを語っていた。一件目はまぐれではない。鍵は正しい。図は本物だ。北陸の山にはまだいくつもの窪みが桐谷の訪れを静かに待っている。
そして、そのどれよりも桐谷を呼ぶのは、いまだに開かぬ、あの最初の一件だった。石灯籠の前に立ったまま、彼は西の空を見た。その向こう、もっと北に越中の山がある。母の生まれた国が。なぜ、いま、母を思ったのか。桐谷はその問いから、また、目を逸らした。